逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

稗田一穂やデ・キリコやクリスチャン・ラッセン等の画家もなろう系を消費する現代人も異次元世界を希求する欲望を抱き続ける

転生したい。
この退屈な日々を抜け出して、異次元の世界で過ごしてみたい。
誰しもそのような欲望を抱いたことがあるだろう。

anond.hatelabo.jpなんでこの世界はファンタジーじゃないのか?俺は屁理屈をこねたコメントしたけどよ。

なんで俺らの世界ってファンタジーじゃないの?

ファンタジーだよ。街灯、ネオン、花火、パチンコ屋の台の明滅…これらは全て「人工的な光」だ。天然じゃない。だから夜、自分が見ている物体全ては光に反射した虚像、ファンタジー。現実は暗闇で真っ暗なはずだよ。

2023/01/30 01:45

b.hatena.ne.jpそういうことじゃないよな…この現実とは全く違う現実を、求めてる。
その欲望を擬似的に叶えてくれるのが「なろう系」というジャンルだろう。

自分も「転生したらスライムだった件」を、アマプラで観た。
これは有名らしいから。

ioritorei.com無職転生も、面白そうだけど。

closetothewall.hatenablog.com転スラにした。

で実際、面白かった。3話ぐらいまで観た。
だが、観るのを辞めた。

たぶん途中で気付いてしまうというか、既に気付いているからだろうな。

なろう系を消費する喜びの奥底には、自らの、この現実の世界から逃げ出すためにフィクションを利用しようとするルサンチマン(奴隷道徳)があるのだということを。
別にそういったルサンチマンは精神の安定に悪いことではないし、大切だが。
冷めてしまった。
やはり自分は「笑ゥせぇるすまん」や「闇金ウシジマくん」のような、現実世界で人間の欲望が色濃く表現された作品の方が好きなんだろう。

日々、プレッシャーを受けながら生きている。
お金を稼がないと生活できないプレッシャー、勉強しないと、仕事しないと、結婚しないと、子どもを作らないと…資本主義社会は、ありとあらゆる形でプレッシャーを人間に与え続ける。人間を苦しめる。

つまりライフ・イズ・プレッシャーライフってことだよ。
Life is Beautiful、ではなく、Life is Pressure Life、名言じゃない?
自分がよく聴いているハウスミュージックにもそんな感じの曲があった。

www.youtube.comThe Little Big BandのPressure、「Pressure Life~!」ってね。

マイケル・ジャクソンもそうだ。
ジャネット・ジャクソンも参加する「Scream」という曲で「Stop pressuring me」(僕にプレッシャーを与えないでくれ!)と、唄ってる。

www.youtube.comだから常に人間は、星飛雄馬が装着していた大リーガー養成ギブスの、見えないバージョンのようなギブスで縛られている。
身体に作用するそのギブスによって、意識は常に不快感に晒される。
「はぁ、もう日曜日、明日から仕事だよ…」「はあ面倒くさい」「リスキリング…勉強する暇なんてねえよ…」と。

そんな不安定な意識の中、日々を過ごす中で。
一枚の絵に、異常に惹かれた。

画像引用元:稗田一穗展 | 和歌山県立近代美術館

www.momaw.jp

稗田一穂という人の「幻想那智」という絵だった。
最初、パソコンの画面越しに見た時は「ここはどこだ?日本なのか?でもなんか変だぞ」という不思議な感じがあった。

しかし他の画像も見ると、どんどん興味が湧いてきて「この画家の絵を観たい」という衝動が湧いてきた。
そしてわざわざ、大阪で仕事をした後に「くろしお」に乗って、和歌山の紀伊田辺市、田辺市立美術館まで行った。

iine-y.com

iine-y.com展覧会は最高だった。
絵を観ている時は、心は穏やかになり、自分の惨めな日々を忘却できたような気がした。

例えば、稗田一穂の「天宇」という絵だ。
画像は、ベンチで撮った時の絵葉書だけどね。

iine-y.com

53|pp.99

天宇 1989(平成元) 田辺市立美術館

天宇は天空、大空を示す漢語。空に繰り返される不変の天体の周期が月に象徴され、太古より地上に積み重ねられてきた人の営みが社殿によって表される。天上と地上に流れる悠久の時間が、画面でひとつに重なって静止している。永遠というものの形象化ともいえる作品である。本作の着想は那智で得たものであり、画面左下に描かれる一条の滝が、この社が熊野那智大社であることを示している。稗田は「表現したかったのは一種の那智曼荼羅の世界かもしれない」*という言葉を残している。(三)

稗田一穂「天宇」『紀伊民報』第14028号、1990年1月1日、9面。

(図録p174より引用)

この絵は稗田が「永遠というものの形象化」を表現しようとしたものだ。
永遠、くるりの曲にもあるように。

www.youtube.comこれはニーチェ永遠回帰の思想にも通じるものがあるだろう。

だがこれは、ツァラトゥストゥラが言う「一瞬一瞬に存在は始まる。それぞれの『こころ』を中心として『かなた』の球は回っている。中心は至る所にある。永遠の歩む道は曲線である」といった、永遠とは違う。

gyakutorajiro.com侏儒およびヘビとワシは、現状を打破しようとしない永遠回帰に従属している。手回しオルガンのような画一化されたメロディの中に没落してしまっている。

そうではないと。ニーチェ永遠回帰が訪れ続けるこの現実においても、それに従属するのではなく、その中で力を発揮して生き続けることができる人間こそが、ツァラトゥストラであり、超人に至る道だと語っている。

ドゥルーズも「差異と反復」において、ニーチェ永遠回帰を同一性への回帰ではなく、差異化する力として捉えている。

中心は自分なんだと。
つまり、円弧が描く軌道が終わらずに永遠に続くとしても、自分の力への意志によって、その円環に影響を与えることができる。

ツァラトゥストラが「あらゆる心理は曲線である。時も円環をなしている」とした侏儒に怒りを示したのは、その意志薄弱な受動的な態度だろう。

そう、つまりラストマン(末人)が抱くルサンチマンとしての永遠回帰だ。
永遠回帰を望む欲望、ルサンチマン
それはこの記事でも語ったように。

gyakutorajiro.com直線的時間に疲弊した人間は、永遠に幸せな時間が続く永遠回帰を音楽として表現する。
だが音楽だけじゃなかった。
絵画もそうだ。

この稗田一穂が永遠を表現しようとしたように。
流れる時間、プレッシャーにあふれた直線的時間を破壊し、永遠の円環的時間に変化させようとする。
いや、本当にルサンチマンだろうか?
それとも力への意志か?

おそらくルサンチマンだろう。
実際、稗田は語っている。

「傷ついた気持ち」なんていうこと[昔に]書いたけどね。(29)一日終わってね、僕なんか駅の近くの商店街とか歩いていてね、サラリーマンなんかね、その日一日行くときの姿と、終わって駅からバラバラと出てくる、随分心境違うと思う。僕はね、一日終わって楽しいこととかね、ウキウキするようなそういう人もいるかもしらんけど、僕はそういう人は興味ないんです。縁が無い。やっぱりその日に自分が傷められたとか、失望したとか、そういう人には僕興味を持つけども。おめでたい人はいいんです。だからそういうことで、そういう人相手に、表現したいと思ってね。帰り道に歩いている人が傷ついたんじゃなくてね。何か色々複雑な気持ちを持ってね。そういう気持ちで描いたんでね。平和だとか、楽しい人は僕は興味ない(笑)。


29 稗田がかつて新聞に寄せた談話のことと思われ、次のように掲載されている。「数年前の個展を機に、いつまでも花鳥風家では同じことの繰り返しだと思いましてね。といって、なまなましい人物ではなくて、クールで冷たい絵。夕暮れどき、傷ついて帰路につく人とか…」(松村寿推・稗田一穂談)「秋 制作ざんまい2 稗田一穂(日本画家)」『サンケイ新聞』(夕)、1983年10月13日。
(図録p167)

おめでたい人には興味が無い。
つまり、直線的時間のストレスに耐えられることができ、人生を普通に謳歌できる人間。
資本主義社会の要求に応じ、普通に結婚でき、子どもを作り、過ごしている人間ではなく、以下のような人間に稗田は興味を持つ。

オレの人生がもし…平均的というか…
ごくまともに推移していたならば…
今頃は…

(画像引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

稗田一穂が寄り添ったのは、この直線的時間で管理される資本主義社会において、性的にも経済的にも欲望を満たすことができる人間ではない。

最強伝説黒沢」における黒沢であり、島耕作シリーズにおける今野輝常の方なんだ。

今野さん
あなたは今まで
人から好かれたことがありますか?
たとえば一番身近にいる
ご家族はどうですか?

おそらく
誰からも好かれて
いないでしょう
あなた自身も
それはわかっているから
遂にひらきなおって
人に好かれる努力を
しなかった……

これから
年をとってゆくと
孤独になるのが
いちばんの敵です
人に好かれる努力を
しないと
本当に孤立した
老後を迎え
淋しいまま人生を
終えることに なりますよ

(画像引用元:部長 島耕作(12)[ 弘兼憲史 ]

だから楽しい人からほど遠い自分も、「稗田一穂」の絵に惹かれたんだろうな。

この現実とは違う世界を、今でいう「なろう系」のような異次元を、リアリティを保った形で稗田は表現しようとした。

デ・キリコというイタリアの画家も、「イタリア広場」という絵画で、この世界ではない形而上の世界を描こうとした。

一般に、キリコの形而上的絵画は、「イタリアの広場」シリーズに本来の源泉があるといわれる。17歳のとき、父を亡くしたキリコは、母、弟と共に幼少時代を過ごしたギリシア、イタリアを一時的に離れて、ヨーロッパ各地に暮らすことを余儀なくされた。そのゆえにか、キリコのギリシアとイタリア、なかんずくイタリアへの憧憬と郷愁はことのほか強い。事実1945年以後イタリアのローマを定住の地と定める以前から、キリコのイタリアへの思いは、病的なほどであった。

だが、本図からわかるように、キリコのイタリアは現実のイタリアではない。これは偉大なルネサンス期のイタリアであり、あるいはニーチェショーペンハウエルから啓示を受けた形而上的絵画の画家としてキリコが生みだした仮象のイタリアである。光と影のコントラストが鮮やかな前景のアーケードのある広場の真ん中に、アリアネドの像が横たわっている。道景に配された旗のはためく巨大な塔が、白日夢のごとき不思議な憂愁と不安をかもしだす。また、キリコには珍しくヨットが描かれている。キリコの形而上的絵画のなかでも奇妙に心ひかれる作品である。

シュルレアリストたちは、キリコのアーケードと塔のある絵について、「海(ラ・メール)はどこか?」というアンケートを出した。フランス語で、ラ・メールは母(ラ・メール)でもあるから、この問いは「母はどこか?」の問いととれなくもない。これに対し、アンドレ・ブルトンは「塔のうしろ」と答え、ポール・エリュアールは「アーケードの中」と答えた。塔を男性の象徴とみたて、アーケードを女性とみたてたシュルレアリスト特有のフロイト的解釈である。キリコが怒りを通りこして、彼らとの差を如実に感じたのも当然だろう。


(引用元:ヴィヴァン 新装版・25人の画家 (第25巻) デ・キリコ

そう、形而上的絵画には、プレッシャーに溢れたこの世界から脱出したいという欲望が潜んでいる。

その欲望とは、永遠回帰の欲望であり、現実という直線的時間を変化させたいという衝動だ。
変化というと力への意志を感じるが、しかし変化させず滞留する場合もあるだろう。
だからこそ形而上的絵画には、ルサンチマン力への意志が同居している。

このルサンチマン力への意志が同居しているという話は、ニーチェの解説本にもそれに類する話があった。

だがツァラトゥストラは人々の様子を見て不思議に思った。そしてこう語った。
 人間は、動物と超人とのあいだに渡された一本の綱である――深淵の上にかかる綱である。
 渡り行くのも危険、途上も危険、振り向いても危険、戦慄するのも危険、立ち止まるのも危険。
 人間の偉大なところは、人間は橋であって目的ではないことだ。人間の愛すべきところは、人間が過渡にあるものであって、没落であることだ。
 
 (『ツァラトゥストラ』「序説」4)
 
「人間」から「超人」への変容は、「没落」あるいは人間の反応的な信仰の破壊なしにはありえない。
われわれが経験できる「もっとも大いなる事柄」は、幸福、理性、徳、正義、同情といった考え方が、われわれが自分自身の意志を肯定するのに邪魔だと思えてくる「大いなる軽蔑の時」である(『ツァラトゥストラ』「序説」3)。

これらの考え方が反応的だというのは、それらが生から切り離され、われわれの行為や態度を制限する道徳的拘束と化してしまった力の現れだからである。ツァラトゥストラは、能動的な力を変容させて、生に審判を下し、生を否定する固定観念へと変えてしまうことに対して一貫して罵りの言葉を浴びせている。
「私はきみたちに懇願する、わが兄弟たちよ、大地に忠実であれ、そして超地上的な希望を語る者たちを信ずるな!」(同)。

ここで言われている「超地上的」という表現は、「神」ばかりでなく、その他の、人間の能動的力を人間の自己実現から切り離してしまうようなすべての超越的な理念でもありうる。「信ずるな」という言葉は、なぜ「人間」が橋であり、目標ではないのかを説明している。

しかし超人を、人間が次第に発展して到達する最終的な段階、あるいは発展の目標とみなしてしまうような解釈は、すべての「人間」一般に当てはまる図式に個々人を適応させることになり、反応的な形で上昇を抑制する生の理念をふたたび作り出して、その理念によって生に審判を下すことになってしまう。このような想定をツァラトゥストラは「最後の人間」を描くなかで揶揄している。存在の意味をすでに見つけてしまったと主張する「最後の人間」は、生きることに疲れ、能動的な感動や挑戦を経験することができない。これとは違って、超人は人間の到達する「目標」ではなく、反動的な価値を力の能動的な肯定へと変えるプロセスなのである。

フリードリヒ・ニーチェ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ リー・スピンクス ]p210-211)

そう、人間とは目標ではなく橋であり、超人とは目標の到達点ではなく能動的な力への意志を肯定して現実に立ち向かい続けるプロセスであると。
すなわち、人間と超人は橋で繋がる同一線上にあり、ルサンチマン力への意志の同居もあり得る話だろう。


稗田一穂やデ・キリコの絵は、時間や空間を変えようとする能動性、力への意志が見受けられる。
そして決して、現実ではない超地上的なユートピア(理想郷)を生み出すという営みには留まらない。

一方、クリスチャン・ラッセンの絵に描かれている、光輝く海や、美しいイルカや鮮やかな魚は、分かりやすい理想郷であり、それはヤンキー性とも言われたりもしている。

aniram-czech.hatenablog.comヤンキー性とは、例えばスシローペロぺロ事件にもあったように。

b.hatena.ne.jp本当は警察や軍隊や国家の司法制度といった強大な力に刃向かうことが出来ない。

news.livedoor.comが、ついこのような度胸試し(チキンレース)をやってしまう。
また、ルイ・ヴィトンや改造車、ジャニーズやEXILEといった人気があり強大な力を持つカリスマ的存在、派手な彩色で理想郷を描くラッセンを消費する。

おそらくその行為によって、疑似的に自分が強くなれたような気分に浸り続けているメンタリティではないだろうか。

しかしそれは結局は、反応的な態度だ。
自分の弱さを、誰かが生み出した強大な神的な存在に寄りすがり、その信仰によって自尊心を維持する人間。
ラストマン的であり、超人とはほど遠い。

最近、最もツァラトゥストゥラ、超人に近い人間を誰か一人挙げるとすれば、この星乃ロミという人だろう。

www.youtube.com法律に抵触しないという制限下において、道徳や正義といった価値観を脇におき、リバースプロキシという技術等を能動的に作り出し、力(マネー)を手にしようと意志を持って行動した。
別にこの人が行った行為を肯定するわけではないが、ニーチェがいうツァラトゥストゥラに近いような気がする。
そうなると「超人」には道徳性や倫理はないのか?という疑問も湧く。だからヒトラーに利用されたというのもある。
もう少しこの「超人」概念における道徳性や倫理について、ニーチェが語っているのであれば文献から探さないと判らないが。

稗田一穂やデ・キリコに戻ると、どうだろうか。
彼らの形而上的絵画は、自分の無意識や無意識の願望の投影という点で、ラッセンの絵画と共通点もあるような気がする。

しかし稗田一穂の絵は、決して楽しそうな図柄ではない。
陰鬱な雰囲気、怪しい異世界のような雰囲気すらまとっている。
実際、稗田の絵画をこう評する意見もある。

 

この「補陀洛那智」(ふだらくなち)という絵画だ。

※画像は稗田一穂展の図録より。

まだ在庫があるかは不明。在庫の有無は「田辺市立美術館ミュージアムショップ」に確認が必要

www.city.tanabe.lg.jp

■補陀洛那智 1987(昭和62) 個人蔵

大滝を山中に擁する那智は、古くから補陀落(観世音菩薩の住む西方の浄土)への船出の地として、信仰の対象となってきた。この一帯の印象を、稗田は「妖しくも美しい雰囲気は、他に類を見ない鮮烈な私達の魂への振動がある。人の心を瞬時に異次元の世界に持ち去る異様さがある」*と記している。鋭敏な感性がつかみとったこの地からのイメージを、稗田は1970年代の後半から最晩年まで繰り返し表現し続けたが、本作のように那智山を俯瞰して描いた作品は少ない。画面右下に描かれる海は、かつて行われた補陀落渡海 を想起させ、磯馴木、桜とその奥のひっそりとした薄暗い山中は、この世ならぬものが潜んでいることを暗示するのであろう。壮麗な風景画であるが、この地に蓄積されてきた信仰の歴史も巧みに表出されている。

 

*稗田一穂「悠久なる神爆那智」『紀伊民報』第13399号、1998年1月1日、11面。


(図録p174より引用)

妖しさや異様さ、つまり決して、ユートピアを描いているわけではないということ。
もちろん、現実とは異なる熊野を描き、熊野の幻想的世界を描いて現実の辛苦から逃れようとする反動的なルサンチマンもあるかもしれないが。
逆に、現実の景色や対象を受け入れた上で、自らの新たな価値を絵画に込め、その対象を変容させようとする能動性があるような気もする。

その葛藤が見受けられず、誇張した理想郷を提示しているラッセンの絵画は、どこかリアリティがなく、それゆえにヤンキー的だと揶揄されるのだろう。
つまりラッセンを消費する人間は、ニーチェが非難する、現実の艱難辛苦に溢れた世界からの逃走、理想郷の消費という反動的なルサンチマンがある。

しかし結局………自分も、稗田一穂の絵画を、ルサンチマンとして消費した。
疲れ切った現実の日々から逃れようと、稗田が描いた異次元の熊野に没入する。

稗田一穂が、永遠を形象化したという「天宇」。
その絵画を鑑賞し、仮初の永遠に一時的に浸るが。
絵画鑑賞も、映画のように、終わりがある。

「美しい永遠の世界が存在する!」「肉体を放棄してアセンション(次元上昇)できる!」といった奴隷道徳を信仰したころで、結局は自分の身体的衝動によって、それがフィクションであると気付かされる。
自分に飯を食べさせるために仕事をしなければならない。

美術館を出て、帰宅し、また明日から労働をしなければならない。

そのため美術館を出て、紀伊新庄駅からバスに乗った。

iine-y.comそのバスの道中、「なんだあれは!?」という光景を見た。
山の上に巨大建造物がある。

それは自分が生きてきた人生の中でトップ5には入るだろうか、神秘的な光景だった。
あの建造物が忘れられず、旅が終わった後に調べた。

morizin-nfl.hatenablog.com●田辺大塔辺りの311号線で、妙な建物が富田川向こうの山の上に発見。google mapでは、「天爽会(てんそうかい)」の建物らしい。その左側に「宗教法人天爽会御聖地」と看板がある。

鮎川新橋という橋の近くにあった。
youtubeで紹介もされている。

www.youtube.comここに行けば、欲望や煩悩から解放されるだろうか?

ここに行きたい好奇心は湧いたが、唯物論者の自分が行っても「またルサチマンを見つけたぞ」という感想になってしまう気もする。

ハイデガーが言うように、この直線的時間のプレッシャーにあふれた資本主義社会ではない、心の故郷を求めてる。


「漂白とは、諸国をめぐり歩く放浪者のことではなく、ほんとうの心の故郷を求め続ける人間の意志的行為である」という意味のことを、哲学者ハイデッカーは言う。国籍に複雑なところがあったキリコの場合、漂白ないし放浪の旅は、この現世のどこか仮象のものではない現実の故郷を固着させるという物理的欲求のほかに、永遠に心休まる魂の故郷を求め続けるという精神的欲求が重ね合わされていた。

(引用元:ヴィヴァン 新装版・25人の画家 (第25巻) デ・キリコ

心の故郷は、稗田一穂やデ・キリコラッセンが描いたように、絵画の世界にしかないのだろうか。

現実には、ないのか。