逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「イニシェリン島の精霊」のレビューと考察。子孫を残せない独身男性は、退屈な日々に従順な驢馬になるべきか、貪欲に世間にマーキングを試み続ける犬になるべきか

日比谷のTOHOシネマズシャンテにて。
観終わった後に、後味が悪いってほどでもないが、変な余韻を残す映画を観た。
イニシェリン島の精霊、という映画だ。


宇多丸も絶賛してたな。

www.tbsradio.jpふたりのオジサンの諍いの地味な映画、と思って観に行ったのに、観た後数週間にわたって、あれは一体何だったのだろう、と考えてしまう、わたしのなかで、始めは小さな存在だったこの映画が、いまや忘れられないものとなっていることに気付き、マーティン・マクドナー脚本、監督の力量の凄さを感じる映画でした。

あらすじはこんな感じだ。

realsound.jp 舞台となる「イニシェリン島」は現実には存在せず、アイルランド西部のアラン諸島にある島という設定になっている。ロケ地の一つとなった、実在するイニシュモア島は、石灰岩に覆われた荒野と、その岩を積み重ねた「ドライ・ストーン・ウォール」が広がる農村地帯、切り立った巨大な断崖などが特徴的で、本作の舞台となる、荒涼とした風景のイメージの多くを占めている。

 そんな、人間の小ささを意識させる広大な舞台で物語の中心となるのは、気のいい“善良な”男パードリック(コリン・ファレル)と、彼が親友だと思っていた、作曲やフィドルの演奏を趣味としているコルム(ブレンダン・グリーソン)との諍いだ。ある日パードリックは、いつものようにパブでスタウトビールを飲み交わそうと、コルムを尋ねに行く。当時のアイルランドでは内戦が勃発する時期だったが、そんな激動の時代とは切り離されたように、彼は満足そうに友人との会話を楽しみにして歩みを進め、その背後には虹まで輝いている。

 だがパードリックは、コルムが露骨に自分を避けていることに気づいてしまう。しつこく追いかけ、なぜ自分と話したがらないのかと直接疑問をぶつけると、コルムは「人生の時間を、お前と話すことで無駄にしたくない」と答えるのだった。つまりは知的レベルが違うので、交流し続けても自分にとって利益がないから距離をおきたいということだ。

以下、この映画が、人間の本質的な部分を描いているという点を、示していきたい。


1.波長が合わない、縁を切りたい人間の存在

誰しもあるだろう、人間関係の悩み。
縁を切りたい人間、恨んでいる人間。
本当は関わりたくないが、職場にいるので仕方なく付き合わざる得ない人間。
コルムにおけるパードリックのように、今すぐ縁を切りたい人間。

これと似たような経験をしたことは、あるのではないだろうか?
全国に「縁切り寺」というのが存在するように。

travel.navitime.com誰しも1人や2人、縁を切りたいと思った相手はいるはずだ。

自分も大学生時代に、1人いた。
淋しがり屋のやつで、同じ寮だったせいもあり、毎夜どうでもいい話をしに俺の部屋に来ていた。
その話は以前、姉妹サイトで書いたな。

iine-y.comそして元友人は、今日の出来事や愚痴を毎日俺に語ってきやがるのだが、「俺は別にお前という人間の日常に、それほど興味はないのだ!」と、俺はいつも悶々と思いながらそいつに話を合わせていたのだが、いい加減うんざりした頃「お前の話はどうでもいいのだ!」みたいなことを言うと、キレて、俺の胸ぐらを掴みやがる。女々しくて暴力的なのだ。 だがキレさせたことにより数週間連絡が来なくなって、俺はスッキリ、自由な日々が過ごせていたのだが、学校や寮内で久しぶりに会うと、また仲直りの風潮になり、また束縛の日々に俺は陥るのである。

以下、ネタバレだが。
まさに俺はコルムであり、そいつはパードリックだった。
パードリックがロバの糞の話をするように、そいつもパチンコで勝った負けた等の話や、自分の話ばかりをした。
それを延々と聞かされる苦痛。

俺は大学生ながらも、大学デビューも出来なかったこともあり。
何かを成し遂げたいと日々、奮闘していた。
いわゆる起業的な、この没落した京大生のように、2000万引っ張ったりするほどすごくはないが。

anond.hatelabo.jpウェブサイトを作って稼ごう等と、息巻いていた時期だ。
闇金ウシジマくんに出てくる池田のように、若さゆえの尖り、変な優越感のようなものを持っていたと思う。


エラソーに講釈たれやがって……
俺様がおめーくれーの年齢の時にはもっと高い位置にいる……
なぜなら、俺は天才だから。

闇金ウシジマくん(1)[ 真鍋昌平 ]

俺は忙しいんだ。
コルムが作曲活動に専念したように、サイト作りに専念しなければならない。

sm324.blog129.fc2.com歴史に名を残すモーツァルトを引き合いに出し、「自分はすぐに忘れ去られる」という恐れから芸術に勤しみたいのだと言う。

また、俺がどちらかというと文化系男子で普通に受験で入学した人間で、そいつはスポーツ推薦で来ていたので、そもそも共通点や趣味など、共感できるポイント等が著しく少なかった。

判りやすくいうと、コルムが自分で、そいつがパードリックだ。
昔「いい旅夢気分」に出ていた宮本隆治堀内孝雄との関係性にも似ている。

2.友情に亀裂が生じてしまう理由(個人的感動の最大化を追求する宮本隆治と、人とのコミュニケーションを優先する堀内孝雄の事例から)

宮本隆治は、この人だ。
毒蝮三太夫youtubeに出てた。

www.youtube.com堀内孝雄は元アリスの歌手ね。

こんなエピソードがある。
いい旅夢気分」という番組だ。

奈良が特集されてた。
「宝の家」だったかな、吉野山が見渡せる、有名な旅館が登場していた。
残念ながら今は閉館したみたいだけど。

hotelbank.jp
宮本隆治「うわ~急斜面に桜が!満開だったら見事だったでしょう!!」

と、吉野山の絶景に興奮してよ。

んで、旅館とか吉野山の紹介があって、2人で宿自慢の温泉に行ったのね。
そんとき、 堀内孝雄がこう言った。

堀内孝雄「日頃見ない顔だね。だってニュース読んでる時の顔と違うもんね。うわぁ~人間ってこの景色の中・・・」


そしたら・・・なんと・・・


宮本隆治:「ちょっと黙ってていただけますか?ちょっとこのねぇ、湯のせせらぎとね、時折鳴く、鳥の声をね、満喫してるんですよ・・・」(目を半分閉じながら)


って、カメラ回ってるのに、気まずいやり取り(笑)
堀内孝雄「あっそうっすか・・・」って、ちょっとシュンとなっちゃってたな。

これ、たまたま観てて「放送事故じゃねえかw」って、思ったんだけどね。
しかしこの宮本隆治の対応は、非常にコルム的ではある。

目の前の人間、堀内孝雄とのコミュニケーションよりも、自然を満喫することを優先する。
もちろん、一時的に塩対応になっただけで、普段は人間関係も大切にする人かもしれないけどよ。

かといってテレビでこりゃねえだろ…って、普通は思うかもしれない。
だが、こういった人に冷たくする振る舞いを、つい行ってしまう。
なぜだろうか。

3.いい年こいた独身男性はジーン(遺伝子)を残すのが困難であるためミーム(文化的伝達物)を残したい

宮本隆治堀内孝雄のエピドソードは1つの事例だが。

映画では描かれなかったが、おそらくコルムとパードリックも、こういったコミュニケーション不全が何度も積み重なり、ついにはコルムは我慢しきれなくなり、絶縁を決めたのだと思われる。

そしてコルムは作曲活動に邁進する。
それはコルムが、子どももいない、老齢の独身男性だからだ。
老い先短い。生きた証を残したい。

30代の独身中年男性でさえ、ジーン(遺伝子)を残せない焦燥感も一因として作用しているだろう、狂ってくるんだ。

anond.hatelabo.jpまして60代のブレンダン・グリーソン演じるコルムが、この世界に何かを残したいと、パードリックとの関係を切り捨て、作曲活動に奮闘する気持ちはわからなくもない。

note.com「17世紀に優しさで知られている人物がいるか?モーツァルトの音楽は200年後も残る」

と、コルムがパードリックに語ったように。
年を取るごとに焦っていく。
こんなところで自分の人生は終わりなのかと。

責められた側の「心の耐性」によって量刑が決まる危うさについて - いつか電池がきれるまで

確かに年をとれば心も穏やかになっていくと思ってたけど真逆だ。年とともに可能性の灯し火が消えていく。その焦燥感と「自分はここまでか」という諦念と絶望感が増幅してくる。そのマイナス感情が怒りになる場合も。

2023/03/13 18:59

b.hatena.ne.jpジーンが残せないなら、せめてミームだ。
ミームとは「文化的伝達物」という訳が分かりやすいだろう。
それは以前の記事でも紹介した。

gyakutorajiro.comもちろん人間には、ジーン(子孫)を残したいという本能だけでなく、ミームを残したいという欲望もあるという説もある。

「生きているだけいいってのは、動物のすることだ」と、最強伝説黒沢でも語られているように。

生きてりゃ勝利なんていうのは…動物の話だ……!
オレは…
人間だ…!

人間は、動物と違う・・・!
決定的に違う・・・!
生きてりゃいい・・・生きてりゃ十分なんて・・・
誰が思うかよ・・・!

理想があるんだよ・・・・・・!
みな・・・!
みんなそれぞれ理想の男像・・・・・
人間像ってのがあって・・・
そういうものを・・・

目指すから人間だっ・・・!

(引用元:「最強伝説 黒沢 3 [ 福本伸行 ]」)

生きてきたからには、自分の足跡を残したい。
自分の脳(memory)が生み出した存在を、多く人の脳に伝達したい。
遺伝子のように、自分の複製物を社会に広めていきたい。

 新登場のスープは、人間の文化というスープである。新登場の自己複製子にも名前が必要だ。文化伝達の単位、あるいは模倣の単位という概念を伝える名詞である。模倣に相当するギリシャ語の語源をとれば〈mimeme〉ということになるが、私のほしいのは、〈ジーン(遺伝子)〉ということばと発音の似ている単音節の単語だ。そこで、このギリシャ語の語根を〈ミーム(meme)〉と縮めてしまうことにする。私の友人の古典学者諸氏には御寛容を乞う次第だ。もし慰めがあるとすれば、ミームという単語は〈記憶(memory)〉、あるいはこれに相当するフランス語の〈meme〉という単語に掛けることができるということだろう。なお、この単語は、「クリーム」と同じ韻を踏ませて発音していただきたい。
 
 旋律や、観念、キャッチフレーズ、衣服のファッション、壺の作り方、あるいはアーチの建築法などはいずれもミームの例である。遺伝子が遺伝子プール内で繁殖するにさいして、精子卵子を担体(たんたい)として体から体へと飛びまわるのと同様に、ミームミームプール内で繁殖するさいには、広い意味で模倣と呼びうる過程を媒介として、脳から脳へと渡り歩くのである。科学者がよい考えを聞いたりあるいは読んだりすると、彼は同僚や学生にそれを伝えるだろう。彼は、論文や講演の中でもそれに言及するだろう。その考えが評価を得れば、脳から脳へと広がって自己複製するといえるわけである。
 
 私の同僚のN・K・ハンフリーが、本章の初期の原稿を手ぎわよく要約して指摘してくれているように、「……ミームは、比喩としてではなく、厳密な意味で生きた構造とみなされるべきである。君がぼくの頭に繁殖力のあるミームを植えつけるということは、文字通り君がぼくの脳に寄生するということなのだ。ウイルスが寄生細胞の遺伝機構に寄生するのと似た方法で、ぼくの脳はそのミームの繁殖用の担体にされてしまうのだ。これは単なる比喩ではない。たとえば「死後の生命への信仰」というミームは、世界中の人々の神経系の一つの構造として、莫大な回数にわたって、肉体的に体現されているではないか」。

(「利己的な遺伝子 40周年記念版 [ リチャード・ドーキンス ] 」p296-297)

「独身である」という社会的属性も、1つのミームだ。
これは受動的な状態だが。
「独身主義」というミームの場合、それを遂行しようとすると、ジーンを残すという点においてはマイナスに作用する。
しかし特定のミームを残す目的においては、プラスに作用する場合もある。

 ミームと遺伝子は、しばしば互いに強化しあうが、ときには相対立することもある。たとえば、独身主義の習慣などは、おそらく遺伝によって伝わるものではあるまい。社会性昆虫にみられるような非常に特殊な状況を除けば、独身主義を発現させる遺伝子は、遺伝子プールの中での失敗を運命づけられているからだ。しかし、独身主義のミームには、ミーム・プールの中で成功しうる可能性がある。たとえば、ミームの成功は、それを積極的に他者に伝えるために人々がどのくらいの時間を費やすかによって決定的に左右されると仮定してほしい。そのミームを伝達しようとすること以外に費やされたすべての時間は、そのミームの立場からみれば時間のむだ使いとみなされよう。
 
独身主義のミームは、聖職者たちから、まだ人生の目標を決めていない少年たちに伝えられる。伝達の媒体になるのは、各種の人間的影響力をもつもの、たとえば、話されることば、書かれた文字、人による手本等である。ここで、議論の都合上、大衆に対する聖職者の影響力が結婚によって弱められてしまうものと考えることにしよう。結婚が彼の時間と関心を大幅に牛耳ってしまうかもしれないからだ。事実これは、聖職者に独身生活が強要される際の公式な理由として提示されていることでもある。

もし万が一このような事態がありうるなら、独身主義のミームは、結婚をうながすミームよりも高い生存価を示しうることになろう。もちろんのこと、独身主義をうながす遺伝子などというものがあるなら、それについては、独身主義のミームとはまったく逆の結果になるはずだ。僧侶がミームの生存機械であるとすれば、独身主義というのは彼に組み込まれれば役に立つ属性である。独身主義は、多数の互助的な宗教的ミームの上に作り上げる巨大な複合体の、小さなパートーナーなのである。

(「利己的な遺伝子 40周年記念版 [ リチャード・ドーキンス ] 」p307-308)

映画「セッション」で、彼女に別れを告げるように。

hitocinema.mainichi.jpこちらの場合も、引き金をひくのは焦り。年こそ若いが、主人公は成功に取りつかれていて「文なしで早世して名を成したい、元気な金持ちの90歳で忘れ去られるよりも」というセリフまである。学年問わずに優秀な人材のみ集められたバンドに在籍しているのだから、すでに順調といっていいが、それがなおさら強迫観念に拍車をかけることにもなる。別れを切り出すのは、バンドに新ドラマーが加入して立場が脅かされたあと。

ねほりんぱほりんに出てたリーンFIREを達成した人のように、彼女を断捨離し、好きなことをする時間の確保を選ぶように。

togetter.comおそらく上の記事を書いた独身中年男性の増田も、無理にでも結婚できた可能性はあったかもしれない。
しかし大して好きでもない女性と無理矢理結婚してジーンを残すことよりも、独身主義というミームがプラスに作用する、何かしらのミームを大事にした。
それが「趣味」であり。
妻や子どものために嫌な仕事を続けてなくてもいいという「自由」であり。
コルムにおける「作曲活動」でもある。


だからコルムの気持ちはよくわかる。
わからないのはパードリックの方だ。

なぜコルム同様、パードリックも、独身男性でジーンを残すことが出来ないにも関わらず、代わりにミームを残そうと欲しないのか?


4.なぜパードリックはコルムと違って生きた証(ミーム)を残そうとする欲望が見受けられないのか

それはパードリックが「イニシェリン島で2番目に馬鹿だから」という理由もあるだろう。

filmarks.com「俺って一番馬鹿だと思われてないか?本当に思われてない??一番は圧倒的にドミニクだろ!!いや、まてよ。だとしたら2番目に馬鹿だと思われてないか?」

もしくは、パードリックが同性愛者だからだろうか。
独身でパートナーがおらず、ジーン(遺伝子)を残せないことは既にわかっていても、特に焦らず、達観していると。

同性愛とは、ジジェクによれば異性愛的空想によって生じる不安や反応、とあるが。

ジャクリーン・ローズが示しているように、メラニー・クラインによる精神生活の象徴以前的な拮抗の描写には類似の機構が含まれている。同じ一つの原因が、正反対の結果をもたらす――つまり、結果が根本的に決定できないような過程を起動することがあるということだ。過度の攻撃には攻撃の抑圧が対抗することもあれば、あるいはどんどん攻撃的になる上向きのらせんを引き起こすこともある。同性愛は、まさにあまりにも強い異性愛的空想によって生じる不安から出て来る。時によっては不安と罪悪感がリビドーの発達を抑制し、またある時にはそれらがリビドーの発達を強める(主体は、不安と罪悪感への反応として、立て直しという統合的作業の方へ押されるからだ)……。ここで重大な点を逃してはならない。抑圧された「多形倒錯」の反乱、あるいは何であれ、異性的なファルスの経済に対する反乱としてではなく、過度に強い異性愛的空想に対する反応として生じる。

(「仮想化しきれない残余 [ スラヴォイ・ジジェク ]」p58)

しかし、そういったパードリックの性的嗜好についての描写、過去の異性愛に関するエピソード等は、描かれていない。

またコルムの方は、同性愛者であることを疑われて激昂していたように。

nohouz.blog.fc2.comもちろんパードリックはそんなことを自覚していないと思われますが、教会の懺悔室で神父に同性愛を疑われて激高するコルムの意識には、友情を超えた(超えそうな)愛情があったと思われます。この閉鎖的なカトリックの島でふたりとも独身。同性愛者だと判明すること(自分にとっても)を恐れたコルムが、パードリックとの絶交を決意したのかもしれません。

コルムもパードリックも、同性愛者であることを窺えるシーンがあったようには思えない。

だからパードリックは、イニシェリン島で2番目、ドミニク(バリー・コーガン)の次に馬鹿であるがゆえ、ジーンもミームも残せず孤独死する未来が待ち受けていようとも、誰かとの競争心も芽生えず、コルムのような焦燥感も無く、怠惰な日々を過ごしているという説も、あながち間違ってない気もする。

しかし、もっと深い分析をしている人もいた。

www.ele-king.net孤島で素朴に生きているパードリックはいわばカトリック信者で、作品中の言葉に倣えば「いい奴」であることが最も大事なこと。彼は毎日、牧畜業に精を出し、働いた後は友人たちと楽しくビールを飲む。それ以上は望まない。神の恵みがそれ以上ではないからである。
・・・
「生産性」を重視するプロテスタントに、人間の力ではなく「神の恩寵」を重視するカトリックが反撃を開始し、いわば「宗教改革」に対する逆襲が始まったのである。

なんと、宗教改革のメタファーだと。
二人のそれぞれの生き方、パードリックはカトリック的、コルムはプロテスタント的だと。

その観点でもう1度映画を観ると、面白いかもしれないな。
カトリックプロテスタントの教義の違いは知らんけど。

また二人の生き方の違いについて、別のメタファーも見受けられた。
それが「驢馬」と「犬」だ。


5.パードリックが驢馬であり、コルムは犬である理由

驢馬は7つの大罪における怠惰、犬は強欲の象徴でもあるそうだ。
ただ、驢馬は淫欲の象徴として描かれる場合もあるし。

七つの大罪
〈憤怒〉〈傲慢(PRIDE)〉〈嫉妬〉〈淫欲〉〈大食(GLUTTONY)〉〈怠惰〉〈貪欲〉が七つの大罪である。これらの罪を犯した者は罰として地獄行きを宣告され、地獄ではそれぞれの罪に応じた罰を悪魔から課される。これらの罪はさまざまな持物をもった擬人像であらわされる。〈憤怒(ANGER)〉は自分の服を引き裂く女性、〈貪欲(AVARICE)〉は財布を手にしていることが多い。ダンテは『神曲』「地獄篇」(14世紀)で、高利貸しを地獄の第七圏に置いている。

〈怠惰(SLOTH)〉は怠けている情景によってあらわされる――この主題は17世紀のオランダ美術で好まれた。また、〈怠惰〉はニコラス・マースの『眠る女中とその女主人のいる室内』(1660年代)のように、居眠りをする女性や白昼夢を見ている女性として描かれることもある。〈淫欲(LUST)〉が怠惰な眠りを引き起こすことを暗示した画家もいる。また、淫欲の象徴として驢馬や豚を用いた画家もいる。オウィディウスによれば、〈嫉妬(ENVY)〉は不潔な日の当たらない家に巣食う。彼女は瘦せ衰え、病気で、その舌からは毒がしたたる。マンテーニャは『海神たちの戦い』(1470頃)で、〈嫉妬〉を瘦せこけた老女として描いた。

七つの大罪表』(部分:1480~85頃)で、ボッスは中央のキリスト像の周囲に罪を描いた。全体の円形は神の全知の眼をあらわしている。

(「西洋美術鑑賞解読図鑑/サラカー=ゴム(著者),川野美也子(訳者),高橋明也」p250)

七つの大罪 - 聖書研究wiki@trinity_kristo - atwiki(アットウィキ)

淫欲とは逆に、イエスの生誕を祝福する動物として、驢馬が好意的に描かれる場合もある。

 古今東西を通じて、動物は神話的、文化的、宗教的意味合いを与えられてきた。ギリシャ神話では、オルフェウスは音楽によって動物を馴らした。旧約聖書では、神はエデンの園で動物を創造し、アダムがこれらに名前をつけた。(『創世記』1:24~25)

ノアは箱船にのせるために動物のつがいを集めた。(『創世記』6:19)
これらの物語があらわしているのは、人間が動物と調和して暮らしていた時代である。しかし、そのような時代でも、人類は動物を大規模に殺して神に捧げものとした。神の世界に供物をしなければ復讐されると信じていたからである。

 中世の動物誌は現実と想像上の動物の諸特性を概略し、それらの動物に重要な道徳的な象徴体系を与えた。たとえば、猿(APE)は人間の本能をあらわすことが多く、人間の愛情、愚行、虚栄を諷刺するのに使われる。モレナールの『貴婦人の世界』(1633)では、猿が肉欲の象徴であるスリッパに足を滑りこませている。『猿の画家』(1740)で、シャルダンはこの動物を用いて、画家がいかに「猿真似をする」すなわち本質を模倣するかをあらわにした。また、19世紀には、カリカチュア画家たちが、学生たちを教師の真似をする猿として嘲笑した。

 神話において、猿ほど諷刺的ではないがやはり喜劇的な役割を与えられているのが驢馬(ASS)で、怠惰で愚鈍であると見なされることが多い。しかし、キリストの降誕においては、キリストを神の子として認めるのは卑しい牡牛と驢馬なのである。石臼を首に巻いた驢馬は、イサクの犠牲、エジプトへの逃避途上の聖母、キリストのエルサレム入城の場面に見られるように、従順を暗示している。

 

(「西洋美術鑑賞解読図鑑/サラカー=ゴム(著者),川野美也子(訳者),高橋明也」p236)

ここでいうキリストの降誕は、おそらくドメニコ・ギルランダイオ『キリストの降誕』を指していると思われる。

ameblo.jp

www.wga.hu

マリア、牡牛と驢馬、東方三博士(マギ)等がキリストを見守っている。

sononism.com『羊飼いの礼拝』
ドメニコ・ギルランダイオ
Domenico Ghirlandajo
サンタトリニータ(フィレンツェ)
1485年
美しく丁寧に描かれたマリアは、レースの被り物をかぶり幼子キリストを拝します。また、キリストを指し示す羊飼いはギルランダイオ自身だと言われています。画面左には、降誕の知らせを受けた博士たちの一団が、長い列をなして向かってくるが見え、ヨセフは目を上げて彼らの様子を確認しています。山々が美しく描かれ、遠くまでずっと抜けていく景色が美しく確かな技量が感じられます。

つまり、パードリックを象徴する驢馬は、ダブルミーニングの可能性はある。
コルムと違って目標もなくただ食えるだけの日銭を稼ぎ、毎日パブに行き酒を飲み、くだらいな会話で満足するという怠惰な日々の象徴でもあるが。

コルムと違って求めすぎず、節制し、倹約で、自傷行為も行わなず、従順に信仰と共に日々を過ごしていくというキリスト教的美徳の象徴にもなっている。

逆にコルムが飼っている犬、こちらはキリスト教において、貪欲の象徴らしい。

犬(DOG):美術では犬に多様な性質が帰されてきた。信頼できる誠実な動物である犬は、中世の墓では主人たちの足下にうずくまる姿で描かれたが、肖像画でも同様の性質をあらわしている。犬は見張り役でもある――古典の神話では、たとえば三頭のケルベロスは冥界への入り口に立っていた。犬が肉欲をあらわしたり、貪欲を意味することもある――顎にケーキをくわえながら、水を見下ろして水面に映ったものをとろうとしてケーキを落としてしまう寓話の犬のように。犬は聖ロクスの持物であり、ドミニコ会の場面での白黒のぶち犬は、会の名称による地口で、ドミニ・カネスすなわち「神の犬」として描かれており、異端をあらわす狼を追いかけている。

 

(「西洋美術鑑賞解読図鑑/サラカー=ゴム(著者),川野美也子(訳者),高橋明也」p212)

では妹のシボーン(ケリー・コンドン)はどうだろう。
パードリックの驢馬を嫌悪するシーンはあった。
コルムの犬を嫌悪するシーンはあっただろうか、もう1度観ないとわからないが。

妹は結局、パードリックもコルムも、島自体を見限るかのように、島を出る。
島民のことを「ここには退屈な人しかいない」みたいに言うシーンがあった。

イニシェリン島ではない本土で、自分の知識や経験を活かした仕事をしたい。
兄の面倒を見ながら、退屈な日々を過ごす、ただ生きているだけのイニシェリン島の生活なんて抜け出したい。

movies.yahoo.co.jpそんな葛藤を抱えるシボーンに対し、死刑を見るのを楽しむような警官が「いきおくれ」と罵り、ゴシップ好きの女店主は「可愛げのない子だよ!」と罵倒してくる。しまいには一緒に食事するのも虫唾が走るようなドミニクに告白され、それを振る。下品な人間達に付き纏われ、蔑まれるしかない自分について考えると泣けて泣けて眠れないシボーン。

シボーンはスピードを求めてる。
仕事での達成感や、行き遅れと言われてしまう性的不遇を解消するには。
本土で戦争が行われていようとも、スピードのある社会に飛び込まないと実現は難しい。

 ヤン・デ・ボンの映画『スピード』が、ハリウッドのよく知られたカップルの生産手法の一変種であることを示すのは簡単だ。キアヌ・リーヴス(〇イの傾向があることはわかっている)を「正常な」異性との関係に入れるために、人質でいっぱいのバスという極めてストレスのかかる状況が必要である――映画は最も伝統的なエディプス的筋書きに沿って終わる(猥褻な父としての人物――デニス・ホッパー――を殺〇ことで、リーヴスとサンドラ・ブロックとの愛が確固たるものとなる)。

カップルを生み出すためにこのような極端なストレスを必要とするということが、今日における両性間の関係の混乱の指標であることは明らかだ。しかし、もう1つ、もっと深い(むしろ表面に近く、まさにそのために、今の話にはふさわしい)ところがある。最初にバスを乱暴にすること(その速さは時速八〇キロを超えていなければならない。それ以下になったとたん、爆弾が爆発するのだ)が、永遠の宙吊り状態として、ストレスのかかる終わりのない悪夢として経験される――我々の唯一の願いは、この事態ができるだけ早く終わることだ。しかしいずれ観客は、バスを乱暴に運転することは人生そのもののメタファーであることに気づく。人生も永遠の緊張状態、生き続けるとすれば、スピード(あるいは心臓の鼓動)がある速さ以下になってはいけない走りであるとすれば、待ち望まれる乱暴な走りの終わりとは、他ならぬ死だということになる。要するに、最初に生への脅威として体験されたことが、生そのものの究極のメタファーであることが明らかになるのだ……。

 

(「仮想化しきれない残余 [ スラヴォイ・ジジェク ]」p55-56)

シボーンには、自分は退屈な人にはならないぞという向上心がある。
何かを手にれるために、ある一定のスピード以上で生きる覚悟がある。
いや、無かったのかもしれないが。
イニシェリン島の、緩慢な日常に耐え切れなくなった。スピードが無い島の生活は、死とほとんど同じだ。
島の退屈な人間達と関わる中で、本土のスピードに自分を合わせようという、自己変革の意思が湧いた。

コルムと共通点もあるように見受けられるが。
しかしコルムには、島を出て、音楽活動に励むほどの力はもう残っていない。


6.まとめ

まだコルムの自傷行為や、ドミニクについても語り切れていないが。
また2回目に視聴して何か気づいたことがあれば語るか。

結末として、別にどの生き方が正しいだとか、そういうメッセージ性は無かったように思う。
ただパードリックは、幸せ者かもね。
ジーンもミームも求めようとせず、怠惰で退屈な日々を過ごそうとも構わないと達観できるメンタリティ。
シボーンやコルムのように、焦燥感や向上心を持つのが人間だと思うんだけどね。

「イニシェリン島で2番目に馬鹿である」ということを示すシーンは、パードリックがジーンもミームも求めない根拠に成り得る。
ただ、人間の本能や欲望として、子孫を残そうとしたり、金や地位や名声を求めようとする志向性はあるはずだ。
その執着を捨てているような、パードリックのようになるには、どうしたらいいのか…その答えは、この映画では示されていない。

だから余韻というか、モヤモヤが残る映画でもある。
パードリックのアナザーストーリーが必要だな。