逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

ディスタンクシオンは趣味を自尊心の拠り所にするルサンチマンの側面がある

ジャン・ボードリヤールの話の中で、id:EPIPHANY さんに自分のツイート引用してもらった。

epiphany.hatenadiary.com間違えてたな、「ディスクタシオン」ではなく、「ディスタンクシオン」か💧
記事も読んだ。そうなんだよね。
消費ではなく創造しないといけない。

にも関わらず、文化的な闘争による自己の差別化(ディスタンクシオン)、消費活動でマウントを取ろうとする輩が多い。
普通の人でいいのに!」の主人公の田中未日子(みこ)は、村上春樹だのノア・バームバックの映画だのお笑いだ下北だ奥渋だ神保町の古本だインディーズバンドだと、消費によってしか自己実現できない女性だ。
特に社会に影響を与えるようなものを生み出したわけじゃない。
コンシューマーであってクリエイターではないんだよね。
趣味を極めて、みうらじゅんや「マツコの知らない世界」の出演者みたいな、クリエイティブな存在にまでも至れてない。

だからラスト、彼氏のあの発言によって、自分が拠り所にしていた活動がただの消費活動であったことを思い知らされ、自尊心が打ち砕かれそうになり、友達に暴言を吐いてマウンティング取ろうとしたり、マイナーな海外に行って尊厳を取り戻そうとする行動に至った。

いくらでもある。「推し活」とかもそうかもしれない。
もちろん、推しのパフォーマンスや、それ自体の魅力に惹かれるケースもあるだろうけど。

 欲求の増加と生産の増加を比較すると、差異化という決定的な媒介的変数の存在が明らかになる。したがって、生産物に関する差異化の増大と権威の社会的需要に関する差異化の増大との関係をはっきりさせなければならない。(7)
ところで、生産の増加には限界があるが、欲求の増加には限界がない。社会的存在(つまり意味の生産者であり、価値において他者に対して相対的である存在)としての人間の欲求には限度がないのである。食物の摂取量には限りがあり、消化器官の活動にも限りがあるが、食物に関する文化システムは無現であり、どちらかといえば偶然的である。宣伝の狡猾さと戦略上の価値は、まさに次の点に存在している。すなわち、誰にも自分の社会的威信を確認したいという気持を起こさせて他人と比較させることである。宣伝はけっしてひとりの人間だけに対して向けられることはなく、個人を他者との示差的関係において標的にしている。個人の「奥深い動機」をひっかけたように見える時でさえ、宣伝はいつもよく目立つやり方でそうしているのだ。つまり、彼と親しい人びとや集団あるいは階層化された全体を、読解と解釈の過程、宣伝が創り出す自己顕示の過程へと呼び出すのである。

※(7)この差異化の増大は社会階層の上下間の距離の増大や「尺度基準のゆがみ」を必ずしも意味するわけではなく、差別の増大、両極が接近したヒエラルキー内部での差異表示記号の減少傾向を意味している。均質化や相対的「民主化」は地位をめぐるそれだけいっそう激しい競争を伴うのである。
(引用元:消費社会の神話と構造 [ ジャン・ボードリヤール ]p73)

「両極が接近したヒエラルキー内部での差異表示記号の減少傾向」ってのはよくわからんけど、ユニクロの服は巷にあふれまくってるから差異表示記号は減少傾向になるか。別に年収等によって定義される社会階層の上下に関わらず、ユニクロを着ている人はいる。

消費活動によって差異やオリジナリティを獲得し、それを自尊心の拠り所にしようとする。
「自分の社会的威信を確認したい」という気持ちを、消費活動で実現する。
実例を挙げていく。
まず、先に挙げた「普通の人でいいのに!」の主人公のみこはそうだし。


ドラマ「モテキ」の主人公も藤本幸世もそうだ。


B'zやシャ乱Qといったメジャーカルチャーを馬鹿にし、岡村靖幸を聴いたりマニアックなフェスに行くことで、仮初の独自性を得ているサブカル男子

藤本(森山未來)にはそれしか、自尊心の拠り所がねえんだ。
自分が消費してる文化でしか、相手を小馬鹿にしたり、マウントを取ることができない。
これはルサンチマンだな。
ディスタンクシオンという差異の獲得運動によって、自尊心や自己同一性を獲得しようとする。

epiphany.hatenadiary.comweb.kawade.co.jpなぜルサンチマンか。
それは、実際の藤本幸世は、この資本主義イデオロギーが跋扈する現代においては、低所得でうだつの上がらない男であるという現実を突き付けられるからだ。

つまり藤本は、自分が信奉するサブカルチャーを自尊心の拠り所にして、島田(新井浩文)に勝っているかのように錯覚する。
現実は、シャ乱Qとか湘南乃風を唄ってる島田の方が、仕事においても恋愛においても各上に描かれている。

何かのインタビュー記事で、「森山未來モテキの藤本幸世が好きではない。」ってのを昔、読んだ。
関西弁でいうところの「もう、かなわんわ」という感じらしい。
確かにそうだよな。俺もすごい視聴しながら、嫌悪した。
でも嫌悪する理由は、森山未來が嫌う理由と、少し異なるかもしれない。

森山未來は、藤本幸世がしょうもない自尊心とかルサンチマンにあふれた人間で、カッコ悪いと感じたからだろう。
俺はそれも含め、もう1つある。
それは、モテキの藤本幸世というサブカル男子は「自分のドッペルゲンガーのようだったから」だ。

俺もそうだった。
消費でしか自尊心を獲得できない、サブカル男子だったからよ。
藤本幸世に共感し、同一化し、自分がいかにカッコ悪い存在だと思い知らされた。

「普通の人でいいのに!」のみこが、彼氏の倉田弘樹によって自尊心の拠り所を壊されたのと同様に。
俺は「モテキ」の藤本幸世によって、自分の自尊心の拠り所が壊され、客観視できるようになったのを覚えてる。

音楽やサブカルだけじゃなく、ファッションも消費で差別化を、オリジナリティを獲得しようと、踊らされていたな。
A BATHING APE」の、猿のロゴがプリントされてるTシャツを、6000円もするのに買っていた。
志村けんみたいに金があるわけじゃねえ、低所得のくせに、猿のワッペンだががくっついてるシャツは17000円とかで買った。軽井沢のAPEのパイレーツストアだとかで買った。
そんなので特別な存在になれるわけねえのにな。

(引用元:闇金ウシジマくん(16)[ 真鍋昌平 ]

服で自己表現した気になってなにも生み出しちゃいねェ」ってのは真実だ。
1990年代前半の裏原ブーム、金もねえのに、自分の給与に見合わないアイテムを買って、オリジナリティを得たような気になる。

web.archive.org 1枚1万円もするTシャツを購入する若者は、いったいどういう連中なのか? 実は、「下流」と呼ばれるフリーターやワーキングプアたちなのである。なけなしの生活費から、そして余裕のない人はサラ金から借りて、早朝に店頭に並んで、お気に入りのレアもの商品を購入するという。

それを売っているNIGOは、大儲けよ。
牧瀬里穂とまで結婚してよ、うらやまし~い!
今はもうNIGOがAPEブランドの経営に関わってるのかどうか、知らないけど。

だから若者たちよ。誰かが作ったブランドを消費するんじゃなくて、自分で何かを生み出す側に回りなさいと。
NIGOってみろよと。
NIGOる」ってのは、“A BATHING APE”を創業したNIGOのように、中野坂上の四畳半のアパートから、六本木ヒルズの屋上の部屋を倉庫として使うぐらいに成り上がろうっていう、俺が勝手に作った造語だけどな。

NIGOの成り上がりツアー

矢沢永吉の「成りあがり」を、読むんだよ。
まあNIGOの武勇伝とか矢沢永吉の本とか、ちょっとネタが古いかなぁ。

とにかくディスタンクシオンは、ルサンチマンの一面があるってことだ。
全部じゃないかもだけど。
まだピエール・ブルデューの「ディスタンクシオン」をしっかり読めてないし、とりあえず一面はあるんじゃないかって話。