逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

感傷マゾとは到達不可能な愛に満ち溢れた青春の幻想に耽溺してナルシシズムに浸るルサンチマン

最近また、新しいルサンチマンを見つけたぞ。
id:amaikahlua さんがブコメで教えてくれた。

「理解のある彼くん」がムカつく理由はメシウマ的快感を味わっていたのに終盤で裏切られるから - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

逆寅次郎さんの語り口は増田との親和性が高いから、並のブロガーよりもバズるポテンシャルに恵まれてると思う。そういう点で、逆寅次郎さんの生は祝福されてるとも思いますねw。あと、「感傷マゾ」でググろうズ

2022/10/21 20:16

b.hatena.ne.jp感傷マゾ?なんだそれ?と思って、ググって調べてみたんだ。

note.com

「存在しなかった青春の祈り」「感傷と自己嫌悪をゾンビのように求め続ける性癖」らしい。
ふーん、と思ったけど、なんか嘘臭い。
ルサンチマンの臭気がプンプンしてきて、思わずつぶやいた。

「インテリがアイドルを研究し、アイドルが文学者になる時代」の誕生。 - かるあ学習帳

感傷マゾ知らなかったです。何か気に喰わないですw感傷と自己嫌悪というかナルシシズム自己憐憫と自己陶酔ですよ。概念(ルサンチマン)を創り、理想の青春を現実化できなかった敗北の事実を美化している有様が。

2022/10/21 22:34

b.hatena.ne.jpまあちゃんと動画とか観てから語るべきかもだが、軽く調べた印象だと、これはナルシシズムだ。
感傷マゾは、マゾヒズムというよりナルシシズム

てらまっとさん(id:teramat)という方のブログでもその点が指摘されてたと思われる。
まず、東浩紀について言及されてた。

teramat.hatenablog.com宇野は東によるセカイ系論や美少女ゲーム論が、それらを愛好する若いオタク男性に「ある種の免罪符として消費されることで無批判に受け入れられている」*4状況に苛立ちを隠さない。つまり、宇野の批判のポイントは、東の美少女ゲーム論の問題点を指摘するにとどまらず、それを「免罪符」として「ダメな僕ら」の自己正当化を図り、ポルノグラフィを「文学」とうそぶく東チルドレンを一掃することにあったわけだ。『ゼロ年代の想像力』のなかで、彼は2000年代前半の状況を次のように総括している。

なるほど、これは「知性化」という防衛機制よ。

gyakutorajiro.com表現規制派」「表現自由派」という〈他者〉が生み出した、ニッチな価値観。この、ほとんど誰も興味を払わないシニフィアンに同一化することで、この空想的構築物の中に、自分の幸せや実存を叶えてくれる何か(対象a)があると思い、この空虚に一体化する。

 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/oukan/2005/0/2005_0_184/_pdf/-char/ja

葛藤状況を統合するために感情よりも抽象的な思考に優位をおこうとする心的な傾向である

東浩紀の批評本とか読んで、「自分はこんなにも文化を語れるんぞ知性があるんですよ」的な、岡田斗司夫youtubeでやってるような批評家気取り、文化人気取りを行う。

単なるオタク趣味ではなく、自分の行為を神聖化するため、東が言及するデリダ等の哲学や精神分析などのエッセンスを加えながら、さも自分が高尚な人間であるかの如く、自尊心の拠り所を築き上げた!

…ってそれ、自分のことやないか~い!

自己否定になってしまった、俺がブログでやってることじゃねえかそれは。
ルサンチマンだこれも。
知性とか批評とかいう抽象的構築物(奴隷道徳)を内面化することで、自尊心の向上を図る。

踊らされちまったな、東浩紀岡田斗司夫に。
「批評」というコンテンツを消費し、養分となった。

東浩紀は、脱構築をしてなかったぞ!この前話したけど。

gyakutorajiro.com山上容疑者ははっきりと動機を述べているのに、「統一教会自民党の関係」を、郵便的脱構築によって、有耶無耶に、意味の決定を遅延させる。

だけどそんなのは郵便的脱構築ではないはずだ。郵便的脱構築への意志があるのであれば、三浦瑠璃が言う「容疑者の妄想に加担してはいけない」にある"妄想"という、超越論的シニフィエによって事件が回収される事態も脱構築しないといけない。
あらゆる超越論的シニフィアンを疑義にかけてない。
やはり東浩紀は郵便的脱構築を行えていないようだ。

なぜ脱構築できないか。
私見だがその理由は、

真実の探求よりも金儲け(大学や行政機関等から貰える仕事)の方が大事だから

だろうな、恐らく。
東浩紀、三浦瑠璃の振舞いは、合理的といえばそうかもしれない。

いわゆる支配的権力を持つ政権与党の批判に繋がり、自分の仕事や金儲けの喪失に繋がるような言論を避ける。
「そこに真実はあるのかい?心にダムはあるのかい?」ってね、あんちゃん(江口洋介)なら言ってるぞ。

まあダムはあるかもしれない。チャリーンチャリーンと、ダムに金を貯めるために、真実かどうかは問題ではない。
と思ってるんじゃねえのか?
真実だと思える見せかけ(シミュラクル)で十分だと。
ある程度、一定人数が共感できる言説を垂れ流してダムに金が入ってくればいいんだよと。

ああ哀しいな。学者なら、研究者なら、たとえ権力に背いて金儲けに支障が生じることがあっても、真実を追求しろよなほんと。

そこにも確固たる「自我」があるのかも疑わしい。
繰り返され、果てしなく続く資本主義社会が生み出すマネーと、マネーに付随した欲望の産物。
その産物を手に入れるために、真実を求める冒険家ではなく、資本主義の奴隷となった!

gyakutorajiro.comコラージュアートのように、パッチワークのように、大量のシニフィアンが無意識に供給される資本主義社会の大量のシニフィアン。次から次へと湧いてくる同一化対象、その影響によって形成される欲望は、自分の欲望なのか、自分の感情なのか。
そしてもはや自分はもう消えていて「君」(他者)になっているのではないだろうか。

それでいいのか?
資本主義の奴隷でいいのかよ?インテリ達よ!
まあ文系界隈のインテリは、そのポジションを失うと民間企業で使える汎用性のある知識とかも大してねえから、保守的になるもの仕方ねえよな。

なんか話が逸れたな。感傷マゾに戻そう。
てらまっとさんの批評から、感傷マゾの本質に迫っていく。

 かくしてオタク男性は批評=批判のアリーナで劣勢に立たされ、日本国憲法に記された「表現の自由」という最後の砦に立てこもる。SNS上で一部の男性アカウントが「表現の自由戦士」と揶揄されるほどフィクションへの表現規制に激しく抵抗するのは、言うまでもないことだが、彼らが憲法の理念をことさらに重んじているからではない。そうではなく、自らの欲望の受け皿がもはやフィクションのなかにしか存在しえないことを知っているからだ。

そうですよ、その通り!
だが、納得できない部分もある。

 感傷マゾ・負けヒロイン両研究会が「批評」というフォーマットを採用しないのは、こうした「連帯」を呼びかけるうえで合理的な選択であるように思える。繰り返しになるが、彼らが目指しているのは価値観の異なる他者、たとえば急進的なリベラルやフェミニスト、あるいは頭の固い先行世代を「説得」することではない。そうではなく、おそらくは似たような敗北感を抱える男性の「共感」を呼び起こし、彼らを迎え入れることで、ある種の互助的なコミュニティを形成することにある。先に触れた「自分語り」的な文体に加え、たとえば複数人でのリレー形式による連載記事*10などには、そうした方向性が端的に表れている。「青春ヘラ」や「負けヒロイン」といったキャッチーな言葉を重視するのも、それらが一種のタグとして機能し、SNS上でのマッチング精度を高めてくれるからだろう。その意味で両研究会の戦略は、どちらかというとフェミニズムの文脈における「#MeToo」運動に近い。とはいえ、彼らは社会変革を志向していないという点で、ベクトルが大きく異なるのだが。

確かに納得できるが、俺の中のルサンチマン警察はまだ納得してないぞ。取り締まる必要がある。
マゾヒズム」という言葉で誤魔化してるんじゃない。

共感や互助といったもの以前に、自己目的的なナルシシズムの臭気が溢れてる。感傷マゾヒストたちは、「ルサンチマンの呼吸」とか言ってる俺と同じだ。

自分の不活性な人生を、何らかの抽象的構築物で隠蔽しようとしてる。
「知性化」という防衛機制によって、「感傷マゾ」という崇高めいた概念、宗教めいた価値観を創造することで、自尊心の拠り所(ルサンチマン)を創り出した。

スラヴォイ・ジジェクの「快楽の転移」という本の一節「宮廷恋愛というマゾヒズム的舞台」で、その振舞いは既に暴かれている。

www.seidosha.co.jp

 宮廷恋愛に関する次なる重要な特徴は、それがまったくもって礼儀作法の問題であるということである。宮廷恋愛は、あらゆる障害を乗り越え、いかなる社会規範をものともせずに流れ出る自然な感情などではない。

ここで扱っているのは、まったくの架空の式、「であるかのように」という儀礼的なゲームである。男たちは、自分の恋人は到達不可能な<貴婦人>だというふりをしているだけなのだ。

まさにこの特徴があってこそ、宮廷恋愛と、一見それとはまったく関係がなさそうに思われるある現象を結びつけることができる。その現象とは、マゾヒズム、つまり十九世紀の半ばにザッヘル=マゾッホの文学作品や実生活によって初めてあからさまに口にされた倒錯の形式の一つである。ジル・ドゥルーズは、その著名なマゾヒズムに関する研究の中で、マゾヒズムを単なるサディズムの対極にあるものと考えてはならないことを立証している。


サディストとその相手は、決して、「サド・マゾ」カップルといった相補的な組み合わせをなすものではない。サディズムマゾヒズムの非対称性を証明するためにドゥルーズがあげた特徴のなかでも非常に重要なものに、否定の様相の対立がある。
サディズムは否定は直接的な形、暴力的破壊や責苦という形をとるが、マゾヒズムでは否定は否認の形をとる。ふりをしたり、「であるかのように」装って、現実を中断するのだ。

(引用元:スラヴォイ・ジジェク 著,松浦俊輔, 小野木明恵 訳「 快楽の転移」p149)

ザッヘル=マゾッホについては、大阪大学感傷マゾ研究会代表のペシミさんって人も言及してる。

note.com一番の問題は、感傷マゾにおける「マゾ」性の希薄さであった。確かに、感傷的になって自傷行為を重ねることに快感を見いだしていることは間違いない。しかし、そのマゾヒズム的な快感の得方が、従来の感傷マゾの語り手であった第一世代と比べると微妙に違うように思い始めた。さらに、マゾヒズムの研究と称してジル・ドゥールズの『ザッヘル=マゾッホ紹介』を読み進めていくうちに、自分が真にマゾヒズムを語り得る人間ではないことも明らかになった。要は、マゾヒズムにも多様なレベルがあり、自分はその初級レベルでしかないということだ。この理由を考えると、僕が感傷マゾに触れるきっかけが「感傷」からの経路だったからというのが挙げられる。

 「感傷」から感傷マゾに入った人間と、「マゾ」から感傷マゾに入った人間では根本的な部分が大きく違っているのだ。案外、この入り口の違いは虚構エモとの区別においても関わってくるのかもしれない。「虚構エモ」は、『感傷マゾvol.1』でスケア氏が発案した造語である。自虐的なマゾ要素が薄く、作り物っぽいエモ(例えば、ヨルシカのMVやloundraw氏のイラストのような)ものに対しても感傷マゾと名前をつけることを疑問に思い、区別されるために作られた単語だ。

マゾヒズムってのは、単に「肉体的・精神的苦痛や責め苦に快楽を見出す者」という単純な欲望ではないって話だ。
マゾヒズムにも多様なレベルがあるってか。
そのマゾヒズムのレベルの1つとして、ジジェクラカンを引用しながら「ナルシシズム」があると語る。

その理由は、主導権を握っているのが、マゾヒストの側だからだ。

 この否認の論理こそが、マゾヒスティックな態度における根本的な逆説を理解する手助けとなる。たとえば、典型的なマゾ行為の現場はどのようなものだろうか。男-家来が落ち着いた事務的な態度で、女-主人と契約の条件を取り決める。女が男にすること、どういうシーンを際限なく繰り返すのか、女はどんな衣装をつけるのか、実際にどこまで肉体的な痛みを与えるのか(鞭を打つ強さ、鎖でしばる方法、ハイヒールのかかとで踏む場所、等)について。

双方がマゾ行為のゲームの項目に目を通し終わっても、マゾヒストは常にある種の落ち着いた距離を保ってる。実際に感情に溺れたり、ゲームに没頭しきることは決してない。ゲームの最中に突如として、演出家の立場になって、細かい指示を出すこともある(そこをもっと強く、その動きを繰り返して……)。

それでいて「幻想をぶちこわす」ことは決してない。いったんゲームが終われば、マゾヒストの男はふたたび尊敬に値するブルジョワジーらしい態度に戻り、事務的な口調で「色々とありがとうございました。来週またこの時間でよろしいですか」などとご主人様と話をする。最も内奥にある欲望は、契約や冷静な交渉といったものの対象物とされる。よって、マゾヒズムの舞台の性質は完全に「非心理学的」である。超現実的で情熱的なマゾヒスティックなゲームは、社会的な現実を中断しながらも日常的な現実と簡単に合致するのだ。(9)

(9)これは『ツイン・ピークス』の「非心理学的」世界の論理と同じものである。『ツイン・ピークス』の登場人物は大きく二つのタイプに分けられる。「ノーマル」で平凡な人物(基本はソープオペラの典型的なキャラクター)と、「クレージー」でエキセントリックな人物(「丸太を抱く女」等)である。この二つのグループの人物たちが「ノーマル」なコミュニケーションのルールにのっとって関わり合っている点こそが、『ツイン・ピークス』の世界を不気味なものにしている。「ノーマル」な人物はエクセントリックな人物の奇妙な行動に対して驚いたり怒ったりはせず、日常的な出来事の一つとして受け入れている。

(引用元:スラヴォイ・ジジェク 著,松浦俊輔, 小野木明恵 訳「 快楽の転移」p150-151,p385)

もちろん、主導権がサディストの側に移るケースもある。

というわけで、マゾヒズムという現象は、ラカン精神分析は心理学ではないと繰り返し主張していたそのときに彼が念頭に置いていたことを、最も純粋な形で例示している。マゾヒズムはわれわれに、「フィクション」の秩序たる象徴的秩序の逆説をつきつける。それは、仮面の下に隠れたものよりも、仮面そのもの、ゲームそのもの、われわれが従いたどる「フィクション」そのものに真実があるというものである。マゾヒストという存在の核そのものが、上演されているゲームの中で外注化され、マゾヒスト本人はそのゲームに一定の距離を保って接する。

暴力という<現実界>が勃発するのは、まさに、マゾヒストがヒステリー状態に陥ったときである。主体は、〈他者〉の享楽の対象 - 道具としての役割を拒否し、〈他者〉の目の中で対象aに還元されるかもしれないと恐れるとき、「つじつまのあわない」暴力を相手に向けるという行為への移行に訴えでるのだ。

(引用元:スラヴォイ・ジジェク 著,松浦俊輔, 小野木明恵 訳「 快楽の転移」p151)

サディストの側が、ヒステリー状態に陥ったマゾヒストに恐怖する。
自分の方こそが、マゾヒストの欲望に応じ続けるという享楽の中に取り込まれている道具であり、奴隷であることに気付き出す。
しかしそれはどうしても納得できない屈辱だ。
そのためサディストは、その現実を抑圧するために、マゾヒストに対して「つじつまのあわない」暴力を振るう。
現実界が立ち現れ、"「フィクション」の真実"(象徴界)が打ち砕かれる。
そういったケースもあるだろう。

このようにマゾヒストは、非常に自分の象徴的秩序を重んじる。
自分が生み出した象徴秩序、象徴界によって何がしたいのだろうか?
ジジェクラカンに言及してこう説明している。

まさしくこうした狭義の意味において、ラカンは、「宮廷恋愛のイデオロギーの中に明確に見いだされる理想化と崇高化の原理は、基本的にナルシズム的な性格をもつ」と認めている。<貴婦人>はすべての現実的な実体をはぎとられ、主体がナルシズム的な理想を投影するための鏡としての機能を果たす。言い換えるならば、クリスティーナ・ロセッティがダンテ・ガブリエル・ロセッティと彼にとっての<貴婦人>であるエリザベス・シダルとの関係を描いたソネット『芸術家のアトリエ』In an Artist's Studioにうたっているように、<貴婦人>は「彼女そのものではなく、彼の夢を満たす者として」ある。(5)
しかし、ラカンにとって重要な点は他にある。


鏡はときにナルシズムのメカニズムを、とりわけそれに続いて遭遇する破壊性や攻撃性を示唆することもある。しかし同時に、他の役割、つまり限界としての役割を果たす。この鏡は踏み越えることができない。そして、鏡が機能するのは、対象に手を出せないという秩序においてだけである。

よって、宮廷恋愛における<貴婦人>は、実際の女とは何ら関わりはないものである。男性のナルシズム的な投影を表すものであるために、いかに生身の女性に屈辱を与えているかという、ありきたりな文句に満足してしまう前に、次の質問の答えを考えなければならない。あの空っぽの表面、投影を可能にする空間となるあの冷たい灰色のスクリーンはどこからくるのだろうか。つまり、男性が鏡の上にナルシズム的な理想を投影するのであれば、そこには既に沈黙した鏡の表面があるはずだ。この表面は現実における「ブラックホール」、つまりその<向こう>は到達不可能であるような限界としての機能を果たす。


(5)従って、絶対的な<理想の女>である宮廷恋愛の<貴婦人>を、単に、ファルスの享楽に服従させられていない女ととらえるのは致命的な誤りであることは明らかである。性的関係を結べそうな普通の「従順な」女と「非人称的な相手」たる<貴婦人>との日常での対立と、ファルスのシニフィアン服従させられる女と<他者>の享楽をもつ女との対立は、何ら関係はない。<貴婦人>は男のナルシス的な<理想>の投影である。男が設定する舞台の上で女王役を演じるというマゾヒスティックな契約を取り交わした結果、初めて<貴婦人>が姿を現すからだ。こうした理由から、例えばロセッティの『ベアタ・ベアトリックス』は享楽する<他者>を描いたものと解釈すべきではない。これは、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』におけるイゾルデの恋人トリスタンの死の場面と同じく、男の幻想なのである。

<貴婦人>というサディストは、沈黙した鏡であり、幻想を投影するが、それは到達不可能な限界としての役割が与えられる。
象徴秩序の中に「対象に手を出せない」という到達不可能性を構築する。
そんなことを行う意味がどこにある?

こうした見方からすれば、宮廷恋愛はただ、対象に到達しにくくする因襲的な障害物をうちたてることにより対象の価値を高めようとするための、最も過激な形の戦略だという単純な理解ができる。ラカンセミネール「アンコール」で宮廷恋愛の逆説に関して非常に明快な式を与えてくれているが、その内容は一見これと同じように見えても、根本的には異なった見解である。

「性的関係の欠如を覆い隠す非常に洗練された方法に、そのような障害物をおいたのは自分自身だというふりをするやり方がある」
つまり問題となるのは、対象の価値を高めるために後から因襲的な障害物を加えるという単純なことではない。
対象に至る道を妨げるような外的な障害物は、まさに、それさえなければ対象にまっすぐたどりつけるという幻想を生み出すためにそこにある。この障害物は、そもそも対象には到達不可能なのだという事実を隠してる。〈貴婦人 - 対象〉の占める位置にはもともと何も存在しない。〈貴婦人〉は「ブラックホール」のような働きをし、その周囲に主体の欲望が形成される。欲望の空間は相対性理論の空間のように湾曲している。〈対象 - 貴婦人〉に到達するための唯一の道は、まっすぐな道ではなく、曲がりくねった回り道なのである。まっすぐに前進すれば、対象を失うことは定められている。

(引用元:スラヴォイ・ジジェク 著,松浦俊輔, 小野木明恵 訳「 快楽の転移」p154-155)

つまり「性的関係の欠如を覆い隠すために、幻想を作り出した」ということ。
宮廷恋愛と、感傷マゾの物語は、その関係性が共通している。
貴婦人に相当するのは、例えば麦わら帽子に白ワンピースの少女だ。
感傷マゾにおける〈貴婦人 - 対象〉に相当する白ワンピースの少女は、どこにも存在しない空想的構築物だ。
その事実は、感傷マゾヒスト達も自覚している。

note.comスケア 「感傷マゾ的な意味で風景を捉えようとすると、かつてどこかにあったかもしれない風景に、麦わら帽子に白ワンピースの少女なんているわけないじゃん」

一同  「(笑)」

スケア  「共通の原風景の中に、麦わら帽子に白ワンピースの少女がいるというイメージの源流は、田舎が舞台のエロゲーとか、もしくはヨーロッパの絵画から輸入されたのかもしれないけどさ。モネの『日傘の女』とか。どこかにあったかもしれない、なかったかもしれないという虚構性が、感傷には必要だと思うんだよね。最初から確実にあったと言い切れるなら、感傷は深まらない」

対象aである白ワンピースの少女に到達することはできない。
すなわち$◇a [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]という疎外の状態、ジジェクが言う「ラカンによる幻想の公式($◇a)」(イデオロギーの崇高な対象)。
過去に何度も語ってきた。

gyakutorajiro.com「汝、何を欲するか?」は、この現代社会において、シニフィアンの影響を受け続けた人間が、自らに課す要求だ。
実家の両親などによって「ちゃんといい会社に勤めている人にしなさい」「気立てがよくて、一緒に故郷に帰ってくれる奥さんを見つけなさい」等の要求もあるだろう。
その要求とともに、欲望(d)は、対象aに向かう。

対象aは、男性においては「可愛くて料理が上手な理想の奥さん」という家事能力を体現した存在であったり、女性においては「身長170cm以上で年収600万円以上」のよう資本主義的価値を備えた人物であったり。
そして両者ともに、パートナー候補の対象を知覚した際に自我で行う無意識的なルッキズム的審判によって対象aが構築される。

しかし対象aを求める独身は、欲望のグラフ第3図にあるように、$◇a [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]、疎外の袋小路に突入する。

対象aに対して困難な障害物を設けて、幻想を機能させることで、自分の周りで不可抗力的に起こる現実界の脅威を抑圧している。

白ワンピースの少女に、「自分を罵倒する」というナルシシズム的幻想を投影する。その象徴秩序こそ、自分にとっての現実だとする(実際は幻想)。
罵倒の中身については、感傷マゾにおける「マゾ」的な部分がどのような内容になっているのか、詳細の検討が必要だが。しかしその罵倒の内容は実は、極めて自分の都合にいいものである可能性がある。

現実で罵倒するのは、白ワンピースの少女ではなく、職場の上司であるこういうオッサンだったりする。

 

おめーみてーの見てっと、イラつくンだよ!

(引用元:闇金ウシジマくん(7)[ 真鍋昌平 ]

もしくは職場の同僚や、過去に告白したり付き合っていたが振られた相手や、故郷の親や同級生、学生時代の青春の思い出、人生の黒歴史、ネットで見かけた客観的データなどなど。
本音の罵倒、ダメ出しが、そこにはあるはずだ。
その現実にあった罵倒が、白ワンピースの少女の罵倒に上書きされる。
過酷な現実界の罵倒を、自分に都合のいい象徴界の罵倒に置き換えてる。辛いカレーに温玉を入れてマイルドにするかのように。

白ワンピースの少女が語る罵倒の口上に、「外的な障害物」が提示される。
それは実は、ジジェクが「それさえなければ対象にまっすぐたどりつけるという幻想」と呼んだように、その白ワンピースの罵倒の内容自体が幻想であり、自分にとって都合のよいものだ。
「外的な障害物」を根拠として、別の現実を隠蔽する。
隠蔽しようとしているのは、「そもそも対象には到達不可能なのだという事実」だ。
だからこそ、感傷マゾヒスト達は、白ワンピースの少女さえいれば満足だとするとともに、罵倒するのは白ワンピースの少女だけにしてほしいとすら考えている可能性がある。
現実に罵倒してくるオッサンや他者によって、到達不可能な残酷な現実を突き付ける行為は立ち現れてほしくない。

対象には届かないという過酷な事実、具体的に何を隠蔽しようとしているのだろうか。それは、感傷マゾが好んでいるコンテンツを検証する必要があるだろうが。
おそらくは、例えば自分の性的コンプレックスや、年収、欲しいパートナー、資本主義社会が競争主義が生み出す格差、納得できない人生など…外傷的な現実界が表出して来ないように、作り上げた「感傷マゾ」という幻想に没入し、それに付随する物語や、現実を隠蔽するための別の欲望の対象を築き上げていく。

それは、てらまっとさんが言う「フィクションに耽溺する若い高学歴オタク男性のナルシシズム」でもあるし。

永遠回帰の欲望でもあるだろう。
直線的時間から逃走し、永遠の「夏休み」に浸り続ける。

谷崎潤一郎マゾヒズムも、それは苦痛ではなく「(現実の)忘却、時間の遅延(大阪弁による焦らし)、永遠回帰の欲望」にあると分析した論文がある。

infoseek_rip.g.ribbon.toここまで論じてきたことから、マゾヒズムは苦痛に快楽を見出すという偏見は否定されてしかるべきである。マゾヒストは、サディストと違って、暴力を憎む。マゾヒストは、快楽を求めるために、苦痛を忘却する。その快楽は、サディズムにおいては夢であるとすれば、陶酔状態である。谷崎は予期される事態を待ち望む。谷崎の文体の速度は遅い。谷崎の作品は間接話法の長いセンテンスによって緩やかに流れていく。谷崎は、怠惰な大阪弁を用いて、のらくら、とことん焦らす。

 谷崎はもともと標準語で書いていた『卍』を次のように大阪弁に直している。
 
 主人は絵だの文学だのにはさっぱり興味がない方なのでございますが、私が学校へ行きますことは賛成いたしてくれまして、それは結構だ、いい思いつきだから精出して行くがいいと云うて、自分から勧めたくらいなのでございました。

(初稿)

 主人は絵ェや文学やにはてんと興味のない方やのんですが、私が学校に行きますことは賛成してくれまして、それは結構や、ええ思いつきやさかい精出して行くのがええ云うて、自分から勧めたくらいやのんでした。

(決定稿)

 両者を比べてみると、この変更によって、文章の速度が遅くなっていることは明白であろう。「おじはん」という言葉は大阪弁ネイティヴ・スピーカーならば、明らかに誤った用法であると指摘できるが、大阪弁を習得言語として会得したものにとっては、「おっさん」のほうが正しいのではないかと違和感を覚えても、確実な判定はできない。谷崎は東京弁から大阪弁に翻訳した際、文章がぼやけていくように感じている。谷崎に大阪弁はこうした体験をさせる。マゾヒズムは苦痛に耐えてそこに快楽を見出すのではなく、苦痛を忘却して快楽を感受することである。マゾヒストの陶酔は忘却の快楽である。谷崎は、ときとして、筋を忘れ、エピソードやマニア的知識を書き始め、さらに、それらすらも忘れ、筋に復帰していく。マゾヒストは苦痛を嫌悪する。彼はオルガスムス的絶頂感以上に、持続された高い水準の状態を好む。焦らされるのを請う谷崎は、『私の見た大阪及び大阪人について』において、京都よりも、大阪に好意的である。女性に関してはファッションは垢抜けないが、声や言葉から考えると、大阪がよいと「個性美」を認める谷崎は評価している。大阪弁は「滑稽」であるけれども、京都人はユーモアをあまり解さない。京都より、欲望が顕在的なだけ大阪がよいというわけだ。谷崎に従えば、関西人はレトリックを多用するが、焦らしの大阪と違って、京都的なものが秘めているのは陰険さということになる。

 谷崎の苦痛と忘却の考えはフリードリヒ・ニーチェの永遠の回帰を思い起こさせる。

また、この幻想の構築によって、それに共感した人々が増えれば「感傷マゾ」をコンテンツ化することが出来るかもしれない。
東浩紀岡田斗司夫が「批評」コンテンツでお金儲けをしているように、資本主義的価値を帯びることも可能。もちろんそれについては、私的な邪推だし、穿った見方だけどよ。

知性化、ナルシシズム永遠回帰の欲望、ビジネスの手段・・・「感傷マゾ」を構成する要素には、まだある。

それは「ルサンチマン」よ。奴隷道徳。
まあ「自己愛を得られる価値観や幻想を信仰・内面化して現実の嫉妬・怒り・恨み・辛みを抑圧する」という点で、ナルシシズムと似ている部分もあるけどな。

そして「中二病」だ。
そもそも、なぜ「マゾヒズム」と呼ぶのか。
ここまでの分析において、罵倒といってもそれは貴婦人やそれに相当する白いワンピースの少女等に委託した幻想であるし、ナルシシズムの要素が強いため「感傷ナル」や、もしくは単なる「ナルシシズム」の方が適切な気もするが。

「感傷ナル」ではなく「感傷マゾ」とする…その理由は…

感傷マゾの方が、感傷ナルよりも響きがカッコいいから

だ。
ナルシシズムより、マゾヒストの方が、倒錯性が強く、どこか理性的でカッコいいと思ってるんだろう?
その概念や行為は、マルキ・ド・サドやザッヘル・マゾッホジル・ドゥルーズ等によってアカデミックな俎上にも上がるがゆえに「カッコいい」と、無意識的に思ってる!!

ナルシシズムは、通俗的に「ナルシスト」として揶揄される存在。だから、そのワードチョイスをしなかった。それもあるんじゃねえのか!?

インスタ映え同様、アカデミックな見栄えとして「マゾヒズム」の方が響きがいいし、ミステリアス性もある。
その名付けに見え隠れするのはペダンチシズムと、中二病が複雑な漢字や横文字が並ぶ詠唱等を口走って自己陶酔する行為と類似したナルシシズムよ。

note.com「わく」氏の言葉を借りれば、「感傷マゾ」とは「存在しなかった青春への祈り」である。この《祈り》という行為が、「感傷マゾ」という概念の中核にはある。それは「青春」や「夏の田舎道」といった、具体的な時間的・空間的幅をもった対象に向けられるものだ。

「祈り」(pray、prayer)という言葉を利用して、「感傷マゾ」という概念をより神聖化した。
俺から言わせれば、

どこが神秘的だっつーの!ルサンチマンだっつーの!!

って話よ。
ルーザーに、自尊心の拠り所になる価値観を提供してやるために。
止まり木は強固である必要があり、それは単純明快な教義であってはならない。外野からの「ナルシシズムだ」「ルサンチマンだ」というラベリングから逃走する。

「祈り」等という神秘的行為の付与、「虚構エモ」「青春ヘラ」等の類似概念の生産と多様化を行うことで、「感傷マゾ」教義のブランディングを更に推進する。
しかし本質は、空想の青春に対してプレイ(祈る)するのではなく、空想による自分の人生のサンクティフィケーション(神聖化)だ。


薄々それに気付いている面もあるんじゃないのか。

note.com 青春ヘラはその名の通り、過去に青春できなかったことに対する後悔が軸となっている。そこから自己嫌悪に繋がり、感傷→快楽といった経路は感傷マゾと変わらない。異なる点は、「ヒロインに本質を見抜かれて罵倒されたい」といった、マゾヒズムの意味での性的要素が少ないこと、また、自己完結できる点にある。 
 感傷マゾがヒロインからの糾弾を通して自己愛を満たしたのに対し、青春ヘラは完全な自己完結を特徴とする。これができるのは、基本的に青春ヘラが「自意識の化け物」だからである。例えば、文化祭中に教室でラノベを一人読んでいた経験があり、それが「自分が拗らせていたせいで青春できなかった」と嘆く大学生がいたとする。しかし、心のどこかで「他人と違うことをしている自分がかっこいい」、「文化祭ではしゃいでいる奴らと違って俺は大人だな」という、自己愛を感じてしまっているのだ。アイデンティティだとすら思っているかもしれない。

感傷マゾも、青春ヘラと変わらない。
その罵倒の中身が、現実に根差したものなのかが、疑わしい。仮に現実を反映したリアリティが担保されているとしても、「美少女」にそれを行わせるという点で、罵倒をマイルドにし、自身の性的欲望の充足にも寄与する自己都合性が高い幻想に変質させている。

その点で感傷マゾも自意識の化け物、根本的には自己愛の産物であり、自尊心を保つための奴隷道徳だと俺は思うけどな。

以上、主に感傷マゾのナルシシズムルサンチマン(幻想の生産や内面化)について語った。
感傷→快楽に至る経路にも、ルサンチマンがある。
そのルサンチマンの中にはジジェクラカンがいう鏡、障害物を設けるというナルシシズム的神聖化と、それに伴う現実の隠蔽行為も含まれる。

上に引用した感傷マゾに関する記事には足りない。
「自己愛」に関する言及はあるが、「ナルシシズム」という言葉が1度も出てこない。しかしマゾヒズムの中に、自己目的的なナルシシズムがあるのは、上記に述べた通りよ。

もちろん、より詳細を明らかにするには、感傷マゾが好んでいるコンテンツ等を検証する必要はあるけどよ。

しかしそれ以前に、どうなんだ。いや俺も別に感傷マゾを行う団体の活動を邪魔するつもりはないけどよ。

創り上げたルサンチマン象徴界に浸り、没入し、他者の声に耳を傾けず、必死で現実界が表出してこないように蓋を閉め続ける生き方で、いいのか!?って話だ。
感傷マゾの若者よ!

 

ルサンチマンに浸り続けるのは危険だ、ニーチェが語るルサンチマンを抱くラストマンになっていないか、自問自答したことはあるか。

ツァラトゥストゥラになれなくてもいい、だが、時には奮い立たせるべきだ。
現実界を恐れず立ち向かう意志、ツァラトゥストゥラになろうとする意志を!