逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

国家のイデオロギー装置が人間により一層のルサンチマンをもたらした

ルイ・アルチュセールというフランスの哲学者がいる。「アルチュセールの〈イデオロギー〉論 (プラチック論叢) [ ルイ・アルチュセール ]」「再生産について」ってのは読んだ気がする。

その本の中でアルチュセールが提示した概念に"AIE"(appareils idéologiques d'Etat)ってのがある。
簡単に訳すと「国家のイデオロギー装置=資本主義等の社会システムを維持するために作用する抑圧装置」みたいな感じだ。
イデオロギー装置は至るところに存在している。

アルチュセールがすごいのは、イデオロギーを観念的な体系とか思想に留めるのではなく、スポーツだとか娯楽だとか、物質的なものに至るまで、国家を維持するイデオロギーとして機能していると提唱したところだ。
「えっ、そんなものまで?」と、俺は衝撃を受けたが、実際当てはまってる。

イデオロギー」ではなく、「イデオロギー装置」ってのが新しかった。
これは古臭い哲学とか思想ではなくて、令和になった現代でも通用する概念でもあるんだよな。
西洋哲学史における観念論的思想を脱却し、物理的な存在が人間の精神に及ぼす影響ってのを、この国家のイデオロギー装置という概念で紐解いたし。
この概念によって、後にジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ唯物論精神分析として「アンチ・オイディプス」を確立したんだと勝手に思ってる。

「政治に興味がない若者」を生産できるのは、政治意識を希薄化できるほどに楽しい娯楽が多く存在するからで。
それゆえに、娯楽もイデオロギー装置して機能してるってことだ。

イデオロギー装置は、ありとあらゆる場所で、この資本主義社会や国家が発展するために機能している。
例えば、BEAMSの広告キャンペーンに「恋をしましょう」というのがある。

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(引用元:ビームス35周年キャンペーン「恋をしましょう」スタート!|株式会社ビームスのプレスリリース

国家じゃなくて企業では?と思うかもしれない。
しかし「恋をしましょう」という価値観の前提には、ヘテロセクシャル異性愛)の恋愛を前提にしている。
ポスターを見ればわかるだろ、男女の姿が写ってるからな。

このキャンペーンは2011年で古い話、10年以上前ではある。
だからその時よりは、2022年の現在、ダイバーシティやLGBTQ等のセクシャルマイノリティへの配慮や尊重はあるものの、基本的には異性愛を尊重する。

まだ日本やロシアでは同性婚が認められていないみたいだしな。

www.marriageforall.jpwww.amnesty.or.jpなぜ異性愛は国家のイデオロギーとして尊重されるか。
それは異性愛が、資本主義や国力を増強するための労働力の生産(人間の生産)の目的に都合がいいからでもある。

LGBTは生産性がない」と発言した杉田水脈議員は、国家のイデオロギー装置の目的に沿った行動ではあるが、ダイバーシティという価値観に阻まれ、バッシングされ、社会的制裁を受けた。だが労働力の生産に寄与するゆえに異性愛が優遇される現実があるのは事実だ。

そのため、国家のイデオロギー装置と企業が行うキャンペーンが、異性愛の礼賛という価値観を前提にしているという点で蜜月関係である以上、BEAMSのキャンペーンも、国家のイデオロギー装置として機能する。
もちろん、BEAMSだけじゃない。

企業やメディアによる諸々のキャンペーンやポピュラーカルチャー、バレンタインや夏休み等の季節の節目、季節と関係ないありとあらゆるシーンで、異性愛の恋愛をセットにしたキャンペーンは幾度となく反復される。

大衆の無意識に<バレンタインデー=恋をしろ><クリスマス=恋をしろ>というイデオロギーを刷り込ませる。
これはアルチュセールの言葉を借りると「文化的AIE」と言ってもいい。

文化的AIEは、例えば人々に「恋をしなくちゃ!」と、"主体化"するように仕向ける。
例えば季節が夏の場合は、ラブストーリーを彩る諸々の消費活動=海水浴、プール、スイカ割り、夏祭り、サンセット鑑賞・・・などなど。
これらのイデオロギー装置によって、消費活動の論理に忠実に従う人間を作り出そうとする。

中にはソロのように、そういった資本主義的イデオロギーに染まらない or 染まることのできない疎外された人間も生じる。

そういった人間は「夏だからって、1人で海に行ってもいいじゃねえか!?」と、自ら対抗的な文化を生成しようとポジティブな試みを図る連中も出てきたりする。(渋谷で行われている「クリスマス粉砕デモ」等)

しかし、結局その運動は一般的に流布しているイデオロギーと拮抗することは決してなく、卵母細胞が分割したときに消滅する小さい極体みたいなもので、マイノリティーの文化的抵抗は一過性に終わるケースが多い。

大資本の国家や企業によるキャンペーンが生み出す「恋をしなくちゃ!」に勝てるのは容易ではないし、生物学的にもこっちのキャンペーンの方が馴染めるんだよな。

経験がイメージを形作るように、一度刷り込まれたイメージは、なかなか変わることはない。<夏=恋する季節><クリスマス=恋人と過ごす時間>という思考回路を堰止めようとしても、やはり誰にでもこの回路は、幅の差こそあれ、開かれてしまっているだろうな。

だが、こういう資本主義的夏の恋愛イデオロギーの恩恵を、享受することができない疎外された主体もいる。
それは、非モテ、非リア、弱者男性、喪女といった用語で呼ばれる人々。

これらの人々は、大抵はネガティブなグループとしてカテゴライズされ、国家のイデオロギーの教義を実践できない者として"負け組"のレッテルを貼られる。
負け組となった主体は、嫉妬、怒り、怨恨、自己嫌悪といったネガティブな感情に苛まされる。

ここで「どうせ人は死ぬんだから、あくせく頑張らなくてもいいじゃん」といったルサンチマン的実践が行われるのはまだいい。

ハライチの岩井がラジオで語っていた「ニート最強説」のように、「どうせ死んでゼロになるんであれば、何も生み出さなかったニートはマイナスがないから勝ち」みたいな弱者の価値観(奴隷道徳)によって、精神の安寧を確保できるからな。

これはルサンチマンのポジティブな側面でもある。
精神分析における防衛機制のような作用がルサンチマンにはあるな。

しかし、ルサンチマンが機能せず、嫉妬や怨恨などの負の感情に包まれてしまった場合、破滅的な結果を招く。

それを避けるためにも、ルサンチマンおよび、俺が提唱するルサンチマンの呼吸は重要だってことよ。

呼吸の方法論は徐々に伝承してやるからな。