ニーチェはこう言った。
「真の男性は二つのものを求める。危険と遊戯である。だからかれは女性を、もっとも危険な玩具として、求める。」
なんかモテないやつが言いそうなセリフだな。
女性は危険な玩具、物扱いしてる印象がある。実際、モテなかったみたいだし。
ニーチェは女性恐怖があったのではないか、という面白い考察もあるけどな。
ニーチェ『ツァラトゥストラ』「老いた女と若い女」を読解するmeteorite1932.wordpress.com
しかしニーチェによるルサンチマンの発見が、俺のルサンチマンの呼吸のルーツになっているのは確かだからな。ちゃんとニーチェ先生はリスペクトしないといけない。
ニーチェはこうも語っている。
ある時、地上に二通りの人間が生まれた。
一つは強者、二つはそれに敵わない弱者である。
弱者は己の力を高め強者に立ち向かうこともできたはずだか、彼らはそれをしなかった。
彼ら弱者は、しかし別の方法で強者に立ち向かった。
それは「奴隷道徳」の創設…すなわち「弱者であることが強者であるよりも優れているとされる道徳」を生み出したことによってである。
奴隷道徳において、弱者は「善人」である。
なぜならこの道徳においては、質素な暮らしを送り、名誉や地位を求めず、謙虚であり続けることが「善」とされるからである。
なんてことはない、弱者の置かれた生活環境をそのまま「理想状況」であるとし、卑屈な自己肯定を行ったにすぎない。 これに対して、強者は「悪人」とされる。
強者であるからには他人を蹴落としたり押し退けたりしているはずだ。強者は弱者を虐げている。
そしてそんな強欲と傲慢にまみれた強者の生活は、「善」とされる質素かつ謙虚なものとは程遠い、ゆえに「悪」である。
そして、これこそが奴隷道徳が最も目的とするものである。
すなわち、善き生活を送る弱者こそが正しく、悪しき生活を送る強者は間違っている。
現実では惨めに従属することしかできない弱者は、奴隷道徳の中においては強者に対して精神的に上位に立つことができる。
こうして倒錯した価値観の中に弱者は永住する。
これにより得られる自己肯定ゆえに、弱者はこの思想を変えることはない。
だが、それゆえ…弱者が弱者であることを肯定し続けるがゆえに、現実において弱者が強者に従属する日が終わることはない!
(引用元:フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」)
このニーチェによる奴隷道徳の発見、これはすごいことだ。
この奴隷道徳は、ルサンチマンを発揮する時に機能している。
現代社会においても、この奴隷道徳は、ありとあらゆるところに存在している。
今日はその1つ、サブカル人間を紹介しよう。
ある女性と、なんか音楽の話をしていたんだ。そして、こんなことを俺に言ったことがある。
「ミスチル好きとか、何か言えないよね~」
と。何言ったんだ、全く。
ミスチルいいじゃねえかよ。「名もなき詩」も「Everything (It's you)」も、名曲だろう。「Marshmallow day」の疾走感と多幸感を知ってるのかよ。
youtu.be
本当、しょうもない発言だよな。だから俺は、このブログを通じ、そういうことを言ってしまう人々が跳梁跋扈する秩序の無い現代にドロップキックしてるんだよ。
しかし俺は「そうだよね~」と、何か同意していたような気がする。
そう、俺自身、しょうもない人間だし、こういう感じ、一時期の俺もあった。20代の前半ぐらいだ。
似たような例で言うと「ヴィトンとかベタで持ちたくない」みたいに言う人かな。スノッブ効果、「他人とは違うものが欲しい」という心理、に近い。
「自分は他の人とは違うオリジナルの価値観を持っていて優れているんだ」と、意識的・無意識的に主張したい(とまではいかなくても思いたい)がゆえに、出てしまうんだ。
だがこれはニーチェに言わせてみれば奴隷道徳、ルサンチマンの感情に非常に近い。
スノッブ効果によって、他人と違う商品やサービスの消費活動を行うことで、自らの生物学的優位性をアピールしようとしている。
森山未來主演のドラマ「モテキ」に出てくる主人公も、そんなタイプの印象を受けたな。
B'zやシャ乱Qといったメジャーカルチャーを馬鹿にし、岡村靖幸を聴いたりマニアックなフェスに行くことで、仮初の独自性を得ているような雰囲気を感じる。
しかし現実において、モテキの主人公の藤本幸世は、平均年収よりも大幅に低いライターだ。
所得という面、この資本主義という社会においては、誇れる額ではないだろうよ。
そこで、自らの経済的困窮・低所得者という事実を覆い隠すために、資本主義的価値観を排除した、ロラン・バルトが言うような神話を作り出して内面化し、自尊心を獲得する。
つまり藤本幸世は、「自尊心を獲得するためのチョイス」として、メジャーではない音楽を聴き、それについて詳しいことや消費することで、差別化を図った。
だがその「俺のセンスあるチョイスは素晴らしいだろ」とアピールする価値観は、奴隷道徳であり、ルサンチマンに過ぎない。これは明るい未来を生むことはない。なぜなら結局は、消費者だからだ。
この資本主義社会において、藤本幸世は社会的弱者である現実は変わらない。
もちろん、映画の一主人公の一エピソードを一般化することはしねえし、単純に岡村靖幸の方がB'zよりも聴いていて好き(生理学的に心地よい)という理由で選択してるってのもあるかもしれねえけどよ。
こういうルサンチマンを持つ傾向の輩は、大勢いる。
俺自身もそうだった。
いわゆるサブカル男子というやつで、デトロイトテクノやシカゴハウス等の音楽を聴き、ラカンやドゥルーズなどの小難しい本を嗜むことで、何か自分は他の人とは違って特別で優れていると勘違いしていた。ただのサラリーマンなのにな。20代の愚かな自分だ。
しかしニーチェが既に奴隷道徳の話をしていたのに、何で気付かなかったんだって話だ。
オリジナリティのある選択、「私は他の人と違ったチョイスをすることが出来る。だから私は貴重よ」「俺のチョイスには独自性があり、他の烏合の衆とは一線を画した人物だ」には、意味があるようで、意味がない。なぜならただの消費活動に過ぎないからだ。その現実を「モテキ」で思い知らされた。
最近の作品では、この漫画がすごかったから、ぜひ読んでほしいと思う。サブカル女子に鉄槌を与えているような気がする。
toyokeizai.net20代の貴重な時間を、消費活動で終わらせたサブカル男子だった自分は、15年サラリーマンをやっても結果的に年収300万円前後に落ち着き、資本主義社会の価値観で言うところの"負け組"となった。
だからこのルサンチマンの呼吸の陸の型は、サブカル男子やサブカル女子が持っているような自尊心の拠り所を打ち砕く実践だ。「モテキ」や「普通の人でいいのに!」を紹介することも、呼吸の実践の一つよ。
「ただの消費活動だろ」「お前はコンシューマーであってクリエイターではないんだよ」と言ってしまうと、角が立つだろうからな。
だって相手の自尊心の拠り所にしているかもしれない文化的活動を、結果的に馬鹿にしてしまうかもしれないから。
だが俺は、それも愛の一つだと思ってる。
消費するだけの趣味では、現実は変えられねえんだよ。
みうらじゅんみたいに、趣味が仕事になるまで突き抜けたら、コンシューマーからクリエイターになれるかもだけどよ。
コンシューマーに留まってるだけでは、明るい未来はない。
負けてもいいからステージに上がる努力をしてほしいと思ってる。
anond.hatelabo.jpただ物知りなだけの消費者に明るい未来はない。生み出す側に回らねえと、自分の本当の理想像や、憧れる人や、特別な存在には近付けない。
相手の奴隷道徳を打ち砕くことで、コンシューマーである現実に気付かせる。そしてクリエイターになれるように、たとえなれなくても、おせっかいかもしれないが生き方や人生をいい方向に仕向けていくのが、ルサンチマンの呼吸の陸の型よ。
もちろん、砕かなくていいケースもある。それはケースバイケースだな。
奴隷道徳は他にもいっぱいある。
資本主義という現実の価値観を否定しようとするJ-POPとかな。
次はそういうの紹介しようかな。
追記訂正:ルサンチマンを打ち砕いたら、ルサンチマンの呼吸にならない。むしろルサンチマンから解放する能動的な実践なので、
ルサンチマンの呼吸 陸の型:自尊心の拠り所にグッバイ
↓
ツァラトゥストラの呼吸 壱の型:自尊心の拠り所にグッバイ
に変更する。