逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

番号記入式の注文になったサイゼリヤに不快感を抱く理由をジャック・ラカンの精神分析で解説

外食の番号化に、不快感を抱く人がいるようだ。

b.hatena.ne.jp日本語読めない外国人とか、吃音の人とか聴覚障碍者にも優しいっていうツイートもあるみたいだから、別に番号化になってもいい気がするけどな。

note.comしかし番号化によって失われるものも、あるといえばあるようだ。

anond.hatelabo.jpを読んで思ったが、「A定食」「ほうれん草のソテー」「ディアボラ風ハンバーグ」の文字羅列、いわゆるこれらサイゼリヤのメニューのシニフィアンに、思い出が固着して結びついている。
それゆえ、そのシニフィアンが「AA03」「MT07」という番号に変化した場合、新しい番号のシニフィアンからは思い出の想起が難しくなり、過去を変えられたことになる。

思い出が紐づいた「ほうれん草のソテー」「ディアボラ風ハンバーグ」の過去が、番号のシニフィアンで書き換えられたことで、不快感を催した。

つまりサイゼリヤの番号メニューという、シニフィアンの網の中に入れられた「ほうれん草のソテー」「ディアボラ風ハンバーグ」は、人間の記憶、過去を書き換える力を持つ。

過去は、シニフィアン共時的な網の中に取り込まれ、その中に入っていったときに、はじめて存在する。つまり、歴史的過去の織物=構造の中で象徴化されたときに存在する。だからこそ、われわれはつねに「過去を書き換えて」いるのである。つまり、一つ一つの要素を新しい織物=構造の中に取り込むことによって、それらの要素一つ一つに、それぞれの象徴的重みを遡及的にあたえているのである。この作業が、それらが「どのようなものであったことになる」のかを決定するのだ。

スラヴォイ・ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」症候からサントムへ)

番号化により、思い出の想起が困難となってしまった。思い出が失われた。

大野左紀子さんや伊藤弘了さんって人が、外食の番号化に不快感を抱いたのも、それだろう。

あるシニフィアンに、思い出や記憶が紐づいていた。
例えば、人情味あるコミュニケーション、「男はつらいよ」だとか「ALWAYS三丁目の夕日」で描かれる世界のような、番号化もスマホ注文もタブレット注文も存在しない、コミュニケーションをしながら食事やお酒を注文する形式。

それが、別のシニフィアンによって上書きされる嫌悪感。「倫理観」と言ってるが、それは不快感や嫌悪感というと説得力に欠けて感情的に思われてしまうから、「倫理観」という抽象的概念に理由を収束させた方が、自分の教養ある知識人としてのアイデンティティや社会的体裁を保つためにも都合がいい。

本当は個人的な嫌悪感だとか不快感の方の比重が大きい可能性もある。

精神分析のアプローチをするか。

まず無意識とは何か?

について。ジャック・ラカンによれば、それは「主体と対象にある裂け目」らしい。

私はみなさんに無意識はシニフィアンの備給の配分によって主体の中に設立された裂け目に位置している、と言いました。この裂け目を一つの菱形〔◇〕としてアルゴリズムの中には描かれます。この菱形を私は、現実と主体との間の無意識の関係全体の核心に据えます。

(引用元:ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念(下) (岩波文庫 青N603-2) [ ジャック=アラン・ミレール ]p136)

シニフィアンからの備給、備給は「エネルギーを対象に向けること」みたいに解釈してくれたらいい。
そしてこの裂け目についての話は、既に当サイトで何度もしている。

gyakutorajiro.com「オタ活以外の何か」という変貌した対象aは、すぐには手に入れることができないがゆえ、主人公は"$◇a" [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]の疎外状態に追いやられれる。
対象aを求めて続けても、◇(疎外)され、斜線を引かれた主体$、理想とする自分の自我の状態、自己実現ができず、安定した自己同一性が保てない状態に陥る。

飲食店において、あるべき人間的なコミュニケーション、それらが満たされずに不快感や嫌悪感を覚えた時、自我は"$◇a" [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]の疎外状態に至る。

その疎外状態の原因は、a(対象a)にある。
対象aには、「こうあるべき飲食店」「こうあるべき店員」等を、自分の自我の理想として無意識に持っている。

そして対象aは、程度の差こそあれ、愛を向ける対象でもある。
しかし、愛を向ける対象が、別のシニフィアンの上書きによって変容してしまった。
ラカンはこのような現象を、図で示している。

フロイトは、『Triebe und Triebschicksale』、すなわち『欲動と欲動運命』のテクストの中で、愛を、ある現実的なものの水準とナルシシズムの水準において、さらに現実原理との連関にある快原理の水準においても論じています。そしてその結果、両価性という機能は、「逆転 Verkehrung」、ないしは循環運動の中で生じてくるものとはまったく異なるものだということを導き出しました。愛という水準で語るなら、我われはここに一つの図式を得るでしょう。フロイトはこの図式を二段構えになっていると語っています。

まず、ある「Ich」があります。これは、中枢神経系の装置と連動する、ホメオスタシス的条件による機能形式、すなわち緊張を何らかの意味での最低水準に保つという機能様式によって客観的に定義される、ある「Ich」です。


(引用元:ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念(下) (岩波文庫 青N603-2) [ ジャック=アラン・ミレール ]p265)

「Ich」は、ホメオスタシスという言葉あるように、生理学的・生物学的な人間の主体だろうな、いわゆる原点だ。
そこから、快を感じるのは対象との関係のみだと、ラカンフロイトを援用しながら語る。

一定のホメオスタシスを保とうとする装置としての「Ich」は、大文字の「ICH」で記入しております。ホメオスタシスといっても、それは最低の水準であるわけにはいきません。なぜなら、そうだとしたらそれは死でしょうから。もちろんフロイトは後になってこの問題にも目を向けることになったのですが。

さてこの「快 Lust」ですが、それは正確には一領野というわけにはいきません。それはむしろつねに対象なのです。それは快という対象であり、自我 moi の中に映し出された対象です。この鏡の中のイメージ、対象と一対一に対応している相関者、これがフロイトの言う鈍化された「快自我 Lust-Ich」です。あるいは、この「Lust-Ich」とは、「Ich」のうち、「Lust」としての対象で満足している部分であると言えましょう。

(引用元:ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念(下) (岩波文庫 青N603-2) [ ジャック=アラン・ミレール ]p266-267)

フロイトが後になって目を向けた問題ってのは、快原理を上回る反復強迫や、死の欲動のことだろう。

患者は抑圧されたものを医師が望むように過去を追憶する代わりに,現在の体験として反復するように余儀なくされる。フロイトは,被分析者の抵抗が自我から生じ,それに続いて起きる反復強迫は意識されぬ抑圧されたものに由来すると考える。意識的な自我と前意識的自我の抵抗は快感原則に奉仕しているが,反復強迫はたいてい自我に不快をもたらす過去の体験を再現する。

転移や人の運命には,快感原則の埒外にある反復強迫が存在すると仮定できるし,災害神経症者の夢と子どもの遊戯本能もこの強迫と関係するとみる。
反復強迫と直接的な快い衝動満足とは緊密に結合し,転移の現象が抑圧を固執している自我の抵抗に奉仕しているのは明らかであるという。ここからフロイトは,「反復強迫が快感原則をしのいで,より根源的,一次的,かつ衝動的である」と考える。

(引用元:https://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000004588/19-190.pdf

まあそれは今回のサイゼリヤの件の本題ではないので先に進むとして、ラカンは快(Lust)を「自我の中に映し出された対象」と語る。

つまり、誰しもこの図のように「接すると心地よい店員」という対象を自我の中に抱いている。
しかし「不快 Unlust」な店員や、サービスもある。
それが、ICH(自我)を部分日食や部分月食のように侵食し、不快感や嫌悪感という感情に至らせる。

また、ラカンが小文字の「Ich」から大文字の「ICH」に変えているのは、ホメオスタシス的な生物学的・生理学的人間(Ich)が、他者との出会いによって影響を被り、快(Lust)・不快(Unlust)の感情を抱く社会的な人間になったからだろうな。

「一領野というわけにはいかない」というように、不快(Unlust)をもたらす対象の中にも、社会的規範等による抑圧や妥協によって、対象の領野が移動し、部分的な快(Lust Ich)をもたらすこともできる。


このラカンの分析を参考に、サイゼリヤで不快感に至る一連の心理プロセスを書き込むと、こうなる。

Lustをもたらしていた対象a(口頭による接客をしてくれる店員)が、サイゼリヤのメニューの番号化によって、「Unlust」(不快感)がもたらされた。

これに対して「不快 Unlust」というのは、快原理に同化されたり還元されたりせずに残った部分です。そしてフロイトが言うには、ここから、非-自我できていきます。よく注意してください。自我ではないこのものは、原初の自我のこの円周の内部に留まっています。そして原初の自我を侵食しているのです。ホメオスタシス的機能も、決してこれを解消させるには至りません。のちに見ることになりますが、いわゆる悪い対象の機能の起源は、ここに認められます。

ここでぜひとも確認しておきたいことは、快の水準を構造化するものが、疎外の可能な分節化の端緒をすでに与えているということです。

言ってみれば「快 Lust」は、外にあってこう呟いています。「ああ、あれが「Ich」か。とにかくあいつの世話をしてやらなくちゃ」。そして「快 Lust」が「Ich」の世話を始めると、せっかくの「Ich」の完全な静けさは消し飛んでしまいます。「快自我 Lust-Ich」がはっきりと現れ、それとともに「不快 Unlust」、あるいは非-自我の原基が落ちます。このことが起きたからといって、装置が消失してしまうのでありません。むしろその反対です。私が主体と〈他者〉の弁証法的関係において重視しているあの切り取り、くり抜きが、始原的な水準で生じるのです。ただし前とは反対の方向にです。

(引用元:ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念(下) (岩波文庫 青N603-2) [ ジャック=アラン・ミレール ]p267-268)

ラカンが「自我ではないこのもの」と言うように、メニューの番号、いわゆる機械化によって、「自我が削り取られた」とも言えるかもな。

その不快感もあるだろうよ。「いちいち余計な話しかけてくるな」「番号で注文しろ」「タッチパネルで注文しろ」と、自身が動物化、機械化されることへの憤り。

韓国映画オールドボーイ」で、監禁された主人公がメシの時間、玄関の扉と床の隙間から料理が粗雑に提供されるような感じだ。
「これでも食えや」と、15年間も同じマンドゥ(餃子)、まるでペットに餌をやるかのように扱われる屈辱。

jp.quora.comいわゆる人間の自我がくり抜かれ、動物化・機械化した。
ハリウッドリメイク版も餃子だった。
餃子だけはキツい。
せめてチャーハン付けてほしいよな。


(引用元:オールドボーイ ルーズ戦記(1) アクションC/嶺岸信明

漫画版(とういかこれが韓国映画版以前の原作)は良心的で、ラーメンとかチンジャオロースっぽいのも提供されているようだ。

何にせよ、サイゼリヤの注文方式の変更は、非人間的な情報管理だとか、倫理観が欠如している等の理由もあるかもしれないが。
それは不快感が顕在化したときの社会的な名目であって、根源的には、自我が無意識に抱いている店員や店という対象のイメージとの不一致、自我と対象の間の裂け目の問題で、快か不快かの判断は個々人によって変化し得るという話でした。