逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

安部元首相銃撃はどうすれば防げたかのシミュレーション(2016年の上田市での演説時の写真を頼りに)

衝撃的なニュースが入ってきたな、上島竜兵のニュースの時と同じぐらいビビった。

news.yahoo.co.jp奈良県大和西大寺駅って、近鉄の急行が止まる駅だったかな。
警護が甘かったという意見もあるかもだけど、物理的に不可能なような気もする。

2016年(平成28年)、第24回参議院議員通常選挙があった年。
そこでも警護の不可能性について、それを如実に示すような出来事があった。

俺は長野の友人の元に遊びに行ってた。
その帰り、「そういえば真田丸で上田が盛り上がってるかな」と思って、上田に寄り道で遊びに行ったのよ。

そしたら、安倍晋三が演説してた。
俺は芸能人とか有名人の写真を撮るみたいな感じで、何気なく、写真撮影したのよ。

その写真がこれ。

安倍晋三の右隣の半袖白シャツは、SPではないだろう。
左隣にいる人が、上田市の選挙区の候補者で、その左のスラッとした人がSPだろうか。

この写真、問題なのは。

俺が撮影した時、SPはこっちに全く気付いてない。
誰も俺に注意を払っていない。
セキュリティが、ガバガバなのではないだろうか。
いやもちろん、撮影した際に、実は俺を監視しているSPがいて、自分が気付いていないだけかもだけど。

かといってSPのせいにするのも酷な話だわな。

何百人も聴衆がいる中で、全員の挙動を監視して、掲げたのがスマホなのか武器なのか、チェックするのは人間の能力を超えてる気もする。

それゆえに、まだこの選挙カーの上に乗って演説するというのは、セキュリティ的にはいいかもしれない。

もし何かあっても、SPが身代わりになることができる。
左右にそれぞれ1人ずつ、背後を守るのに1人、計3人SPがいれば、今回のような背後からの攻撃に、SPによる対応ができたかもしれない。

しかし選挙カーの上にSPを3人も、そんなのを見て、市民はどう思うだろうか。
「威圧的だ」「税金を使っている」っていう、悪い印象を抱く人も中に入るかもしれない。

何かの本で、ジョン・F・ケネディも市民に寄り添う姿勢を強調するため、すごく低い目線でフランクに、市民と話している写真を見たことがある。
親しみやすさとか、共感をもたらすには、この選挙カーの上からの演説でも不十分なぐらいである。
トレードオフってわけだ。
セキュリティを強化すればするほど、市民にはネガティブなイメージが付き纏うリスクが上がり、逆に親しみやすい演説に近付ければ近付けるほど、危険も高まっていく。

シミュレーションしたけど、やっぱりセキュリティの専門家でもないので、予防策はわからない。
政治家が自身で自衛するしかないのではないか。
防弾チョッキを着ておくとか、ヘルメットをかぶるとか。
例えば上田なら、真田幸村の兜をかぶっておけば、防衛にもなるし、町のPRにもなるし、一石二鳥だ。


しかし犯人は40代か。犯人の動機は何だったんだろう。
40代、自分も年齢的に近いが、「もうたぶん、このまま何かを成し遂げることもできず、普通の幸せも手に入れらず、ダラダラ人生が過ぎて死んでいくんだろうなぁ」という、諦念に襲われる年齢かもしれない。
20代とか30代前半なら「まだ逆転できるかも?がんばろう」みたいな気持ちが湧くことも、あったりするけど。

ミドルエイジクライシスとかミッドライフクライシスってやつ。

www.womenshealthmag.com”ミッドライフクライシス”とは、人生の中頃を迎える40代~50代の頃に、自分のこれまでの人生やアイデンティティについて問い、葛藤したり不安を感じたりする時期のことです。日本語では『中年の危機』と訳されたりします。アメリカの心理学者ダニエル・レビンソンによると、実に80%の人たちが中年期と呼ばれる40代~50代のあたりに大きな危機を迎えるとされています。10代後半~20代前半にかけて訪れる思春期に、『自分とは何者か』という葛藤が生まれるのですが、中年期でも同じような葛藤が起きやすいことから、”第二の思春期/思秋期”と呼ばれたりすることもあります。

資本主義は「何者かになれ」っていうけどね。
それもトレードオフかもな。

社会に利益をもたらす人材を作るために、教育を施し、夢を語り、夢に向かって頑張れよという強制を受け続けられる。しかしその強制をすればするほど、自分の理想が未達になった時に、自我が引き裂かれ、嫉妬・怒り・恨み・辛みが、肥大化する。

かといって「ありのままでいいんだよ」「元々特別なオンリーワンだよ」的な博愛主義、アガペーを垂れ流す教育やってたら、国家も個人も発展性ないだろうな。

ある弁護士の人が言ってるけど、「個人を尊重する自由で公正な社会」ってのを、市民は求めると。それが市民の理想でもあると。

kanto-ba.org

理想的な市民について
後藤 直樹(茨城県弁護士会
 私はある質問をアメリカの公民教育センターでしたことがある。それはセンターが目標とする「理想的な市民像」についてである。これが具体的にどのようなものかがつかめなかった。そこで、映画でも実在の人物でもよいから、これぞ理想的な市民という具体例を挙げてほしいと質問をしたのだ。
 私はケネディ大統領などの歴史的ヒーローなどがでてくるだろうと思っていた。ところが、これに対する答えは、理想的な市民とはヒーローのようなものではなく、ごく普通に街で生活をしている市民のことで、あなたの身近にもいるのだという予想外の答えがかえってきた。ごく普通の市民のなかにこそアメリカの民主主義を支える理想的な市民がいるのだという考えに、アメリカの民主主義の強さを感じた。
 ところで、この「理想的な市民」という言葉をとらえて、それは国家に都合の良い人間を作り上げる思想だと決めつける人がいる。
 しかし、それは誤解である。大前提は、個人を尊重することにある。理想的な市民とは、個人を尊重する自由で公正な社会を一緒に築きましょうという志をもった市民をさすのであって、体制順応的な市民のことではない。自由で公正な社会は、お上におまかせでは築くことはできない。それは人類の多年にわたる自由獲得の成果であり、それはまさに私たちの努力にかかっているのだ。法教育が目指す市民像とはこのようなものだと私は理解している。

この人が言うように確かに、自由で公正な社会を求めるし、それが続くことを願う。
もちろん日本に「自由で公正」ではない部分も、あるかもしれない。
美しい国だとかどうかは知らないし、考えたこともないけど。

でもそれで物理的に政治家を攻撃するってのは、違うだろうよ。責任転嫁しても何も解決しない。恨みが増幅し、他人や社会から非難され続け、ブタ箱で過酷な労働と臭い飯を食べる日々を続けながら、重い十字架を背負ったまま、悲惨な死に向っていく。誰かを攻撃してマシな生活になるなんてことあるのか。状況によってはあるかもだが、今の日本はその状況ではないような。

自由も部分的には尊重されてるだろうし、中国とかロシアとか北朝鮮みたいに、情報統制や言論統制されり、戦争駆り出されたり、飢餓で苦しめられないだけ、マシだと思うけどな。

まだ犯人の動機の情報は何も明かされてない段階で、勝手な持論を書いてしまったけど。

写真撮った後は、蕎麦食べに行った。
上田市の「ホテル祥園」にある「お食事処 城下町」ってところ。

六文銭そば。
味はあんまり覚えていない。