逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

社会的強者や上級国民にヴァーチャル階級闘争を挑み自尊心の獲得と維持を試みるルサンチマンについて

「はい論破」って言葉が嫌いだ。
社会的弱者が市場競争で勝てないから、勝てる領域を必死で探して、データだの事実だの概念だのをこねくりまわして、相手を必死に言い負かし、束の間の自尊心を得ようとしている感じ。
その傾向が、価値転倒によるルサンチマン(奴隷道徳)の生産、それに依存しながら強者バッシングで憂さ晴らししてる感じが、ニーチェが言う末人(ラストマン)の特徴を満たしているからってのもある。

自分もその気があるから自己嫌悪かもしれない。
だが無意識に昨日、自分が嫌う「はい論破」的行動を、自分自身がしていることに気付いた。

gyakutorajiro.com

それが、別のシニフィアンによって上書きされる嫌悪感。「倫理観」と言ってるが、それは不快感や嫌悪感というと説得力に欠けて感情的に思われてしまうから、「倫理観」という抽象的概念に理由を収束させた方が、自分の教養ある知識人としてのアイデンティティや社会的体裁を保つためにも都合がいい。

本当は個人的な嫌悪感だとか不快感の方の比重が大きい可能性もある。

この箇所、別にディスってるわけじゃないんだけど、「倫理観とかじゃない」ってことで、結果的に伊藤弘了さんって人の意見を否定していることになるな。

この記事で取り上げた3人は、飲食店のメニュー番号化や機械化の件で、炎上していた。

でも社会的ステータスは高いのではないだろうか。
おそらく年収も、バッシングを行っている人達よりも高いケースが多いのではないだろうか。
ちょっと調べてみた。

千葉雅也さん、博士号持ってるし、本もいっぱい出してる。43歳で大学教授だ。

ja.wikipedia.org大野左紀子さん、文筆家として本を出している。

ja.wikipedia.org伊藤弘了さん。文春という大手メディアで記事を書いたり、本も出している。

bunshun.jp3人のうち2人は、wikipediaに掲載されているし。
大学や大手メディアで仕事をしているという点で、社会的地位が高い。

そのような人達に、攻撃を仕掛ける。

似たようなケース、昔もあったぞ。
五輪エンブレム問題で、上級国民と呼ばれた佐野研二郎さんをひたすら粘着的に追いかけるあの感じ。
俺もそのニュースを「愉快だねー」という感じで追いかけてた気がする。

いや、それだけじゃない。
ありとあらゆる現場で、この社会的強者に議論を吹っ掛けたり意見をぶつける運動が、発生している。

togetter.comハートクローゼットの黒澤美寿希さんにひたすら粘着している人とか。この黒澤美寿希も、会社の社長と言う点で、社会的強者だ。

正義中毒の主婦もそうかもしれない。www.jprime.jp東出や渡部も、以前ほどではないが、社会的強者だ。

こんな風に、社会的強者に向けた階級闘争のような攻撃が、「言論」だとか「論戦」という形式で、日々行われている。

俺もそれに参加してしまう予備軍かもしれない。
満たされない何かを満たすため、何か批評したり、誰かを糾弾する。

何でそんな衝動が湧くのか、自己分析も含め、考えてみた。

今日、ニャートさんって人の記事を読んだ。

nyaaat.hatenablog.com山上容疑者とかこの人のような就職氷河期とは違うが、自分も境遇としては職を転々として、フリーランスというか自営業という名の低所得者で、40代間近の独身という点で、境遇が似ている気がした。


哲学や精神分析に傾倒し、個人攻撃はしないように気を遣ってるが、低所得者であることやパートナーの不在の事実など、それら日常生活の不満や不遇といった欠如を満たすため、世の中の出来事等を評論家のように批評したがる。
ある意見があって、それが違うと思ったら批評したくなる。

そして今日、やっとわかった。
この違和感の正体、自分が無意識に行っている行動の正体が。
それが記事のタイトル、

社会的強者にヴァーチャル階級闘争を挑み自尊心の獲得と維持を行う

ってことだ。
文化人とか知識人や大学教授、芸能人や有名人等に、議論をふっかけたり追いかけたり粘着し、理知的な言論をぶつける場合もあるし、感情的な怒りをぶつける場合もある。

それはある種、

相対的・客観的に社会的弱者の人間が、何かしらの点で強者に勝ちたいがゆえに産み出したルサンチマン(奴隷道徳)

でもある。この批評したり論破したくなる衝動、打ち負かしたい衝動。
それをずーっと繰り返す。
理不尽な出来事だけでなくて、場合によっては特定の個人の意見なども、バッシングする。

特に自分より社会的地位が高い相手に、仕掛けたくなる。

この強迫神経症的な衝動、ルサンチマンの正体を、さらに暴くために。
精神分析のアプローチをするか。

これは、フランスの精神分析学者のジャック・ラカンによる、強迫神経症者の欲望の回路の図だ。
この回路に、ヴァーチャル階級闘争を挑む強迫神経症的な人間における心の動態を書き込むため、ラカンのテキストからヒントを貰おう。

強迫症者は、〈他者〉の欲望を破壊することに専念しているのです。強迫症者の領域の内部に接近しようとするといつも、通常の場合では、少しでもそれに捉えられてしまうならば、結局は隠れた攻撃、恒常的な損耗を受けることになります。これは他者において他者固有の欲望であるようなものを廃止し、その価値を切り下げ、下落させる方へと向かいます。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p326)

確かにそうだよな。はい論破願望のある人間、ネット評論家は、とにかく他人をバッシングすることに余念がない。それに伴い、相手の社会的地位や立場を貶めようとする、下落させる方へと向かうという点で「〈他者〉の欲望を破壊する」というのは、ラカンの言う通りだな。

いつものことですが、我々はフロイトのなかに、もっとも範例的な事例を見出します。「鼠男」の症例の、彼が怒り狂ってかんしゃくをおこしたというエピソードのことを思い出してください。

彼は、私の記憶が正しければ四歳のとき、自分の父親にかんしゃくをおこしました。彼は、父のことを「お前なんかナプキンだ、お前なんかお皿だ」などと言いながら、床を転げまわり始めました。これは、〈他者〉の本質的な「〈お前=汝〉Toi」と、対象、とりわけ、無生物の対象、交換の対象、等価性の対象と呼ばれるような人間世界へとシニフィアンを引き込むということが惹起する失墜の効果との、真の衝突(コリジオン)と共謀(コリュジオン)です。

子供の怒りのなかで動員された、果てしない実詞の連続(キリエル)は、この点をかなりはっきりと示しています。重要なのは、父がランプや皿やナプキンであるかどうかなのではなく、〈他者〉を対象の列にまで下ろしてそれを破壊する、ということです。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p330)

この図のm(評論家の自我)は、フロイトの鼠男のエピソードのように、「お前の言ってることは妄想だ!説得力の無いただの意見だ!」と糾弾する。
それを受けるのがA(社会的強者)だ。

社会的強者に、例えば侮辱的な表現(馬鹿や阿呆などの交換の対象)を与えることで、失墜させようとする。

強迫症者の自分の欲望に対する関係は、フロイトのおかげで我々がずっと以前から知っているあるものに従っています。つまり、「Entbindung」と呼ばれているもの、さまざまな欲動の結びつきを解くこと、破壊の切り離し、こうしたものが早い時期にそこで果たした役割に従っているのです。

強迫症者のあらゆる構造は、彼の欲望への最初の接近が、あらゆる主体にとってそうであるように、〈他者〉の欲望を経由したということ、そしてこの〈他者〉の欲望が、最初に破壊され取り消されたことによって規定されています。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p324-325)

図における"d0"は、d(欲望)の別パターンだな。
d(欲望)については、過去にホスト遊びにはまる女性の精神分析で説明した。

gyakutorajiro.comキモおじに性奉仕するメイドではなく、ルッキズム的魅惑を備えた王子様、ホストによって、体も心も癒してもらわなければ、安定化した自我を保つのが困難になってしまう。
第3図において、欲望(d)は、a(対象a)に向かっている。
ここから女性は、「享楽」の循環運動に突入する。

強迫症者のd0(欲望)は、ラカンが「欲動との結びつきを解く」と言ってるように、対象に接近するわけではないって話だ。

つまり同じ"$◇D"[S barré poinçon grand(エス・パレ・ポワンソン・グランデ)]という欲動(欲望よりも反復性がある)でも、ホスト遊びにはまるような欲動とは性質が異なる。

強迫症者は同じ道をとりません。彼の関心は、もっとうまく軸を定められているので、自分の欲望とうまく折り合いをつけられるようになっています。彼は別のところから、別のさまざまな要素とともに出発します。彼は、まさしく自分の要求に対する早期の、そして本質的なある関係、($◇D)においてこそ、彼にとってどこかで、しかし離れたところで、ある欲望が可能になるために必要であるような距離を維持することができます。

この欲望は、その本質において取り消された欲望、盲目の欲望であり、その位置(ポジション)を確保することこそが問題なのです。我々は、強迫症者が自らの欲望に対して持っている関係を画定しようとしているわけですが、主体の自らの要求に対する特有の関係が、その第一の特徴です。ほかにもさまざまな特徴があります。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p328)

実際、図において強迫症者の回路では、欲動の"$◇D"から、点線の矢印が出て、幻想(ファンタスム)の公式"$◇a" [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]に向かってる。

シニフィアンの水準で、まったく特別に取り消されたものとして現れてくるのは、〈他者〉の欲望そのものの場所を徴しづけているもの、つまりファルスです。前回お話ししたd0、これは強迫症者の欲望を位置づけるものでしたが、これはファルスの取り消し(アニュラシオン)と等価です。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p351)

ラカン「ファルスは欲望の対象ではなく、欲望のシニフィアンと言っているように、例えば大学教授の場合、「大学教授という欲望のシニフィアン」になる。
それを、強迫症者は、言論をふっかけて、ツイッターで粘着して、それを「取り消し」しようとする。

強迫症者とは、〈他者〉との関係において、諸本能の脱融合 defusionによって原初的、始原的に徴づけられている者である、と。彼にとっての最初の解決策、始まりの解決策、あとに生じるさまざまな困難のすべてを条件づけるであろう解決策とは、〈他者〉の欲望を取り消すことだ、ということになるでしょう。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p349)

ラカン難しいが、図の右側はなんとなく掴めてきたような気もする。

次は左側にあるS(Ⱥ)、$◇a、i(a)について。

シニフィアンの運動のなかに捉えられた主体は、自分が早い時期に直面させられたもの、自分から全体的対象すなわち母親を奪い取った欲望のシニフィアン、このファルス、自分がそれではないということ、そして、自分はこのファルスがある場所を占めなくてはならないという必然に従わされているだけだということ、このことが理解できるようにならなくてはなりません。

自分がそれではないのを実感することから出発して初めて、主体は、過程全体を通じて根本的に問題化されてきた事柄を受け入れることができます。つまり、それを持っている場合はそれを持っていることを、それを持っていない場合にはそれを持っていないことを、受け入れることができるのです。

このことは、上段の、シニフィアン連鎖の分節化のなかでは、この場所、S(Ⱥ)に位置づけられます。

主体はファルスではありませんが、ファルスの場所に到来しなくてはなりません。主体のファルスへの関係をそうしたものとして解明することだけが、フロイトが彼の「エス[=それ]があったところ、そこに〈私〉が生じるのでなければならない Wo Es war, soll Ich werden」においてはっきりと述べている理想的な完成を理解することを可能にしてくれるのです。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p353)

母親を奪い取られた。例えば弱者男性とかの場合は、大学教授、上級国民たちによって「女を奪われた」ってことだ。それらの男達と違って、圧倒的にモテない。

そいつらが持つファルス(金や社会的地位を持ってるやつら)を、俺が占めなければならない。
他者、Aを否定して、俺の実存を回復する「S(Ⱥ)」を実現せねばならない。
俺が、ファルス的な高いポジションに、生じなければならない。

そしてi(a)のところに、おっかない「私を殺〇」と書かれている理由は、「大学教授等の所得や地位の高い連中の欲望の破壊を経て、他者を貶めることで、自分も社会的地位の高い者たちに近いポジションに生まれ変われるから」だ。

下の段における充溢したパロールと等価であるような何かが、無意識の水準で現実化されるのでなければなりません。下の段では、〈他者〉の場で分節化されたディスクールが、主体が具体的に他者の像(イメージ)との関係において位置標定した自我の関心を引きつつ、一つのシニフィエとして主体のところに戻ってきます。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p352)

$◇aについては、別の記事で何回も説明した。
幻想、空想的構築物だ。
非常に虚しいが、自分より地位が高いやつら、そいつらが持つファルスを奪うために、「論破する」という空想的価値観、奴隷道徳を生産して、そこでの勝利を求める。

以上を欲望の回路に書き込むと、こうなる。

他者を否定し、自分の欲望であり他者の欲望(金や社会的地位)を破壊し、その破壊のために「論戦」「言論活動」などの幻想($◇a)に精を出し、他者のポジションを貶め、自尊心や自己愛を維持し、想像的に「そいつらと同等になったかのような」「そいつらに勝ったかのような」、想像的で錯覚的自我 i(a) を手に入れる。

俺もそうだが、お前はどうよ?
はてぶのブクマカー、Twitterで論戦に精を出す正義中毒たちよ。

最強伝説黒沢の、黒沢の気分だ。

(引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

わかってしまった。自分も含め、はてなのブクマカーやTwitter等にいる大勢の弱者(低所得者やパートナーの不在など日常生活において満たされない欲望を多く抱えている人など)たちが、声高に社会的強者に論戦を仕掛けて、必死で自分の自尊心や自己愛を維持しようとするその行動、そのルサンチマンの正体に。

でも基本的には相手にされないよね。強者側は、相手にした時点で万が一、意見の矛盾とか突かれたり、失言とかしてしまった場合、築いた地位が脅かされるリスクが発生する。
別に何も発信せずに、大学とか所属機関で仕事を全うしていれば、高い給与を貰えるんだから、誰かよく分からない他人の意見なんざ相手にするメリットがほぼない。
本のPRとかフォロワーを増やすためにSNSをやる意義はあるが、地位や立場が追われるほどの行動は慎む。
また、あまりにも多くの人間から意見を求められたら、発言せざるを得なくなるかもだろうけどな。


しかし弱者達は、相手にされない可能性があっても、強迫症的にバッシングを仕掛ける。
でもそれでもいいかもしれない。
一時的にそれで満たせるのであれば。
ヴァーチャル階級闘争で済まない、マルクスが言うようなリアルな階級闘争
誰かを傷つけたり血が流れるような状況になるぐらいなら。
そういう茶番を楽しめる社会の方が、平和だし、望ましい。

でもまあ没頭するのは不毛行為ともいえる。
結局何が残るんだって話だ。

このヴァーチャル階級闘争以外にも、この前も話したけど。
「弱者男性論」だとか「弱者女性論」というルサンチマンの信仰と内面化によって「自分だけじゃないんだぞ」という感傷論で一時的に心を癒すのも、根本的な解決ではない。

gyakutorajiro.comルサンチマンという精神的投薬によって延命している感じだ。

当サイトのコンセプトとして、ルサンチマンを全て否定するわけではないが、最終的には不幸に至るような奴隷道徳は捨てて、生きた方がいいだろうとは思うよ。