逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「君たちはどう生きるか」は「君たちはこう生きろ」的なステレオタイプな家父長制への従属と家族主義の押し付けでありマイノリティへの配慮無し

9月の3連休の休日。
いつも通りの朝↓を迎えていた。

最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

この最強伝説黒沢の主人公、44歳独身の黒沢のように。

「何もやることねぇなぁ」と。
今日は仕事はしたくない…でも暇だな…という休日。
そうだ、宮崎駿の最新作、まだ観てなかったな。

www.ghibli.jp

よし、君たちはどう生きるか、観に行くか。

映画館に到着した。

自分の座席を確認。
夏の初めに上映開始された映画だろ、なんでまだこんなに人が?
自分の両隣も人がいた、さすが連休。

で、鑑賞。
感想は・・・

タイトルに偽りあり、何がどう生きるか?やねーん!
生き方の押し付けがひどい

時代遅れのノスタルジーにもううんざり
!!


と、かなりの嫌悪感を催した。
以下、ネタバレあり。
この映画の問題点を以下の順に沿って指摘していきたい。

1.父親への従属
2.母親からの去勢と継母への妥協的な歩み寄り
3.青鷺への羨望からの敵対と和解による自己正当化
4.大叔父の提案の拒絶
5.結論:「君たちはどう生きるか」は「君たちはこう生きろ」という宮崎駿の家父長主義的価値観の押し付け
6.追記:本当に「君たちはどう生きるか」を問うた作品(おおかみこどもの雨と雪、ベニーズ・ビデオ、ドイツ零年)

あらすじと詳しいレビューについては、この方が詳しい。民俗学的な視点もすばらしい。

【徹底考察】ジブリ映画『君たちはどう生きるか』産屋の禁忌・13個の積み木の意味とラストの意味(ネタバレ解説) - ユリイカ

yureeeca.com

自分はあらすじや解釈はさておいて、この映画の気持ち悪い点をひたすら指摘していく。

登場人物一覧はこちらに記載されている。

www.oricon.co.jp

1.父親への従属

主人公・眞人(まひと)の父親である勝一(しょういち)がまず、バリバリ仕事ができる、テストステロンたっぷりの性欲モンスターという感じだ。
奥さんが火事で死んでもすぐに、たぶん数年後だ。
自分の母親の妹、夏子を嫁にする。
昔はそういうの、よくあったのか?
これがまず、嫌悪感を催すポイントでもある。
母親への愛はそんなもんだったのか?
すぐ、次の奥さんに鞍替えか~?
でもfujiponさんのレビューによると、よくあったことらしい。

fujipon.hatenadiary.com

父親の、母親への愛の希薄さ。
を、眞人は感じていたはずだ。
だから受け入れられない。
誰だよ、このおばさん。

という感情が、継母への冷たい態度となって現れているのが序盤だ。
しかし露骨に反抗はしない。
父親に従順だから、父親に支配されているからだ。

2.母親からの去勢と継母・夏子への妥協的な歩み寄り

眞人は、父親との赤ちゃんを宿す継母に、やはり愛情を抱くことはできず。
つわり等で体調が悪い継母の部屋にお見舞いにもなかなか行かず、行っても一言会話を交わした程度で去る。

夏子が森の中へ入っていった時もそう。
本当の母親であれば、すぐに様子を伺いに行っただろう。
実際に、夏子の様子を心配して森に向かったのには、大きなタイムラグが生じている。
その時間の間隔が、夏子への愛情の希薄さを象徴している。

夏子も、姉の子ども、腹違いの子の眞人に、そこまで愛情を抱いていない。
それは映画の後半、塔の中で明らかになる。

だが、その夏子に対して、眞人は歩み寄ることになる。

森の中に入る夏子を追いかけない眞人が、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を読む。

そして、その母から贈られた本の読書がきっかけで眞人は、継母である夏子に積極的に歩み寄るようになるという分析をしていた方もいた。

animeanime.jpそんな自分の行動や態度について薄々感じていた後悔。『君たちはどう生きるか』の母の言葉を通じて、それを死んだ母に言い当てられたような気がして、眞人は泣いたのだ。だからこの本を読んだ後から、眞人は夏子を探すことに積極的になるのだ。

継母への冷たい態度、自分の行動を恥じた…だがここに、大きな偏見、価値観の押し付けがある。
それは、

継母だろうが父親の配偶者を大切にすることを善とする価値観


だ。おかしい。
別に眞人は、夏子に愛情を向けなくてもよかった。
継母を認めないことこそが、父親への反抗であり、本当の母親への愛情の深さを示すことでもあり、自立心でもあり、主体性とも言える。

しかしこの映画の前提に、おそらく継母だろうが戸籍上は母親になるんだから歩み寄るべきだという、家族主義、家制度を美徳とする価値観が根付いているのだろう。

だから本当は、別に継母に冷たい態度を取るのは子どもの自然な感情なのに、それを「君たちはどう生きるか」という説教臭い本を通じて、子どもを教育し、「義理のお母さんにも優しくするべきだ」という価値観を押し付け、眞人に罪悪感を植え付けるように仕向けた。

そう、この本のシーンによって象徴的に、子どもの主体性を剥奪したんだ。

「最近会ったばかりの父の再婚相手(しかも距離感微妙)を救うために冒険しなくない?」という疑問は自分も抱いた。

anond.hatelabo.jp

なのにその違和感を、母親からの本の贈り物によって正当化した。
母親による「しつけ」が行われたんだ。

しつけを行うのは父親だけではない、母親も行うという話は以前もした。

gyakutorajiro.com

ここでラカンが言っているのは、〈超自我〉R.iが機能し、想像的に子どもにしつけを行うのは、父親にも母親にも成り得るという話だ。
最初の表の「現実的父」の部分は、「現実的母」にも成り得る。

精神分析で言うところの"去勢"が、母=吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」によって行われたんだ。

そのため、眞人は塔の中に入ったシーンからは以後、主体性を失った傀儡人形のような振る舞いを見せる。


3.青鷺への羨望からの敵対と和解による自己正当化

眞人は最初は、アオサギに対して敵愾心を抱いていた。
しかし憧れもあったはずだ。
自由気ままに生きているように見えるアオサギ

実際、アオサギは群れを形成せず、単独で行動することが多いらしい。

www.grey-heron.net

アオサギというと、コロニーに大勢集まっている印象が強いので、どうしても群れで暮らしているように思いがちですが、基本的には単独で行動する鳥です。コロニーから餌場へ向かう時も基本的には単独で向かいますし、コロニーがなければ生きられないということはありません。実際、ひとつがいだけでひっそりと子育てしている場合もあります。

かたや、父親に縛られ、行きたくもない学校に行かざるを得ず、愛したくもない新しい継母と暮らさければならない自分に不平不満を抱き、無力感も感じていたはずだ。


そこに出てくるアオサギは、眞人と対極な存在として描かれている。

note.com

しかし今作で、母に会いたい眞人は、アオサギという気持ち悪い鳥に導かれて、地下へと墜落して死の世界に引きずり込まれる。

堕落というか、憧れでもあったのではないだろうか。
アオサギのように、自由に、単独で、空を駆け回る存在になりたいという羨望。

本当の母親を愛する素直な感情に従いたい。
だが、その感情は抑圧された。
母親からの贈り物「君たちはどう生きるか」によって、眞人は既に去勢されたからだ。

家族である継母、夏子への救出に積極的になる。
憧れであったアオサギと戦い、それを否定することで、去勢された自分を自己正当化する。

戦いに勝利し、大叔父の導きによって、アオサギと眞人とキリコ(ばあやの一人)は異世界へと足を運ぶ。

結局、眞人はアオサギにはなれなかったということだ。
憧れの対象を「友達」という、自分と対等な水準の存在に格下げすることで。
眞人は、アオサギになることを諦めた自分を直視することから逃げている。

 

4.大叔父の提案の拒絶

眞人は現実世界の方で既に母親に去勢されているので、異世界での冒険においても、その価値観に従って行動している。

ヒミ(眞人の母親の異世界での姿)が、ワラワラ(地上で人間になる存在、DNAのらせん構造を描いている、生命の象徴)を救出するために、ワラワラの捕食者であるペリカンの大群を焼き尽くすシーンがある。

ワラワラも燃えて慌てる眞人。
人に優しく、吉野源三郎仕込みの、人間至上主義が根付いている。

翼が折れ、死にゆく老いたペリカンに敬意を払い、その死体を埋めてあげる眞人。
死ぬ間際にペリカンは、生きるため、家族の為には仕方ない的なことを言っていた。

実際、ペリカンは家族愛が強い鳥らしい。

kakuyomu.jp ちなみに、青鷺の風切羽のおかげでペリカンに食べられなかったというとは、恐らく青鷺がペリカンの仲間(お友達という意味ではなく、分類上近しい)だからかと思います。ペリカンは自身の血を子供に分け与えるくらい家族愛が強い鳥のようなので、仲間である青鷺の風切羽に守られた眞人を、たとえ飢えていたとしても食べることができなかったのではないかと感じました。

ペリカンに共感したのは、眞人が既に母親に去勢されていることの証左だ。
家族を大事にするペリカンの姿に胸を打たれ、埋葬してあげた。

そして塔の中で、眞人は大叔父から提案を受ける。
が、「それは木じゃない。石だ。墓と同じ悪意の石だ」と、大叔父の仕事を、悪意のある行いとする。

「この傷は、僕の悪意の印です。僕は、その石には触れません。夏子お母さんと自分の世界に戻ります」と語り、自らの意志に基づいた過去の行動を否認し、世界をコントロールする大叔父の仕事を引き継ぐことを拒絶し、結局は現実の家族を優先することを選択する。
いや、選択すらしてないか。
インコ大王によって結果的に異世界は崩壊したんだから。

これらペリカンの埋葬や、大叔父とのやり取り以外にも、紹介すべきシーンはあるだろが。
眞人の行動は、家制度を重要視する価値観によって選択されていることは明らかだ。
決して「君たちはどう生きるか」という主体性はない。

大叔父に従わなかったのは、眞人が「母親によって既に去勢されているから」だろう。
塔をコントロールする力を手に入れれば、母親であるヒミ(ヒサコ)を、死なないようにするため、別の世界への扉へ導くこともできたかもしれない。

だが継母である夏子との生活を選んだ。
自分の自然な感情、本当の母親への愛情より、新しい継母との生活を優先した。

ameblo.jp

眞人は聡明な少年なので、夏子を異世界に追放したのが自分であることに潜在的に気づいています。だからその責任を取るために、夏子を探さねければならないと思っている。

母親によって、塔に入る前に「君たちはどう生きるか」の本を通じて、家族を大事にしろという価値観が植え付けられたがゆえに、大叔父の仕事を引き継ぐことを放棄した。

映画のクライマックスでも、眞人や夏子を救出しようと息巻く、父親である勝一が美化され、その父性のようなものが描かれ。

hiko1985.hatenablog.comしかし、彼は妻と息子が行方不明になった時、果敢に怪物に向かい打ち、さらにその胸元には彼らのためのチョコレートを忍ばせている(実にさりげない描かれるこのシーンは感動的だ)。

夏子の子が生まれ、新しい家族として皆で生きていくシーンによって映画は終わる。

結局、眞人は主体的に選択したわけではなく、父親の威厳と母親の去勢によって、流され、半ば消極的な選択によって、自分の主体的な感情よりも新しい家族に利するような選択を行っていった。

インコ大王のシーンもそうだ。

note.com

もう一つ宮崎のエゴが爆発してるのは「塔の上で孤立する天才の大叔父(宮崎駿)」と、「右腕ながら組織のため(大人の事情のため)なら対立を恐れず上申も辞さないインコ大王(鈴木敏夫)」と、大叔父を恐れインコ大王になびく、支配者(宮崎駿)に意見する勇気もない凡百のインコ(スタッフ)たちという構図。

この分析にもあるように、中央集権的な支配体制として塔が管理されること、それを管理しようとするインコ大王の欲望は達成に至ることなく、塔は崩壊する。

だが、その塔を崩壊させてまで伝えようとしたことは、現実世界の家族至上主義。

アオサギも、インコ大王も、否定的に描かれ、アオサギにもインコ大王にもならない眞人を善とするような描き方。

それが、この映画の最大の問題点、気持ち悪い部分だ。

5.結論:「君たちはどう生きるか」は「君たちはこう生きろ」という宮崎駿の家父長主義的価値観の押し付け

結局、この映画は主体性を尊重しているようで、実は主体性を踏みにじっている点が、気持ち悪いんだ。

だが、眞人が家族中心主義から抜け出し、新たな塔を造る余地は残してはいる。
自分は気付かなかったが、killminstionsさんの記事によれば、石を一つ持ち帰ったシーンがあったそうだ。

killminstions.hatenablog.com

これは、新しい家族を捨てる選択肢もあり得るという可能性の示唆にも思える。

その点で完全には主体性を剥奪していないかもしれない。

だが最終的に、現実世界に戻り、継母と新しい子どもが映り込むシーンをラストとするのは、やはり家父長主義的な宮崎駿の思想や自己愛が、作品にも影響を及ぼしていると思わざる得ない。

息子の絵コンテを非難したり、女房と争ったりと。

fc0373.hatenablog.com自己中心的で自己愛が強い印象…しかし、作品は世界的な評価も得ているし、仕事は出来る。
まるで、眞人の父親、勝一のようでもある。

そう、結局はラストシーンで、勝一が望むような世界を美化してるんだ。
継母だろうが家族を大事にしよう、という価値観。
それに取り込まれ、従属する眞人。

大叔父が宮崎駿だという説によって隠蔽されているが。

note.com 下の世界、塔の向こうの世界にいる大叔父が、眞人に積み木を託して継いでほしいと頼む場面がある。その崩れそうな世界に、スタジオジブリが重なって見えた。

勝一こそが、宮崎駿の欲望が投影された存在だと思うけどな。

本当の母親であるヒサコ(ヒミ)による、吉野源三郎君たちはどう生きるか」の贈り物を、美化し、新しい母親である夏子を受容させる手口は「家族への貢献のためなら、女性は犠牲になってもいい」という家父長主義的な考えそのものだ。

www.aynrand2001japan.com

日本の民話は,このような一種の「守るお姫さま」に事欠かない。「安寿と厨子王」の姉は弟を救うために入水し白鳥となって母や弟を見守る。「雪女」は,貧しい平凡なきこりの家に嫁に行さ,姑に孝養をつくし良き子も多く産んで家事万端怠りなく老けることもない。「夕鶴」の鶴の精は,愚かな夫のことばに「よひょう,あんたのことばがわからない」と悲痛な声をあげても,夫を喜ばせるために自らの羽を抜いて布を織る。日本の民話や伝説は,このような健気な女たちでいっぱいである。まるで,日本の女は,守ってもらうには,あまりに男の頼りなさや弱さが目につき理解できるので,つい守ってあげてしまうという風情である。

つまりこの作品も結局は、「ムーラン」等と同じく、家父長制への奉仕で終始してるんだ。

www.aynrand2001japan.com

実は,フェミニズムに影響されたヒロインが活躍する1980年代以降のディズニー・アニメでさえ,男性中心主義はまぬがれていない。『人魚姫』のヒロインもその活力は結局王子を獲得することに費やされるのだし,『美女と野獣』のヒロインの聡明さと愛情は,野獣の姿から王子を解放するために重要となる。『ポカホンタス』のヒロインの努力も,スミスという白人男性開拓者の名誉に帰する。究極の英雄である女戦士ムーランさえ,戦士になったのは自分を見つけたかったからと言いながら,その機能は,父と未来の夫たる軍団長の青年と皇帝を守るわけで,結局は家父長制への奉仕なのだ。もともと,中国の女戦士の史実も,彼女たちが夫や父や兄弟の代理として戦ったからこそ是認され歴史にとどめられたのであって,彼女たち自身の業績や力量そのものを賞賛されてのことではない。

父親を大事にしろ、家を大事にしろ、家族の安定を維持することこそが美徳であり、子どもの主体性は二の次となる。

だからこそ、この映画のタイトル「君たちはどう生きるか」は、偽りだということ。
父親や家族を中心として「君たちはこう生きろ」という価値観の押し付けで終わっているということ。
その偏った価値観の押し付けに着地した点が、残念で、面白くないと感じた大きな理由でもある。

5.追記:本当に「君たちはどう生きるか」を描いた作品(おおかみこどもの雨と雪、ベニーズ・ビデオ、ドイツ零年)

家族仲が悪い家庭や、子どもの人権を踏みにじられている家庭の子どもが。
君たちはどう生きるか」を観ても、あまり感動はしないだろう。

anond.hatelabo.jp

逆に、自分の尊厳が毀損されているにも関わらず、家族至上主義を強化し、さらに主体性を失う可能性がある。
結局は「家族が大事」「父親が大事」というクライマックスなんだからな。

上級国民映画だという指摘はごもっともだ。

anond.hatelabo.jp

家族を作り、子を産み育てるこそが至高。
アオサギのようにふらふら生きる生活は美化されていない。

結局は、スタジオジブリ作品も、商業映画だっつーことだ。
ありきたりな結末、家族を大事に、家族愛の礼賛。
そんな中身で、この多様性の時代、古き良き家制度に従った家族を構築できない独身の人間や、LGBTQといった性的マイノリティは、どう思うのよ?
結局、俺たちは正解じゃないってことか?俺たちの実存を肯定的に描くことはできないってか?ああん?

最大公約数的に納得できる結末、商業的成功を収めるという点でも、古き良き家族中心主義、家族愛の礼賛は、都合のいいラストなんだろうな。

だがそんな映画ばかりじゃ、つまらないからな。
逆に子どもの主体性が描かれている映画は?


と。そういう映画もあるんだよ。
3本ぐらい紹介しとくか。

おおかみこどもの雨と雪

ジブリを追われた男、細田守の作品。

www.excite.co.jp

君たちはどう生きるか」のような、家族至上主義に着地する結末とは違って、二人の子どもの主体性を描いた作品だ。すばらしい。

だが結局、興行収入や商業的価値観に影響されたのだろうか、後年の「未来のミライ」は、資本主義のイデオロギーに取り込まれていたな。

www.yuzufhana.work

家族愛を礼賛する陳腐な結末となっている。


ベニーズ・ビデオ

ミヒャエル・ハネケ監督の作品。
ものすごく後味が悪い映画だ。
子どもの主体性ともいえるかもだが、ある種その負の側面、子どもの残虐性、おぞましさがひしひしつ伝わってくる名作だ。

あらすじとレビューはこのリンク先が詳しいね。

zilgz.blogspot.com 「もちろん、最初から相手を傷つけようという悪意のある場合もある。だが、普通はもっと複雑で、偶発的なものだと思う。“有罪性”というものは、人が罪を犯す行為は漠然としている。明確なものではない」(ハネケ監督の言葉)

子どもの不安定な感情、規律や道徳が内面化されていないがゆえに犯す過ち、両親でさえもコントロールできない恐怖、クライマックスもすごかった。

Amazonでプレミア化して簡単には観ることができない。
だがこの映画こそ、子どもの残虐な主体性と繊細な意識、「君たちはどう生きるか」を描いた作品とも言える。

ドイツ零年

この映画はスラヴォイ・ジジェクがレビューしている。

『ドイツ零年』の主人公エドムントは十歳の少年んで、一九四五年の夏、占領下のベルリンに、姉と病気の父といっしょに住んでいる。彼はちょっとした犯罪や闇物資の密売で家族を養っている。彼はしだいに、ナチの教師で同性愛者のヘニングの影響に染まっていく。ヘニングはエドムントに、人生は生存競争であり、弱者は重荷にすぎないから情け容赦なく処分すべきだ、という思想をさかんに吹き込む。エドムントはそのヘニングの教えを父に適用しようと考える。父は、「どうせもう二度と快復しないんだから、早く死にたい」と四六時中嘆いているばかりで、一家にとっては重荷でしかなかった。エドムントは父の願いを聞き入れ、ミルクの入ったコップに致死量の薬を入れる。

父が死んだ後、彼は荒廃したベルリンの町を当てもなくうろつき回る。子どもたちは彼を仲間に入れてくれない。まるで彼の恐ろしい行為を見抜いたかのように。そこで彼はしばらくの間、不器用にひとりで石けりをするが、どうしても遊びに身が入らない。子ども時代が終わり、人間社会からも切り離されてしまったのだ。姉が彼を呼ぶが、彼はもはや姉の慰めを受け入れることができない。そこで彼は姉から隠れ、崩れ掛かった人気のない建物の三階にのぼり、目をつぶって窓から飛び降りる。

(引用元:汝の症候を楽しめ—ハリウッドvsラカン / ジジェク スラヴォイ 鈴木晶 / 筑摩書房p59-60)

これは、子どもが罪悪感の重みに耐えられず自殺した、という単純な話ではないらしい。

『ドイツ零年』の二年後、ロッセリーニは聖フランチェスコを題材にした『神の道化師、フランチェスコ』を撮る。ロッセリーニはその中で、あらゆる世俗的な制度の柵から逃れ、まさに「すべてを失った」からこそ「すべてをもっている」という幸福な無垢の状態へと帰った聖フランチェスコと、普通の人間から追放され孤立したエドムントとを繋げた。

エドムントの根源的な「空虚性」は、彼の控え目な行動そのものによって示されている。たとえば、毒の入ったミルクのコップを父に渡す場面で、エドムントは父を、無表情な、疲れた、生気ない視線で見つめている。そこには恐怖も同情も後悔も、それ以外の感情もいっさい見あたらない。そのために、エドムントへのいかなる「同一化」も裏切られる。われわれ観客はエドムントといっしょに身震いしたり、彼の緊張や後悔や自分の行為に対する恐怖心を感じとることができない。「エドムントは、もっと月並みな映画だったなら、観客の同一化の焦点になることだろう。ところがここではむしろ、いわば零集合みたいな、さまざまな効果の焦点のようなものになっている」。

零集合とは、シニフィアンの主体、すなわち、想像的・象徴的同一化に根ざしていない空虚な場所という意味での主体に対し、ラカンが与えた名前である。エドムントは純粋な「悪魔的な」悪ではあるが、忘れてならないのは、まさにそれゆえエドムントは、あらゆる「病的な」動機から生まれる意志の純粋な精神性を体現しているということである。

(引用元:汝の症候を楽しめ—ハリウッドvsラカン / ジジェク スラヴォイ 鈴木晶 / 筑摩書房p60-61)

つまりエドムントには、父親や母親からの象徴的去勢も、規律や道徳やイデオロギーも内面化さえも行われていない純粋性がある。

まさにありとあらゆる支配から逃れ、「君たちはこう生きろ」というレールに沿っては生きてくれない、「君たちはどう生きるか」と目が離せない、主体性を備えた子どもであると言える。

以上、紹介した3作品のようにだ。
もっと複雑で、感情豊かで、残酷でもある子どもの豊かな世界を描いてほしいと思うね。

スタジオジブリ日本テレビの傘下に入り、また今回のようなありふれた家族愛映画ばかりが再生産されないか心配だ。

www.tokyo-np.co.jp

ぜひ、後進のスタジオジブリの方々や、ジブリから独立したスタジオポノックの人達に望む。


君たちはどう生きるか」の眞人のように、大人の理想が投影され、去勢された子どもは、描かないでほしいね。