新海誠監督の「すずめの戸締り」を観に行った。
既に色々な人がレビューしているようだ。
blog.hatenablog.comただ、民族学の切り口はまだ少ないかな?と。
映画の中でも、民俗学的エッセンスが随所に見受けられたからな。
物語とか考察の幅を広げるための権威付け感はあるけど。
ではその流れに乗って、「すずめの戸締まり」における民族学的要素を考えてみるか。
1.常世について
2.後戸ついて
3.宗像一族について
4.祝詞について
5.ダイジンとサダイジンについて
6.「すずめの戸締まり」で氷河期世代は救われない(まとめ)
で、話を進めていこう。
※以下、ネタバレあり。まだ「すずめの戸締り」観てない人は観てからの方がいいかも。
1.常世について
まず地震の発生源、ミミズが出てくる常世について。
宗像草太(松村北斗)の台詞に「常夜では全ての時間が同時に存在する」とのこと。
ja.wikipedia.org「常に夜の世界」「死者の国」「黄泉の国」という意味もあるけど。
「理想郷」「来訪神の故郷」という意味合いもあるらしい。
●常世
古代日本人の他界観をあらわす代表的な語。「常世」という語は『古事記』や『日本書紀』にみられる。これらの文献から民俗学者の柳田國男や折口信夫は「常世」を他界観や異教意識の問題として掘り起こした。
折口信夫は「常世」の原像は「常夜」すなわち「闇の国」、「死の国」であったことを強調する。
今日では、「常世」と「常夜」は上代の特殊仮名遣いの違いから別語と考えられているが、折口はこの「常夜」から「マレビト」と呼ばれる来訪神が訪れると考えた。そして「常世」を日本人の他界観や異教意識の根本に関わる問題として捉えた。折口がこのように「常世」を来訪神の故郷と考えるようになった背景には、沖縄の「ニライ・カナイ」信仰があったといわれている。
(「来訪神事典 [ 平 辰彦 ]」p127)
常世をニライ・カナイと捉える文化もあると。
そのニライ・カナイ信仰について。
奄美から八重山に至る琉球列島の村落祭祀の儀礼で表現される世界のなかで、人間の住む世界と対比される他界、別の世界。
ニライ・カナイは対語であり、ニルヤ・カナヤ、ギライ・カナイ、ミルヤ・カナヤなどの異なる表現もある。
ニライの大主のように対語表現でなく、地域によって単にニライ、ニレー、ニーラン、ニッラ、ニローなどと表現されることもある。
稲やアワなど主要な穀物の収穫を終え、新たなる農耕のサイクルへのはじまりすなち年の変わり目に、ニライカナイから人間の世界・村落に神がやってきて、ユー(幸福・豊穣)をもたらしてくれるという信仰が、琉球各地の祭祀、農耕儀礼の際の神歌や儀礼に見られるが、その信仰の表出は地域によって異なる。
八重山諸島の石垣島川平のマユンガナシ、西表島の古見などのアカマタ・クロマタの祭祀のように、仮面や草木をまとった異装の神が出現し村落内の家々を訪れ、呪術的所作を行い呪言を残していく形態もあり、また、竹富島のユークイや、沖縄本島北部の一地域のウンジャミ(海神)祭祀のように、具象的な神の出現はなく、神の去来は村人や神役たちの儀礼的所作や神歌などによって象徴的に表現される場合もある。
ニライカナイがどの方向にあるかについても、地域によって差異があり、琉球王国編纂による祭祀歌謡集『おもろさうし』のなかには、ニライカナイが東方の海のかなたにあるという観念とむすびつくものがみられる。
しかし、ニライカナイの方位は村落の地理的条件によって左右されるものであり、沖縄本島の西海岸にある村落では西の海に向かってニライカナイの神を送る儀礼を行っている。
また、宮古諸島の多良間島では、人は死後、ニッラ(ニライ)の神の座に就くという観念があるが、根の深い草の表現として、根がニッラまで届いているという。
そのことはニッラが地底にあるという観念を示すものである。
また、海底と思わせるような伝承もあり、ニライカナイの方位、ありかについては、かなりの振幅性がみられる。
ニライカナイが神の在所であり、そこからさまざまな豊穣がもたらされるという観念、理想郷としての観念ではなく、ときには悪しきもの、災いをもたらすものの住むところという伝承もあり、その両義的な意味は琉球列島の来訪神信仰の解釈に重要な鍵となる。
なお、ニライカナイ信仰が海のかなた、海底・地底にむすびつく神観念・世界観を示すものであるならば、それに対比されるものとして、オボツ・カグラという天上世界を志向する神観念・世界観を示す語彙が『おもろさうし』など祭祀歌謡の中にみられることも忘れてはならない。【参考文献】
植松明石編『神々の祭祀』(「環中国海の民族と文化」二、一九九一)(比嘉政夫)(「神事と芸能 民俗小事典 [ 神田より子 ]」p79)
「悪しきもの、災いをもたらすものの住むところ」とあるように。
常世やニライカナイに、人間が住む現世(うつしよ)に、何らかの災厄をもたらすものが住んでいるという伝承も、もしかするとあるかもしれないね。
ただ地震を起こすミミズ的な存在がいるのかどうかは、疑わしい。
ミミズは常世やニライカナイにいる存在というよりは、別の信憑性が高い説がある。
茨城県・鹿島神宮と千葉県・香取神宮の要石、宮崎県・高千穂神社の鎮石が元ネタという説。
2.後戸について
「後戸」というのも、物語では頻出する。
人のいなくなった寂しい廃墟に現れる。
これの元ネタは何だろうか。
民俗学とかに詳しい幣束(@goshuinchou)さんが呟いていた。
すずめの戸締まり、作中で後戸後戸連呼するのでいつ摩多羅神が来るかワクワクして待ってたら終わった
— 幣束 (@goshuinchou) November 24, 2022
慈覚大師円仁が中国大陸より請来したと伝承され、天台系寺院の念仏の道場である常行堂(常行三昧堂)にまつられる神で、観想念仏をする僧侶を守護するとともに極楽往生の願いを成就するとされた。
次第に密教色を強め、天台の灌頂儀礼(かんじょうぎれい)である玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)の本尊とされ、秘儀性を帯び男女和合の性的な儀礼へ展開した。
神像は上部に北斗七星を描き、星曼荼羅供の妙見信仰と繋がる。形姿は、唐風の鳥帽子を被り和風の狩衣を着て、左手に笹葉、右手に茗荷を持つ。
左脇侍の丁礼多童子(ちょうれいたどうし)は小鼓を打ち、右脇侍の爾子多童子(にしたどうし)が舞う姿で描かれ、歌舞音曲を好むとされる。
中世の多武峰(とうのみね)や日光では、修正会の延年で常行堂で摩多羅神祭祀が行われ、猿楽や翁の発生との関連もあるとされる。
歌舞に関わる芸能神、常行堂の道場神、玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)の本尊の三種の性格があり、おのおのの修正会、引声念仏(いんじょうねんぶつ)、灌頂儀礼(かんじょうぎれい)に関わる。
法会の守護神であると同時に障礙神(しょうげしん)で、禍々しい荒ぶる霊を鎮めまつって守護神に変え、邪悪なものを排除する。毛越寺では正月二十日に常行堂の本尊阿弥陀の後方の奥殿にまつる摩多羅神に御本地供を執行し、延年の歌舞を奉納する。
最も重要視される祝詞は、鼻高面をつけ反閇(へんばい)をして秘密の文言をと耐え、神が化現し加護を願う。
京都太秦の広隆寺では九月に七日間続く引声念仏(いんじょうねんぶつ)の中日に摩多羅神祭、俗に牛祭を行っていた。現在は十月十日前後に不定期に開催され、白い神の面を付けた神が牛に乗って出現し、祭文を滑稽に読み上げる。
服部幸雄は後戸(うしろど)と呼ばれる霊性に満ちた空間に芸能始原の神として摩多羅神がまつられ、宿神や翁の性格を帯びて展開したとする仮説を提示し、芸能史研究に新たな視野を切り開いた。【参考文献】
福原敏男『祭礼文化史の研究』、一九九五
山本ひろ子『異神』、一九九八
鈴木正崇『神と仏の民族』、二〇〇一
服部幸雄『宿神論』、二〇〇九 (鈴木正崇)
(「神事と芸能 民俗小事典 [ 神田より子 ]」p88-89)
この本の表紙にいるのが摩多羅神。
芸能始原の神、という説もあるみたいだけど。
謎が深いのでもう少し調べてみた。
www.pref.nara.jp摩多羅神について、18C天台僧・覚深は、「天竺・支那・扶桑の神なりや、その義知りがたし。支那の神にあらず、また日本の神にもあらざれば、知らざる人疑いを起こす輩もあるべきことなり。」(『摩多羅神私考』)と述べていることから、すでに近世にはその由来が分からなくなっていたようです。
oujou.seesaa.netその一方、摩多羅神は、いろいろな神や信仰と結びついていきます。大黒天、ダキニ天をはじめ、夜叉神、秦氏の秦河勝、ゾロアスター教のミトラ神、玄旨帰命壇の本尊、猿楽の翁、天台本覚思想などとの関係が指摘されています。本当に謎につつまれた神様ですね。その神秘さゆえに、様々な信仰に取り入れられたのかもしれません。
db2.the-noh.com詳しいことが分からない謎の神であるが、左手には鼓を持ち、猿楽者は自らの守護神として尊崇するなど、芸能と密接な関係が窺われる。
結構、謎に包まれてる神様のようだ。
島根県出雲市別所町、「鰐淵寺」本殿横に、摩多羅神を祀った社があるようだ。
ameblo.jpこの神を祀る寺社は数多く、広隆寺の牛祭り、毛越寺の二十日夜祭なども知られるが、その来歴や正体に一貫性はなく、これほど不可解な神もいない。ご関心のある方は、前掲書や山本ヒロ子氏の「異神」を読まれるとよい。性の秘儀で知られる邪教、真言立川流との共通点など、めくるめく物語が待っている。
性の秘儀、邪教とも繋がってる?
www.izm.ed.jp伝説では比叡山の円仁(第3代天台座主、慈覚大師)が中国より帰国の途次に感得し、叡山に常行堂を設け勧請したのがはじまりという。
古くは摩多羅神に祈念しなければ往生できないと言われたほど霊威ある神とされ、後には芸能の神としても信仰を集めたが、江戸時代に急速に廃れた。様々に謎を秘めた、中世の神である。
岩手県平泉の毛越寺、栃木県日光輪王寺等に祀られていることが知られているが、「秘神」とされ、像が公開されているものは極めて少ない。
天台宗が信仰している神なのか、うーん。何かはっきりしないね。
japanmystery.comさらにこの神社の祭りとして有名なのが“牛祭り”である。“摩多羅神”なる神様が牛に乗って練り歩き、広隆寺敷地内で珍妙な祭文を読み上げて走り去ってしまうという、摩訶不思議な祭りである。秦氏のルーツと目される中央アジア周辺には【ミトラ教】なる教えがあり、その最高神であるミトラ神が実は牛の頭を持つ神として伝えられている。そのため、多くの研究家はこの祭りをミトラ教信仰の名残と推察している。
ミトラ教とも関わりがあるという話も。
tamtom.blog44.fc2.com京都右京区太秦(うずまさ)蜂岡町にある大酒神社(おおさけ)の牛祭は京都三奇祭の一つ。かつては神社祭であったが、現在は、広隆寺が行っている。そのため、広隆寺の「牛祭」と広く言われるようになってきている。十月十日(夜8:00頃)に奇妙なお面をつけて牛に乗った摩多羅神がお出ましになる。赤鬼、青鬼、二人づつ先導にして、広隆寺西門から出て行列をする。やがて、山門の前を通り、東門より境内に戻る。薬師堂の前の祭壇を牛に乗ったまま三周したあと、祭壇に登り、赤鬼・青鬼とともに祭文を読みはじめる。独特の節回しで長々と厄災退散を祈願する。
結構、調べたが、摩多羅神が災いや祟りをもたらす記述はなかったな。
だからすずめの戸締りにおいて、後戸から出てくる存在=ミミズ=摩多羅神、とかではない。
謎めいてる存在っていうのはあるが。
「すずめの戸締まり」の謎より面白いかもな、摩多羅神の謎は。
興味のある人は円仁を追ってみてくれ。
www.ensenji.or.jpロ、円仁(794-864)が唐から帰朝(847年)する時、船中に現れた神と伝えられる。記録に表れるのは十一世紀。
www.st.rim.or.jp円仁は、都が京都に遷された年の延暦13年(794年)に下野(しもつけ:現在の栃木県)の国で生まれた。15才で比叡山に入門し、最澄の薫陶を受け、21才で得度し、最澄に従い故郷の下野をはじめとする東国を巡った。その後は、戦乱に傷くエミシの地東北を歩いて人心の混乱を鎮めようと自らが信じる天台宗の布教に専念したのであった。
円仁44才の頃、天台の教義の勉学のために当時の中国の唐に入る。以後9年間、一心に学んだのであったが、この円仁の入唐の理由は、空海(774?835)がもたらした密教の教義が日本国内で急速に広まる機運を見せるなかで、日本に天台宗の教義の深化をするための命がけの旅であったと推測される。
周知のように、空海は日本宗教史上でも屈指の人物である。円仁の師匠にあたる最澄(767-822)は、彼の先輩であり、ライバルであったが、密教の部分に関しては、言葉は悪いがかなりのコンプレックスを持っていて、再三後輩であった空海に中国から持ち帰った文献を借りたりしている。これに対して、空海は「書物をどんなに読んでも密教の秘法を理解することは難しい」と強い言葉で拒否したこともある。
3.宗像一族について
摩多羅神が宗像草太?と一瞬思ったが、全然違うようだ。
神社チャンネルの考察にあるように、宗像草太の元ネタは宗像一族。
zinja-omairi.comその昔、宗像一族は海洋一族で、中国や朝鮮半島からやってくる人たちの防波堤にも橋渡し役にもなっていた、言わば扉の役割だったのです。
中津島、沖津島がありますけど、朝鮮半島とか中国から来るときはあの島を通ってきていましたので、いわば、異分子や余計な勢力から守っているのもまた、宗像一族であったということです。
まさにこの日本で、海外の余計な勢力から入ってくるのを守る、戸締まりする力を持っているのは宗像一族なので、その辺が今回のテーマ「戸締り」というところにも非常に合っていると思います。
星野之宣氏の漫画『宗像教授伝奇考』では、宗像一族は大和朝廷とも繋がりがあったみたいね。
4.祝詞について
そもそも祝詞(のっと、のりと)とは?
miyazakijingu.or.jp祝詞とは古語、万葉仮名を用い、一般の祈願では、その人の思い等を
神様に奉告するものです。
表現方法や読み方は神主により様々ですが、基本的な所は同じだと思います。
映画でも草太が、戸締りの前に以下のような祝詞を述べていたよな。
かけまくしもかしこき日不見(ひみず)の神よ。
遠つ御祖の産土(うぶすな)よ。
久しく拝領(はいりょう)つかまつったこの山河。
かしこみかしこみ謹んで、お返し申す。
かけましくもかしこき、は、掛けまくも畏き、祓詞(はらいことば)らしい。
白山姫神社のサイトで紹介されてる祓詞。
shirayamahime.jimdofree.com映画に出てきた「かけまくしもかしこき」「かしこみかしこみ」の両方が入ってる。
先に引用した宮崎神宮のサイトにも「掛介麻久母畏伎・・・」(かけましくもかしこき)、「恐美恐美母白須」(かしこみかしこみももうす)が紹介されてる。
しかも2012年の記事なので、祝詞では一般的な言い回しなのだろう。
「かしこみかしこみ」は、「言葉にするのも畏れ多い、神様への敬意」らしいね。
allmamamakehappy.com
ちなみに祓詞と祝詞は、違いがあるというよりは、祝詞の種類の1つが祓詞だということらしい。
「かしこみかしこみ」は、接触呪術の時の口上にも使われているようね。
それから2分野の他方、図でみると右のほうは感染呪術(接触の法則)。Contact です。
触る、触れるわけです。そうすると効果があるというのです。これを楽しいほうの例で説明すると、大好きな恋人のハンカチや、その人が身に着けていた何かを、何らかの方法で手に入れて、それを大事に持っていると愛が成就するのです。相思相愛であっても彼は鹿児島に転勤、彼女は札幌に転勤になったとすると、お互いに大切なものを交換しあい、それを大切にしていれば愛は続くというわけです。これは接触呪術です。有名人にサインしてもらって、それを大切に持っているといいことがあるなど。それを多少とも共感できるなら、ここにいらっしゃる方はみなさん呪術のファンというか、呪術の実践家といったところです。神社のお守りはいわずもがな、地鎮祭のときの儀礼で「かしこみかしこみ」とやって地面に鍬を入れたり、土地の神に工事の無事を祈願する、などはそうです。鍬入れは真似事ですので類感・模倣といえますが、鍬入れした土地に建造物が建つのですから感染・接触ともいえましょう。https://www.jstage.jst.go.jp/article/kfa/2019/51/2019_1/_pdf
〔フォーラム〕フレイザー『金枝篇』を読む―ビブリオ・ライブ連続講座(1)
石塚正英 (2019 年 8 月 9 日公開)
『頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』Forum51 2019 SSN 2432-1087
日不見は、ヒミズモグラの神説、火水の神説、ひふみ祝詞説と、3つの説をこのサイトで紹介してくれている。
shindailog.com
御祖は「母親」という意味らしい。
kojiki.ys-ray.comこの「御祖」(みおや)という言葉は、古事記に十六回(同一場面の重複を除けば十一回)出てきますが、すべて「母親」という意味で出てきています。
一方、単に「祖」(おや)と言った場合には、「建比良鳥命は、出雲国造・・・遠江国造等の祖」「天児屋命は中臣連等の祖」という具合に、もっぱら「祖先神」という意味で使われます。
このように古事記においては、「御祖」「祖」という言葉が厳密に使い分けられており、したがってカミムスビも母神とされていることが分かります。ここでは記注釈のように、オオゲツヒメの母神として登場したものとするのが自然な見方になります。
産土は「土地の神」みたいな意味だ。
後戸がある場所は廃墟だから、氏神様ではなく、産土の神様とのこと。
happymackeyblog.com以上の点を踏まえると、すずめの戸締りの祝詞は以下のような意味だろう。
畏れ多い森羅万象の神よ!
遥か彼方の母なる大地の神よ!
長らくいただいてた山や川
慎んでお返しします。
ってことかな。
人間はその土地が廃墟になるまで自然を利用し尽くした。
それゆえ、畏れ多いがその土地をお返ししますので、どうか災いを防いでください、後戸を閉じさせてください、と。
5.ダイジンとサダイジンについていて
この人の動画で説明されている。
www.youtube.comタケミカヅチが鹿島神宮の要石、フツヌシが香取神宮の要石。
「なぜ猫なのか?」というのは、単に猫が可愛いからってのもあるかもだけど。
幣束(@goshuinchou)さんによれば、沖縄では常世(ニライカナイ)を「まやのくに」と呼び、猫のこともマヤと呼ぶとのこと。
沖縄では海の向こうの彼方の祖霊と神が居る世界、常世をニライカナイと言い、またの名を「まやのくに」と呼ぶそうです。
— 幣束 (@goshuinchou) 2019年2月22日
そして同じく沖縄では猫のこともマヤと呼ぶそうです。
語源が同じかどうかは知らんが、猫=マヤは常世の不可思議なる動物なのでしょう。きっとそうなのでせう。#猫の日
そのため、常世の要石となってミミズを抑える存在として、ネコというモチーフを利用したのかもね。
猫が魚(ナマズ)の天敵だから、新海誠監督がネコ好き、という説もあるみたい。
ciatr.jp
6.すずめの戸締まりで氷河期世代は救われない(まとめ)
そんで、こっからは個人的な感想だけどね。
民俗学とか神道とか、物語に神秘性やある種の権威付けのようなことをしているけど。
結局、常世の扉を閉めるんだよな。
なぜ?
別に常世の中に留まってもよかった。
岩戸鈴芽(原菜乃華 / 三浦あかり)は、愛する草太が常世の中にいたんだから、その中で一緒に生き続けるという展開もあったはずだ。
神戸で、すずめが後戸の中に入るシーンもあったように。
草太が「常夜では全ての時間が同時に存在する」と言っていたように、常世は時間に捉われない、理想郷としての側面もあったはず。だからすずめは入ろうとした。
そのような常世の肯定的なシーンも見受けられるけど、結局、否定的に描かれた。
災厄をもたらす、地震を引き起こすミミズが蠢く場所として、おどろおどろしい場所として、クライマックスシーンでは常世の中で、ミミズを封印する。
そしてハッピーエンドで日常生活、現世の生活に戻る。
因果さんという方のレビューにあるように。
eiga.comセカイ系のような、「ぼく」と「君」が閉じられた世界の中での己の自意識に終始した結末ではなく。
他者世界と積極的に関わる世界を肯定すると。
つまり美化されていること、肯定されていることは「常世(とこよ)で生きること」ではなく、「現世(うつしよ)で生きること」だ。
この世界は素晴らしい、現実はすばらしい、未来が開けている、精一杯生きよう。まあそういう肯定的なハッピーエンドの方が、万人受けするわな。
だが常世的な世界を肯定する思想もある。
「同じことを永遠に繰り返す」永遠回帰を受け容れること、それをニーチェは肯定した。
永遠には、「二つの永遠」がある。ひとつは、無限の直線でどこまでも続く。もうひとつは円環である。円環しているとグルグルといつまでも回る。キリスト教は天地創造から世界の週末までを直線(リニア)だとする。このとき「永遠」(エーヴィヒカイト)とは、直線の始まりと終わりとする。この動きの繰り返しだ。
それに対してニーチェが尊敬するギリシア人たちは円環だった、と思いついた。ニーチェはこの後者の思考こそは素晴らしいものだ、と考えた。これはギリシア人の考えを再び受容することではなくて、同じことの永劫回帰(永遠の繰り返し リターン・トゥ・フォーエヴァ)が突然彼に見えたのだ。この「同じことの永遠の回帰」は、そこから逃れることができない苦痛のニヒリズムとして本当に恐ろしいものである。自分の病気がまさしくこれだ。しかし、同時に、あるがままの自分の生を英雄的に受け容れ肯定することが崇高なのである。能動的ニヒリズムと、生きることの絶対的肯定は、ニーチェの場合、反ローマ教会の思想と常に対をなしている。
要石となって、常世として円環時間を生き続ける草太も、ニーチェ的には肯定されてもいいはず。
それによって、現世で生きる人々を守り続けることができるんだから。
しかし「そうはさせるか」という感じで、鈴芽がやってくる。
何だかよくわからないクライマックスで、ダイジンとサダイジンが要石になってくれるというご都合主義によって、二人は常世から抜け出して現世で生き続けるという展開で終わった。
二人の今後の恋物語の発展を予感させるようなハッピーエンド。
そうじゃねえだろ。
もう飽き飽きだよ、そういう現世礼賛はよ。
現世の綺麗な側面だけを、ルッキズム的に美男美女の世界だけを切り取って描いているけど。
もっと現世は残酷だろ、常世よりも。
コロナ渦でリモートワークが浸透しても、相変わらず満員電車に揺られて通勤しないといけない。
酒とメシの力によって現世で起きた嫌なことを忘却する。
現世の直線的時間の圧力によって膨大なタスクに晒され続け、精神は疲弊する。
常に直線的時間軸が支配する資本主義社会で、成長が求められ続ける、責任が発生し続ける。
どっちが息苦しいよ?円環時間の常世と、直線的時間の現世を比較して。
現代社会では、同じ場所に留まること、永遠回帰に留まることはルサンチマンであり、時間の経過と共に成長なるものを求められる。
それに疲弊した人間は、音楽などによって、永遠回帰の欲望を一時的に満たしてはいるが。
gyakutorajiro.comこれらの曲は全て、「幸せな時間が永遠につづいてほしい」という願いが唄われている点で永遠回帰のルサンチマンでもあるが、もっと特徴的な点がある。それは「本来、直線的時間の流れで生じ得るトラブルが希薄化されている」という事実だ。
差異や変化のダイナミズムを排除する。
家族をテーマにした曲の場合、妻や夫の不倫などの夫婦仲の脅威、子どもの反抗期や非行、学費が払えない、リストラによって住宅ローンが払えなくなる危機、老後の蓄えが足りないなど、諸々あらゆる懸念事項が、全て排除ないし、希薄化されている。
結局は直線的時間、現世での日々が待っている。
現世では、氷河期世代は就職できず、薄給で食い扶持をつなぎ、結婚も出来ず、その生涯を終える。
それでも現世で生きることを肯定するという点で、結末は「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」と同じなんだよな、結局は。
b.hatena.ne.jpシンジが就職したとされる宇部興産の珪藻土バスマットは確かにいい。
ものすごい吸水性で、他の珪藻土バスマットより群を抜いてる。
だけどそんな逸品を作れるメーカーに、何人が就職できるよ?
派遣帝国となった日本で、現世で自己実現できる可能性は、どれだけあるんだよ!?
新海誠の映画は、作画が綺麗だ。
東京も地方も、現世はかなり美化され、美しく描かれている。
そのため「現世は素晴らしい」と錯覚させ、岩戸鈴芽も宗像草太も、美しい世界である現世に戻れたという点で、ハッピーエンドと誤解するけどよ。
「現世は素晴らしい」という前提がそもそも、リアリティを失ってるんだよ。
そしてルッキズム全開の鈴芽。
冒頭、すずめが故郷の宮崎を自転車で走っている時に、草太とすれ違う。
思わずその容姿に魅了され、少し話をして一度はすれ違うも、気になって学校に行かず、後戸がある廃墟まで行ってしまう。
「イケメンと出会って、ハッピー、恋の始まり!」的な要素入れときゃあ、間口が広がるってか?まあそうだよな。
やっぱりとりあえず美男美女にしとけっつーのはあるよな。
芹澤朋也(神木隆之介)だってそうじゃん。
草太が閉じ師のロン毛スピリチュアル系イケメンだとしたら、芹澤はチャラ男パリピ系イケメンじゃん。
東京の大学に通って、アルファロメオになんて乗ってんだからよ。
ドクロの指輪してるやつが、教員になんてなるかよ。
「耳をすませば」でも結局、杉村は月島雫にフラれたよな。
ヴァイオリン弾いてるのが天沢聖司じゃなくて杉村だったら、雫は惚れるのかー?ってね。
「地方の女の子が都会のイケメンを手に入れる」という物語を供給し、女性のリビドーを疑似体験的に満たしてあげる。
まさに男性の性的消費が含まれている映画だと言えよう。
そしてやたら、昭和歌謡を流す。
すずめと環おばさん、芹澤、ダイジン&サダイジンで、東北の故郷にある後戸に向かって車を走らせるシーンだよ。
こんなチャラいやつが昭和歌謡なんて聞いてるのか?ほんと。
日本人のノスタルジー、琴線に触れさせよう、という演出上の設定か?
だから芹澤のキャラにハリボテ感がある。
リアリティがない、芹澤の存在に。
まあそれは些末な話だが、結局はシン・エヴァの結末同様、直線的時間の現世礼讃、永遠回帰の常世否定。
すなわち、資本主義社会礼賛のプロパガンダ映画の側面を持つ。
いいかげん「現世は素晴らしい」という前提は捨てたらどうだ。
描くなら最後まで描けよ、現世を。
教員試験をさぼった草太は、就職する機会を失い、派遣やバイトで食いつなぐ日々。
面接で「閉じ師」ですと言っても「何言ってんのコイツ」と一笑され、どこも雇ってもらえない。
民俗学や宗教学で、大学の講師の仕事を求めているが、文系でポストは少なく、ありつけても非常勤。
高学歴ワーキングプアとして、日に日に荒れていく草太。
宮崎から上京した鈴芽は、閉じ師として現世では全くメシが食えない現状に苛立つ草太を献身的に支えるが、日に日に荒れていく草太はDV彼氏と化す。
痣だらけとなって嫌になったすずめは、常世の世界に逃げようと、故郷の東北にある後戸を探す。
しかし復興工事により既に後戸は撤去され、鈴芽は一人、途方に暮れる。
それがリアルだろうが、現世の!
次回作はぜひ期待したい。
「現世はすばらしい、現世で精一杯、生きていこう」みたいな説教臭いオチはもういいよ。