逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「ネオシーダー」「月曜日のたわわ」広告等にある主体性を簡単に剥奪されていることに対する嫌悪感

「月曜日のたわわ」問題を掘り進めることで、「キモい」という抽象化によって自身の嫉妬心や過去の嫌な記憶等のネガティブな感情を隠蔽するルサンチマンを発見することができた。

しかし抽象化による隠蔽とは別にもう1つ、「キモい」という言葉について判明したことがある。
今日はその研究結果について披露したい。

まず、たわわ広告の問題について調べている中で「「月曜日のたわわ」広告、実際に日経新聞の紙面を見た感想(5/2最終追記)」という記事を見つけた。

hepta-lambda.hatenablog.comid:hepta-lambda さんによると、たわわ広告の「場違い感」や、広告において「現実で犯罪とされていることはフィクションでも規制されるべき」否か等、興味深い内容だったが、最も気になったのネオシーダーの広告についてだった。
なぜこの広告がダメなのか?という点で、自分は全く理解できなかった。どうしても知りたい好奇心で、ブクマしつつ聞いた。

「月曜日のたわわ」広告、実際に日経新聞の紙面を見た感想(5/2最終追記) - hepta-lambda’s blog

ネオシーダーの広告に対する嫌悪感について教えてほしいです。タイプの女性店員さんに接客されて気持ちが高ぶる、風邪が治る気がする。これは男女逆でもあり得ると思いますし、自然な反応なような気もします。

2022/04/30 17:25

b.hatena.ne.jpすると返信してくれた。「一番キツいなあと思うのは男性が声に出して「わっ、オレの好み!」って言ってるとこ(セクハラやんけ)と、それを受けた女性店員がニコニコ笑顔で男性を見送っているところですかね。」と。
ああ、確かに!と思った。
これは確かにジェンダーステレオタイプの押しつけ、ではあるかもなと。

てっきりこの広告における「わっ、オレの好み!」というのは心の声かと思ったけど、コマをよく見ると実際に発話しているな。それでこの男性の性的まなざしに対して「笑顔」という行為を行う女性を描くことで、男性のセクハラ発言を何の抵抗もなくというか進んで受容したという点で、この女性は主体化=隷属化させられたことになる。

ではなぜこのネオシーダーの広告が気持ち悪いかというと。
男性は、自分の発言を笑顔で全肯定してくれる「都合のいい女性」を求めているという点で性的消費をしている点。
これは、「コックぅーン」が炎上したケースとも似ている。

allabout.co.jp四コマ漫画で解像度が低いから、ネオシーダーは炎上しないんだと思うけど。
そして、女性の方も気持ち悪くて、それは男性の性的まなざしを何の抵抗もなく受け入れているという点だろうな。

「そういう性的なまなざしはやめましょう」「いや表現の自由は尊重されるべきです」等、この問題を掘り進めていくとジェンダー論や権力論等、問題が広範囲に広がってくる。

「生物学的な性」(sex)と「社会的な性」(gender)に差異は無い、それは疑問だ、という説がある。ジュディス・バトラーとかか、自分はその人ぐらいしか知らない。
「男の子」や「女の子」という区分も、生物学や政治的な権力によって構造化されているみたいな話だ。

「女の子だ」という名づけが他動的であるかぎり――すなわち「女の子化」といったものが強制されるプロセスを起動するものであるかぎり――「女の子」という言葉、いやむしろその象徴的力は、身体として行為される女性性の形成(しかしけっして完全に規範どおりにはならない)を司っている。しかしこれこそが、生存可能な主体の資格を得てそれを維持するために、規範の「引用」を強いられる「女の子」なのである。女性性とはこのように、けっして選択の産物ではなく、むしろ規範の強制的な引用であり、しかもその規範に備わる複雑な歴史性は、規律・規制・懲罰の関係と不可分なものである。
ジュディス・バトラー「問題=物質となる身体」Bodies That Matter)

そして人間は、異性愛文化の中に参入させられる。
もちろん、ダイバーシティ等のイデオロギーによって、個々人の意志や主体性や人権は尊重されているように思えるケースもある。しかし実際には、異性愛文化が猛威を振るう現実がある。

禁止、否認、喪失が、異性愛の自我形成の基礎をなし、異性愛者も同性愛者も、おそらくは原初の同性愛的愛着の喪失が嘆かれないジェンダー・メランコリーの異性愛文化のなかに生きている(「権力の心的生」The Psychic Life of Power 139)。
「権力の心的生」において、悲嘆は単なる隠喩ではない。「喪とメランコリー」における心的喪失に関するフロイトの記述と、同性愛的愛着の喪失を嘆くことが困難な現代の異性愛文化を、バトラーは比較する(PLP 138)。「エイズの猛威」による「無数とも思える死」を悼む公の場や言葉がないことを徹底的に示すのが、この文化的な無力さであるとバトラーはみなしている(PLP 138)。
これは辛辣な主張であるが、比喩的にも現実的にも悼みがなされないということは、異性愛の主体は自分が「喪失」したものに気づいてはいても、それを認めて公言することはできないが、したくないのだということを暗に示していると解釈できるだろう。
(「ジュディス・バトラー (シリーズ現代思想ガイドブック) [ サラ・サリー ]」p227-228)

異性愛は否認された同性愛から出現するが、同性愛は異性愛文化の維持のために保持されるって話だな。「マイノリティ」であることを認定されたり自認することによって、それがマジョリティになる可能性は剥奪される。

もし、「異性愛」や「同性愛」といった言語的な区分けがなければ、マジョリティやマイノリティといった概念が未分化の社会であれば、同性愛が禁忌としてマイノリティに追いやられる社会にはなっていないかもしれない。

ではなぜ異性愛文化は尊重されるのかというと、それは生物学的に自然で親和性があるから等の理由もあるかもしれないけど。異性愛が資本主義の発展に寄与するという理由もあるはず。前に国家のイデオロギー装置が人間により一層のルサンチマンをもたらしたの記事でも書いた。

ネオシーダーの広告は、資本主義を発展させる主体として、非常に都合がいい。異性愛を実践する主体として、男性の性的な「呼びかけ」に対して、女性は「笑顔で応じる」。お互いにリビドーを鼓舞させている。ドライブ・マイ・リビドーって感じ。子どもという労働力を生産し、国家の発展に寄与するだろう。

しかし「呼びかけ」に応じないケースもある。
単に「性的に消費しないで」だけではない。
その理由のみには収束しないし、「異性愛文化のイデオロギーを押し付けないで」みたいな、小難しい政治的理由での拒否反応ではない。

上記のジェンダー概念に関する議論、異性愛と同性愛についての議論を踏まえた上で、ネオシーダーの広告に、「ジェンダーステレオタイプがなぜ嫌か?」の問題設定に、戻ると。
そもそも"ジェンダーステレオタイプ"という概念や存在自体が、疑わしい。
ジェンダーというのは社会が生み出した言語的概念に過ぎない、というと乱暴すぎる極論かもしれないが、その可能性も無きにしも非ずだ。

仮にジェンダー概念が無い場合、「ステレオタイプがなぜ嫌か?」となる。
そうすると、この「月曜日のたわわ」や「ネオシーダー」の広告に、男女間の関係性とは異なる、別次元の問題が立ち現れる。

それは「呼びかけ」という他者からの主体化に対して、「それに軽々しく応じる」という、自立心の欠如。
そこに嫌悪感があるのかもしれない。

「月曜日のたわわ」広告は、男性のリビドーが備給(性愛エネルギーを特定の対象に向ける行為)されている生産物だ。
その男性からの性的要望に、軽々しく応じている女性が描かれている。
男性からの同一化に応じ、自身のアイデンティティを無い傀儡人形のように見える。

「性的対象としてまなざす男性」と同時に、それによって「傀儡人形になった女性」「主体性を剥奪された女性」に同一化して、ないしは無意識に同一化してしまうことによって、女性は嫌悪感を抱いているのではないかと考えた。

この「主体性を剥奪されることを拒否する」感情は、女性、男性問わず、発生している。

何年か前に流行った「自分探し」等にも垣間見れるように、人間は自分の自己同一性を安易に限定したがらない。
カイジの例もある。「本当のオレ」をいつまでも遅延させる。

(引用元:賭博黙示録カイジ 7 [ 福本伸行 ]


この前、紹介した漫画「普通の人でいいのに!」のオチもそうだ。
それをすると、自分の限界を把握することになり、自尊心に影響が及ぶからだろう。

結論を言うと、「月曜日のたわわ」を見て抱く感情の中に、別の感情があった。以前話した「男性からのまなざしに対する嫌悪感」「嫉妬心をはじめとするネガティブな感情を払拭するルサンチマン」 だけではなくて。
B'zの歌「ゼロがいい~」みたいな、プラスやマイナスになる面倒な感情が湧かないようにするための抽象化による抑圧もある。

そして今回、発見したのが、男女等の概念の影響とは別の、他者からのラベリング、主体化に対する嫌悪感だ。
これはルサンチマンの呼吸の拾壱ノ型「主体化=隷属化からの逃走」として、明記しておこう。

人間のネガティブな感情に対する反応、ルサンチマンとしてあり得るからな。