KIRINJI feat.鎮座DOPENESSの「Almond Eyes」に、「身体中の血が集まってくる」という一節がある。
このような感覚。誰しもあるよな。
怒りを感じた時とか。
血が濁流となって体中を駆け巡り、呼吸や脈拍が変化する。
この記事のA子も、そうなのかもしれない。
note.com私は脅しに屈すると思われたくないので、毅然としていられるよう努めましたが、手足の震えが止まらず、歯がカチカチ鳴るのが止められなくて、過呼吸を起こしました。涙が止まらなくて悔しかったです。
所属事務所、撮影現場や配給会社のプロデューサー、監督、制作会社が起こした、「黙殺」という暴力。
俳優の人権を蹂躙していることに気付かず、気付いていても気付かないふりが出来る。ジョジョでいうところのプッチ神父のような、「自分が悪だと気づいていないもっともドス黒い悪」だな。
(ジョジョの奇妙な冒険 第6部 モノクロ版 10 [ 荒木飛呂彦 ])
ニーチェでいうところの「金髪の野獣」だろう。憐憫や慈愛の欠片もなく自らの価値(映画の完成、マネー資本主義)を実行する、善悪の彼岸に佇む存在。
もしかすると、悪もストレス共有化と同じように、集団化することによって、一人一人が「悪いことをしている」という意識が分散して希薄になるのだろうか。
とにかく、このような血液が沸騰するぐらいの激情に襲われた時は、ルサンチマンによる現状肯定で心の平穏を保つことも難しくなる。
ちびまる子ちゃんのヒロシみたいに、テレビで植木等の「そんなことどうでもいいじゃねえか」「そのうちなんとかなるだろう」という歌を聴いて同一化し、現状肯定するようなルサンチマンで抑制することはできない。
北斗の拳で例えると、トキのような平和や調和をもたらすルサンチマンではなくて、ケンシロウやラオウのようにもっと攻撃的な、現状を打破する力への意志が必要だということよ。
ストレス共有化のルサンチマンによって、一時的にはその出来事に折り合いをつけられる場合もあるが、ふと思い出した時、その時の激情が蘇る。
「Almond Eyes」の歌詞のように、瞬きをする意識がある時は、バタフライ・エフェクトによる感情の竜巻の発生から逃れることができない。
フラッシュバックに襲われるのも無理もない。
ではこのような悲劇に立ち向かうには、どうすればいいか。
そこに、ルサンチマンから脱して真理を追求する「力への意志」がある。
「力への意志」の中で、ニーチェはこう述べている。「〈真理〉は、なにかそこにあって、ただ見つければいいもの、発見すれば済むものではなく、創造しなければならないもの、そしてあるプロセスの名前、いやそれ以上に、終わることを知らない征服への意志の名前なのである」(「力への意志」552)。
真理とは実際には「力への意志を言い表す単語である」。生の力がより強ければ強いほど、生存についての自己のヴィジョンを世界に押しかぶせる能力も増大する。
ニーチェが価値と呼ぶものは、客観的ないし絶対的真理に相応するものではなく。ある存在が自己のうちに吸収し、次に変形しうる「力の最高量」を表している(「力への意志」713)。
この意味で価値は何らかの反応的な次元を持っている。なぜなら、価値は生の条件を維持するさまざまな方法だからである。真理への形而上学的な信仰は、価値の確定にとって不可欠である。なぜなら、「真理」は、力の量を道徳的および倫理的な質へと転化することにあるからである。特定の条件の中で発生した価値が権威を持つための最も簡単な方法は、なによりも自己の上昇の歴史を消すことであり、自らを「人間」の「特性」および無時間的真理として提示することである。
(フリードリヒ・ニーチェ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ リー・スピンクス ]p255)
忍従や現状肯定で日々を過ごすルサンチマンで解決することができないほど、感情が蹂躙されて焼き尽くされ、渇きが生じている。その渇きから逃れることはできない。のであれば、真理を創造して渇きを満たすしかない。
よく、ニーチェの「力への意志」という概念は、ナチスドイツ、ヒトラーによって通俗的に誤って解釈され、ユダヤ人迫害を正当化するように悪用された。
でもそうじゃないと。金髪の野獣たちによる力の行使に立ち向かう反応的な存在、映画の撮影現場で起きている俳優への人権蹂躙に勇気を持って立ち向かう俳優たちも、力への意志の実践者だ。
憐憫に対してニーチェが厳しい拒否の態度を取るのは、そこに力への意志の否定的側面が現れていることによる。自己を憐れむのは、本人の性格の中の弱さを維持するためである――それは、本当はむしろ克服せねばならないものなのに。また、他人に憐憫を感じるのは、一定の恩着せがましさを、そして、自分が力において優越しているという意識をなにがしか含んでいる。
こう言ってもいいかもしれない。力への意志の否定的側面は、力のある特定の配置(他の人々、国家、貴族的文化などなど)からの逃避に由来しているのだ、と。
反応的な存在も能動的な存在もともに力への意志を表現している。前者から後者への移行が起きるのは、ある存在が自己自身を克服し、力の不均衡な配置の中で優越性を獲得するときであって、生の退化的なあり方の効果として生きているときではない。こうした理由から、単純に自律的個人を力への意志の最高の現れと想定するのは、まちがいである。
(フリードリヒ・ニーチェ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ リー・スピンクス ]p256-257)
撮影現場で起こったこと、これは、悲劇だ。
だからといって、それを忘れようとしても、どうしても忘れられない激情があった。
だったら、その悲劇的実存を受け入れ、その激情に応えて行動することも、自分を守る選択肢として正しいだろうな。
世界を力への意志として経験する強さを身につけるためには、生についての悲劇的パースペクティヴを展開しなければならない、とニーチェは論じる。彼の初期の著作を思い出せばわかることだが、「悲劇」と言っても悪しき運命に忍従するという古典的な意味で理解してはならない。逆にニーチェの晩熟期の思索が示しているように、悲劇的に生きるということは、いかなる生の形式をも構成しているさまざまな力の営為全体に自己の解釈を押し通す強さを持つということである。
(フリードリヒ・ニーチェ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ リー・スピンクス ]p262)
この力への意志の行使によって、俳優(俳優に関わらず立場の弱いスタッフ)を守る中立的立場の第三者機関が、できたらいいよね。