逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

痴漢行為者や未遂者の意識は「社会的機械」による器官の組織化と「器官なき身体」の闘いの狭間で悶絶する

痴漢加害者の記事を読んだ。

b.hatena.ne.jp加害者の「彼女が欲しいけど、うまくいかなかった」というのは、遠因としてあり得ると思った。
その性衝動の抑圧によるストレスの代償行動として行う。
このブログで紹介しているルサンチマンの実践である陰性転移に似ている。
ただその場合、このケースの説明がつかなくなる。

b.hatena.ne.jpもし痴漢加害者は「彼女無し/彼女を作れない抑圧されている男性」が多いという仮説が真実味を帯びる場合、この妻子持ち加害者に対する説明にはならない。

ではどのような理由で、痴漢行為に至るのか。
それを今回は、ドゥルーズガタリ精神分析で説明する。

〈それ〉はいたるところで機能している。中断することなく、あるいは断続的に。〈それ〉は呼吸し、過熱し、食べる。〈それ〉は排便し、愛撫する。〈それ〉と呼んでしまったことは、何という誤謬だろう。いたるところに機械があるのだ。決して隠喩的な意味でいうのではない。連結や接続をともなう様々な機械の機械がある。〈器官機械〉が〈源泉機械〉につながれる。ある機械は流れを発生させ、別の機械は流れを切断する。乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である。拒食症の口は、食べる機械、肛門機械、話す機械、呼吸する機械(喘息の発作)の間でためらっている。
こんなふうにひとはみんなちょっとした大工仕事をしては、それぞれに自分の小さな機械を組み立てているのだ。〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があり、常に流れと切断がある。 (『アンチ・オイディプス(上) 資本主義と分裂症 (河出文庫) [ ジル・ドゥルーズ ]』p15)

機械は隠喩ではないと。
ドゥルーズガタリは、肛門機械や器官機械があると言っている。
乳房も機械であり、口もそれに接続する機械だと。
もしかすると、人間は口機械を乳房機械に接続してミルクから栄養を補給するという原体験があるがゆえに、乳房の形状や勾配に興奮し、「月曜日のたわわ」のようなコンテンツに惹かれるのかもしれないね。

欲望が何かを生産するとすれば、それは現実を生産するのだ。欲望が生産者であるとすれば、欲望はただ現実において生産者であり、現実の生産者なのだ。欲望は、こうしたもろもろの受動的綜合の総体であり、これが部分対象を、またもろもろの流れと身体を、機械として組織し、みずからの生産の単位として作動する。現実的なものは欲望から生ずるのであって、それは無意識の自己生産にほかならない欲望の受動的総合の結果である。欲望には何も欠けていないし、対象も欠けていない。欲望に欠けているのはむしろ主体であり、欲望は固定した主体を欠いているのだ。

ただ抑圧によって、固定した主体が存在するだけだ。

欲望とその対象とは一体をなし、それは機械の機械として、機械をなしている。欲望とは機械であり、欲望の対象もやはりこれに接続されたもうひとつの機械である。したがって、生産物は生産する働きから採取される。そして生産する働きから生産物に移行するプロセスで、何かが離脱し、これは遊牧し放浪する主体に残余を与える。

欲望の客体的存在は〈現実〉そのものなのである。
(『アンチ・オイディプス(上)』p58)

欲望には主体が無い。
ということは、自分の意志によって「触りたい」と考え、電車で痴漢に及んだわけではないと。
後述するが、これは痴漢加害者に責任回避の口実を与えているわけではなくて、人間の欲望に非人間的なものがあるという話ね。

欲望機械の生産する働きによって、人間という生産物が生まれ、人間という現実が立ち現れる。

欲望は現実的なものを生産する、つまり欲望的生産は社会的生産と別のものではない、これが私たちの原理なのである。欲望に対して、特有な存在形態を認め、社会的生産の物質的現実に対立する精神的あるいは心理的現実という存在形態を認めることなど問題外である。
欲望機械は、こうした幻想的あるいは夢幻的機械ではないのだが、幻想的、夢幻的機械は、技術的かつ社会的機械と区別され、むしろこれらの機械を裏打ちするものとみなされている。
もろもろの幻想は、むしろ二次的な表現であり、こうした表現は、与えられた環境における欲望機械と社会的機械の同一性から派生してくるのである。だから、幻想は決して個人的なものではない。それは制度論的精神分析がいみじくも指摘した通り、あくまで集団幻想なのである。
(『アンチ・オイディプス(上)』p63-64)

ここで言ってる幻想的、夢幻的機械は、「月曜日のたわわ」とかの漫画や、文化的活動から生まれる生産物等のことを指すだろう。
欲望機械と社会的機械から派生したものだし。

なぜ派生したものか?というと、ここでいう社会的機械ってのは、欲望機械に接続し、影響を与える機械だからだ。
上記で紹介したアンチ・オイディプスおよび「千のプラトー」で、3つの社会的機械(原始土地機械、専制君主機械、資本主義機械)の話がある。

社会的機械は、法規範だったり警察だったり、アルチュセールがいう国家の抑圧装置やイデオロギー装置だと捉えてくれたらいい。
イデオロギー装置の話はした。抑圧装置の話はしてないが、本題から逸れるので割愛。

つまりドゥルーズガタリによると「あらゆる機械は、機械の機械である」ゆえ、社会的機械は、人間の諸々の欲望機械、器官機械に接続する。
そして痴漢を行った加害者に対して、「刑罰」という社会的機械を、欲望機械の産物である人間に接続する。

したがって大地機械は、社会体の最初の形態であり、原始的登記の機械であり、社会野を蔽う「メガマシン」である。大地機械は、もろもろの技術機械と同じものではない。

技術機械は、手動的といわれるような最も単純な形態においても、すでに、作動し伝達しあるいは動力として働きさえもする非人間的な要素を含んでいる。この要素は、人間の力を拡張し、ある意味で人間を解放する。これとは逆に、社会的機械は人間を部品として扱う。

たとえ、人間を彼らの使う機械とともに考察し、作動、伝達、動力のあらゆる段階において、彼らをひとつの制度的モデルの中に統合し内部化するとしても。こうして社会的機械は記憶を形成することになる。
(『アンチ・オイディプス(上)』p265)


ドゥルーズガタリは欲望の中に「非人間的なものがある」と捉えていた。
西洋哲学そして精神分析の系譜における、プラトンの「イデア」、カントによる「理論理性」「実践理性」、ヘーゲルによる「絶対精神」、フロイトによる「オイディプス・コンプレックス」「自我」等…これらはすべて、人間の精神を超越的な概念のようなものに還元していると批判した。

そうではなくて、非人間的な欲望機械、器官機械、社会的機械など、機械と機械の接続によって生産される現実が人間の意識だとしたって話ね、たぶん。

精神医学は長いあいだ、収容所と裁判所との二重の関係のなかで、理性、権威、権利の名のもとで語る規範的な規律であった。次に精神分析が解釈的規範としてやってきた。内部での狂気、倒錯、神経症、「エスが言いたいこと」が追及された。われわれは今日、新たな機能主義の権利を要求する。つまりもはやエスが言わんとすることではなく、どのようにエスが作動し、エスが機能しているかということである。

あたかも欲望が何も言わないのではなく、大きな社会的機械や技術的機械との特殊な関係のなかでつねに、小さな機械の組合せ、欲望機械であったかのように。

君の中の君の欲望機械とは何か。難解で美しいテキストの中で、マルクスは、単に人間の二つの性、男性と女性との関係としてだけではなく、「人間の性と非人間の生との」関係として、人間の性関係について考える必要性を喚起していた。彼はあきらかに動物を考慮していたのではなく、人間の性的関係のなかにある非-人間的なものについて考えていたのである。すなわちそれは欲望機械である。

おそらく精神分析は、その幻想や夢の概念の中にまでそれを性的関係の擬人化観念のままにとどまらせていた。現実のマゾヒスト機械(現実のパラノイア機械、スキゾフレニー機械などもまた存在するのだ)を示しているピエール・ベニシュウのそれのような模範的な研究は、人間におけるそのような機能主義の、あるいは分析の、そして「非人間的な性」の道をつくっている。
ジル・ドゥルーズ『無人島1969-1974―「君のなかの君の『欲望装置』とはなにか」』p209)

そし諸々の諸機械の接続によって生み出される欲望を、「器官なき身体」とした。

というのは、ぼくはぼくの方で、「快楽」ということばにはほとんど耐えられないときている。ではなぜ。
ぼくにとって、欲望にはなにも欠けるところがない。さらに欲望は自然な与件でもない。欲望は機能している異質なもののアレンジメントと一体になるだけだ。それは構造や発生と違って、プロセスだ。感情とは違って情動だ。主体性とは反対に「此性(しせい)」だ(一日がもつ、一つの生がもつ個体性)。事物や人とは違って、出来事だ。

そしてなによりも欲望は、強度、閾、勾配、流れの諸ゾーンだけが決める、一つの内在性の場、一つの「器官なき身体」だ。
この体とは、生物学的なものでも、集団的、政治的なものでもある。

諸々のアレンジメントができたり壊れたりしていくのは、この体の上であり、諸々のアレンジメントの脱領土化の諸先端、諸逃亡線を戴いているのもこんな体だ。この体は変化する(封建制器官なき身体は資本主義の器官なき身体と同じではない)。これを器官[オーガン]なき身体と呼ぶのは、あらゆる組織[オーガナイゼーション]の地層、有機体[オーガニズム]の組織だけでなく、諸権力組織にも対立するからだ。まさしく体に対する諸々の組織化の全体が、内在性の図面[プラン]もしくは場を砕き、器官なき身体をそのつど地層化しながら、欲望に、もう一つの図面[プラン]を強要するのだ。
ドゥルーズ『狂人の二つの体制1975-1982』p180-181―欲望と快楽)

ここで「最強伝説黒沢」という漫画における、痴漢未遂のシーンを見てみよう。

(引用元:最強伝説 黒沢 2 [ 福本伸行 ]

ここでは、社会的機械の組織化作用(法律による痴漢の抑止)が黒沢の欲望機械に接続されることで、その淫乱な手=器官機械は抑制される。
ただ漫画における黒沢は、触りたいと思った。触ろうとした。

社会的機械は、黒沢の欲望機械に図面[プラン]を強要する。
黒沢の器官機械は、社会的機械によって、下流工程へ追いやられる。欲望は抑止され、器官なき身体は地層化されてしまう。

黒沢然り、人間は「器官なき身体」を持っている。
器官なき身体の上で、人間は悶絶する。
どうせ触れないなら「腕」という器官に、意味はあるのだろか?

器官なき身体は死のモデルである。ホラーの著者たちがよく理解していたように、死は緊張症のモデルになるのではない。緊張症的な分裂症が死にモデルを与えるのである。まさにそれは強度=ゼロである。死のモデルが現れるのは、器官なき身体が器官を拒絶し廃棄するときである。―――口もなく、舌もなく、歯もなく・・・・・、みずから手足を切断し、自殺にまで至るときである。

ところが器官なき身体と、部分対象としての器官との間に、じっさいに対立は存在しない。唯一の現実的対立は、この両者の共通の敵であるモル的有機体との間にあるだけである。

欲望機械の中には、不動の推進機によって鼓舞される同じ緊張症患者がいる。この推進機に強いられて、彼は器官を廃棄し、固定し、沈黙させ、また自律的なあるいは紋切り型の仕方で機能する作動部品にうながされて、器官を活性化し、器官に局所的な運動を吹きこんだりする。

欲望制止された器官、器官なき身体に人間は耐えられず、タナトスの性質を帯びていく。
ニーチェにおいて、タナトスが現前する契機は、ルサンチマンが機能しなくなり、自我が崩壊する嫉妬の極限だった。

ドゥルーズガタリにおいては、欲望機械、社会的機械、諸々の諸機械の接続によって、欲望機械の諸接続や切断によって現れた人間は分裂症の様相を帯びていき、器官機械が器官なき身体となっていくときに、タナトスが立ち現れる。

なぜ分裂症かというと、黒沢の手(器官機械)および黒沢を構成する欲望機械は、胸や尻を求めたが、その欲望機械には社会的機械も接続されているため、器官機械はその機能を発揮することができない。
器官機械は、器官としての役割を奪われ、身体だけが残る。

身体は、器官機械が求めていた働きをすることができず、器官なき身体になる。

人間は生物学的には臓器等の器官を持つが、欲望機械としての器官の働きは有機体によって地層化され、十全に機能せず、常に器官なき身体として生活している。

われわれはしだいに、器官なき身体は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。器官なき身体は器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。

アルトーは確かに器官に抗して闘う。
しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要とはしない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。

器官なき身体は、器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない「真の器官」と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。神の裁き、神の裁きの体系、神学的体系はまさに有機体、あるいは有機体と呼ばれる器官の組織を作り出す〈者〉の仕事なのだ。

なぜなら、〈彼〉にとって、器官なき身体は耐え難いものであり、〈彼〉は、器官なき身体を追いかけ、これに先行し、有機体を先行させるため、器官なき身体の息の根をとめてしまうからだ。有機体自身がすでに神の審判であり、医者たちはこれを利用し、これから権力を盗むのだ。

有機体は身体でも器官なき身体でもない。それは器官なき身体の上にある一つの地層、つまり蓄積、凝固、沈澱などの現象にすぎない。この現象は、形式、機能、支配的な階層化された組織、組織化された超越性などを器官なき身体に強制し、そこから有益な作用を取り出すのだ。

地層は絆であり、ペンチである。「私を縛りたければそうするがいい。」われわれはたえまなく地層化される。しかしこの〈われわれ〉とはいったい誰だろうか。それは〈私〉ではない。主体は有機体と同じく地層に属し、地層に依存するからだ。今ならこう言うことができる。〈われわれ〉とは器官なき身体である。有機体、凝固、褶曲、転倒は、器官なき身体の上に、つまりこの氷河のような現実の上に形成されるのだ。

神の裁きが重たくのしかかり、そしてその裁きが下されるのはこの器官なき身体の上、裁きを受けるのは器官なき身体である。器官なき身体の内側でこそ、器官(オルガヌ)は有機体(オルガニスム)と呼ばれる構成関係に入るのだ。器官なき身体は叫ぶ。おれは有機体を強いられらた。不当にも俺は折り畳まれてしまった。おれの体は盗まれた。
神の裁きは、器官なき身体をその内在性からはぎとり、これに有機体、意味作用、主体をでっちあげる。まさに器官なき身体が地層化されるのだ。だから器官なき身体は二つの極の間で振動する。器官なき身体を折り曲げ、屈服させてしまう地層化的表面と、器官なき身体を展開し、実験に向けて開く存立平面とのあいだで振動するわけだ。そして器官なき身体が一つの極限であり、われわれがいつまでもこれに接近し続けるとすれば、それは、一つの地層の後にはいつも他の地層があり、一つの地層は他の地層の中にはめこまれているからだ。神の裁きを成り立たせるには、有機体だけではなく、他にも多くの地層が必要だからだ。器官なき身体を解放し、すべての地層を横断し解体する存立平面と、器官なき身体を閉じこめ、折り畳んでしまう地層化的な表面との間には、たえず烈しい闘いがある。
(『千のプラトー [ ジル・ドゥルーズ ]』p182-183)

器官なき身体は〈私〉ではない。
有機体、意味作用、主体をでっちあげられた存在ではなく、<われわれ>だと。
複数形なのは、人間が諸々の欲望機械の接続や切断によって立ち現れた現実だからなのかもね。

そろそろ結論にする。
つまり痴漢をしてしまう人は、社会的機械に接続された「電車の中で痴漢してはいけない」等の器官の有機化に対して、器官なき身体が強く抗っている。
器官の有機化が果たされず、器官なき身体が優勢になっているということになる。

わかりやすい似たような話に、人間の感覚器について言及している人がいる。

machikun.la.coocan.jp感覚器という物理的なものが、人間の観念的な意識の形成とかコントロールまで及んでいるみたいな話。
微分積分は高校の時にやっただろうけど全部忘れたから、よくわからんけど。
ただ、人間の感覚は刺激の絶対値ではなく、変化に対応するもの、微分係数の変化をとらえるのが目的という話は興味深いし。
もしそうならば、人間の幸不幸は相対的な要素に依存していて、それは人間の感覚器の性質によるってことになる。

これはドゥルーズガタリの機械概念に極めて近い気がする。
自意識とか自我といった、人間の理性的なものが身体をコントロールしているのではなくて。
欲望する器官機械が全体を構成して、その機械の接続と切断によって生まれる現実が器官なき身体である人間だっていう。

では痴漢をなくすためには、器官なき身体有機化するには、どうすればいいのか。
それは簡単なことではないだろう。

認知行動療法は、器官機械が、他者の乳房や尻等の器官機械に接続される機会を減らすという点で、有効かもしれない。
だけど器官なき身体は、叫び続けてしまう。
「俺の体を返せ」と。
本来の器官機械の欲望を果たそうと、器官なき身体になろうとも、器官の有機化と闘い続ける。

ではどうするか。
器官を廃棄するのか。ハッド刑のようなことをするのか。
ボクサーが、不倫相手の器官を強制的に切り落とし、器官機械が別の機械に接続できないようにした事件もあった。

b.hatena.ne.jp物理的には痴漢を抑止することはできるかもしれないが人道上、現実的ではない。

器官機械に接続しないように、顔や乳房や尻が歪んで見えるようなメガネを作って、電車に乗るときはそのメガネをかけて欲望機械の機能を抑えるとかか。
VRの仮想空間とかで、器官なき身体有機化から解放してあげるとかか。
荒唐無稽なアイデアかもしれないけど。

加害者本人に出来ることは、もちろん認知行動療法もあるかもしれないが。
でも正直な気持ち、申し訳ないとか、やってしまったことへの反省や後悔はもちろんあるのですが、どこかで他人事みたいなのはあるんです。」と述べている人もいるように、自分の意志でどうにもならない器官なき身体があり、全器官に欲望が宿っているし、器官なき身体は器官機械の欲望を果たそうと連帯する。
そのため、全器官に意識を向ける必要がある。

わかりやすい例でいうと、「進撃の巨人」でライナーが、全身の神経に意識を移すことでリヴァイの一撃から生還したように。

(引用元:進撃の巨人(19)[ 諫山創 ]

痴漢という一撃を加えないようにするため、自分自身で器官を有機化するように仕向けていく。
片手でスマホを持ち、片手で吊り革を持って、手という器官機械の機能を奪う。
器官機械の欲望を別の機会で果たし、電車で機能しないようにする。
自分を責める必要はない。

というと被害者は「ふざけるな!」となるかもしれないが、「自分が悪いんだ」という、曖昧な自己嫌悪では問題の解決から遠ざかる気がする。

"自分"ではなく、自分は欲望機械の集合体である"われわれ"であると認識し、各器官に意識を向けて、機能しないことを意識する。

という自己暗示と、具体的な器官の働きを無くす実践で、うまく抑えられたらいいかもしれないけど、そんな簡単な問題ではないかもしれないね。