逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

藤井風「Lonely Rhapsody」「青春病」「Grace」におけるサイババの思想との共通点の考察から人間が「私」を切り離すのが困難な存在であることを知る

藤井風の音楽をよく聴いている。
俺は彼が紅白に出る前から、メジャーデビューする前から聴いていた。
惹きつけられていた。
「何なんw」は、50回は聴いただろう。

www.youtube.comと、こういったマウンティング、「インディーズの頃から応援してました」みたいな古参マウンティング、俺は嫌いだけどね。

てめーはただの消費者だろうが!

ってね。
一喝してやりたくなる。
既に一喝してたわ、過去の自分でもあるからな。

サブカルクソヤローがなぜむかつくのか-あるいはオタクとニャル子とディスタンクシオン - 技術教師ブログ

ヴィレバンにいる私の感性どや、美術館にいる一般的な娯楽に染まってない私どや、ってね。昔の自分はまさにサブカルクソ野郎。何も生み出せない、ただの消費者のくせにね。卓越性が手に入ってると勘違いしてたな。

2022/11/30 00:45

b.hatena.ne.jp

gyakutorajiro.comにも関わらず、文化的な闘争による自己の差別化(ディスタンクシオン)、消費活動でマウントを取ろうとする輩が多い。
「普通の人でいいのに!」の主人公の田中未日子(みこ)は、村上春樹だのノア・バームバックの映画だのお笑いだ下北だ奥渋だ神保町の古本だインディーズバンドだと、消費によってしか自己実現できない女性だ。
特に社会に影響を与えるようなものを生み出したわけじゃない。
コンシューマーであってクリエイターではないんだよね。
趣味を極めて、みうらじゅんや「マツコの知らない世界」の出演者みたいな、クリエイティブな存在にまでも至れてない。

カイジ利根川も言ってるだろうよ。

懸命に働いたわけでもない…………何も築かず……何も耐えず……何も乗り越えず……ただダラダラと過ごし… やったことと言えばほんの十数分の余興… なめるなっ…!

(引用元:賭博黙示録カイジ 7 [ 福本伸行 ]

と。クリエイターとして何かを築くことができないから、コンシューマーとして何かを消費するだけしか出来ない。

コンテンツを貪る、ただの消費活動で自分が崇高な存在になれるなんて甘いぜ。

togetter.com2016年に、既にその現実を突き付けた別の人もいたり。

anond.hatelabo.jpにも関わらず、そのチンケな消費活動によって自分を差異化し、ハリボテのディスクタンクシオンで自分が優位になった気になり、他人にマウンティングする哀れな人間。

そんなので風民(藤井風ファンを"かぜたみ"と呼ぶ)と言えるのか?
藤井風のソングに、人を罵倒したり、人にマウンティングするようなメッセージ性は、あるのか?
ないだろうよ。

HELP EVER HURT NEVER(常に助け決して傷つけない)、彼のアルバムのタイトルが、それを示してる。

note.comそう、だから「古参だ~」だの、「私の方が愛してる」等、無益な争いはやめよう。

「Artist on the Rise」という動画で、「I feel so blessed.」と。
自分の音楽を聴いてくれた人、祝福されたことを感謝する藤井風がいた。

www.youtube.comちなみにこの「bless」という言葉、ブラックミュージックのゴスペルでよく聴く。

Guy Robin Feat. Anthony MoriahのBless You Brother。

www.youtube.comThe Collective vs PeytonのPromised Land。

www.youtube.com「My Brother and Sisters~♪」「All Needs Love~♪」と、愛の讃歌だ。
これらのトラックは厳密なゴスペルではなくゴスペルハウスだが。

藤井風はブラックミュージックも敬愛しているように。
ゴスペル音楽における愛を強調すること、愛を重要視する考えは、藤井風の「死ぬのがいいわ」にも見受けられる。

www.youtube.com

takahiroarai.meそしてそれは、サイババの思想にもある。
アガスティアの葉の秘密」という、1995年に出された本がある。
こちらの著者の真弓香氏が、サイババの言葉を思い出し自省するシーン。

 タクシーがマドラスの街をぬけるころには雨も小降りになり、ヴァイティスワランゴヴィルまでこのまま無事いけそうである。と、思ってる矢先に車の調子が悪くなった。ファン・ベルトが切れたという。今日中にアガスティアの葉の疑いを白か黒かはっきりさせたいと思っていた私は、おもわず、いらいらとして、「長距離にでるのに、車の整備もしてこなかったの」ときつい棘のある言いかたで叱る。彼は黙って、車を治している。
 とっさにサイババの言葉(ドクターサミエル著『ザ・ホーリー・マン・アンド・ザ・サイキアトリスト』)
 Start the day with love,(一日を愛で始めなさい)
 fill the day with love,(一日を愛で満たしなさい)
 end the day with love,(一日を愛で終わらせなさい)
 this is the way to God(これが神の道である)
 を思いだし、反省する。この若い、タクシー・ドライバーはかぼそい体の、心の優しい青年である。私をマダムとよんで、丁寧な態度で接し、どんな行為も誠意にあふれている。その彼に怒鳴るのはよくない。自己嫌悪。

アガスティアの葉の秘密 精神世界とインドの旅 [ パンタ笛吹、真弓香 ]p182-183)

素晴らしい、サイババの言葉によって、他人に厳しく傲慢な態度を取ることを避けることができた。


そしてこの本には、「自分を愛すること」の重要性も記載されている。

 最後の日は、今日はもう泣かないだろう、大丈夫と思ったが、結局、サイババがゲートから現れて、そこに立っている姿を見たとき、今まで以上の感激が襲ってきて、涙がドーとでてきた。
 このときのサイババは私の心に彫刻のようにしっかりと刻みこまれ、翌日、マドラスのホテルに着いてから蘇ってきた。心理学者ドクター・サミエルが書いた本(『スピリット・アンド・ザ・マインド』)のなかで、サイババの言葉に触れたとき、サイババの姿とが重なった。

 See in Me yourself……,(私の中にあなた自身を見いだしなさい)
 for I see Myself in all of you……(なぜなら、私はあなた方すべてのなかに私を見いだすのだから
 You are My life,My breath,My soul……(あなたは私の命であり、息吹であり、魂である)
 You are all My forms.……(あなたは私のすべての姿である)
 When I love you,I love Myself……(私があなた方を愛するときは、私自身を愛するのであり)
 When you love yourself,you love Me……,(あなた方が自分自身を愛するときは、すなわち私を愛するのである)
 I separated Myself from Myself so that I may be Myself……(私は自分を自分自身から切り離し、それ故に、私は私自身でありえる)
 I separated Myself from Myself and became all of this so that I may be Myself.……(私は自分を自分自身から切り離し、そしてこのようになり、それ故に、私自身でありえる)

 かなりいい加減な人生をおくってきた私の中にもサイババが投影されるという愛の言葉に、涙があとからあとから涸れる(かれる)ことがないくらいでてきた。私の心にはそんな辛いことが蓄積されていたのだろうか。すべての悲しいことが封印されて、奥にしまいこんであったのだろうか。強がりを言って、傷つけられた心は見向きもされず、手当てもされないまま放置され、慢性化していたのだろうか。

 私は今まで、人を真剣に愛したことなど一度もないような気がする。恋愛は数多くしたが、愛などと呼べるものからは程遠い。昨日まで、愛してると確信しても、今日の裏切りで、すぐ憎しみに変わった。一生変わらない愛などが存在するとは思えない。人間は自分がかけているメガネでしか、世の中をみることができないから、したがって、私を一生愛してくれる人がこの世の中にいるということを信じたくてもそれは、無理な話である。そのことを信じるには、まず私が人を愛することを知らなければいけないが、それ以前にまず、自分を愛することを知らなければいけないのである。自分を愛することは簡単そうで、とても、とても、とてもむつかしいことだと喘いでいる私の心をサイババは知っていたに違いない。


アガスティアの葉の秘密 精神世界とインドの旅 [ パンタ笛吹、真弓香 ]p132-133)

自分を愛することができないと、人を愛すこともできない。
ではどうすれば自分を愛せるか?

藤井風は「Lonely Rhapsody」という曲で、その答えを出しているような気もする。

www.youtube.com孤独なんて幻想、気にしなきゃいい。
孤独なんてのは幻想だ、みんな同じだと。
つまり自分がそこに在る、それだけの、ありのままの存在を肯定すること。
その大切さを歌っているようだ。

藤井風のロンリーラプソディには「溶けてゆく」という歌詞が出てくる。
サイババも、あらゆる物は根源的には液体である、と述べている。

6|自然科学への見識
 地質学の知識

サイババ あらゆる物は、その根源において液体である。
――スワミが言っておられるのは、この世界のことですか。
サイババ そうだ。すべての物は液化している。温度はない。
――熱はないんですか、スワミ。
サイババ そのとおり。すべては液体なのだ。水のようにね。金、鉄、銀、宝石、みんな液体だ。次は固体だ。そして木々だ。
――木、ですか、スワミ。私たちのまわりに見られるような?
サイババ そう、木だ。それから人間の存在と動物。その究極の中核には、神が宿る。それがすべてを支えている。一番目は液体、化学。それから固体、物理学。そして木、植物学。その次に人間、生命の頂点。だが中核ですべてを支えているのは、神だ。神がなくて、なにが化学、物理学、植物学だ?このように大学でのすべての教科はあるものだ。学生たちは全体像を理解するだろう。ヒスロップ『我がババと私』一九七ページ)

「検証・サイババの「奇蹟」 / デイル バイヤーステイン, Dale Beyerstein / かもがわ出版」p75)

すなわち、根源的には人間は液体だ、みんな同じだという。
サイババ思想との共通点が、藤井風のロンリーラプソディの世界観にも見受けられる。

だから差はない、と。

しかし現実では、そんなことはあり得ない。
この資本主義社会に生まれた人間においては、人は容姿や学歴や年収等といった物理的、物質的条件によって差別される。

独身である人間、一人で生活している人間を「孤独」という概念の檻に閉じ込める。

オレの人生がもし…平均的というか…
ごくまともに推移していたならば…
今頃は…

(画像引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

 

今野さんあなたは今まで人から好かれたことがありますか?
たとえば一番身近にいるご家族はどうですか?

おそらく誰からも好かれていないでしょう 
あなた自身もそれはわかっているから遂にひらきなおって人に好かれる努力をしなかった……

これから年をとってゆくと孤独になるのがいちばんの敵です
人に好かれる努力をしないと本当に孤立した老後を迎え淋しいまま人生を終えることになりますよ

(画像引用元:部長 島耕作(12)[ 弘兼憲史 ]

その「孤独」という概念の檻が必要なのは、資本主義における経済的合理性に相応しくないからだ。
結婚して、子どもを産み、労働力を生産してくれた方が国家のGDP向上には都合がいいからな。

だから結婚もせず、孤独に過ごし、子孫繁栄できない者を「終わってる」と、罵倒する者もいる。

はい。30にもなって子どももろくに産めない非モテの皆さんこんにちは。
あのね、我々のミッションというのは子孫繁栄なんですよ。
子どもを産んで、しっかり育てるということが、我々人類に課されたミッションなわけですね。
我々の脳味噌というのは、子孫を反映するために、プログラムされています。
かわいい彼女を作って、子どもを作って、育てていくと。
そのために俺らは「モテたい」という欲求があるし、ね、カッコよくなりたいといった欲求があったりするわけですよね。
そういう脳の、元々プログラムされていることに従えずにですね、いつまで経ってもAVでオ○ニーしているようなね、非モテがね、最近多すぎるんですよね。
だから日本、少子化になってるし、国力が弱くなってるわけでね。
で、国力が弱くなることによってどんどんどんどん、景気が悪化していって、自分らの首を絞めてるわけだよね。
お前らが、モテるための活動をしないことによってどんどん、国は弱くなっていく、景気は悪くなっていって、結局お前らの給料が下がる。
ね、そういう悪循環になってるわけね。
自分の身を守るためにも、お前らモテろ。
モテるための努力をしろ。
さっさと子どもを産め。
俺らはね子ども10人作る予定だけれども、そのぐらいの気概を持ってね、どんどんどんどん、我々のミッションである子孫繁栄をね、しっかりやっていけ。
お前30にもなって子ども産めないってね、お前、終わってるぞ。
子どもを育てていくだけの経済力もなければ、彼女を作ることもできない。そんな状態で30歳を迎えたそこのお前、終わってるから。
マジ、死ぬかモテるか、どっちか選べ。
そのレべルだからな、よろしく

だから「孤独」は、現実に存在する。
この「概念の檻」によって社会不適合者として、惨めなレッテルを貼られることから逃れるために、人は追われるように勉強や仕事や婚活や子作り等に精を出す。


また、このロンリーラプソディにある「溶けてゆく」という描写は、以前、当サイトで語った「人間という固体としての意志を放棄して流体に向かうルサンチマンとしての一面もある。

gyakutorajiro.comそして流体は、固体と違って弾性がなく、力を加えられたらすぐに変形する。つまり外圧を受け容れるということであり、抵抗する意志がない存在とも言える。


資本主義社会に生きる人間、重力に支配されている人間は、常に固体として主体性を持ち、意志を持って勉強や仕事をして生きることを要求される。
それがしんどくなる。

現実の艱難辛苦から逃れるために、人間は重力から逃れ、固体としての生命から液体に戻りたいという欲望を備え持つ。

宇多田ヒカルFlavor Of Lifeで、ダイアモンドよりもやわらかくてあたたかな未来を望んだように。

www.youtube.com生命としての固体、ダイヤモンドのようなマネー等のあらゆる固体に交換できる物質的存在から、液体へとなろうとする。
その回帰願望は、フロイト的にはタナトス(自己破壊衝動)と呼ぶかもしれない。

エヴァンゲリオンの旧劇場版で「THANATOS -IF I CAN'T BE YOURS-」が流れたように。
人類補完計画により人類が液体化して一つになろうとしたように。

www.youtube.comしかしそれを全てルサンチマンとしてしまうのは、神や知覚できないものの存在を否定する、唯物論的な価値基準に囚われ過ぎているともいえる。

一方、藤井風やサイババには、このような多くの人間が囚われている唯物論的な解釈や価値観を、乗り越えているか。
もしくは、違った価値観によって生きているような雰囲気も漂う。

皆、液体だった。
すなわち「みんな同じ」なんだと。平等なんだと。

サイババ「for I see Myself in all of you……(なぜなら、私はあなた方すべてのなかに私を見いだすのだから)」と、語るように。

 聖アウグスティヌスは現在の人間でも気づいていない真実を突きとめ次のように述べる。
「奇跡は自然とは矛盾しない。矛盾しているのは現在人間がもっている自然法則にたいしてのみである」
 あなたが(クリシュナ、ブッタ、キリストなどの起こした)昔の奇跡を認めるかどうかは別にして、約五十年もの間、まだ生きている人がサイババの奇跡を実際に目にしてきた。これは否定することのできない事実であり、多くの国のたくさんの知識人や信頼できる男女が目撃し、体験し、証人となってきた。
 ちなみに、私が昔の奇跡を信じ、自然と呼ぶこの素晴らしい、常時変化してやまない現象を新たな目で見るようになったきっかけは、サイババの奇跡を体験し、これが否定できない事実であることを自ら確認したことにある。こうして、私は「奇跡の時代」が過去のものではないことを理解した。奇跡の時代は現在であり、過去であり、未来でもあるのだ。
 奇跡を自分に引きつけて見れば、奇跡が現実にあることを理解し、受け入れる助けにもなるかもしれない。わたしたちと奇跡との間には密接な関連があるからだ。ババのもつ奇跡の力、英知、純粋な愛を目撃し、体験するとき、わたしたちと彼の間に大きな違いがあるのに気づかれるかもしれない。そして実際ここには「無知」と呼ばれる隔たりがあるのだ。サイババは何度も自分とわたしたちは一体であり、同一のものであり、最高の神の分身である、と話し続けてきた。しかし、人間は相変わらずこの無知という広大な湾を渡ることができずにいる。この広い水域を横切る船を見つけ、湾のはるか向こう岸に光が見えるようになれば、人間は自分にとって大切なものに気づき、永遠の自由を手に入れられるだろう。

(「サイババ・愛の化身 その奇跡と教えを知るために (心霊科学名著シリーズ) [ ハワード・マーフェット ]」p11-12)

そうなのか、証人が多くいると。
サイババの奇蹟、映像が残ってるなら観たいな。

藤井風がロンリーラプソディで「みんな一人でみんな一つ」と唄うように。
これはジョン・レノンの「イマジン」のメッセージ、世界はひとつになるんだ、というメッセージとも似ている。

ameblo.jpすなわち藤井風も、サイババも、ジョン・レノンも、博愛主義的な考えの持ち主だ。

その根拠は、藤井風のPVを何本か観ればわかるが、色々な人種の人が登場し、楽しそうにふれあっているということや。
サイババが、ヒンドゥー教イスラム教の懸け橋になったことだ。

 過去何世紀にもわたって大きな二つの宗教が隣合せに生きてきたが、その歴史は相互不信と敵意、断続的な抗争の連続であった。そのふたつの宗教とはヒンドゥー教イスラム教である。両者を互いに寛容と理解に基づいて結びつけようとした者はごくわずかしかいない。その小数のなかから思い浮かぶ名前は、カビールマハトマ・ガンジーそしてサイババである。

 基本的に、ふたつの宗教はおなじ真理を教えている。つまり『神』はひとつであるということだ。その姿、名前、思い浮かぶ属性がなんであれ、ひとつなのである。ではふたつの宗教の主な相違点はどこにあるのだろう。ヒンドゥー教では神は自らをどのような形にすることもできると考えている。この宗教では、どのような姿の神を選んでも正しく神を崇めることができる。いっぽうイスラム教では神には姿などないといい、偶像を禁止している。

 ある姿を神と見ることを認めると、大勢の人間が偏在する神を勝手に自分で選んだ姿に限定し、ほかの姿をした神をいっさい否定してしまうことになりがちになる、とイスラムが考えていることは間違いない。こうなると、たえず危険につきまとわれることになるのは必至で、事実、組織化された宗教には世界中どれを見ても、多くの悲しい流血の歴史が存在する。

 しかし物事の核心を探る人間は、ふたつの宗教が互いの観点を尊重しあえるようになる点がたくさんあることに気づくだろう。この問題に尽力した一人に十五世紀の聖詩人カビールがいる。カビール自身はヒンドゥー教徒でありながら、多くのイスラム教信者を獲得した。実際、彼はイスラムの教えを深く理解し、イスラム神秘主義的宗派スーフィ教のグルの長にまでなった。スーフィ教徒はカビールの詩が霊性を向上するものとしてサダーナでも最も重要なものと考えた。彼の詩はスーフィ教の神髄でもあり、ヒンドゥー教の神髄でもある『神の愛』を暗示している。

 シルディで暮らしていたころ、サイババはよくカビールについて語り、彼の詩を詠み、自分は聖なる詩人の生まれ変わりであるとも言っている。ヒンドゥー教徒の両親のもとに生まれたシルディ・サイババには若いころ、ふたりの霊性の指導者がいた。ひとりはイスラム教の苦行僧であり、もうひとりは信仰の篤いヒンドゥー教徒であった。


(「サイババ・愛の化身 その奇跡と教えを知るために (心霊科学名著シリーズ) [ ハワード・マーフェット ]」p185-186)

シルディ・サイババ
サティヤ・サイババじゃないな。
しかし、サティヤ・サイ・ババも、シルディ・サイ・ババを敬愛していた。

www.choeisha.comサイババは本名をサティヤ・ナーラーヤナ・ラージュといい、1926 年11月23日に南インドにあるプッタパルティという村に生まれました。
サティヤは幼少の頃から優れた霊感を持っており、村の間では「グル(導師)」や「ブラフマグニャーニ(神を知るもの)」と呼ばれていたそうです。

そして14歳になると「自分はシルディ・サイ・ババの生まれ変わりで、神の化身である」と宣言しました。
サイ・ババとは「聖なる父」を意味し、その「サティヤ・サイババ」の名は世界各地に広まっていきました。
信奉者が数百万にまで膨らむと、サティヤの講話をつづった本が何カ国語にも翻訳され、「サティヤ・サイババ」の存在はさらに世界中に知られるようになったのです。

そのため、思想としては近しいはずだ。
サティヤ・サイ・ババも、文献から人種や宗派で人を差別するような存在ではなく、博愛主義的な思想を持っていたと想像できる。

もちろん、そういった博愛主義は、真心ブラザーズの「拝啓、ジョン・レノン」にもあるように。

www.youtube.com藤井風もサイババジョン・レノンも、平和主義や理想主義が強すぎて「現実見てない人」になるかもしれない。


が、藤井風の唄の中には決して、理想主義に終始しないものもある。
「青春病」という曲だ。

www.youtube.com青春はどどめ色(土留色)だと。
綺麗なブルーなんかじゃない。

この曲を聴くと過酷な現実を無視しているわけでもなさそうでもある。
単なる愛の讃歌ではない、残酷な現実のリアルを突き付けるような曲もある。
いつまで青春に溺れてる?
青春にサヨナラしろってかい…いい年こいてあだち充とか読んでちゃダメかよ…。

藤井風の曲には、青春病以外にも。
諦念(もうええわ)や、死(死ぬのがいいわ)、儚さ(いつの日か粉になって散るだけ)等、退廃的なワードが並ぶ。
それもサイババに繋がっている。

先のサイババの言葉に「I separated Myself from Myself so that I may be Myself……(私は自分を自分自身から切り離し、それ故に、私は私自身でありえる)」というのがある。
結局、多くの人間は、囚われてしまっている。
資本主義社会に生きているがゆえに、物質主義的な、マネー資本主義的な価値観に染まってる。
だからこそ、藤井風はそれを「もうええわ」と。
物質的快楽と結びついた青春と「サヨナラ」して、切り離せと。
「肥溜めへと、ダイブ~♪」(何なんw)してる場合かと。

科学技術が発達した現在においては、唯物論的な考えが優勢となる。
哲学の歴史においても、科学の発展やマルクス主義の影響もあるだろう、ニーチェドゥルーズデリダといった形而上的価値観やロゴス中心主義から脱出しようとする思想の方がリアリティを帯びてくる。

サイババの本を書いた安部賢司という人でさえ、科学的で唯物論的な考えこそが真実だとする考えを抱いていた。

 高校時代、私は放課後よく友人と議論を戦わせたものだった。「人類はなぜ存在しなければならないのか」という議題が選ばれることが多かった。そのころ、生物というのは単に蛋白質の集合体にすぎず、単なる自然現象の一部だ、また意識というものは高度に組織化された脳の物理的反応によって発生するものだと考えていた。だから、人類を含め全ての生物は、存在そのものに何ら意味はない、あるいは意味を見いだそうとする議論が非論理的な行為だ、という見解だった。いや、そのような見解を自分の心に植え付けようと努力していたのかもしれない。
 
 このような唯物論に基づいた考え方を徹底させようとしていたため、自分の純粋な恋心まで否定してしまうことになる。
 
 そんなある日、中学時代の初恋の相手であったk子とふたたび逢うことになった。今から考えれば二度とあのような純粋な気持ちには戻れないだろうと思えるくらいの純愛の相手であった。私は進学校に進んだが、両親のいない彼女は大学に行くことは難しいため商業高校に進んだ。違う高校で別れ分かれになってしまっていた私にとって、それは夢のようであった。約束の日が近づくにつれ、高ぶる感情を押さえきれなくなってくる。しかし、その当時の私は「感情は脳の反応にすぎず意味のないことだ」と決めていたため、理性でむりやり感情を捨てた。心から待ちわびた約束の日に、感情を無意味なものとして振る舞う私があった。結果は目に見えていた。しかし、私は感情を捨て去る方向こそ人類の進化だと考えていたのだ。その後、私は彼女にラブレターを書いた。しかし、彼女の何を愛しているのか悩んだ。いろいろ自己追及していった結果「彼女は結局は原子核と電子の集合体なのだから、私は原子核や電子を愛しているのか」という結論になってしまうような内容となってしまった。すなわちその当時は、ただ物質のみが真の存在であるという唯物論に基づいた考え方を徹底しようとしていたため、深く追求すればするほど本質を見失っていくのであった。

(「奇蹟をこえて サティア・サイババとバラ・サイババ、ふたりのサイバ / 安部 賢司 / エスダブルオウ」p89-91)

こういった唯物論や、資本主義、マネー中心主義に人間が捉われてしまうのは、金は快楽(脳や身体の反応)と互換性があるからだろう。
金があれば、快適な衣食住や、性的快楽を手に入れることができるのは、現実としてある。
つまり資本主義は、生物学的な欲求や生理的な快楽(ドーパミン等の脳内化学物質)とも密接に結びついている。
マルクス的に言えば資本主義は、下部構造(身体、快楽、労働)と結びつく価値観であるがゆえに、そこから逃れるのは容易な事ではない。
それは藤井風が青春病で唄っている「切れど切れど纏わりつく泥の渦」のように、永遠にまとわりつく。

だがその現実も、サイババは見透かしていたのかもしれない。
だから「I separated Myself from Myself so that I may be Myself……(私は自分を自分自身から切り離し、それ故に、私は私自身でありえる)」という言葉を残した。
「欲望の対象に執着している」とも述べた。

 
 ところが、いざ瞑想なり祈りなりを始めようと思うと、途端に、われわれは別のことを考え始めてしまう。座った途端、いつ瞑想が終わるのかを考えている。その次にする仕事のことを考える。あるいは、この忙しい世の中で、そもそもこんなことをしていてよいのだろうかと考える。
 なぜ、日常容易にできる集中が、瞑想をはじめとする霊性修行に生かされないのだろうか。
 
 『それは、心が外に向いていて、欲望の対象に執着しているからだ』
 とサイババは答えている。つまり、心は外側の対象へ集中するのは容易だが、終着を離れ内側へ向かうのは簡単ではないのである。
 『だが、心は内側に集中するよう訓練できるし、ハートは、神への愛を育むことができる。どのようにして?サーダナ(霊性修行)によってだ』
 
 最高の霊性修行とは、日常の行為の全てを神への礼拝として捧げることだという。そしてそれこそが、真の瞑想の状態に他ならない。ただし、そこに至る訓練の段階として、われわれはいわゆる普通にいう瞑想の実験を行なうのである。

(「真実のサイババ / 青山 圭秀 / 三五館」」p194)

人間は自らの身体から湧き上がる欲求や、社会生活を送る上で形成されていく欲望に囚われる。
社会の評価によって自らを相対化し、優越感や劣等感を覚える。
そのような営みに囚われるからこそ「私を私自身から切り離し、私は私自身でありえる」と、サイババは問うたのではないだろうか。

このサイババの言葉を受けたような曲が、藤井風にある。
それは「Grace」という曲だ。

www.youtube.com「助けて神様 私の中にいるなら」と唄うように。サイババ同様に心を、欲望を喚起する外の世界ではなく、内側に向けようとしている。


みずさわさんという人も考察しているように、外の世界に触れることで形成されてしまった煩悩、外の世界にある欲望を満たそうとする「私」だったが、それがうちの世界の「あたし」に出会う。

note.com暗闇にいた「私」は、「あたし」に会ったことで自由になり、神の恩寵のもとですべてを愛するようになる。

暗闇にいる私は、切り離されていない自分、外的な社会、外の世界によって自縄自縛となっている「私」だ。
そこから「あたし」に出会うことで、そこから逃れないか?と。

それは自分自身を愛するための讃歌であり、自分を自己肯定に導く契機だ。
だから藤井風の曲には、サイババ同様、資本主義社会で傷ついて疲弊した「私」を癒すパワーがあり、唯物論者に近い思想を持つ自分もつい、聴いてしまうのかもしれないね。


白魔法、と言われると、そんな気もする。

article.me藤井風自ら「この曲は誰しもの中に存在しているハイヤーセルフを探そうとする歌」と解説している。神や天使やヒーローのようなハイヤーセルフが一人一人の内に存在しているということ、それはエゴや利己心や嫉妬と無縁で愛に満ちた存在であるということ、曲の中で自分と自分のハイヤーセルフが対話しているということを語っていた。

いや、しかしこのハイヤーセルフの存在有無については、共感できない。
これについては一旦保留としておこう。

 

続き

gyakutorajiro.com

稗田一穂やデ・キリコやクリスチャン・ラッセン等の画家もなろう系を消費する現代人も異次元世界を希求する欲望を抱き続ける

転生したい。
この退屈な日々を抜け出して、異次元の世界で過ごしてみたい。
誰しもそのような欲望を抱いたことがあるだろう。

anond.hatelabo.jpなんでこの世界はファンタジーじゃないのか?俺は屁理屈をこねたコメントしたけどよ。

なんで俺らの世界ってファンタジーじゃないの?

ファンタジーだよ。街灯、ネオン、花火、パチンコ屋の台の明滅…これらは全て「人工的な光」だ。天然じゃない。だから夜、自分が見ている物体全ては光に反射した虚像、ファンタジー。現実は暗闇で真っ暗なはずだよ。

2023/01/30 01:45

b.hatena.ne.jpそういうことじゃないよな…この現実とは全く違う現実を、求めてる。
その欲望を擬似的に叶えてくれるのが「なろう系」というジャンルだろう。

自分も「転生したらスライムだった件」を、アマプラで観た。
これは有名らしいから。

ioritorei.com無職転生も、面白そうだけど。

closetothewall.hatenablog.com転スラにした。

で実際、面白かった。3話ぐらいまで観た。
だが、観るのを辞めた。

たぶん途中で気付いてしまうというか、既に気付いているからだろうな。

なろう系を消費する喜びの奥底には、自らの、この現実の世界から逃げ出すためにフィクションを利用しようとするルサンチマン(奴隷道徳)があるのだということを。
別にそういったルサンチマンは精神の安定に悪いことではないし、大切だが。
冷めてしまった。
やはり自分は「笑ゥせぇるすまん」や「闇金ウシジマくん」のような、現実世界で人間の欲望が色濃く表現された作品の方が好きなんだろう。

日々、プレッシャーを受けながら生きている。
お金を稼がないと生活できないプレッシャー、勉強しないと、仕事しないと、結婚しないと、子どもを作らないと…資本主義社会は、ありとあらゆる形でプレッシャーを人間に与え続ける。人間を苦しめる。

つまりライフ・イズ・プレッシャーライフってことだよ。
Life is Beautiful、ではなく、Life is Pressure Life、名言じゃない?
自分がよく聴いているハウスミュージックにもそんな感じの曲があった。

www.youtube.comThe Little Big BandのPressure、「Pressure Life~!」ってね。

マイケル・ジャクソンもそうだ。
ジャネット・ジャクソンも参加する「Scream」という曲で「Stop pressuring me」(僕にプレッシャーを与えないでくれ!)と、唄ってる。

www.youtube.comだから常に人間は、星飛雄馬が装着していた大リーガー養成ギブスの、見えないバージョンのようなギブスで縛られている。
身体に作用するそのギブスによって、意識は常に不快感に晒される。
「はぁ、もう日曜日、明日から仕事だよ…」「はあ面倒くさい」「リスキリング…勉強する暇なんてねえよ…」と。

そんな不安定な意識の中、日々を過ごす中で。
一枚の絵に、異常に惹かれた。

画像引用元:稗田一穗展 | 和歌山県立近代美術館

www.momaw.jp

稗田一穂という人の「幻想那智」という絵だった。
最初、パソコンの画面越しに見た時は「ここはどこだ?日本なのか?でもなんか変だぞ」という不思議な感じがあった。

しかし他の画像も見ると、どんどん興味が湧いてきて「この画家の絵を観たい」という衝動が湧いてきた。
そしてわざわざ、大阪で仕事をした後に「くろしお」に乗って、和歌山の紀伊田辺市、田辺市立美術館まで行った。

iine-y.com

iine-y.com展覧会は最高だった。
絵を観ている時は、心は穏やかになり、自分の惨めな日々を忘却できたような気がした。

例えば、稗田一穂の「天宇」という絵だ。
画像は、ベンチで撮った時の絵葉書だけどね。

iine-y.com

53|pp.99

天宇 1989(平成元) 田辺市立美術館

天宇は天空、大空を示す漢語。空に繰り返される不変の天体の周期が月に象徴され、太古より地上に積み重ねられてきた人の営みが社殿によって表される。天上と地上に流れる悠久の時間が、画面でひとつに重なって静止している。永遠というものの形象化ともいえる作品である。本作の着想は那智で得たものであり、画面左下に描かれる一条の滝が、この社が熊野那智大社であることを示している。稗田は「表現したかったのは一種の那智曼荼羅の世界かもしれない」*という言葉を残している。(三)

稗田一穂「天宇」『紀伊民報』第14028号、1990年1月1日、9面。

(図録p174より引用)

この絵は稗田が「永遠というものの形象化」を表現しようとしたものだ。
永遠、くるりの曲にもあるように。

www.youtube.comこれはニーチェ永遠回帰の思想にも通じるものがあるだろう。

だがこれは、ツァラトゥストゥラが言う「一瞬一瞬に存在は始まる。それぞれの『こころ』を中心として『かなた』の球は回っている。中心は至る所にある。永遠の歩む道は曲線である」といった、永遠とは違う。

gyakutorajiro.com侏儒およびヘビとワシは、現状を打破しようとしない永遠回帰に従属している。手回しオルガンのような画一化されたメロディの中に没落してしまっている。

そうではないと。ニーチェ永遠回帰が訪れ続けるこの現実においても、それに従属するのではなく、その中で力を発揮して生き続けることができる人間こそが、ツァラトゥストラであり、超人に至る道だと語っている。

ドゥルーズも「差異と反復」において、ニーチェ永遠回帰を同一性への回帰ではなく、差異化する力として捉えている。

中心は自分なんだと。
つまり、円弧が描く軌道が終わらずに永遠に続くとしても、自分の力への意志によって、その円環に影響を与えることができる。

ツァラトゥストラが「あらゆる心理は曲線である。時も円環をなしている」とした侏儒に怒りを示したのは、その意志薄弱な受動的な態度だろう。

そう、つまりラストマン(末人)が抱くルサンチマンとしての永遠回帰だ。
永遠回帰を望む欲望、ルサンチマン
それはこの記事でも語ったように。

gyakutorajiro.com直線的時間に疲弊した人間は、永遠に幸せな時間が続く永遠回帰を音楽として表現する。
だが音楽だけじゃなかった。
絵画もそうだ。

この稗田一穂が永遠を表現しようとしたように。
流れる時間、プレッシャーにあふれた直線的時間を破壊し、永遠の円環的時間に変化させようとする。
いや、本当にルサンチマンだろうか?
それとも力への意志か?

おそらくルサンチマンだろう。
実際、稗田は語っている。

「傷ついた気持ち」なんていうこと[昔に]書いたけどね。(29)一日終わってね、僕なんか駅の近くの商店街とか歩いていてね、サラリーマンなんかね、その日一日行くときの姿と、終わって駅からバラバラと出てくる、随分心境違うと思う。僕はね、一日終わって楽しいこととかね、ウキウキするようなそういう人もいるかもしらんけど、僕はそういう人は興味ないんです。縁が無い。やっぱりその日に自分が傷められたとか、失望したとか、そういう人には僕興味を持つけども。おめでたい人はいいんです。だからそういうことで、そういう人相手に、表現したいと思ってね。帰り道に歩いている人が傷ついたんじゃなくてね。何か色々複雑な気持ちを持ってね。そういう気持ちで描いたんでね。平和だとか、楽しい人は僕は興味ない(笑)。


29 稗田がかつて新聞に寄せた談話のことと思われ、次のように掲載されている。「数年前の個展を機に、いつまでも花鳥風家では同じことの繰り返しだと思いましてね。といって、なまなましい人物ではなくて、クールで冷たい絵。夕暮れどき、傷ついて帰路につく人とか…」(松村寿推・稗田一穂談)「秋 制作ざんまい2 稗田一穂(日本画家)」『サンケイ新聞』(夕)、1983年10月13日。
(図録p167)

おめでたい人には興味が無い。
つまり、直線的時間のストレスに耐えられることができ、人生を普通に謳歌できる人間。
資本主義社会の要求に応じ、普通に結婚でき、子どもを作り、過ごしている人間ではなく、以下のような人間に稗田は興味を持つ。

オレの人生がもし…平均的というか…
ごくまともに推移していたならば…
今頃は…

(画像引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

稗田一穂が寄り添ったのは、この直線的時間で管理される資本主義社会において、性的にも経済的にも欲望を満たすことができる人間ではない。

最強伝説黒沢」における黒沢であり、島耕作シリーズにおける今野輝常の方なんだ。

今野さん
あなたは今まで
人から好かれたことがありますか?
たとえば一番身近にいる
ご家族はどうですか?

おそらく
誰からも好かれて
いないでしょう
あなた自身も
それはわかっているから
遂にひらきなおって
人に好かれる努力を
しなかった……

これから
年をとってゆくと
孤独になるのが
いちばんの敵です
人に好かれる努力を
しないと
本当に孤立した
老後を迎え
淋しいまま人生を
終えることに なりますよ

(画像引用元:部長 島耕作(12)[ 弘兼憲史 ]

だから楽しい人からほど遠い自分も、「稗田一穂」の絵に惹かれたんだろうな。

この現実とは違う世界を、今でいう「なろう系」のような異次元を、リアリティを保った形で稗田は表現しようとした。

デ・キリコというイタリアの画家も、「イタリア広場」という絵画で、この世界ではない形而上の世界を描こうとした。

一般に、キリコの形而上的絵画は、「イタリアの広場」シリーズに本来の源泉があるといわれる。17歳のとき、父を亡くしたキリコは、母、弟と共に幼少時代を過ごしたギリシア、イタリアを一時的に離れて、ヨーロッパ各地に暮らすことを余儀なくされた。そのゆえにか、キリコのギリシアとイタリア、なかんずくイタリアへの憧憬と郷愁はことのほか強い。事実1945年以後イタリアのローマを定住の地と定める以前から、キリコのイタリアへの思いは、病的なほどであった。

だが、本図からわかるように、キリコのイタリアは現実のイタリアではない。これは偉大なルネサンス期のイタリアであり、あるいはニーチェショーペンハウエルから啓示を受けた形而上的絵画の画家としてキリコが生みだした仮象のイタリアである。光と影のコントラストが鮮やかな前景のアーケードのある広場の真ん中に、アリアネドの像が横たわっている。道景に配された旗のはためく巨大な塔が、白日夢のごとき不思議な憂愁と不安をかもしだす。また、キリコには珍しくヨットが描かれている。キリコの形而上的絵画のなかでも奇妙に心ひかれる作品である。

シュルレアリストたちは、キリコのアーケードと塔のある絵について、「海(ラ・メール)はどこか?」というアンケートを出した。フランス語で、ラ・メールは母(ラ・メール)でもあるから、この問いは「母はどこか?」の問いととれなくもない。これに対し、アンドレ・ブルトンは「塔のうしろ」と答え、ポール・エリュアールは「アーケードの中」と答えた。塔を男性の象徴とみたて、アーケードを女性とみたてたシュルレアリスト特有のフロイト的解釈である。キリコが怒りを通りこして、彼らとの差を如実に感じたのも当然だろう。


(引用元:ヴィヴァン 新装版・25人の画家 (第25巻) デ・キリコ

そう、形而上的絵画には、プレッシャーに溢れたこの世界から脱出したいという欲望が潜んでいる。

その欲望とは、永遠回帰の欲望であり、現実という直線的時間を変化させたいという衝動だ。
変化というと力への意志を感じるが、しかし変化させず滞留する場合もあるだろう。
だからこそ形而上的絵画には、ルサンチマン力への意志が同居している。

このルサンチマン力への意志が同居しているという話は、ニーチェの解説本にもそれに類する話があった。

だがツァラトゥストラは人々の様子を見て不思議に思った。そしてこう語った。
 人間は、動物と超人とのあいだに渡された一本の綱である――深淵の上にかかる綱である。
 渡り行くのも危険、途上も危険、振り向いても危険、戦慄するのも危険、立ち止まるのも危険。
 人間の偉大なところは、人間は橋であって目的ではないことだ。人間の愛すべきところは、人間が過渡にあるものであって、没落であることだ。
 
 (『ツァラトゥストラ』「序説」4)
 
「人間」から「超人」への変容は、「没落」あるいは人間の反応的な信仰の破壊なしにはありえない。
われわれが経験できる「もっとも大いなる事柄」は、幸福、理性、徳、正義、同情といった考え方が、われわれが自分自身の意志を肯定するのに邪魔だと思えてくる「大いなる軽蔑の時」である(『ツァラトゥストラ』「序説」3)。

これらの考え方が反応的だというのは、それらが生から切り離され、われわれの行為や態度を制限する道徳的拘束と化してしまった力の現れだからである。ツァラトゥストラは、能動的な力を変容させて、生に審判を下し、生を否定する固定観念へと変えてしまうことに対して一貫して罵りの言葉を浴びせている。
「私はきみたちに懇願する、わが兄弟たちよ、大地に忠実であれ、そして超地上的な希望を語る者たちを信ずるな!」(同)。

ここで言われている「超地上的」という表現は、「神」ばかりでなく、その他の、人間の能動的力を人間の自己実現から切り離してしまうようなすべての超越的な理念でもありうる。「信ずるな」という言葉は、なぜ「人間」が橋であり、目標ではないのかを説明している。

しかし超人を、人間が次第に発展して到達する最終的な段階、あるいは発展の目標とみなしてしまうような解釈は、すべての「人間」一般に当てはまる図式に個々人を適応させることになり、反応的な形で上昇を抑制する生の理念をふたたび作り出して、その理念によって生に審判を下すことになってしまう。このような想定をツァラトゥストラは「最後の人間」を描くなかで揶揄している。存在の意味をすでに見つけてしまったと主張する「最後の人間」は、生きることに疲れ、能動的な感動や挑戦を経験することができない。これとは違って、超人は人間の到達する「目標」ではなく、反動的な価値を力の能動的な肯定へと変えるプロセスなのである。

フリードリヒ・ニーチェ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ リー・スピンクス ]p210-211)

そう、人間とは目標ではなく橋であり、超人とは目標の到達点ではなく能動的な力への意志を肯定して現実に立ち向かい続けるプロセスであると。
すなわち、人間と超人は橋で繋がる同一線上にあり、ルサンチマン力への意志の同居もあり得る話だろう。


稗田一穂やデ・キリコの絵は、時間や空間を変えようとする能動性、力への意志が見受けられる。
そして決して、現実ではない超地上的なユートピア(理想郷)を生み出すという営みには留まらない。

一方、クリスチャン・ラッセンの絵に描かれている、光輝く海や、美しいイルカや鮮やかな魚は、分かりやすい理想郷であり、それはヤンキー性とも言われたりもしている。

aniram-czech.hatenablog.comヤンキー性とは、例えばスシローペロぺロ事件にもあったように。

b.hatena.ne.jp本当は警察や軍隊や国家の司法制度といった強大な力に刃向かうことが出来ない。

news.livedoor.comが、ついこのような度胸試し(チキンレース)をやってしまう。
また、ルイ・ヴィトンや改造車、ジャニーズやEXILEといった人気があり強大な力を持つカリスマ的存在、派手な彩色で理想郷を描くラッセンを消費する。

おそらくその行為によって、疑似的に自分が強くなれたような気分に浸り続けているメンタリティではないだろうか。

しかしそれは結局は、反応的な態度だ。
自分の弱さを、誰かが生み出した強大な神的な存在に寄りすがり、その信仰によって自尊心を維持する人間。
ラストマン的であり、超人とはほど遠い。

最近、最もツァラトゥストゥラ、超人に近い人間を誰か一人挙げるとすれば、この星乃ロミという人だろう。

www.youtube.com法律に抵触しないという制限下において、道徳や正義といった価値観を脇におき、リバースプロキシという技術等を能動的に作り出し、力(マネー)を手にしようと意志を持って行動した。
別にこの人が行った行為を肯定するわけではないが、ニーチェがいうツァラトゥストゥラに近いような気がする。
そうなると「超人」には道徳性や倫理はないのか?という疑問も湧く。だからヒトラーに利用されたというのもある。
もう少しこの「超人」概念における道徳性や倫理について、ニーチェが語っているのであれば文献から探さないと判らないが。

稗田一穂やデ・キリコに戻ると、どうだろうか。
彼らの形而上的絵画は、自分の無意識や無意識の願望の投影という点で、ラッセンの絵画と共通点もあるような気がする。

しかし稗田一穂の絵は、決して楽しそうな図柄ではない。
陰鬱な雰囲気、怪しい異世界のような雰囲気すらまとっている。
実際、稗田の絵画をこう評する意見もある。

 

この「補陀洛那智」(ふだらくなち)という絵画だ。

※画像は稗田一穂展の図録より。

まだ在庫があるかは不明。在庫の有無は「田辺市立美術館ミュージアムショップ」に確認が必要

www.city.tanabe.lg.jp

■補陀洛那智 1987(昭和62) 個人蔵

大滝を山中に擁する那智は、古くから補陀落(観世音菩薩の住む西方の浄土)への船出の地として、信仰の対象となってきた。この一帯の印象を、稗田は「妖しくも美しい雰囲気は、他に類を見ない鮮烈な私達の魂への振動がある。人の心を瞬時に異次元の世界に持ち去る異様さがある」*と記している。鋭敏な感性がつかみとったこの地からのイメージを、稗田は1970年代の後半から最晩年まで繰り返し表現し続けたが、本作のように那智山を俯瞰して描いた作品は少ない。画面右下に描かれる海は、かつて行われた補陀落渡海 を想起させ、磯馴木、桜とその奥のひっそりとした薄暗い山中は、この世ならぬものが潜んでいることを暗示するのであろう。壮麗な風景画であるが、この地に蓄積されてきた信仰の歴史も巧みに表出されている。

 

*稗田一穂「悠久なる神爆那智」『紀伊民報』第13399号、1998年1月1日、11面。


(図録p174より引用)

妖しさや異様さ、つまり決して、ユートピアを描いているわけではないということ。
もちろん、現実とは異なる熊野を描き、熊野の幻想的世界を描いて現実の辛苦から逃れようとする反動的なルサンチマンもあるかもしれないが。
逆に、現実の景色や対象を受け入れた上で、自らの新たな価値を絵画に込め、その対象を変容させようとする能動性があるような気もする。

その葛藤が見受けられず、誇張した理想郷を提示しているラッセンの絵画は、どこかリアリティがなく、それゆえにヤンキー的だと揶揄されるのだろう。
つまりラッセンを消費する人間は、ニーチェが非難する、現実の艱難辛苦に溢れた世界からの逃走、理想郷の消費という反動的なルサンチマンがある。

しかし結局………自分も、稗田一穂の絵画を、ルサンチマンとして消費した。
疲れ切った現実の日々から逃れようと、稗田が描いた異次元の熊野に没入する。

稗田一穂が、永遠を形象化したという「天宇」。
その絵画を鑑賞し、仮初の永遠に一時的に浸るが。
絵画鑑賞も、映画のように、終わりがある。

「美しい永遠の世界が存在する!」「肉体を放棄してアセンション(次元上昇)できる!」といった奴隷道徳を信仰したころで、結局は自分の身体的衝動によって、それがフィクションであると気付かされる。
自分に飯を食べさせるために仕事をしなければならない。

美術館を出て、帰宅し、また明日から労働をしなければならない。

そのため美術館を出て、紀伊新庄駅からバスに乗った。

iine-y.comそのバスの道中、「なんだあれは!?」という光景を見た。
山の上に巨大建造物がある。

それは自分が生きてきた人生の中でトップ5には入るだろうか、神秘的な光景だった。
あの建造物が忘れられず、旅が終わった後に調べた。

morizin-nfl.hatenablog.com●田辺大塔辺りの311号線で、妙な建物が富田川向こうの山の上に発見。google mapでは、「天爽会(てんそうかい)」の建物らしい。その左側に「宗教法人天爽会御聖地」と看板がある。

鮎川新橋という橋の近くにあった。
youtubeで紹介もされている。

www.youtube.comここに行けば、欲望や煩悩から解放されるだろうか?

ここに行きたい好奇心は湧いたが、唯物論者の自分が行っても「またルサチマンを見つけたぞ」という感想になってしまう気もする。

ハイデガーが言うように、この直線的時間のプレッシャーにあふれた資本主義社会ではない、心の故郷を求めてる。


「漂白とは、諸国をめぐり歩く放浪者のことではなく、ほんとうの心の故郷を求め続ける人間の意志的行為である」という意味のことを、哲学者ハイデッカーは言う。国籍に複雑なところがあったキリコの場合、漂白ないし放浪の旅は、この現世のどこか仮象のものではない現実の故郷を固着させるという物理的欲求のほかに、永遠に心休まる魂の故郷を求め続けるという精神的欲求が重ね合わされていた。

(引用元:ヴィヴァン 新装版・25人の画家 (第25巻) デ・キリコ

心の故郷は、稗田一穂やデ・キリコラッセンが描いたように、絵画の世界にしかないのだろうか。

現実には、ないのか。

「政治の話」が自らの性的不遇や経済的コンプレックスを隠蔽する防衛機制やルサンチマンとして機能している

先日は転移性ミソジニーの存在について、プレゼンしたが。

gyakutorajiro.com中にはその存在はあると共感してくれた人もいただろう。

そしてブコメを読むに、相変わらず「whataboutismだ~」というコメントもあったな。それについては前回、反論を書いたのに。

note.com五輪談合と、Colabo・仁藤夢乃氏の問題を同列に語れる理由は「日本の公金・税金に関わること」という点で、スコープが同じだという主張をした。
同じスコープなのにColaboだけ執拗に取り上げるのは、そこに金銭の大小以外の理由があるんじゃないか?と。
その理由が、自らの無意識にあるミソジニーだと。

でもその、自分のnoteの意見には言及してくれることなく、またwhataboutismか。
まるで、ロールプレイングゲームで同じことしか喋ってくれないキャラクターみたいだ…。
まあでもみんなそんな暇じゃねえか。
読んでくれないわな。

あままこさんのこの、そっちこそどうなんだ主義の記事にあるように。

note.comこのwhataboutismの行く果ては「この世のすべての社会問題に声を上げてからしか何も言えなくなる」と思うけどな。

そして俺の意見は「AするならBもしろ論法」だとリンクを貼ってくれた方もいた。

幸色のワンルームを批判したポリコレマンはこのドラマも批判しろよ

自分の観測範囲だとすでに批判されてるよ。ただこれだけは言わせてくれ。「AするならBもしろ論法使う奴は、世界中の飢饉がなくなるまで飯食うな」

2018/07/16 20:04

b.hatena.ne.jp
使ってない。俺はそんなこと言ってない。
「なぜ、私達の公金・税金の使用使途の不適切使用という社会問題において、A(Colabo)よりもB(五輪談合)の方が断然、規模も金額も大きいのに、Aばかり取り上げるのはなぜか。そこにはミソジニーがあるのではないか」といった趣旨の話はしけどな。

話なんて逸らしてないぞ。
逸らしてなんかないし、Colaboも注目してくれたらいい。

Colabo叩きの背後に存在する「お前ら女達は俺を愛さなかったからお前らに金をびた一文も出したくない」という転移性ミソジニーについて - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

この手のやつ、五輪談合とColaboが「同種の問題」と認識してるってことだよね。その上で、同じ種類の問題を批判する声を応援するでなく「そっちに注目するな!!」って話逸らそうとするのなんでだろうね

2023/02/04 08:25

b.hatena.ne.jp好奇心だ。なぜ公金チューチュー問題において叩く対象としてColaboを選ぶ人が多いのか?それを問うている。

暇空茜氏はわかる。もちろん、公金不正使用疑惑という金の話(下部構造)をしているはずなのに、なんか「共産党と強いつながりがあるColabo代表仁藤夢乃さん」という口上、そういった党派性やイデオロギー(上部構造)を混ぜこぜにする点は共感できないが。


温泉むすめなど自分が愛するコンテンツを非難されたことについて、個人的な私怨を潔く表面していたと思う。だからColaboを追求する、その動機については共感できる余地がある。


ただ、関係のない第三者が暇空茜氏に共感し、Colabo叩きという祭りのようなものに参加し、一緒に叩く人がなぜ多いのか。
そこに興味があるので、問うているんだよ。

ちなみに上記で紹介したブコメにあるような、人の主義主張を歪めて叩く論法を「ストローマン手法」と言うらしい。

ja.wikipedia.org宇多田ヒカル「有名無名問わず、誰かがメディアでした話から別の誰かが一言だけ抜き取って、文脈から切り離してネットで持ち出して、そこから少数派を除いた多くの人がソースの文脈を参照しようとしないまま自己投影に基づいた批判や擁護(つまり妄想)のたたき台にして論争が繰り広げられる現象」と定義した。

dailynewsonline.jpだから藁人形論法のコメントをしてた人もいたけど、どっちなんだよ使ってるのは。
俺は首尾一貫して、同じ主張をしている。
藁人形なんて設けてない。
金の話、税金・公金の使用用途についての話をしてるんだよ。
去年からしている。

gyakutorajiro.comトップブコメもそうだ。

Colabo叩きの背後に存在する「お前ら女達は俺を愛さなかったからお前らに金をびた一文も出したくない」という転移性ミソジニーについて - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

もはやColaboに関して追求するのはミソジニーで格好悪い、しか言うことが無くなってしまうと言うところまで後退してしまっていてしんどそう。

2023/02/04 02:36

b.hatena.ne.jpこれもストローマンだよ。
「Colaboに関して追求するのはミソジニーで格好悪い」なんて言ってないし、誤解も誤解だ。
かかし論法によって俺の意見は印象論にまで捻じ曲げられ、説得力のないものとして貶めたつもりなんだろう。

なぜColaboなのか、そこを俺にではなく自分に追求していき、その結果を俺に教えてほしいというお願いだよ。
ミソジニーなんかではないのか?
女性を嫌悪する記憶や出来事や思想等ではなく、客観的なファクトだけで怒っているんだと、言い切れるか?
怖いんだろう?
自分の無意識に迫っていくのが、自分の中の苦い記憶やコンプレックスやミソジニーと遭遇するのが。

人は誰しもトーテムを持ってる。
その話は前にもした。

gyakutorajiro.com帰省先の母・すみれ(工藤夕貴)との対峙、母からの言葉、
「くるみはこうして投稿してくれるから 私も島のみんなも元気を貰えてる」
「東京で頑張ってほしい。応援したいんだ。」
「そりゃあさあ、若いんだもん、失敗だってあるよ。でも年を取って思い出すのは、何を失敗したかじゃなくてその時にまた立ち上がれたか くじけるもんかまだまだやれるこんちくしょう!ってね」
「だから・・・何度でも立ち上がってほしい」
といった言葉によって、それはトーテムとなり、活力として再び立ち上がる燃料となる。

トーテムとは、自分の自尊心を維持したり精神を安定させるための言葉、お守り、記憶、思想、などなど。

映画「インセプション」を観たか。
この映画ではトーテムは、「ここが現実だ」という楔として機能する。

自分のトーテムを見失うと、自分が夢にいるのか現実にいるのか、わからなくなるみたいな描写があっただろうよ。


そう、心地よい夢の中に居続けるために、トーテムを消した。
「現金」というトーテムを、無いものにしていないだろうか。

なぜ自分は、中抜きブルシット業務で公金チューチューしている広告代理店や人材派遣会社の人間よりも、Colaboや仁藤夢乃氏の方を問題視し、怒りを覚えているのか。
もう1度自分に問うてみろ。
インセプションでディカプリオ演じるコブが第三、第四階層に降りていったように、自分の無意識に迫ってみるんだよ。

でも好意的なコメントもあった。

Colabo叩きの背後に存在する「お前ら女達は俺を愛さなかったからお前らに金をびた一文も出したくない」という転移性ミソジニーについて - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

利害関係で態度を取る変えるべきではないというのは、まさしくそうだと思いますよ。

2023/02/03 23:45

b.hatena.ne.jpそうだよね?
やっぱり正義を振りかざすんだったら、個人の経済的利害から完全に逃れるのは難しいかもだけど、そこは踏ん張ってほしいと思うよ。

三浦瑠麗氏のような、自分の私的な利害から、旧統一教会への献金や宗教虐待等のファクトを無視して、十把一からげに「競馬でスったって同じじゃないですか」という国際政治学者に、正義を感じるか?

gendai.media普段は歯切れのいい語りがウリの瑠麗氏だが、旧統一教会問題については安倍晋三元首相への思慕の念からか、その献金問題を《競馬でスったって同じじゃないですか》などと擁護するような発言を繰り返してきた。

俺は感じないけどね。

Colabo叩きの背後に存在する「お前ら女達は俺を愛さなかったからお前らに金をびた一文も出したくない」という転移性ミソジニーについて - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

素晴らしいブログでした。筆者もミソジニーになりかかる厳しい瞬間が書いてありますが、苦痛を自分の血肉として、乗り越えてきたのだと思います。私はこのブログからミソジニーの人に対する優しさを感じます。

2023/02/04 05:56

b.hatena.ne.jpありがとう、そうよ。わざわざ自分の実体験まで出してね。
「Colaboを叩いている自分、もしかしてミソジニーじゃないのか?」とね。
それをわかりやすく、自問自答する方法を、こちらは実例をもって提示してあげたんだけどね。

Colabo叩きの背後に存在する「お前ら女達は俺を愛さなかったからお前らに金をびた一文も出したくない」という転移性ミソジニーについて - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

「政府を批判している奴は全員反日」ぐらいに雑なことを言っているという認識ができなくなってしまうのが怖いところ。

2023/02/04 11:33

b.hatena.ne.jpそうなんだよ。
雑なストローマン論法で、問いを無視するんじゃないってね。

また、俺の意見への反論として生産的なコメントもあった。

Colabo叩きの背後に存在する「お前ら女達は俺を愛さなかったからお前らに金をびた一文も出したくない」という転移性ミソジニーについて - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

五輪はもう立件されてるけどColaboは無実を嘯いて叩く側を攻撃してるから腹が立つし、もし共産党や都、国が絡んでるならもう金額の問題じゃないんだよ。金の話は氷山の一角と見てるわけ

2023/02/04 09:28

b.hatena.ne.jp確かにこれは少し納得した。金額の問題ではないと。
なるほど、Colaboは罪を認めない、潔さが無いと。


まあ別に俺もColabo擁護してるわけじゃないしな。
仁藤夢乃氏にもなぜかツイッター、ブロックされてたし。
rlightさんが言っていることが概ね、自分が話したいことだから。

Colabo叩きの背後に存在する「お前ら女達は俺を愛さなかったからお前らに金をびた一文も出したくない」という転移性ミソジニーについて - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

別にColaboを擁護しているのではなく、Colaboを熱心に追求したり叩いたりするのはミソジニーを根底とした感情がありそこに自己欺瞞があるのでは、といった指摘、と読み取った。

2023/02/04 12:44

b.hatena.ne.jpこのhalfneetさんの意見も生産的だった。

Colabo叩きの背後に存在する「お前ら女達は俺を愛さなかったからお前らに金をびた一文も出したくない」という転移性ミソジニーについて - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

&quot;同様にColaboは、100億円いくのか?ちゃんと説明してみろ。&quot; はい364億(7p) <a href="https://www.mhlw.go.jp/content/11920000/000855183.pdf" target="_blank" rel="noopener nofollow">https://www.mhlw.go.jp/content/11920000/000855183.pdf

2023/02/04 13:21

b.hatena.ne.jpちゃんとpdfの資料を貼ってくれてね。
どれどれ、拝見。
7pに書いてる、「R3予算:213億円の内数→R4概算要求:364億円の内数」と。

いや違うやん。
これColabo以外の女性支援団体とかも含まれてるし。
364億円の1/3が不正利用された場合は、100億円いくかもだけど。
支援された団体の全てが、支援金額の3分の1も不正に利用できるなんて、自治体の審査や監査はそんなにザルなのか?
そんなザル審査が通り得ると考える根拠や分析は?
それを聞かないと、3分の1も不正利用が通るなんてのは信じ難い。

まあでもこういう意見の方が発展性もある。
逆に「反日左翼だ~」とか、ひたすら罵詈雑言してるだけのコメントはダメだ。
感情的で話し合うことができない。

ミソジニーで済ますな」「レッテル貼るな」ってコメントも違う。
誤読している。
ミソジニーが原因でColaboを叩いてる、なんて乱暴な話をしているわけではない。
これらも先述した藁人形論法、ストローマン論法だ。

「公金不正利用疑惑において、金額の大きい五輪談合よりもColabo叩きに走ってしまうのは、そこに個人的な私怨やミソジニーがあるんじゃないか?」という話だよ。

皆は腹が、立たないのか?
Colaboで支援されている女性は、恵まれない女性だし貧しい。
そんな女性よりも、五輪談合に群がる広告代理店とか人材派遣会社の社員の方が金を持ってる。
俺たちがオリンピックの会場で資材を運び、設営業務で汗を流している時に。

日払いの人材派遣は、毎日違う現場で疲れる。

毎日違う仕事仲間で心底疲れる。

自分のコトを知っている人間がいない職場はとても辛い。

まるでモノ扱いされてるみたいだ。

闇金ウシジマくん(9) [ 真鍋昌平 ]

クーラーの効いた部屋で仕事をし、夏や冬にはたっぷり中抜きした公金も原資としてるであろうボーナスを、何百万も得ているんだぞ。
生臭くて安いサバの塩焼きを食べているエッセンシャルワーカーがいる一方で、高級なイタリアンでアクアパッツァを食べている中抜きブルシットワーカーがいる。
俺たちの税金を中抜きして、高給取って、いいマンションに住んだり美味いもの食ってるやつの方に腹立たないのか?なぜ貧しい女性に腹が立つ?

なぜ、金持ちサラリーマンに金が流れることより、貧しい女性に金が流れることに怒りを覚える?

自問自答してみるんだ。

まあはてなブックマークは頭いいビジネスエリートとかも中にはいるかもだから、自分のステークホルダーにはやんや言わないのかもだけどね。

「AするならBもしろ」じゃない。
「公金不正利用もしくは疑惑は、Bも、Cも、Dもあるのに、なぜA(Colabo)が叩かれ、炎上するのか」だよ。
そこが謎、ミステリーなんだよ。
だからそのミステリーの回答として、転移性ミソジニーを提示したわけだ。

Colabo叩きの背後に存在する「お前ら女達は俺を愛さなかったからお前らに金をびた一文も出したくない」という転移性ミソジニーについて - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

サブタイトルがいい味出してる。

2023/02/04 18:45

b.hatena.ne.jp気付いてくれたか。
このブログのサブタイトルは「独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。」だ。

そう、このサイトは、決して政治的イデオロギーを垂れ流すものでも、どこかの政党を支持する言説を流すサイトでもない。
右翼だとか左翼だとか、そんなのはあまり興味ない。
そのような政治的イデオロギーよりも、真実が眠ってるであろう無意識をテーマにしている。

俺はジル・ドゥルーズの経験論やニーチェの哲学を好むので、下部構造(身体、性、金、仕事など)の方に真実があるとする唯物論的な考えを持っているし。
上部構造(イデオロギー、宗教、思想など)は、下部構造の副産物であったり、下部構造の不具合を調整するための二次的な代物と考えている。

このサイトでも、人間がいかにルサンチマン(奴隷道徳)という上部構造を利用して、自分の下部構造のストレスを抑圧しているかを語り尽くしてきた。

だから政治の話なんかしていない。
興味あるのは人間の無意識と、そして、無意識の内で機能しているルサンチマン(奴隷道徳)だ。


半沢直樹を観たか、ファーストシーズンの方だ。


ネタバレになるが、近藤直弼(滝藤賢一)は、半沢直樹堺雅人)を裏切った。
あれは「過去から築き上げてきた友人との友情」よりも、「現在の婚姻関係にある家族との豊かな生活、すなわちマネー、欲望」を優先したんだ。
上部構造(友人との思い出、記憶、価値観や善悪など)よりも、下部構造(マネー、生活)が勝った。

翻って自分はどうだろう?
自分の、もやがかってる下部構造、みようとしない無意識。

Colaboが不正にチューチューしたマネー、それは下部構造、現実の問題だ。
同時に、五輪談合に関係した会社たちが不正にチューチューしたマネー、それも下部構造で、現実の問題だ。
同じスコープの問題だが、前者を優先する理由はなぜだろう。
自分の中の正義や思想や価値観といった上部構造が関わっている。

が、その上部構造を築くことに至った、下部構造の方だ。
誰かの言葉や思想ではなくて、自分が歩んできた人生という下部構造だ。
欲望とは下部構造にある、とドゥルーズガタリが言うように。
そっちに真実がある。そっちを見るんだよ。

確かに「五輪談合の方は既に東京地検特捜部等が動いている」という理由は納得できる。
具体的に捜査が進展しているという情報だからな。

だが反日だの左翼だの、イデオロギーの話、すなわち上部構造の話を持ち出す。
そこに自己欺瞞を感じる。
俺は政治の話なんかしてない。
俺は金の話をしている。
Colaboより五輪談合の方が金額的にチューチューしてるやん、と。
なんでColaboばかり叩くんですか?あなたは?と。
問えばすぐ、政治や党派性の話に持ち込もうとする。なぜだ?

そこで今回の件でまた1つ、新たなルサンチマンを発見した。
これが記事のタイトル「政治の話」だ。
誤魔化している。
自分の下部構造、過去の苦い体験、身体に刻み込まれた現実を、抽象度の高い話や既存のイデオロギーで隠蔽する。

まあ発見といっても、既にそれは、別の人が似たような話を提示しているし、当サイトでも既に述べていた。


gyakutorajiro.comまた、女性にモテない、結婚できない、といった生物としての敗北。
それを忘却するため、下部構造でのストレス、敗北によって喪失した自尊心を、SNSの政治的言論活動、上部構造に置き換える。
ネトウヨとかはてサ、俺含め言論活動とかブコメが好きなやつがやってる行為がそれだ。

(引用元:漫画ルポ 中年童貞 [ 桜壱バーゲン ]p86-87)

桜壱バーゲンが著書「中年童貞」で明らかにしたのは、童貞という性的不遇(下部構造における欲望の未達)を抑圧するために、言論活動(自分の生活にあまり関係が無い政治的活動)という上部構造に没入して、外傷的な現実から目を背けているという事実だ。

ホモ・サピエンス(ヒト)は生殖活動をする欲求を備えた生物でもあるので、遺伝子を次世代に継ぐために生殖活動に発展する活動をしなければならない」というトーテムが消えた。
そして、政治言論活動というルサンチマン(奴隷道徳)が新たなトーテムになった。

このヒステリックな言論活動のようなものをスラヴォイ・ジジェクは「アクティング・アウト」と呼んでいる。

男はつらいよ」の寅さんファンは不愉快になるだろうが、寅さんが好きな人の背後にルサンチマンがあるように。

gyakutorajiro.comメロンが食えない些末な事柄で激昂し、テキ屋として放浪し、トラブルを生み出し続ける。
なんでこんな男を、多くの人が愛し、同一化対象になり得るのか。
その答えとして、ジジェクの「イデオロギーの崇高な対象」で、こんな一節がある。

われわれがごくふつうに抱いている同一化の観念は、モデル、理想、イメージ・メイカーを模倣するというものである。たとえば、よく(たいていは「成熟」した視点から下を見下ろしたような言い方で)、若者は人気ある英雄、ポップ・シンガー、映画スター、スポーツマン等々に同一化する、と言われたりする。この一般的な観念は二重に誤解を招く。第一に、われわれが誰かに同一化するときにその根拠となる特徴は、ふつう隠されている。それはかならずしも魅力的な特徴とはかぎらないのだ。

このパラドックスがわからないと、深刻な政治的誤算を生むことにもなりかねない。一九八六年のオーストリアの大統領選を例にとろう。その中心にいたのはワルトハイムという問題の人物である。左翼陣営はワルトハイムはその偉大な政治家というイメージで有権者を惹きつけるだろうという予想から出発して、次のようなことを大衆に証明することを彼らのキャンペーンの柱とした。すなわち、ワルトハイムは疑わしい(おそらくは戦争犯罪に絡んだ)過去の持ち主であるばかりか、自分の過去を直視しようとせず、そのことに関する重要な問いから逃げてまわる人物だ、要するに、ワルトハイムの基本的特徴は外傷的過去を「洗い直」そうとしない(「徹底捜査」にかけない)ことだ、と。

左翼陣営が見落としていたのは、中道派有権者の大多数はまさにその特徴に同一化したのだということである。戦後のオーストリアは、まさにその存在からして、ナチと関係したというみずからの外傷的な過去を「洗い直す」ことへの拒否の上に成立していたのである。だから、ワルトハイムがみずからの過去との対決を避けていることを証明することは、有権者の多数の同一化の特徴そのもの強調していたのである。

ここから学ぶべき理論的教訓は、他者の失敗とか弱さとか罪悪感といったものもまた同一化の特徴たりうるということだ。したがって、われわれは失敗を指摘することによって、はからずも同一化を強化してしまうのである。とくに右翼イデオロギーは、同一化の特徴として、弱さとか罪悪感を大衆に提供することに長けている。その痕跡はヒトラーにさえ見られる。ヒトラーが大衆の前に姿を見せると、大衆はやり場のない怒りのヒステリックな爆発とでも言うべきものに同一化した。つまり、大衆はこのヒステリックなアクティング・アウトの中に自分自身を「認め」たのである。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 汝何を欲するか)

自分の弱さを、同一化によって正当化する必要がある。
この時、ファクトは二の次になる。

自分自身の弱さ(下部構造における失敗)を解消してくれる、Colabo叩きというアクティング・アウト、言論活動との同一化だ。

そうなると、「公金不正利用疑惑において、あなたはなぜ、五輪談合よりもColaboに関心を持ち、怒りを覚えるのですか?」という問いや指摘は一切、聞こえなくなる。
whataboutismという一言で無視する。

まあ確かに、気持ちはわからなくもない。

自分自身の無意識に対峙していくということは、自己愛に亀裂が生じ、自尊心を喪失するリスクも孕んでいるからな。