先日の、弱者男性がルサンチマン (ミソジニー 、マゾヒズム 、自傷的自己愛 )を内面化して精神を安定させているという話、少しは共感してくれただろうか。
gyakutorajiro.com ブコメ 貰ったので、一部返そうかな。
b.hatena.ne.jp そうは言ってないよ。 自分自身が借金持ちの弱者男性だが、そんな叩きとかしてない。
b.hatena.ne.jp 今は大部分を返済して少しは楽になったが、そんなことしてる余裕ないのよ。 五輪関係者の広告代理店や人材派遣会社はけしからん、的な話はしたけどね。
gyakutorajiro.com 皆は腹が、立たないのか? Colaboで支援されている女性は、恵まれない女性だし貧しい。 そんな女性よりも、五輪談合に群がる広告代理店とか人材派遣会社の社員の方が金を持ってる。 俺たちがオリンピックの会場で資材を運び、設営業務で汗を流している時に。 クーラーの効いた部屋で仕事をし、夏や冬にはたっぷり中抜きした公金も原資としてるであろうボーナスを、何百万も得ているんだぞ。
何百億円規模の中抜きよりも、colaboという1億数千万の団体規模の中の、一部の金の使い道を執拗に追求したくなるのはなぜだろう?って話だ。今日はそれは本題じゃないので割愛。
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b.hatena.ne.jp 大渕名誉教授というのは、以下の本に書かれてたから、そのまま引用しただけよ。名前は合ってるよ。
『人を傷つける心――攻撃性の社会心理学 』(サイエンス社 )などの著作がある大渕憲一・東北大学 名誉教授(社会心理学 、現・放送大学 宮城学習センター所長)によると、災害や犯罪などによって社会不安が高まると、それに伴い、人々の間で生じる不快感情が攻撃性に転化されやすくなるという。他の集団や民族に対して敵対的な、あるいはマイノリティに対して差別的な態度をもともと持っている人でも、冷静な時は、それを不合理なものとして自制することができる。だが不安や恐怖が高まっている時には認知資源の不足などからこうした抑制力が低下し、内心の敵意や差別感情が噴き出しやすくなるという。社会が不安定な時には、自分の敵意や差別感情を「正当化」する理由を見つけることが容易になり、また周囲の人々からの支持が得やすいと感じて、抑制力はいっそう低下しやすくなる。今回のコロナ禍に伴う社会的状況においてもさまざまな攻撃性が見られたが、大渕名誉教授は特に3つのタイプが顕著だろうとしている。 (「歪んだ正義 [ 大治朋子 ] 」p251
また、罵倒する気はなかった、もし傷つけたならすまない。 責任転嫁するわけではないが、前回の記事は、中星一 番やたぬかなによる、非モテ や弱者男性に対する苦言(罵倒)を受け、弱者男性はどう感じるのか?を探るのが主な目的だった。 本来、たぬかなの弱者男性ディスみたいなのがネットで話題になっていれば、1~2年前ぐらい前にシロクマさんやdavitriceさん等が弱者男性や非モテ の話題をしていたように、はてな でまたホットな話題に上がる気もしたが。 もう飽きられているのかな、こういったネタは。 普遍性のあるテーマでもあるとは思うが。 いや、飽きられているのではなくて、そんな話は誰も聞きたくないのかもしれない。 恐怖もあるんじゃないかってね。 弱者男性自身が、自分が弱者男性だと自己認識して自尊心が瓦解する危険から逃れるため、そのような話題を見聞きするのを無意識的に避けているのかもしれない。 現実を誤魔化し続けながら生きる。 その方が幸せかもしれないね。 が、先日の記事の結果的な結論として、その行為はルサンチマン (ミソジニー 、マゾヒズム 、自傷的自己愛 等)による抑圧、的な内容を自分は書いてしまったため、弱者男性を悪く言うようになったかもしれないが。 このサイトは「人間の無意識にあるもの全てを顕在化する」というテーマがあるように、無意識に迫るのがコンセプトだ。 そのため以前も述べたように、こちらの意図は無くても、自尊心が傷つく不愉快な結論になるケースも多い。
gyakutorajiro.com 正直、このサイトの記事には不快感を催す内容が含まれている。 それはエロや、グロや、ナンセンスとかではなく「無意識が暴かれるから」 だ。 自分の無意識を知ってしまうと、不快感が湧く。 書いてる自分自身も不快感を覚えることがあった。 「無意識を顕在化する」という当サイトのコンセプトは残酷ではある。 たまにグルメネタやライフハック やソロ活ネタも書くので、そっち方向にシフトしようかな。 だからこの方が指摘していることは正しい。
b.hatena.ne.jp しかし毒を食らわば皿までという言葉もあるからな、無意識を暴き続けるのもこのサイトの宿命。
無意識を暴こうとしたことにより、残酷な結論になってしまった感はある。
b.hatena.ne.jp 弱者男性の客観性のあるスコア、そうだなー。 年齢にもよるけどアラフォー、年収400万以下と考えてもらったらいい。
stkn-job.net またその経済的不遇により、同時に何かしらの性的不遇(童貞、セカンド童貞、素人童貞 、KIRIN=彼女いない歴 イコール年齢、適齢期を過ぎても結婚できない)を抱えている者とかね。
(にったじゅん )
その条件は、fuyuさんって人がまとめていた弱者男性の客観的要件にも当てはまるだろう。
fuyu.hatenablog.com 経済的弱者であること (経済的弱者であることと関連して)家庭を持てないこと そのような状態を一定以上不幸に感じていること
中星一 番やたぬかなの罵倒にも、この経済的条件は見受けられる。 金がなさすぎて結婚できない。 ただ金があっても性的不遇により、劣等感や孤独感を抱えた場合は「弱者男性」とも言えるかもしれない。
これが現実なんだよ。 オレは自由と一緒に寂しさも手に入れた 正直…支店長代理みたいに…… 結婚して子供がいるっていう暮らしをうらやましいと思う時もあるよ…
(「リーマン戦記 独身3 2 [ ロドリゲス井之介 ] 」)
この漫画にあるように、自分の知り合いにも、高所得でいい仕事についているが、明らかにメンタルが弱ってる人がいる。 以前、増田の記事で、収入が高くても結婚しない選択をした人の話があったように。
anond.hatelabo.jp しかしこういったケースは、多数派ではない気もする。 収入の増加とともに既婚率は上がるデータも見かけたことがある。 だから一般的な大多数の弱者男性の話をすれば。 性的不遇と経済的不遇の両方を兼ね備えていることを弱者男性の定義として話を進めると。 前回の記事でも話をしたが、弱者男性は、自己肯定ができるルサンチマン を求め、その幻想に同一化する。 いや、もちろん弱者や強者にかかわらず、人はルサンチマン を求めるんだろうけど。 ただ、その幻想への依存度が弱者男性の方が大きい気がするんだよ。ミソジニー 、マゾヒズム 、自傷的自己愛 以外のルサンチマン もある。
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b.hatena.ne.jp Gragraさん、princo_matsuriさんが、自分に指摘している上から目線の分析、これは「ペダンチシズム」というルサンチマン とも言える。
diamond.jp 「会社で隣の席の男性社員が典型的な自称・博学タイプの人なんです。一度話し出すと止まらなくて、私にしゃべるタイミングを与えないほどの早口でまくしたててきます。私が適当に『へえ、知りませんでした』とか『そうなんですね』と相づちを打っていると、さらに気分がよくなって無駄な知識を披露し続けるんですよ。とにかくキモいです…」(人材派遣会社勤務の女性)
ルサンチマン (ペダンチシズム、博学自慢)によって、自らの性的不遇や経済的困窮という下部構造のコンプレックスを抑圧する。 だが自分は、その行為の虚しさに気づいている部分はある。 そのため、知識をひけらかしているというよりは、人間の無意識やルサンチマン を探る上で読んだ本や参考になった資料を、ベタベタと貼っていき、サイトに来てくれた人には「そういう本があるんだ?ふーん読んでみようか」 と、参考になればいいかなと。 もちろんその行為には、metalmax さんが言うような営利目的もある。
b.hatena.ne.jp adsense も貼ってるんだから。 だけどこんな、長文で読者のことをあまり考えてないサイト、稼げるサイトに育つわけないよな…。 何度かバズったこともある。
b.hatena.ne.jp ワールドカップ の話とか、自分が勤めてる会社のスゴさ自慢のためにビル写真アップするのどうなんや、みたいな話とかね。 でも1回バズっても、別に対して稼げない。 ワールドカップ の話とか、1日で8000アクセスあったけど、それでも、いきなりステーキでリブロース 300gは注文できないぐらいの金額よ。 筋が多いワイルドステーキとか、やよい軒 の特ビーフ カットステーキ定食ぐらいはあったけどさ。 普段は100アクセスもない日もあるんだから、アフィリエイト はついでよ。 漫画の画像も、楽天 kobo とか色々な電子書籍 サイトで読んで画像引用する作品はアフィリンクを貼るが、大した収入になっていない。 月間でココイチ のカレー、トッピング無しぐらいだ。しかもこのブログ以外のサイト全部、合わせてだからな。 もちろん、アフィリエイト 目的のサイトも作ったことある。 自分が20代の時、脱サラFIRE目指してアフィリエイト 8年やって、情報商材 とかツールとか塾とか色々カモになって何百万以上費やしてただのノウハウコレクターで終わった話、聞きたい? コメントしてくれたらしてもいいけどな。 そして、myogabさんのコメントだよ。
b.hatena.ne.jp このブコメ でふと、気付いてしまったんだよ。
(引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ] )
これが今回の記事の本題。 ようやく本題だが、つまり「青春の追体験 」だ。 新たにこのルサンチマン の存在に気付いてしまった。 自分は25歳ぐらいまで、ジャンプを毎週買っていた。 そして中学か高校ぐらいだったか、桂正和 の「I''s」とか河下水希 「いちご100% 」とか、そういうラブコメ にハマった時期がある。 いやラブコメ じゃないか、王道恋愛漫画 だな。
その後、あだち充 「タッチ」や「H2」。
赤松健 「ラブひな 」も読んだ。
面白かった。漫画に出てくる架空の女性にもドキドキしていただろう。 だが、年を重ねるごとに、そういったラブコメ や青春ロマンスに、いまいち感情移入できなくなった。 去年その話もしたが、自分と同様の感覚になっている人もいるようだ。
gyakutorajiro.com こんな漫画を見かけた。
【続編あり】生涯オタクのつもりが… 漫画『36歳で突然漫画やアニメにはまれなくなった話』が刺さりすぎると話題に
togetter.com
一秒さん(ichibyo3)って人が書いた漫画だ。
twitter.com この漫画の中に、オタ活女子に対し、リアルな現実を通告する残酷なシーンがある。 先に結婚して2児の母になった妹は、こう告げるんだ。
ほとんどの漫画やアニメは10代・・・せいぜい20代が主人公でしょ 年をとれば色々あるし・・・共感出来なくなって当然じゃん?
そのため、そういった恋愛コンテンツを消費すればするほど、現実に何もない空虚が、より際立つような感じがした。 空虚を幻想で穴埋めしているような虚しさ。 最後に読んだ恋愛漫画 は「赤灯えれじい 」だったか。
。 これは主人公がいまいちパッとしない弱者男性風だったので、まだ感情移入できた。 また、漫画の舞台が煌びやかではない大阪で、「じゃんり子チエ」ほどではないにせよ、「金がなくても、生活がパッとしなくても、ありふれた日常の中に得られる幸せはある」 と、思わせてくれるようなリアリティがあった。 とはいえ「ALWAYS 三丁目の夕日 」みたいな映画は俺は嫌いだ。 あの狙ったような幸せのロールモデル の強制、あの頃は貧しくてもみんな幸せだったんですよ的な懐古主義、記憶の美化、ムズムズしてくる。「お金がなくても、家族の温もり、希望があれば幸せなんだ。」 という、ルサンチマン (上部構造)によって、経済的貧窮(下部構造)を抑圧する。 醜いルサンチマン の臭気がする。 じゃりん子チエとは違う。 家族主義的な価値観の礼賛、細田守 の「未来のミライ 」もそうだった。サマーウォーズ はよかった。 家族同士の軋轢とか、受難もあり、派手なアクションも見ごたえあったし。 でも「未来のミライ 」には完全にそれが欠けてる。 よかったのは山下達郎 の主題歌「ミライのテーマ」だけだ。
VIDEO www.youtube.com 話を一旦まとめると、すなわち恋愛漫画 も、ラブコメ も、人情劇も、そういう下部構造の欠如(性的不遇、経済的困窮など)を埋めるための追体験 みたいな作用がある。
b.hatena.ne.jp 「ツンデレ 」だってそうだ。 ツンツン、罵倒してくる女性がいるが、実はデレ~っと、愛情表現してくる。 山手線に乗ってる時にみかけた。
漫画「黒岩メダカに私の可愛いが通じない」、「生徒会にも穴がある」、「チョロかわ悪魔は好きですか」、「解雇された暗黒兵士30代のスローなセカンドライフ 」、の看板広告。相も変わらず美女が描かれている。 これらの漫画の中身は知らない。 だが要するに女がかわいい、ってだけの作品と捉える人もいる気がする。
anond.hatelabo.jp 読まずにそう判断するのは失礼だけどよ。 だけどそういう漫画って多いんじゃねえのか?って。ツンデレ 系はまさにそうだ。 大した努力もせず、スペックも高くない男に言い寄ってくれる、迫ってくれるというご都合主義。はてな でよくホットエントリーになってる「僕の心のヤバいやつ」だってそう。
mangacross.jp 陰キャ の中二病 少年・市川京太郎と、陽キャ の美少女・山田杏奈のラブロマ ンス。 これの主人公は、たぬかなが言うホビット 、170cm以下だろう。 弱者男性的な要素を持つ主人公が、美少女と少しずつ距離を縮めていくドキドキ感…まあ面白いよ。 読んだことあるけどよ。 けどいつまで、いつまで、こんなことを繰り返してるんだ。
いつまで続けるつもりなんだ・・・? こんな事を・・・!
(「最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ] 」)
そうやってフィクションの青春コンテンツに耽溺し、感情移入してる。 「二次元は裏切らない」からな。スラヴォイ・ジジェク は、こういった象徴的事物に拘束された欲望を「形而上学 的な情欲」 と表現する。
ここで重要なのは、人間は動物よりもはるかに洗練された形で(もちろん、比較できないくらい残酷な形でも)セックスを行うということだけではなく、人間はセクシュアリティ について、自分の人生すべてを捧げても構わない絶対的な〈目的〉へと高めてしまうことも可能なのだという点である――ヘーゲル は、生物種としての交接の必要性から「形而上学 的な情欲」と表現するにふさわしい性衝動への変容 を無視してしまっているようである。 『トリスタンとイゾルデ 』を考えてみれば良い。いったいヘーゲル 哲学の大系において、この死を招くような情欲、象徴によって拘束された日常の宇宙を放り出すため、この「享楽」の闇夜にわが身を沈める意思――〈文化〉でも〈自然〉でもない、何の条件も必要としない衝動が占める位置とは何処にあるのであろうか。 この情欲は、〈文化〉の(象徴という責務/拘束など)領域を一時的に消失させようという方向に働くのにもかかわらず、本能的な〈自然〉への回帰とまったく関わりを持ってはいないことをはっきりと読み取れる――むしろそれは、自然という本能を最根底から倒錯したものを伴うのであり、ゆえに逆説的に聞こえるが、〈文化〉の秩序こそ、この「自然を越えた」情念の激しい渦から逃れ、象徴に置き換えられた形式で、再び本能的な欲求の穏やかで自然な均衡を取り戻すことを可能にする頼みの綱 に他ならない。9
9 さらに、ヘーゲル が誤謬をおかしていることをはっきりと浮び上がらせるもうひとつの指標となっているように思えるのが、「人類学」を論ずるなかで彼が狂気をどのようなものとして扱っているのかという問題である。ヘーゲル は、狂気に陥るということを「動物的な存在」への退行であると特徴としてレッテルを貼り付けることで、開かれた社会という世界から後退してしまっており、精神病に陥ったさいにわれわれが立ち戻る「世界の闇夜」とは、動物王国なのではなく、生ける生存が、みずから取り囲む日常の環境のなかに没入してしまっている状態 を、根源から徹底して否定し、棚上げすることなのだ、という議論の余地のないポイントを見落としてしまっているのである。この点に関しては、ヘーゲル の『エンチュクロペディー』第四〇八段落を参照のこと。 (「厄介なる主体(1) 政治的存在論の空虚な中心 [ スラヴォイ・ジジェク ] 」p143,212)
『トリスタンとイゾルデ 』は知らないが。 自然という本能、生殖活動への希求に回帰しない、いわゆる非婚主義。
b.hatena.ne.jp 〈文化〉の秩序によって、ヘーゲル がいう動物的な存在への退行が起こることなく、非婚でもよしとする男性や女性がこの社会に出現している現実がある。 そういった選択をよしとせず、相変わらず資本主義の経済的合理性による象徴化を推進する〈文化〉の秩序もある。異性愛 を礼賛・奨励し、LGBTQの権利尊重に逡巡する現実がある。
さらに言い換えてみるならば、「生殖活動のための性的関係など、始めから存在しない」というポイントこそ、ヘーゲル がその考察から除外してしまったことなのだ。文化とは、セクシュアリティ に洗練されたスタイルを授けるばかりでなく、完全にそれを逸脱させる のである。ゆえに人間にとって「エッチなことを実際にヤって」、それを楽しむことができる唯一の方法とは、一人ひとりの個人が心奥に秘めている「倒錯」し、幻想に満ちたシナリオにしがみつくことにある ――人間の本源的な倒錯とは、いわゆる「自然」で本能から沸き起こる性的な欲求を充足させ、その機能を維持するためには、何らかの文化的な補填、ある種の象徴なるものが松葉杖のように脇を支えてやる必要がある 、という点に集約されていく。性的衝動それ自体が、「倒錯した」文化の影響下に置かれている状態、この次元でのみ、われわれは〈自然〉と〈文化〉との「和解」を現実に獲得しうるのだ。
10 カトリック 教会による避妊行為に向けられたお決まりの非難(それによれば、子供を得るという高尚な目的を奪われているセックスは、動物的な姦淫であるという)とは、あからさまに的をはずれたものだ。すなわち、セックスすること、まさにこの行為そのものが、動物としての生殖活動――つまり、生物として再生産されること――の一環に供しているものにほかならないのではないだろうか。 人間という種のみが、セックスをするという行為それ自体を、その「本来定められた」目的から離向させ、セックスとは「すること」それだけで完結してしまうように方向転換させているのではないのか。「男汁」大放出の汗くさい言葉遣いで言い換えてみれば、動物王国においては、ハメる相手を考えて、こいつは「売女」だからOKこっちは「お袋」だからNGなどと区別することなど想像できるのであろうか。自然である状態という観点からし てみれば、大文字の「精神」とは、意味のない消費のこと、「目的の達成を疎外された」(zielgehemmt)本能のことを表しているのである ――つまり、その本能は、「本来あるべき自然の」目的について挫折させられているのだ。
それゆえ、それは際限のない衝動の反復運動のなかに囚われる はめになる。たとえば――カントがくどいくらいに強調しているように――象徴的な身ぶりというものとは、きわだって空っぽで、そのうえ(ないしは)途中でとぎれてしまっている身ぶり、つまり決して完遂できないということになっている身ぶりであるのだとしたら、セクシュアリティ とは、みずからが持っている生殖という自然の運動へのつながりを断ち切ることで、みずからを「人間らしい」ものへと変ずる のである。
(「厄介なる主体(1) 政治的存在論の空虚な中心 [ スラヴォイ・ジジェク ] 」p144,213)
幻想にしがみついて、自分は性的不遇者じゃない、経済的弱者じゃない、弱者男性ではないと、自尊心の崩落から逃げ続ける。ジジェク のこの箇所は、plagmaticjamさんがしていた話と少し似ている気がしたな。
plagmaticjam.hatenablog.com 自分にとって不愉快な出来事を「狂気」という理性の眼差しで批判する。 だが、その自分の眼差しは、自分にとって都合がいい幻想じゃないかってね。 「青春の追体験 」もそうよ。 そのルサンチマン により、力への意志 を放棄することは、現実のパートナーや金銭の獲得を諦めるということ。 「ツンデレ 」や「感傷マゾ」等の倒錯文化もそうだ。 それによって性的欲求や衝動が逸脱する。ジジェク が言うように、「みずからが持っている生殖という自然の運動へのつながりを断ち切ることで、みずからを「人間らしい」ものへと変ずる」 行為を、無意識的にも意識的にも行ってる。 幻想のシナリオにしがみつき、文化が供給するルサンチマン によって「人間らしい」自分になれた気がする。 だがその倒錯が進めば進むほど、現実の資本主義文化における実存は消失へと向かっていく。 回想してみるとどうよ。からかい上手の高木さん 、みたいな子が、クラスに本当にいたのか? 高木さんみたいなかわいい子が、相手をしたのか? 高木さんの相手の男、西方は成績も普通、運動もそこそこ、というキャラク ター設定だ。 弱者男性が感情移入しやすいように、能力のパラメーターを下げてくれてるんだよ。 本当のからかい、現実のからかいは、こっちだろうよ。
高校生の時にさ、好きだった娘がコンビニでバイトしていて、家から遠いのにチャリンコでその店に毎日通ってたんだ。そしたらある日、その娘の友達が俺に…… 宇津井ン家全然遠いのになんであの店来てるの? なんで? 理由は、わかっていたハズだ。 あの女の、人をからかった態度は一生忘れられない。
(「闇金ウシジマくん(8)[ 真鍋昌平 ] )
翻って「僕の心のヤバイやつ」だ。 そんな世界は、現実に、あっただろうか? 現実に、クラスにいた身長の小さい市川京太郎みたいな男が、山田杏奈のようなスクールカースト でいうクイーンビーとつきあうなんてこと、あっただろうか? 否! 残念ながら、ほとんど無いだろうよ…現実は。 バスケ部やサッカー部や野球部のエースじゃなかったか?山田杏奈と付き合ってたのはよ。 幻想を松葉杖にして寄りかかって生きている。 現実をルサンチマン で誤魔化し続けている現状がある。 だから、資本主義文化で成功を収めている中星一 番やたぬかなに罵倒される。 そしてそれは誤魔化しきれない現実であり、自尊心が傷つく。 傷ついた自尊心を癒すため、幻想を追い続け、現実と虚構の境目を曖昧にし、自分を慰めてる。 自分の意識を、能動的にも受動的にも、混濁状態にして、孤独感や劣等感が顕在化しないようにする。 外の世界にある「青春の追体験 」が出来る物質等の影響を被りすぎて、自分という存在が希薄になる。 いや、希薄にしたのかもしれない。シオラン の本で、自分が物質とひとつになる感覚についての描写があった。
一月三一日 午後、昨夜よく眠れなかったので、午睡をとる。一時間以上も眠ったが、ひどく重い眠りで、あまりの重さに、目を覚ましたとき、私は自分が、数百年、数千年のあいだ、自然のままの物質と完全にひとつであったとはっきり感じた ほどだ。死への郷愁も、この合致の、無意識と無思慮の状態への決定的回帰の欲望と、たぶん別のものではあるまい。 眠りのなかの瓦解、眠りに飲み込まれる感覚、私はこれが好きだが、あたかも眠りが母親の底知れぬ深み、生誕以前の、包み込む宇宙ででもあるかのようだ。 (「カイエ 1957‐1972 / シオラン 」p466)
この感覚は現代人にもあるのではないのだろうか? 求めてる…現実ではない幻想空間への没入、二次元世界のキャラク ターとの時間。 虚構のキャラク ターでさえも"推し"となり、リビドーを備給する対象となる。 精神的推進力は、現実の対象から幻想の対象に置き換わり、ゾウリムシの走性のように幻想の方にばかりに向かっていく。 現実社会の住人であることから離脱していく。 自分が過ごしている過酷な自然から逃れ、文化によって、幻想の方が自然だと錯誤し、幻想の世界に出てくる対象とひとつになろうとし、無意識と無思慮の状態へと向かおうとする。 自分の下部構造のコンプレックス(性的不遇、経済的困窮)が顕在化しないために。 ハイパーリアル(現実社会)から供給され続ける物質を、ルサンチマン (虚構物語)を、消費し尽くし、内面化し、上書きすることで、抑圧し続ける。 それを何十年も、延々に繰り返し続けてる。 同じところをグルグル走り回るゴキブリみたいに。
そうだ虫だ・・・ 毎日同じ所を這い回り・・・・・・ 同じようなことをし・・・・・・ やがて衰え・・・・ 朽ちていくだけの虫・・・・・・
(「無頼伝 涯 1 [ 福本伸行 ] 」)
結果、「弱者男性」という侮辱的な呼称で馬鹿にされることになった。 今一度、ルサンチマン (上部構造によるコンプレックスの上書き行為)を捨て、奮起するべきじゃねえのか? 闘う意志を捨てたラストマン(末人)でいいのか?ニーチェ は痛烈に、この世界を厭世的な態度で馬鹿にしながら、かといってその世界から脱出しようともしない、その怠慢な態度を「倦きた者」として非難した。
ここに小舟がある。――おそらく、それは大いなる無のなかへ運んで行ってくれるだろう。――しかし、だれがこの「おそらく」のなかへ乗りこもうとするだろう? あなたがたのなかの誰ひとりとして、この死の小舟に乗りこもうと欲する者はいない!してみれば、どうしてあなたがたがこの世に倦きた(あきた)者だなどと言えるだろう! この世に倦きた者!そのくせあなたがたはこの世から遠ざかりもしなかった!わたしはあなたがたがあいもかわらず地上に恋々(れんれん)としているところを見た。おのれの地上への倦厭(けんえん)に、かえって惚れこんでいるところさえ見た! あなたがたの唇がたれさがっているのも、そのはずだ。小さな地上の願望がまだそのうえに乗っかっているからだ!そして目のなかには――忘れられない地上の快楽が、なごりの雲のようにただよっているではないか! 地上には多くのみごとな産物がある。あるものは有用であり、また他のものは快適である。それらによって地上は愛すべきものとなっている。 そこには実によくできた多くの産物がある。たとえば女の乳房といったぐあいに、有用であって、同時に快適だといったものもある。 だが、あなたがた、この世に倦んじた(うんじた)者たちよ!地上のなまけものなのだ!あなたがたには鞭をくわせるよりほかあるまい!鞭でひっぱたいて、あなたがたをふたたび奮起させなければなるまい。 なぜなら、あなたがたは、大地からあいそをつかされた病人が、おいぼれの生き残りでないとすれば、狡猾ななまけものが、忍び足であるく、意地のきたない快楽の猫だから だ。そして、あなたがたがふたたびよろこびに溢れて走りだす気になれないのなら、この世を――立ち去ってもらわなければならない! 不治の病人にたいして、ひとは医者になろうと思ってはならない。これがツァラトゥストラ の教えである、――だから、あなたがたのほうからおさらばしてもらわなければならない! しかし、けりをつけるには勇気がいるものだ。結びは、詩句を書きおこすよりもむずかしい。すべての医者と詩人は、このことを知っている。―― (「ツァラトゥストラはこう言った(下) (岩波文庫) [ フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ ] 」p112-113)
現実の艱難辛苦をルサンチマン で誤魔化しながら、幻想の快楽で満足し、牙を失った猫として生き続けて、いいのかよ!? と、思ったりもしてみたり。