逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

労働者の分子的無意識は資本主義社会の多様性というリゾーム状の欲望機械に接続してストレスを抑圧し連帯する意識は無力化される

この記事、少し伸びたな。

gyakutorajiro.com「暮らし」や「政治と経済」に近い内容だが、「テクノロジー」カテゴリに入ってた。
まあテクノロジーといえばそうかもしれないね。

文字通り「機械」が支配してるんだから、ドゥルーズガタリ的にいえば。
そしてこれは隠喩ではない。

〈それ〉はいたるところで機能している。中断することなく、あるいは断続的に。〈それ〉は呼吸し、過熱し、食べる。〈それ〉は排便し、愛撫する。〈それ〉と呼んでしまったことは、何という誤謬だろう。いたるところに機械があるのだ。決して隠喩的な意味でいうのではない。連結や接続をともなう様々な機械の機械がある。〈器官機械〉が〈源泉機械〉につながれる。ある機械は流れを発生させ、別の機械は流れを切断する。乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である。拒食症の口は、食べる機械、肛門機械、話す機械、呼吸する機械(喘息の発作)の間でためらっている。
こんなふうにひとはみんなちょっとした大工仕事をしては、それぞれに自分の小さな機械を組み立てているのだ。〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があり、常に流れと切断がある。

アンチ・オイディプス 合本版 資本主義と分裂症[ ジル・ドゥルーズ ]

ドゥルーズガタリの哲学は、「唯物論的精神医学」と自称するように、唯物論的であり、経験論だ。

ドゥルーズガタリは、概念によって創造された順序を順序的なものと呼んでおり、概念が一つにまとめる情動を強度的なものと呼んでいる。概念は単に点にラベルを貼ったり、点をそれぞれつなぎ合わせているのではない。優先権や順序を創造し、抽象化された知にぴたりと適合する特権のような「強度の域」を創造している。

デカルトの概念は、表象可能なものとしての世界を疑い、それに判断を下し、そこへとアプローチする、そうした行為との親近性を表明している。概念は既にそこに存在している特徴を表にまとめるのではない(序列的で外延的なものにおいてはそういうことが行われる)。

そうではなくて、概念は、アプローチの特殊な線を創造し、欲望している(それが強度的で順序的なものである)。たとえば、「私はここにいる」とか、「私は何を知りうるのか?」とか、「これが私の疑問に思うところだ」とか、「思考するとは確実なことである」とか、そういったものを創造し、欲望している。

第三に、超越性ないし思考に対する外部が、このドラマを通じて生み出される。我々は、主体も客体もなく、内側も外側もなく、ただ「経験」が存在しているのだ、と言えるかもしれない。これが内在平面、すなわち、純粋な生の流れであり、知覚者なき知覚である。

ドゥルーズは内在平面に言及している。これは仮定としておかれたフィールドであり、それを通じて内部(心や主体)と外部(世界や確実性)が引き出されることになる。主体が形成されるのは経験からである。まず知覚があって、その知覚から知覚者が形成されるのだ。この知覚者はその上で、何らかの外部や超越的世界と関係をもった「私」として自らのイメージを形成できる。

いかなる真理も超越性も、経験のためのいかなる基礎も基盤も、常に経験という一つの出来事である。我々はまず最初に主体として始まり、その上でその主体が世界を知るのではない。まず経験があり、その経験から、我々は、他から区別されたものとしての自分自身のイメージを形成する。ということは、心の主体よりも前に、ドゥルーズが「幼生の主体」と呼ぶものがある。(『差異と反復』原著一五五頁、邦訳一八六頁)。

つまり、一つの自己とまだ組織化されていない知覚と予期の多様性があるのだ。外部や「超越的」世界の概念は、この内在性から生み出される。主体によって生み出されるのではなくて、受動的に実現されるのだ。

(引用元:ジル・ドゥルーズ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ クレア・コールブルック ]p148-149)

ドゥルーズはヒュームの本も出しているので、イギリス経験論等の過去の経験論にも影響を受けているだろうと思われる。

ドゥルーズガタリがいうように、自分の意志や主体性や価値観等が、実は受動的に決められたものだと考えたことはないだろうか?

たとえば我々は音楽を欲望し、音楽を聴く。
実はそれさえも、人民の自我を変容する力を持つことを、ドゥルーズガタリは説く。

音楽は太鼓やラッパを鳴らしながら人民や軍隊を破壊の淵への旅路に駆りあってる。これは軍旗や国旗の力能をはるかに超えている。
軍旗や国旗は絵であり、分類や結集の手段にすぎないのだ。音楽家個人は画家よりも反動的で、はるかに宗教的で、「社会性」の度合いは低いかもしれない。
しかし、楽家が絵画の力をはるかに上まわる集団的な力をあやつることに変わりはないのだ。
「一致団結した人民の合唱とは、まったくもって強い絆である……。」
このような力は、音楽の発信と受信にかかわる物質的条件によって、好きなように説明できるかもしれない。
しかし逆に考えたほうがいいのだ。
つまり物質的条件のほうが、音楽のもつ脱領土化の力によって説明されると考えるべきなのだ。
突然変異の抽象機械から見て、絵画機械と音楽機械が同じ指標をもつとも思えない。
画家としては最も音楽家肌のクレーが認めているように、絵画は音楽に「後れ」をとっている(76)。


(76)Cf.Lucien Mussset,Introduction a la runologie,Aubier.

(引用元:千のプラトー 資本主義と分裂症 [ ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ ] 10 一七三〇年――強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること……)

そのため、なぜ労働者が連帯やストライキを起こさないか、このような音楽機械の作用も関係していない、とは言えない。

もちろん直接的には、下記のメロンダウトさんの記事にあったように、正社員制度の解体と派遣労働法の伸長も大きい影響としてあるだろうけど。

plagmaticjam.hatenablog.comアトム化した個人はどこからきたのかというと、結論から言えば正規雇用と非正規雇用の溝からではないだろうか。

氷河期世代を論じる際、その論調の多くは「個人の努力」や「時代的な不運」などの身もふたもない話に回収されてしまいがちであるが、現実のシステムのほうがはるかに重大な問題であるように見える。


翻って考えるに昭和期(バブル期とバブル以前)の日本でデモやストライキが起きていたのは正ー非、有期ー無期、派遣ー常勤など労働形態の多様性がまだそこまで存在していなかったからなのだろう。一億総中流と言われ労働者のほとんどが正社員であることがデフォルトだったため、労働者同士の画一性及び画一性に基づく共同性も守られていた。しかしバブルが弾け労働者全員を正社員として雇用することは不可能になると労働者はバラバラになった。それでも正社員制度は残り続けた。その正社員制度にひきずられる形で労働者同士のミクロ(個人)な差別と競争が起きてきたのがここ30年の状態だと言える。

しかしそのような労働者を搾取する非正規や派遣といった雇用制度が猛威を振るったとしても、それに耐え得るほどに、人間の不平不満やストレス、コンプレックス等を抑圧する諸機械が、ありとあらゆる場所で作動している。

一つとして音楽機械は、資本主義機械に加担する機械として重要な役目を果たしており、主要な部品であり、前回の記事で紹介したSHISHAMOの「明日も」だけではない。
川崎鷹也「魔法の絨毯」もそうだ。

www.youtube.com

gyakutorajiro.com7500万回以上再生されている理由は、それは労働者にとって耳障りのいい言葉をストレートに伝えた点がある。
それは「お金もないし 力もないし 地位も名誉もないけど 君のこと守りたいんだ」という価値観。資本主義機械が支配的現実であるにも関わらず、その暴走を抑圧する機械として作用する。

「金が無くてもいいんだ」「安月給でもいいじゃないか」と、自己肯定できる価値観として、自らの欲望機械、無意識が、無意識的備給を行いこの音楽機械に接続し、yotubeの動画再生ボタンを押し、それを耳という器官機械から大脳という器官機械へと内面化し、自己肯定感を獲得するという受動的知覚を行った労働者も中にはいるのではないだろうか。


小学校や中学校等ではスガシカオの「労働なんかしないで 光合成だけで生きたい」が流れるなんてことは、絶対にない。

www.youtube.com岡本真夜の「TOMORROW」が流れ、涙の数だけ強くなろうよそしてアスファルトに咲く花のように強くなれ勉強しろそして働けと、子どもだちに発破をかける。

エレファントカシマシの「俺たちの明日」は、「さあ頑張ろうぜ」と。

youtu.beSMAPの「がんばりましょう」は、「仕事だから とりあえず頑張りましょう」と。

www.youtube.com玉置浩二の「田園」は、「毎日何かを頑張っていりゃ 生きていくんだ」と。

www.youtube.com「頑張ること」「働くこと」「生きること」という抽象的メッセージを、人間の中の欲望機械は求め、それに接続し、内面化する。
「自分は何に頑張っているのか?」「頑張る価値のあることをやっているのか?」という客観視、自己否定が、なかなか起きない。
その時、ブコメにあった「無力化」が起きている。

個人主義が蔓延して氷河期世代も連帯しないのは日本が高度に発達した不満を抑圧するシステムを備えた資本主義社会だから - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

氷河期世代に限らず労働者階級は、脳みそはあるが何も考えず、意思を持っているようで何の意思も持たない。抑圧されているのではなく、無力化されている。世代間人口格差や政治腐敗等が無ければ実は悪い事ではない。

2022/10/28 08:16

b.hatena.ne.jp「不満があっても、働ける仕事があるのはいいことだ」「今日も頑張ろう」というルサンチマン(奴隷道徳)を内面化することで、自らの経済的搾取は忘却に向かう。

その意味で確かに、労働者の不満を無力化することは悪い事ではないが、その「悪い事ではない」の主語に相当するのは「企業の利益にとって」だ。
労働者を雇用する企業にとって、労働者を安い賃金で使えることができ、企業や資本家の経済的合理性にとっては「悪い事ではない」と言えるだろう。


まさにドゥルーズガタリが言うように、音楽機械が「宗教的」であり、資本主義機械がスムーズに機能するための「物質的条件」として必要が求められる理由だ。

もちろん、音楽だけではない。
「全てフィクションだ」と言った人がいた。その「全て」とは、ドゥルーズガタリ的にいえば「機械」のことだ。

b.hatena.ne.jp山本直樹 on Twitter: "現実とは「人が生きて暮らして死ぬ」ことだ。それ以外は全てフィクションだ。 小説、漫画、映画、演劇、物語、ゲーム、スポーツ、思想、国家、会社、宗教、学校、お金、そして言語。全てはフィクションだ。

これは正しいといえば正しい。「推し」なども音楽機械として、「日の丸」も愛国心民族主義等のイデオロギーを内包した絵画機械や抽象機械として、欲望機械の接続対象となり得る。

blog.tinect.jpツイ主である山本直樹さんという人における「フィクション」とは、人間という欲望機械が向かう先にある夢幻的機械だったり社会的機械だったり抽象機械だ。

抽象機械もしくは欲望機械とは、ニーチェ的に言えばルサンチマン(奴隷道徳)であり、ジャック・ラカンスラヴォイ・ジジェク的に言えば"$◇a" [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]の幻想のことだ。ツイ主における"フィクション"を内面化し、安定的な自我を維持する。

音楽の事例をいくつか挙げたが、映画もそうだ。

「ALWAYSの三丁目の夕日」や「男はつらいよ」といった人情物語が、なぜ人から愛されるか。それは「現実の砂漠にあるオアシス」のような機械であり、映画機械は、その資本主義の過酷な現実を隠蔽する帳として機能する場合がある。
寅さんについては以前述べた。

gyakutorajiro.com他にも様々な機械がある。はてぶ等でよく見るのはエッセイ等の「文学機械」であり、例えば俺の様な独身は、ついこのような記事を見かけるとポチっと押して読んでしまう。

media.lifull.comなぜこの記事に対して、自らの欲望機械が作動し、無意識的備給を行って文学機械に接続した(読もうとした)のは明らかだ。

それはこのような「結婚しなくちゃ幸せになれない、なんてない。」「結婚することがすべてじゃない」というルサンチマン(奴隷道徳、特定の価値観)を内面化することで、自分が独身であるというコンプレックスを抑圧することができるからだ。

しかし実は、支配的価値観は変わらない。

社会やメディアが「多様性の尊重」「ダイバーシティ」等を声高に喧伝するのは、「そのルサンチマン(幻想)によって、実際は支配しているという現実を隠蔽するため」だ。

多数派的な「事実」が存在するのだが、それは万人の少数派への生成変化と対立するペルソナの分析的な事実なのだ。それゆえわれわれは、等質的、定常的システムとしての多数派、下位システムとしての少数派、そして潜在的な、創造された、創造的な少数派とを区別しなければならない。たとえ新しい定数を作り出すにしても、問題は決して多数派に到達することではない。

多数派への生成変化は存在しない。多数派は決して生成変化ではないのだ。少数派への生成変化だけがある。女性たちは、数がいくらであれ、状態あるいは部分集合として定義可能な少数派である。しかし彼女らは、生成変化を可能にすることによってのみ創造することができるのであり、その生成変化の所有権などもっていない。彼女たちは生成変化の中に入っていかなければならないのであって、女性になることは、男も女も含んだ人間全体にかかわっているのだ。

(引用元:千のプラトー 資本主義と分裂症 [ ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ ] 4 一九二三年十一月二〇日 ――言語学公準 Ⅳ 言語は主要な、あるいはスタンダードな言語という条件においてしか、科学的に研究されないだろう)

ドゥルーズは「思考とは生成変化である」と、「存在」とは生の流れにおける単なる安定的な契機であり、その哲学を展開したんだが、まあそれは本題ではないので割愛。

ここでドゥルーズガタリが言うように、多様性がどうこう言っても「多数派」的な事実は存在する。

経済的合理性から、支配的権力を備えている自民党は、杉田水脈議員の発言にもあるように、異性愛を結局のところ尊重し続けている事実がある。

gyakutorajiro.com杉田水脈議員だけでく、鈴木エイト氏の調査にもあるように、ジェンダーフリーに関連する運動や生成変化に、自民党議員が反発する。

news.tv-asahi.co.jpまた、ルッキズムがなくならない事実も横たわっている。

gyakutorajiro.comドゥルーズガタリは、別に男性優位主義者とかではない。

このように、マイノリティが尊重される多様性が進んでいるといっても、相変わらず異性愛が尊重されるし、ルッキズムが無くならいことは、経済的合理性から明らかだ。それが資本主義機械の性質でもある。

多様性とはすなわち、不満やコンプレックス抑制する機会の増大であり、生成変化であり、リゾーム化した資本主義社会における抑制機械の総量と種類の増大であり、自己肯定感を維持するための機会を増やすシステムだ。


ドゥルーズガタリは、このリゾーム(階層や中心がない秩序)が跋扈する社会を予見していた。

われわれは、こうしたすべての地理的配分によって、同時に悪しき道に乗り入れてもいるのだ。袋小路なら、それもいいだろう。リゾームもまた固有の専制主義、固有の序列制、それらのもっと厳しい形を持っていることを示さねばならないのか。
その通り、なぜなら二元論などないからだ。こことあそこという存在論的二元論などはなく、善と悪という価値観的二元論もなく、アメリカ的混合ないし綜合もないからだ。リゾームには樹木状組織の結節点があり、根にはリゾーム状の発芽がある。

そればかりかリゾーム固有の内在性と水路網をそなえた専制的形成体(フォルマシオン)もあるのだ。樹木の超越的システムには、空中根や地下茎という、無政府的歪形(デフォルマシオン)がある。重要なのは、樹木-根とリゾーム-水路とが二つのモデルとして対立するのではないということだ―― 一方はたとえ固有の逃走を産み出そうと、超越的なモデルおよび複写として働く。他方はたとえ固有の序列制を形成しても、また一個の専制的水路をもたらしても、モデルを覆して地図を素描する内在的過程として働く。

問題は地上の一定の場所ではないし、歴史上の一定の瞬間でもなく、まして精神の一定のカテゴリーではない。問題はたえず高く伸び、深く潜ることをやめないモデルであり、そしてたえず伸長し、中断してはまた再生することをやめない過程なのである。


(引用元:千のプラトー 資本主義と分裂症 [ ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ ] 1 序 ――リゾーム

リゾームとは多様性であり、自尊心や自己肯定感の獲得機会や現実の認識形態を増やす機械として機能する。
支配的イデオロギーとして機能している異性愛ルッキズム等の専制的形成体(フォルマシオン)から逃走して生まれた空中根や地下茎、無政府的歪形(デフォルマシオン)が、LGBTQ等のジェンダーダイバーシティーやルッキズム批判であり、その価値観も伸長している。

現代はツイッターやユーチューブ、SNS等のプラットフォームの増長によって、支配階級が用いるパノプティコン(一望監視装置)的システム、全体主義的な価値観を浸透させるイデオロギー的機械が弱体化した。
同時に、双方向的に価値観を浸透させる新たなリゾーム(技術機械)、権力に対してこちらからも監視して物申す電脳パノプティコンが発展した。

「セクハラ」「就職氷河期」「社畜」「ブラック企業」「パワハラ」といった強度的なもの、企業で行われた様々な経験がネガティブな概念や価値観として、力を持つプラットフォームで浸透した。

音楽機械等によるルサンチマンの供給により、一方では不満を抑圧したり無力化していたが、一方ではこれら概念の生成によって自らが経済的に搾取されているという現実を思い知らされる機会が、技術機械の伸長によって増えることになった。

そしてSNS等からの情報、機械に接続したことで自分が経済的に搾取されていることを把握した労働者は、「労働意欲を下げる」という行動を行ったりもする。

個人主義が蔓延して氷河期世代も連帯しないのは日本が高度に発達した不満を抑圧するシステムを備えた資本主義社会だから - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

デモもストもやらない、暴動も起こさない日本人が徹底的に搾取されつくした結果として「労働意欲を極限まで下げる」という境地に達したのは笑うしかない。支配階級からしたら一番厄介なエンドだぞこれ。

2022/10/27 14:35

b.hatena.ne.jp

www.megamouth.infoまだ闘ってる生き残り管理職氷河期おじさんに言わせれば、怠惰は敗北者に残された最後の報復手段なんだってさ、ひどくない?

その他の対抗手段も功を奏し、企業は賃上げやセクハラ・パワハラ相談窓口を設けたり、ストレスチェックを行ったり、週休3日制やリモートワークの導入など、労働者に寄り添う制度を設計したりする企業もある。

www.tyoshiki.com待遇を良くする工場もある。

b.hatena.ne.jpとはいえ一方で、やはり非正規を「安く使える駒」としか見ておらず、給料は上がらず搾取構造を続ける企業もある。

b.hatena.ne.jpむしろこちらの方が多く、多数派かもしれない。
労働意欲は下がっていく。

別の職場でも稼ぐことができる優秀な人間は、転職する。

b.hatena.ne.jp結局は前の記事と同じ結論だ。

個人は、多種多様なリゾームに覆われたこの社会という有機体、諸機械に、自分の不満、欲望機械を接続することで、ストレスを抑圧したり無力化し、自分の搾取状態や隷属的状態から目を背ける。

現実から目を背けた方が幸せであったり、自尊心を維持し続けることも可能になるケースが多々ある。

個々人のその時々の状況に合った奴隷道徳等を供給する機械に接続し、それを内面化することで、アトム化した個人として、まるで自分の実存を得て何者かになれたかのような矜持を、一時的には獲得することが出来る。

また「アトム化した個人」というのは、ドゥルーズガタリ的に言えば、少し語弊がある。アトムではなくて、人間は他人という欲望機械、企業等の社会的機械、SNS等の技術機械、音楽機械や文学機械等の影響を被るゆえに「アトムにまで分割されることはない」とも言える。

https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/112299.pdf

個体(individual)とは、本来それ以上分割できないものである。分割すると、その本性が維持できなくなるものであり、モナドのような基本実体に典型的である。

近世に発明された基本的人権は、主体としての個体を前提にしている。人間は個体である限り、たとえどんな障害を抱えていようとも、それとして権利が保護されなければならないということである。

しかし他方、モダン以降の思想は、個体のような実体がそのままで維持できる代物ではないことを暴き続けてもきた。それはアトムという原子/元素が、それ以上「分割できないもの」の意であったのに素粒子物理学の展開とともに、原子の非実体性、複合性が明らかにされてきたことと軌を一にもしている。

氷河期世代が連帯しないのは、アトムを隠喩として用いるのであれば、アトム化した個人が増えたといっても確かに間違いではない。

敢えて隠喩を使わず言うのであれば「個人の分子的無意識が、資本主義機械が用意している多種多様な諸機械に接続してしまうがゆえに、いとも簡単に不満や怒りが抑圧され無力化される」と言える。
「分子的」とは、ドゥルーズガタリが暴いた人間の無意識であり、ミクロの様相を指す。

keu-blog.com

シュレーバー控訴院長は、自分の身体に、何千もの小人たちを密着させる。物理学には二つの方向があって、ひとつはモル的な方向であり、巨大数や群衆的現象に向かい、もう一つは分子的な方向であり、逆にもろもろの特異性に、距離をへだて、あるいは次元を異にするそれらの相互作用や結合に没頭するといえる。

パラノイア人は、前者の方向を選んだのである。すなわち彼はマクロ物理学を実行しているのだ。ところが逆に、分裂者は別の方向に行くのである。これはミクロ物理学、もはや統計学の法則には従わないものとして分子の方向であるといってもいい。

すなわち波動と微粒子、流れと部分対象の領域であり、それは、もはや巨大数にかかわる領域ではない。。大集合の展望の代りに、無限小の逃走線が現れる。だから、こうした二つの次元を、集合的と個体的として対立させることは、おそらく誤りであろう。一方でミクロの無意識は、独自な型の配列であるとしても、やはり、もろもろの配列、接続、相互作用を表す。他方で、このミクロの無意識には、個体化された人称の形態は属さない。この無意識は、もろもろの部分対象と流れしか知らないからである。むしろ、こうした人称は、逆に、モル的な無意識あるいマクロの無意識の統計学的な分配の法則に属している。

アンチ・オイディプス 合本版 資本主義と分裂症[ ジル・ドゥルーズ ] 第四章 分裂分析への序章 第二節 分子的無意識)

ドゥルーズガタリは、資本主義の分裂症的性質と、社会的機械による人間の部品化、人間の無意識が分子的にミクロ化し、個体化された人称(私は○○…等の主体的な意志)に還元しきれない非人称的な無意識の欲望機械が、リゾーム化された社会に対して無意識的備給(欲望を無意識的に向ける行為)や前意識的備給(特定の価値観の強い内面化を経て欲望を無意識的に向ける行為)を行うことを明らかにした。

この現実の前提に立つと、連帯やストライキが起きないのは「どうしようもない」としか言えない。

分裂分析の主張は単純である。欲望は機械であり、諸機械の総合であり、機械状アレンジメントであり、つまり欲望機械なのである。欲望は生産の秩序に属し、あらゆる生産は欲望的生産であり社会的生産でもある。
だから、私たちは、精神分析がこの生産の秩序を粉砕したこと、この秩序を表象の中に逆もどりさせたことを非難しているのだ。無意識的表象という観念は、精神分析の勇気を示すものどころではなく、始めから精神分析の破綻そしてこれが放棄したものを示している。
つまり、もはや生産するのではなく、信じることに甘んずる無意識といったものを提起している……。無意識はオイディプスを信じ、去勢を信じ、法を信じている……。おそらく精神分析家こそ、信仰とは厳密にいえば無意識の行為ではないと最初に言うのである。何かを信ずるのは、常に前意識なのである。


アンチ・オイディプス 合本版 資本主義と分裂症[ ジル・ドゥルーズ ] 第四章 分裂分析への序章 第三節 精神分析と資本主義)

結局は独立独歩で何とかしなければならない。
欲望する諸機械は多様性にあふれているし、労働運動を行っている一つの機械に皆が接続してくれるとは限らない。そしてその機械は、その他の音楽機械や絵画機械等の抽象機械に比べ、カッコ悪く、オンボロな機械に見える。

マトリックスで青いカプセルと赤いカプセルを選ぶときのようなもんだ。
自分が何かしら搾取されている現実(赤いカプセル)を見つめて新しい生き方を模索するか、自分の都合のいい価値観(青いカプセル)を摂取し続けて忍従し続ける生き方を選ぶしかないだろうよ。

別に後者の生き方を否定するわけではない。例えば「信教の自由」として宗教を信仰している人を尊重するように、その方が幸せな場合も多々あるだろうし。

IKEA新三郷で見つけた!一人暮らしのワンルームのデッドスペースを埋めるのにおすすめの収納アイテム

新生活の時期とかではないけど、新しい門出を迎える学生とか社会人に役に立つ記事を書くか。
というか、自分の都合だけどな、自分が引っ越ししたので、収納アイテムを探しにイケアにでも行こうかなと思い立ったんだよ。

やっぱり大きいイケアがいいかと思って。売り場面積で日本最大のイケアはどこかと調べたら、新三郷だったので、足を運ぶことにしたんだ。

駅から歩いて行けるイケアのようで、武蔵野線の新三郷駅からすぐだ。

橋を渡ったらいい写真が撮れたぞ。実はこれ、東口から出たんだけど。
正しくは西口だよ。
ららぽーと新三郷も西口にあって、東口は物静かだった。
「さかなや」「カラオケまこ」ってのはあったけどな。

IEKA新三郷目指して進む。
店内に入る前に、看板を見つけた。

「新三郷ららシティ」っての。
なんだららシティって?もしかして、ららぽーとに影響を受けて改称したのかな。
そういう、大資本によって町の歴史が上書きされるのって、どうなんだ!?
最近、そういうニュースあったでしょ。

b.hatena.ne.jpネーミングライツ売ったんじゃねえのか。
ららシティの前は、何ていう名前だったんだ?


地図には「ららシティやまもも公園」「ららシティくすのき公園」「ららシティ悠久の道公園」が載っていた。
俺の大好物である、人間の悪意が具現化した排除ベンチや排除アート、排除建築物がありそうな雰囲気だぞ。
今年の6月に、伊勢崎駅では大量に見つけることができた。

gyakutorajiro.com軽くググると、「ららシティくすのき公園」には排除ベンチがあることが、このサイトでわかった。

yamap.comだがその日は、インテリアとか探しに行くのが目的だったので、さすがに公園は行かなかったよ。
暇な時に行きたいな。
まあ何にせよ、IKEA新三郷へ。

まずは2階、ショールームへだって。

いやそれより喉が渇いた、自販機ないのか。
1階で自販機を探したが見当たらない。

スモーランド(Smaland)ってのを見つけた。
お子さまお預かりサービス、時間制・定員制だってよ。
「受付時間から1時間1日1回限り、無料でご使用いただけます。」ってあるけど、イケアを1時間で見て回るの結構、難易度高いよな。

しかも「満4歳から10歳までのお子さまであること」って。いや2歳とか3歳ぐらいを預かってほしいんだけどな~っていう人、いそうだけどな。
まあ奥さんも子どももいない自分には関係ない。アローンは寂しく一人でブラブラさせてもらいますよ。
スモーランドで1時間ぐらい休憩させてもらいたかったけどな。ブランコとかしたかったな。
アローンランドも作ってくれないかねほんと。アローンのためのテーマパーク、逆に流行るんじゃねえの。


まあそんなことより自販機だ。
どこだ~あー。
結局、2階にいる店員さん捕まえて「1階の出口にある」って言われて、出口に向かったらあった。

入口にはなかったけどな。入口にも置いてほしいよな。
まあレストランで飲み物飲めってか。

11月3日から11月13日はスウェーデンチョコレートケーキの日、だって。ショック!
食べたかったよ、スウェーデンチョコレートケーキって、どんな味がするんだよ。
10月に来たのは時期尚早だったかな。


ちゃんと収納家具探さないと、やっと2階にやってきて、まず目に留まったのは。

観葉植物とかを置ける什器みたいなやつ。
これいいじゃない。ベランドのスペースが余ってるから、これ買って、植物でも置くか。

HYLLIS(ヒュッリス)というらしい。価格はお手頃、税込2799円。
サイズはどんな感じだ、とタグの裏面を見る。

60cm×27cm×140cmだと。余裕でベランダに置けるね。
型番は「802.785.79」、ネットでも売ってる。

www.ikea.comよく前の家では、ベランダがゴキブリの侵入経路だったんだ。
これをベランダに置いて、そこの上にアロマティカスとかいう植物を置いとけば、ゴキブリ除けになりそうだよな。

www.youtube.comまあこのヒュッリスはメモしておいて、次へ進む。

またまた隙間収納によさそうな、「SKUBB スクッブ」というのを見つけた。
型番は「004.729.95」。

www.ikea.com洗濯機の近くの突っ張り棒とかからぶら下げて、そこに乾かした下着とか入れとけばいいよね。
よく、自分は発達障害ではないんだけど整理整頓だの5Sだとかは苦手なんだよな。パンツと靴下と肌着が混ざって、「どこだよ~靴下の片方がねえぞ~」ってなるんだ。しかしこのスクッブというのを使えば、「パンツ」「靴下」「肌着」で仕分けできて便利そうだ。

よく会社員の時も、整理整頓ができなくて、すぐに机が汚くなった怒られてたな。
いやでも、あなたに迷惑をかけてますか?
確かに私の机は散らかってますけど、別に異臭を放ってるわけではありませんよ?何も迷惑をかけてない!
ただあなたのエゴ、あなたの強迫観念的潔癖症によって、私の机が汚いと判断しておりますが、それは極めて自己中心的な判断基準であり、そこに客観性はあるんですか?あなただけですよ、汚いと言ってるのは!
そういう整理整頓、5Sを強制して、私の仕事を増やして、負担を増やして、あなたは幸せなのですが?どうせ家に帰ると嫁にも子どもに邪険に扱われているから、そのストレスを、部下虐めで発散しているんですよね?部下に「ちゃんと机、
綺麗にしろよなぁ」と嫌味を罵声を浴びせて、部下の仕事に対するモチベーションもパフォーマンスも下げる!!部下の悲しむ顔や困った顔が、あなたにとっては何よりも悦びなんですよね。オフィスでも人が不幸になる姿を見て楽しんでる。そして自分のストレスや不満を誤魔化してるんです!そうじゃないですか!?

なんてね、そんな性格の悪い上司ではなかったけどね。
よく「机綺麗にしろ」ってうるさく言われてたな。
あー、そんなことを思い出しながら、他の収納グッズを探しに向かう。


近くに「ドローナ」ってあったけど、素材が布製だからスルーだ。

www.ikea.com布は湿気に弱い。カビとか生える可能性だってゼロじゃないだろ?そんで、そのカビが中に収納した本とかに及ぶ感じが、本当に嫌!反論があるなら言いなさいよ、もしこれイケアの担当者さん読んだならよ。

おー、これはいいですねー!
洗濯機の上のデッドスペースを有効活用している!!

洗濯機の上のスペースを使わないなんてもったいない。
小分けの収納ボックスも使って、狭くてもスッキリした洗面所に。

わかってるじゃない。そうだよ。洗濯機上、この空間は利用したいんだ。

www.ikea.com幅を60~93cmで調整できるみたいだ。奥行51cm、高さ170cm、最大荷重は10kg。
悪くないが、洗濯機がほんと壁に引っ付いた状態で置かれてスペースなかった気がする。トールニーは一旦、スルーしておこう。


近くにヨースタインという収納があった。

www.ikea.comこれも悪くないが、どちらかというと服とか下着を収納するのがメインという感じだね.
自分はとにかく、書類の荷物が多いんだ。元サブカル男子ゆえ、映画とか演劇とか旅行のチラシとか、捨てられない書類が大量にある。ランドリスペースにも、書類を収納したいと考えている。

だから「風呂や洗濯機があって、湿気が多いランドリースペースにどうやって書類を保存するか?」が重要なんだよ。なるべく段数が多いのがいいんだよ。
その意図で収納を探していると…

このFJALLBO(フィエルボ)ってのは、悪くはない。

幅51cm、奥行き36cm、高さ136cmであるならば、ランドリスペースのデッドスペースに置けなくはない。

www.ikea.com重さも11kgぐらいか?一人で組立てて、運ぶこともできるぞ。
できれば、家具の重さは15kgまで、頑張っても20kgが限界だ。
また、たとえ20kgでもデカすぎると運べない。なぜか。

それはソロあるある、アローンあるあるだ。

アローンは家具を一緒に作ってくれる人がいないので、大きい家具はほんと困る!!

無印良品の縦175cm、横80cm、奥行き40cmの大きなスチール棚を買った時も、大変だったんだよ。

iine-y.comバックパネルの3段用はまあまあ重くて、六角レンチでねじを締める際、「バックパネルを持って落ちないように押さえながら、ねじを締める」という行為をしないといけないんだけど。

もしソロではなく、2人でやった場合は。
「バックパネルを持って支えておく作業」と「ねじを締める作業」を分業して出来る。

分業できないから、何度もねじを締めようとしている最中にバックパネルがずれ落ちたりして、本当に組み立てにくかったよ(悲)

ソロあるあるだよ、これが。
1人で什器を組み立てるストレスと苦労がデカい。

イケアの担当も、アローンあるある、わかってる?
これからは独身・単身世帯が増えるんだ。

b.hatena.ne.jp

b.hatena.ne.jp

b.hatena.ne.jp「男は結婚するな」とか言う人もいる。

b.hatena.ne.jpだが俺はこういう価値観、あまり好きじゃない。
結婚できないやつが生み出したルサンチマン(奴隷道徳)のような一面も大いにあると思うからだ。ルサンチマンの呼吸だよ。

独身男女「一生結婚しない」は過去最高 非婚化志向が一層加速 | 毎日新聞

「一生結婚するつもりはない」じゃねえだろ。主体的意志とか志向で未婚になってるわけではなく、自分が生物として魅力がない現実を直視できないだけの言い訳よ。魅力ないのにカッコつけるから嫌われるし結婚できない

2022/09/10 19:08

b.hatena.ne.jp確かに人間は概念や価値観を生産する生き物であるゆえ、「人間としての実存」として、独身で生涯を終えるのはありかもしれない。
ジーン(子孫)よりもミームを優先するという話もあるからな。

www.gpc-gifu.or.jp 実は前出のドーキンスは、ヒトの行動には子孫を残すという目的からは説明が困難なものもあると認めている。例えばホモセクシャルのヒト、独身主義のヒトは子供を残さないので、こうした行動は次世代に伝えられることはないのだろうか?ヒトは生来持っている能力よりも生後に習得する能力の方が圧倒的に多い。染色体上の遺伝子は子孫に伝わらなくても、発明発見をする、本を書く、絵や音楽などの芸術作品を残す、などによって、個人の創造物を文化として子孫に伝達することは可能である。ドーキンスは、ヒトに独特の文化の伝達単位として、ジーン(遺伝子)に対して、ミームという概念を提唱している。ミームは遺伝子とよく似ている。同じようにヒトからヒトへ伝えられることによって自己複製をし、多少の突然変異を起こすこともあり、あるものは選択を経て滅び、あるものは長く生き残る。つまり他の生物と違ってヒトという「生存機械」には、ジーンだけではなくてミームも乗っているのである。ヒトにとって自分の考えを世間に広めたり、作品をつくったりすることは、子供を育てるのと似た喜びをもたらす。自分の子供には自分の遺伝子は半分だけ伝わる。数百年後の世界において、自分の遺伝子セットが果たしてどのくらい存在しているのかは定かではない。もしあったとしても、多くのヒトの遺伝子と混じり合い、断片的に存在しているにすぎない。一方ミームの場合は、作品や書物として、後世に自分の存在をそのまま残すことができる。マスメディアを媒体とすれば、遺伝子を残すよりもはるかに多くのヒトに影響を及ぼすこともできる。遺伝子よりもミームの価値を重んじるヒトがいても不思議はないかもしれない。

しかし「生物としての実存」はどうだろうか。やはり人間の中にある、概念や価値観で象徴化することができない本能的な部分はあって、それによって苦しめられることもあるだろうよ。

b.hatena.ne.jp

独身の40代、50代は孤独に耐えられるか?「メンタルが歳と共にすり減る」「漏れなく狂う」等の悲観論に「楽しく暮らしてる人もいる」と反論も

狂うの定義は「自我の分裂」ではないか。独りでも楽しいと言っても、世間や国家は結婚や労働力の再生産(子作り)を社会的義務や常識とするイデオロギーの圧力を与え続ける。独身の自尊心は摩耗し狂人へと日々近付く

2022/07/29 00:11

b.hatena.ne.jpそういう社会になっていく昨今において、この商品はどうなのよ!?

もう買う気なかったから、これしか写真撮らなかったけどよ。

www.ikea.comBILLY(ビリー)はな、なんと・・・

重さ40.75kg!!

だと。重すぎる!
こんなの、単身世帯では対応できないよ。
そりゃ確かに、イケアには組立てサービスがあるよ。

でもこの家具組み立てサービス、安くは…ない?安いのか?
相場がよくわからないけど。
出張料金で5500円取られて、そこから家具に応じてさらに追加費用だからね。

確かに本棚だから、倒れたりしないように、重量と安定感は大事だよ。
でも動かしたい時とか、一人で絶対、無理だろ40kgとか!
ボディビルダーでも厳しいぞ、なぜなら、サイズが大きいから。
両腕を広げても持てない。
本棚の強度とか、耐震対策は、突っ張り棒とかで対応すればいいじゃん。
イケアにもあるじゃん。

www.ikea.comだからこのビリーはこれから、売るの厳しくなってくるぞ。
早急に軽量化か、他の本棚を考えた方がいい。
アローンな貴重な意見だぜ、オンラインコンサルよ。
コンサル料として、レストランの食事券を送ってもらおうかね~。
なんちゃって。

まだGERSBY(ゲルスビー)の方が軽量で扱える。

www.ikea.comこっちは半分の20kgだから。まだ、持とうとすれば持てる。
まあでも、本棚は前にスチールの棚を買ったし、まあいらないってことで。

ランドリースペースの収納を探してるんだったよ。

EKENABBEN(エーケナッベン)、悪くないぞ。

www.ikea.com奥行34cmでスリムだし、重さも15kg以内だから、1人で持ち運びとか出来ないことはないよね。

あー他にはどうだ、どうだ…と、一人で2Fのショールームを彷徨い、ランドリースペースの収納を探す。
そしてようやく、ドンピシャのやつを見つけた!

型番704.313.17、JONAXEL(ヨナクセル)のシェルフユニット!

www.ikea.com先に述べたフィエルボやエーケナッベンも悪くないが、原材料がスチールってのがいいんだよ。
スチールはたぶん、湿気にも強い?木よりマシだろうよ、木は種類にもよるけど、すぐカビが生えたりするから嫌いなんだ。
カビが生えてどうしようもなくなった本棚を何個も捨てた。無印良品でスチールの棚を買ったのも、カビにうんざりしたからよ。

だからカビ対策をかねて、スチールの棚という点で、ヨナクセルはポイントが高い。軽量で重さ15kg以内で、アローンにも優しい。
しかも高さ160cmと、なかなかの高さを誇り収納力抜群。

ショールームには、このヨナクセルの棚に、収納ボックスであるKUGGIS(クッギス)を配置しているようだ。

www.ikea.comプラスチックの素材は、湿気対策としては悪くない。
しかし丸穴が開いており、完全密閉ではない。

自分は「ランドリスペースに書類も置く」という、少し普通の利用方法とは異なる収納方法を模索しているんだよ。だからこのクッギスに書類とかを入れたら、穴から湿気が入って、すぐに書類が傷む。

もっと密閉力を!もっと空気が入らない密閉力のある収納ボックス、収納ケースは、ないのかよ!?

ということで、次は収納ボックスだ。
それについては長くなったので次回。

続き:新生活をする方や推し活のグッズ収納に困っている方は必見!イケアで見つけた湿気にも強そうなおすすめ便利収納アイテム

個人主義が蔓延して氷河期世代も連帯しないのは日本が高度に発達した不満を抑圧するシステムを備えた資本主義社会だから

定期的に盛り上がる氷河期世代に関する話題。
シロクマさんによれば個人主義の伸長が大きいとのこと。

p-shirokuma.hatenadiary.com個人主義化が進んでいくなかで、デモやストライキ一揆が社会通念にそぐわなくなっているようにもみえる。それはシラケ世代以降の思想の産物だろうか? そうかもしれない。個人主義、多様性のある生、それらは耳障りの良い言葉だが、それらをとおして実は私たちはアトム化した個人になってしまい、分断することばかり上手になってしまい、共通のイシューに関してまとまることができなくなってしまったようにもみえる。

とある増田は「そんなの別に氷河期世代の話じゃないでしょ」的な意見。

anond.hatelabo.jpそもそも、氷河期世代と言われてるのは

「大学で(主に文系の)四年制大学新卒で大企業に入ってたはずの層のうち一部が、急にそれまでの高待遇を受けられなくなった」

という、本当にそれだけの世代でしかない。

この体験に対して未だにアイディンティティを持ってるやつってお前らが思ってるよりずっとずっと少ない。

多いように感じてるのは、お前らがネットで毎日同じような連中と延々駄弁ってるから。それだけ。

まずそれを自覚しよう。

なんで連帯しないか、デモやストライキをほとんど起こさないか、出来ないような仕組みが生まれているか。
それは既に過去の哲学者が明らかにしている。

黄色いベスト運動が起きているフランスが生んだジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリの本「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」に、資本主義の仕組みやその抑制する作用について、諸々と書かれている。

資本主義社会は分裂症的負荷を与え続け、人間は鬱病になったり過労死の危険に晒されるし実際になるケースもあるが、それに対して全力で抑制も行う。

分裂症とは私たちの病気であり、私たちの時代の病気であるといわれるとき、単に現代の生活が狂気を生むということを意味しているはずはない。
確かに、コードの破綻という観点から見れば、たとえば、分裂者における意味の横滑りという現象と、産業社会のすべての段階で不調和が増大するメカニズムとの間には、平行関係が存在していることは確かであっても、実は私たちが言いたいのは、資本主義は、その生産のプロセスにおいて恐るべき分裂症的負荷を生み出すものであり、そのため資本主義は、抑制の全力をこれに向けるが、この負荷は資本主義的過程の極限としてたえず再生産される、ということである。
なぜなら、資本主義は、自分自身の傾向においてつき進むと同時に、みずからこの傾向に逆らい、これを抑止することをやめないからである。
それはみずから極限に向かうと同時に、この極限を拒絶することをやめない。

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』p70)

何が抑制しているのか?

不満を持った労働者や、氷河期世代のアラフォー、アラフィフ等を、どうやって抑えつけているのだろうか?
それは「ありとあらゆるもの」といっても過言ではない。

その辺のテレビ番組とか漫画でさえ、人間の不満を抑えるシステムとして機能している。
それは「女王の教室」というドラマで、天海祐希が演じる阿久津真矢が、ガツンと言ってたよな。

blog.esuteru.com日本という国は、
そういう特権階級の人たちが楽しく幸せに暮らせるように、
あなたたち凡人が安い給料で働き、
高い税金を払うことで成り立っているんです。
そういう特権階級の人たちが、
あなたたちに何を望んでるか知ってる?
  
今のままずーっと愚かでいてくれればいいの。
世の中の仕組みや不公平なんかに気づかず、
テレビや漫画でもぼーっと見て何も考えず、
会社に入ったら上司の言うことをおとなしく聞いて、
戦争が始まったら、
真っ先に危険なところへ行って戦ってくればいいの。

麻生太郎も「政治に関心持たず生きていける国は良い国です」と、このドラマの教師と似たようなこと言ってたよ。

b.hatena.ne.jp政治意識や政治に対する不満を希薄化する。
これもまたフランスのルイ・アルチュ―セルが、「国家のイデオロギー装置」として、その不満を抑制するシステムにどんなものがあるのかを提示してる。

マルクス主義理論」における〈国家装置〉は、政府、行政機関、軍隊、警察、裁判所、刑務所を含んでいることを想起しよう。それらは、われわれが今後、〈国家の抑圧装置〉と呼ぶであろうものを構成している。抑圧的とは、正確かつ強い意味では、物理的暴力の行使(直接または間接、合法または「非合法」の)であると極限では理解しなければならない(なぜなら、それは非物理的な抑圧の数多くのきわめて多様で、さらには隠された諸形態が存在するからである)。

では〈国家のイデオロギー諸装置〉(AIE)とは何か。
それについての最初の概観をつかむために、ここに暫定的に列挙してみる。

1/〈学校装置〉
2/〈家族装置〉
3/〈宗教装置〉
4/政治〈装置〉
5/組合〈装置〉
6/〈情報装置〉
7/〈出版-放送装置〉
8/〈文化装置〉


これが暫定的なリストであるのは、一方では網羅的ではないからであり(第12章を参照されたい)、他方では7の〈装置〉と8の〈装置〉は一体をなすことがありうるからである。私がこのようにふんぎりをつけることができないことを容認していただけるのではないかと思うのだが、というのも私の「包囲陣」は、探求に値するこの点にはまだ敷かれていないからである。

(引用元:再生産について(上) イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー) [ ルイ・アルチュセール ]p170-172)

日本は高度に資本主義が発達している。
「高度に資本主義が発達している」というのは、別にGDPが高いとか低いとかいう話ではない。
それはアルチュセールがいう「国家のイデオロギー装置=国民の不満を抑えるシステムがうまく機能しているかどうか」ということ。

例えば映画、アルチュセールが言う〈文化装置〉。
氷河期世代のアラフォー・アラフィフは、トレイン・スポッティングを観た人もいるだろうよ。

anond.hatelabo.jpさじ投げられちゃったんだろうね、俺たち。政府のおエラさんにも学者さんにもブロガーさんにも。いろいろ議論して考えたけど、こいつらを救済する妙案も資金もないわって。この前若い頃に見た「トレインスポッティング」って映画の続編がやってたから見たんだけど、若い頃にまともな職につかずドラッグばっかやってた連中が40代になっても相変わらずまともな職つけずにプラプラダラダラしてるって話だった。なんだドラッグしてないだけ俺らのほうがマシだけど、日本以外にも俺らみたいな救いようのない連中っているんだ。世界ってこういうもんなんだな。

アンダーワールドのBorn Slippyとかも流れて、何かカッコよかった。

youtu.beユアン・マクレガーのTシャツも着ている人結構、いたような気もする。

スタイリッシュだった。金が無くても。
そう。「金が無くてもカッコいい」みたいな価値観。

それは金が無いやつの欲望や自己愛を満たしてくれるルサンチマン(奴隷道徳)として機能するケースがあるが、そういう物語が大量発生しては、人間の無意識にそれを供給し、人間の不満やコンプレックスを抑圧する。

トレインスポッティングだけじゃない。
アラフォー・アラフィフ世代だと『お金がない』『やまとなでしこ』『電車男』は知ってるだろう。
「金が無くても幸せなんだよ」「オタクでも幸せになれるんですよ」的な物語が次から次に湧いてきては、それを供給し、政治のことなんて考える隙も、自分の労働条件や社会的立ち位置など考える隙も、なるべく与えないようにする。

これをドゥルーズガタリ「無意識的備給」と呼んだ。
備給とは「リビドー、欲望を、特定の対象に向けること」みたいな意味だが、それが無意識に行われる。

これはイデオロギーの問題ではない。ここには社会野に対する無意識のリビドー備給があり、それは前意識的備給と、あるいは前意識的備給の「行き先」と共存するにしても、必ずしも一致するものではない。それゆえに個人であれ、集団であれ、何らかの主体が明らかに自身の客観的状況からすれば当然対決すべき階級の利益や理想に逆に同調するとき、彼らはだまされた、大衆はだまされた、というだけでは十分な説明にならない。

それは、誤解とか錯覚といったイデオロギー的問題ではなく、欲望の問題である。そして欲望は下部構造の一部なのである。前意識的備給は、敵対しあう階級の利害に対応して行われ、あるいは行われるべきものであろう。

ところが、無意識的備給は、欲望の立場、総合の使用法にしたがって行われ、これらは個人的であれ、集団的であれ、欲望する主体の利害とは、まったく異なったものである。無意識的備給は、支配階級への全般的服従を確実にすることができる。もはや利害によってではなく、まさしく欲望によって備給されるものとしての社会野に、切断や隔離を注ぎ込むからである。


ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』第二章 精神分析と家族主義 すなわち神聖家族 第五節 消費の連接的総合)

前意識的備給も、誰しも1度はあるんじゃないのか。
会社説明会や就職説明会等に足を運んだ際、その組織の「理念」「やりがい」「ウェルビーイング」等が提示される。
それは薄々と聞いている者もいるし、真剣かつ意欲的に聞いている者もいる。
電通鬼十則とかそうだろうな。

前意識的備給によって、その組織の理念を出来る限りインストールして貰おうと、企業は躍起になる。しっかりと何が美徳か、推奨すべき行動なのかを、労働者に教え、自らそれを求めるように、モチベーションを高めてもらわなければならない。
生物としての人間の各器官に、諸々の教育・矯正・施しを授け、従順に労働する人間、「ひとつの充実身体」に変える。

原始大地機械は、流れをコード化し、器官にリビドーを備給し、身体に刻印する。大地に属する身体に刻印するというこの任務は、他の全ての任務を集約するもので、これに比べれば、循環し交換することは、全く二次的な活動である。

登録し登記する社会体の本質は、もろもろの生産力を自分に帰属させ、生産の代理者を分配するものであるかぎり、入れ墨をすること、切除すること、切りこむこと、切断すること、生贄にすること、手足を切断すること、囲むこと、秘伝を手ほどきすることである。
ニーチェは、「習俗の道徳性を、または人類の最も長い期間にわたって、人間が自分自身に対して行ってきた真の仕事、人間の前史時代のあらゆる仕事を」定義したのである。この仕事とは、身体の四肢や部分に対して、権利上の力をふるう評価のシステムを確立することであった。

罪人は単に集団的備給の秩序にしたがって、自分の器官を奪われるだけではない。食べられる人間は、牛を切り刻み分割する規則に劣らず厳密な社会的規則にもとづいて、食べられるだけではない。

それにとどまらず、十分に権利と義務を享受するひとは、自分の器官や器官の動きを集団性に結合する体制の下で、全身に刻印される(器官の私有化が始まるのは、「人間が人間を前にして恥ずかしさを感ずる」ときからでしかない)。

というのもこれは創設の行為であって、これによって人は生物学的な有機体であることをやめ、ひとつの充実身体、ひとつの大地となり、その上に諸器官が付着し、社会体のもろもろの要求に応じて吸引され、拒絶され、奇蹟を授けられる。
器官は社会体の中で剪定され、流れは社会体の上を流れなければならない。

(引用元:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』 第三章 未開人、野蛮人、文明人(承前) 第一節 登記する社会体

だが、実際に働き、実際の労働があまりにも過酷であった場合に「だまされた」という感覚を持つ可能性もある。
「こんな条件では働きたくない」「給料上げろ!」と不満を持つ人間が出てくる。
そのため前意識的備給は、それが失敗に終わるケースも多々あり、その欺瞞性に気付かれてしまう場合もある。

ヒゲダン(official髭男dism)の「115万キロのフィルム」で唄ってるような「こんな安月給じゃもうキャパオーバー!」みたいなことを言ってくる輩も出てくるかもしれない。

www.youtube.comドゥルーズガタリは「欲望は下部構造」だといった。
上部構造とか下部構造とかって話は、マルクスが生み出した概念だ。

10mtv.jp 先ほど申しました、「下部構造が上部構造を規定する」という表現について考えます。ここで下部構造とは、人間の活動や出来上がった社会の前提となるさまざまな生産の様式、つまり産業の在り方のことです。例えば、人間は自分の体を動かしてさまざまな労働をします。そこでは畑を耕す、道路をつくる、工場で働くなど、いろんなものが考えられますが、そうしたフィジカルな働き方や、それを部分として持つ生産の様式のことを「下部構造」と呼んでいます。

 それに対して「上部構造」とは、肉体に対する精神や、その精神の在り方を決めていく社会における倫理、キリスト教や仏教のような宗教、憲法民法などの法、これらの背景にある哲学的な考え方、さらには芸術や絵画や音楽などのことを指します。簡単にいえば、上部構造とは人間にとっての精神や精神的な活動、その産物のことであり、下部構造とは身体やさまざまな製品を作る活動のことです。マルクスの考えは、この肉体や産業の在り方としての下部構造が精神である上部構造を規定するというものでした。

欲望が下部構造である理由は、欲望が上記のトレインスポッティング電通鬼十則やヒゲダンの唄に対して無意識的備給が行われる際、人間がそれを求めた理由の中には「不満やストレスを抑圧したい」というのも含まれているからだ。

たとえ搾取的な労働条件の下で働いていたとしても、その労働や経済的活動を正当化するための価値観、ルサンチマン、物質的生産物やサービス等に無意識的に欲望を注ぎ、内面化し、また働き出すという点で、欲望は下部構造に貢献している。
マルクス的な定義だと、欲望は精神的なものゆえに上部構造のような気もするが、そうじゃないんだよな。

そしてドゥルーズガタリは、無意識的備給は「主体の利害とは、まったく異なったもの」とまでいった。
実際そうだろう。

安月給でこき使われても、何の不満もなく従順に働き続ける。
底辺システムエンジニアだった俺も、SES企業が発注主からどんだけ金を貰っているかも、その中から何十%中抜きして、俺に安月給を払っていたのかも、わからない状態だった。

gyakutorajiro.com大手IT企業だってそんな仕組みじゃねえのか。
実際に手を動かすシステムエンジニアよりも、金を右から左に動かす予算管理だのスケジュール管理だのマネジメントだの、専門性が希薄な仕事をやっている人間の方が金を多く手に入れてるケースがある。
一次請け、二次請け、三次請け…と担当する工程が会社毎に分割発注され、その度ごとに中抜きされ、大して手を動かしてない輩に金が流れている仕組みが蔓延している組織構造もあるんじゃねえのか。

b.hatena.ne.jpまあシステムアーキテクト的な仕事とか上流工程の場合は、発注主とか一次請けにちゃんと、専門性を備えて立派な仕事している人もいるかもだけどよ。

しかし、実際に手を動かして高い専門性やプログラミングスキルが要求される人間である場合でも、中抜きされ、安月給の酷使が行われている可能性も大いにある。
そんな働かせた方や安月給だと、そりゃ銀行のシステムにも不具合が出まくるって話よ。
そんな日々のストレスを、無意識的備給で解消して、働き続けてる。

どうでもいい管理職をやってるオッサン、働かない妖精さん、大した仕事もせず定時退社する天下り社員。
なくなっても困らない社団法人だの財団法人だのに税金が投入されるし。
宗教法人はルサンチマンを提供して資本主義の厳しい現実に霞(かすみ)をかけてくれる機関として、国家は尊重し、税金を免除する。

映画「ハゲタカ」でも、玉山鉄二が演じる劉一華が言ってただろうよ。



アカオ自動車で働く派遣労働者である守山翔(高良健吾)に。

劉:あの外人ね、アカオのファイナンシャルアドバイザー。会社のオフィスに、こっちに投資しようとか、この工場は売った方がいいとか、アドバイスする人。週に何日か会社に来て、月収300万。ボーナス1億。広尾のマンションは家賃200万、会社持ち。やってらんないよね。地獄だよ…日本は。生ぬるい地獄。

実際に手を動かして作業を行う製造ライン、開発工程に携わる人間がいないと困るにも関わらず、無くなって困らないブルシットジョブを行うオッサンや老人の方が多くの給与を得ている。

勤務医アーニャ on Twitter: "円安を労働者のせいにするのあまりにクソすぎるだろ https://t.co/wUsA1J8RQ7"

こういう指示だのマネジメントだの分析だの、別になくなっても組織も社会も何ら困らないブルシットジョブやってるオッサンが高給もらって、労働者に低賃金しか払わないから仕事に対する意欲も質も上がらないんだよ。

2022/10/23 19:20

b.hatena.ne.jp要らない課長が同じ部署に複数人もいたり、組織の規模にそぐわないのに取締役が何人もいたり、週3日ぐらいしか来ない相談役みたいなのが、現場で汗を流している労働者よりも時給がいい。

労働者はなるべく安く使える方がいいし、部品のように互換性と流動性があると便利だ。
ドゥルーズガタリはその資本主義の発展に伴う人間の部品化の伸長を、何十年も前に暴いていた。

gyakutorajiro.com工事の発注主は、社会的機械と言われている。

これとは逆に、社会的機械は人間を部品として扱う。たとえ、人間を彼らの使う機械とともに考察し、作動、伝達、動力のあらゆる段階において、彼らをひとつの制度的モデルの中に統合し内部化するとしても。こうして社会的機械は記憶を形成することになる。このような記憶なしには、人間とその(技術的)機械との共働はありえないだろう。

(引用元:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』 第三章 未開人、野蛮人、文明人(承前) 第一節 登記する社会体

社会的機械によって器官の組織化を授けられた人間は、大地機械とは違う仕事を行っている。
クーラーの効いたフローリングの部屋で座って仕事している。
身体にかかる重力や負荷は、大地機械的な労働のほうが圧倒的に大きい。

映画で高良健吾が演じる守山が言ってたように、労働者たちは人間というよりは部品として扱われる。

守山:知ってる?アカマで派遣を扱う部署って、人事部じゃないんだよ。調達部だよ。俺たち部品なんだよ文字通り。会社側は必要な人数しか派遣会社から入れない。つまり誰でもいいってことが派遣の条件。俺が誰かであっちゃいけないんだよ。

劉:派遣を解禁したのは中年の雇用を守るためだ。既得権益層は、いつだって弱者を食い物にする。誰かになるんだよ、守山。

映画に出てくるアカマ自動車という会社は「3年間働いた派遣工は、会社が直接雇用しなければならない。ところが、3ヶ月のクーリング期間をおけば、新たな派遣期間が始まる」という雇用形態で、派遣労働者を都合のいいように使っていた。
それは映画の中の話だけじゃない。

小泉&竹中なのか、誰が派遣労働を推進したのかはよくわからないが、要望した大企業とそれに応じた政府であることは間違いない。

jp.linkedin.comしかし、最大の規制緩和は、1999年の小渕内閣によってなされた改正で、この時に、派遣労働の対象が原則自由となり、禁止業務だけが定められるネガティブ・リストの形を取るようになりました。2003年に小泉内閣のもとで製造業務への労働者派遣が解禁されたとはいえ、なぜ非難されるのはもっぱら小泉内閣で、より抜本的な規制緩和に踏み切った小渕内閣ではないのでしょうか。おそらく、小渕内閣が公共事業を増やしたのに対して、小泉内閣は減らしたので、小さな政府を嫌う勢力は、小泉内閣だけを攻撃したいからでしょう。

派遣労働に関するもう一つのよくある誤解は、パソナ会長の竹中平蔵が、自社の利益のために派遣労働を推進したというレント・シーキング説です。竹中が大臣あるいは参議院議員の任にあったのは、2001年4月から2006年9月までで、パソナの特別顧問に就任したのは2007年2月、会長に就任したのは2009年8月です。そもそも、竹中は派遣労働を直接所管する厚生労働大臣には就任していないのですから、竹中が中心となって派遣労働を推進したというのはおかしな話です。

「労働者のスキル」だとかぬかしてんじゃねえって話だよな。

てめえらが人間を部品のように扱うくせに、部品にスキルだのやる気だの忠誠心だの仕事のクオリティだの求めてんじゃねえって話だ。
労働者だって馬鹿じゃない。人間として扱わず機械的な対応をするのであれば、最低限の機械的なパフォーマンスしか返さない。そりゃ当然よ。
まあしかし労働者の側も、そんな低い志では、一生低所得と不遇な生活から抜け出せないけどな。

でも大丈夫。そんな風に不満を抱いても、酷使されても、ビールがある。居酒屋に行く金がなければ、サイゼリヤに行ってデカンタワインを頼めば安く酔うことも出来るし、ファミレスが無い田舎でも、コンビニやスーパーでストロング缶を買えば仕事のストレスも忘却できる。

家に帰れば愛するパートナーがいる。家族がいる。土日も休日も一応ある。
録画していた恋愛ドラマを観る。
金曜だし、今日は野球でも観ながら1杯やるか~、もしくは寿司でも食うか~。

パートナーがいなくても、明日はコミケに行って楽しもう、推しのイベントに行こう、等々。

高度に発達した資本主義社会においては、その時々に抱いている感情や欲望に応じて「こちらはいかがですか?」と、労働者の身体や精神を癒してあげるための物質やシステムが大量に存在し、疲弊した労働者は無意識的に欲望をその対象に向ける無意識的備給を行う。

音楽もそう。例えばSHISHAMOの「明日も」という曲は、現時点で6300万回以上も再生されている。

youtu.beヒーローってなんだ?具体的には何も言ってねえ、抽象的存在。
安月給でもいいじゃないか、「月火水木金 働いた」「金曜日が終われば大丈夫」だよ。「いい曲だ~」と、SHISHAMOの曲に対して無意識的備給を行い、日々の労働の有難さに感謝し、頑張った自分を褒める。

この時、SHISHAMOの曲は自分や職場や労働を肯定するためのルサンチマン(奴隷道徳)として機能しており、ドゥルーズガタリがいう前意識的備給(特定の組織が礼賛する価値観の内面化)を担う物理的存在にもなっている。

こういうJ-POP等から何となく「こうあるべき」同一化対象が供給される。
「一生懸命、月曜日から金曜日まで働いて、土日休んで、日々頑張っていくの美徳なんですよ」という、資本主義社会に適った身体に組織化されていく。

だから不満なんていうな、野暮だと。
SHISHAMOが唄うように「痛いけど走った」「苦しいけど走った」人、努力し続ける人がカッコいいんだと。

そのため、ストライキする意志も感情も封殺される。
野球を観て楽しんで、封殺されているのはランナーだけじゃねえんだよ。
社会に対する不満や反発感情も「仕事はしんどいけど、こんな風に楽しみもあるからいいかぁ」と、労働者の無意識はその欲望を、即自的な快楽や用意されている娯楽に無意識的に向けてしまう。

社会的再生産の最も抑圧的、屈辱的な形態も欲望によって生産され、欲望から出現する組織において生産される。・・・(中略)・・・ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人びとが盗みをし、また別の人びとがストライキをするということではない。そうではなくて、むしろ飢えた人びとが必ずしも盗みをしないと いうこと、搾取される人びとが必ずしもストライキをしないということである。・・・(中略)・・・
欲望的生産にねらいを定める社会的抑圧が巨大な規模で存在するという事実は、少しも私たちの原理を損なうものではない。

欲望は現実的なものを生産する、つまり欲望的生産は社会的生産と別のものではない、これが私たちの原理なのである。欲望に対して、特有な存在形態を認め、社会的生産の物質的現実に対立する精神的あるいは心理的現実という存在形態を認めることなど問題外である。

欲望機械は、こうした幻想的あるいは夢幻的機械ではないのだが、幻想的、夢幻的機械は、技術的かつ社会的機械と区別され、むしろこれらの機械を裏打ちするものとみなされている。

もろもろの幻想は、むしろ二次的な表現であり、こうした表現は、与えられた環境における欲望機械と社会的機械の同一性から派生してくるのである。だから、幻想は決して個人的なものではない。それは制度論的精神分析がいみじくも指摘した通り、あくまで集団幻想なのである。

(引用元:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』 第一章 欲望機械 第四節 唯物論的精神医学

SHISHAMOの曲は、別に国家や企業のイデオロギーに貢献しようという意図で作られたわけではないだろうな。だが夢幻的機械として、国家という資本主義機械や、企業という社会的機械に貢献する労働礼賛の価値観を提供しているという点で、裏打ちしてるだろうよ。

その機械の供給ネットワーク、ストレスや不満を抱いた際に無意識的備給を行いそれを発散するシステムの供給ネットワークが、ありとあらゆる場所に網羅されている。

だから連帯なんてしない。
幻想的、夢幻的機械に無意識的備給を行い、意識が自分のコンプレックスや不満を抑制する機械、例えば集団幻想(宗教、ドラマ・映画・スポーツ・音楽等の娯楽)やルサンチマンが具現化した産物(詩集など)等に接続する時、ストライキをしよう、連帯しよう、なんて感情は抑圧される。

フランスはアルチュセールドゥルーズガタリを輩出した国だ。
だから資本主義の仕組みや搾取構造に対するリテラシーも高いのかもしれないし、上記で述べた欺瞞的抑圧システムなんて気付いてる人もいるだろうし、自分たちが不当に搾取されたら反発する。
もしくは、日本ほど不満を抑圧するシステムが発達していないというのもあるかもな。

日本はこういう資本主義論みたいな話なんてのは全く流行らない。
アルチュセールドゥルーズガタリなんかよりも、上に述べた娯楽を、無意識的備給だの抑圧だのを考えずに、普通に消費している方が断然、楽しい。
だから共産党も揶揄され、デモや労働運動をしている人に対し、奇異な目で見る風潮がある。

影響力のある芸能人だとかインフルエンサーがクールに労働運動等をすれば、もう少し広まるかもしれないが。
ユーチューバーもインスタグラマーもティックトッカーも、金のない労働者の側に立って、労働運動を推進するアイコンになんかならない。
金が集まる企業から案件もらってステマ投稿してる方が金になるし、大企業が作ったゲームの実況を配信してる方が金になる。
何かアクションを起こそうとしても、それらの映えるアイコンになる発信者も先導者も不在だ。


それはデモや労働運動にクールでカッコいい印象が永遠に与えらないことであり、裏を返せば「その行動を起こすことはカッコよくない」という、無意識的な足枷になる。
また、どのように権利獲得を行うかのロールモデルも不在のため「もういいか、我慢するかなぁ」という感じで、安月給に我慢しながらいつもの職場でいつもの仕事を行う。

だからストライキや連帯等も、ほとんど期待できない。
1日の仕事が終われば、各々が、自分のストレスを抑圧したり不満を解消するための機械に、無意識的に自分の欲望機械を接続してしまって、一時的に抱いていた志なんか雲散霧消するほどに資本主義が発達しているこの現状だ。

自己責任論は好きじゃないが、結局は、独立独歩で現状打破する方法を考えていくしかない。
もちろん、以下のような変化球で現状打破をする人もいるようだが、意外とこれは誰でも真似できる行為じゃないんだよな。

note.com基本的には、自分の人生のツケは自分で払うしかない。

 

続き:労働者の分子的無意識は資本主義社会の多様性というリゾーム状の欲望機械に接続してストレスを抑圧し連帯する意識は無力化される