逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

SFにおける時間と空間は直線的時間の圧力に疲弊した人間を癒すためのルサンチマンとして機能する

今週のお題「SFといえば」だ。
SF映画は何本か観たことあるが、SF小説はほとんど読んだことが無い。

だからこのお題について語るのは難しいが、1つ言えることは。
「SFには、ルサンチマン(奴隷道徳)の側面がある」ということ。

そんなことを言うと、SFファンには顰蹙を買いそうだが、それはあり得る。
「Science Fiction」というか「Space Fantasy」だな。
「Space Fantasy」が、ルサンチマンに近い。

なぜか。
それは「SFというのは、現実ではない世界を描いているがゆえに、現実逃避を促す」からだ。

なぜ現実逃避をしたいのか?
考えてみてほしい。
昨日は金曜日だった。

多くのサラリーマン、労働者たちは、週末の仕事を終えて、居酒屋で1週間の疲れを癒したり、飲みにいったり、コロナが広がってきたから家飲みにしたりと、ホッと一息つけるのが金曜日だ。
遅くまで仕事をして、終電に乗り込む人もいるかもしれない。

ふぅうぅ…疲れたぁ~~~~
結局、終電帰りだよ……ふぅ。
でも明日は土曜日だ…会社が休みだ…ふぅ…

(引用元:闇金ウシジマくん(10)[ 真鍋昌平 ]

しかし、月曜になるとどうだ?
また直線的時間の圧力を被る。
その話は前にもした。

gyakutorajiro.com時間の流れ、その直線的経過とともに、「今月の売上目標」「今月の目標進捗」等、時間とともに売上の計上、成果物の提出等が求められる。

資本主義社会に生きる人間、というか資本主義以前もそうだったかもしれないが。
人間は常に、直線的時間の支配を被る。

ナルシシズム的自我が潜在的対象と現実的対象に取ってかわるとき、すなわち、その自我が潜在的対象の置き換えならびに現実的対象の偽装をわが身に引き受けるとき、その自我は、時間のひとつの内容を他の内容で代理させているわけではない。

反対に、わたしたちは、第三の総合のなかに踏み込んでしまっているのだ。
時間は、あらゆる可能な記憶的内容を放棄してしまい、まさにそうすることによって、エロスによってその内容がもたらされる円環を打ち砕いてしまったと言えよう。

時間は、繰り広げられ、まっすぐにされたのだ。

時間は、迷宮の最後の形態をとったのだ。
ボルヘスの言うような「見えない、絶えることのない(84)」直線をなした迷宮の形態をである。
厳密な形式的かつ静的な順序と、重圧的な総体と、不可避的なセリーをそなえた、蝶番からはずれた空虚な時間は、まさしく死の本能である。


(84)ボルヘス『八岐の園』(鼓直訳、『伝奇集』所収、福武書店)94頁あたりか。

(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第二章 それ自身へ向かう反復)

時間の第三の総合、順序付けられた、直線的時間の圧力。
こんなはずじゃなかった。
現実的対象としての自我、はこんなものなのかと。

月曜日から金曜日まで、満員電車に乗り、会社のため、売上のために走り続ける。
それが、自分が求めていた人生だったのか。
まっすぐにされてしまった。
俺の身体は奪われた。


それゆえ、人間はこの時間軸の抑圧から、逃れたいと思う。
時間の流れを円環に、永遠回帰の欲望が沸き上がる。

gyakutorajiro.com直線的時間の支配から逃れた、別の時間軸の世界に逃れたい。
宇宙にロマンを馳せる。「ああ、こんな大地から、直線の時間から、プレッシャーから逃れたい!」
マイケル・ジャクソンジャネット・ジャクソンは叫んでる。

www.youtube.comMichael Jackson & Janet Jackson - Scream (David Morales Classic Club Mix)

Stop pressurin' me!「僕に、私に、プレシャーを与えないでくれ!」ってね。

人間は常にプレッシャーに苛まされる。
働いていないニートや引きこもりでさえ「働け」と。

gyakutorajiro.com何がプライバシーだお前は!いいか、大人になったら働いて税金を納める。それが社会人の務めだ!

言っとくがみんなな、必死に我慢して、頑張ってんだぞ!

契約社員?大学まで出してやったのに、なんで正社員になれないんだよ。非正規なんてお前、アルバイトとおんなじじゃないか。ええ、何十社も受けてさ、一社も合格しないって、どういうわけだよ。黙ってないで何か言えよ。

結婚はできないわ、仕事は続かないわ。恥ずかしくないか。少しは俺の立場も考えろ。このままだとお前、家族の恥さらしだぞ。

だから宇宙に思いを馳せる、意識を及ぼす。
こんな現実から逃れたいと。

そして、直線的時間軸から逃避する音楽が生まれた。
スペイシーな音楽、宇宙をイメージする音楽。

一時期、俺はそういう音楽、特にハウスミュージックをよく聴いていた。
たぶん会社員でのストレスが辛すぎて、SF的雰囲気をまとったスペイシーな音楽を好んだんだろうな。

かつてdigしたスペイシーな曲たちを、久々に貼っておくかね。
いつでも聴いて、現実逃避できるように。

www.youtube.com

Orlando Vaughan – Better Than Never (Main Mix)

この曲は姉妹サイトでも紹介した。

iine-y.comちょっと疾走感があるから、直線的時間っぽいが、4分20秒過ぎた辺りから急にスローになるのがいい。

www.youtube.comDJ Spinna feat. Selan - Back 2 U (The Realm Remix)

この曲はバラードっぽい感じ。ジャケットからしてスペイシーでSF感あるよね。
「Back 2 U」ってことだから、「宇宙旅行から君の為に帰還するよ~」みたいな感じか。

www.youtube.comOne (Simon Grey 2007 Version) (feat. Kylie Auldist)

パーカッションとシンセ音がいい感じに交錯している。メインの女性ヴォーカルの方が人間味あって、ハモってる男性の方がスペイシーな声してるな。
SF映画で有名な「フィフィス・エレメント」の「THE DIVA DANCE」が好きなら、この曲も気に入るだろうよ。

www.youtube.comThe Diva Dance - The Fifth Element - Inva Mula (Lucia di Lammermoor)

そんで次はこれだ。

www.youtube.comEarnshaw & Giles - Deja Vu (Main Musical Mission)

ヴォコーダーで声を変えて、アレンジもスペイシーだ。疾走感はあるけど、直線的時間ではない。「デジャヴ」は和訳すると「既視感」だ。
つまり、時間が逆向きに向かったり、彷徨ってる。

そんな感じに聴こえないだろうか?
ヘッドホンでこの曲を聞くと右へ左へ音がグルグルとうねるような、円環構造のような感じもある。

大学生の時、チェルフィッチュという劇団の「三月の五日間」という演劇のDVDを観た。ある男と女が渋谷のラブホテルに泊まり、何日も獣のように性交し続けるという舞台設定の中で、女は「いつもの渋谷にいるのに、なんか旅行に来ているみたい」というセリフを吐く。

chelfitsch20th.netこれは、たとえ渋谷であっても「ホテルで連泊する」というその行為のみで、<今までの過去の旅行で連泊した経験="経験">の記憶に接続され、デジャヴを感じたからだろう。
だからこそ渋谷とは違うような錯覚を、過去の経験と現在の状況が接続されたからこそ、いつもの渋谷は旅行地と化した。

このリチャード・アーンショーのデジャヴという曲も、グルグルとエロスの円環に陶酔しているような雰囲気がある。
近未来的なアレンジは、現実の社会的生活や義務などが付随する直線的時間から離脱できるような浮遊感がある。

そろそろ日本人アーティストで、SF感ある曲を。

www.youtube.comJazztronik - future talk

Jazztronik(野崎良太)は日本人だが、youtubeのコメント欄に日本人のコメントがない。海外でも好きな人多いわな、Jazztronikは。
この「future talk」聴いた時は「カッコいいなぁ」と思ったね。

www.youtube.comFantastic Plastic Machine (FPM) / Reaching for the Stars [Vo: INCOGNITO] (2003 "too")

Fantastic Plastic Machine田中知之)のSF感ある曲。
この曲、MAW(Masters At Work)にもリミックスされてるな。

www.youtube.comMasters At Workのアレンジは、スペイシーでSF感ある曲が多い。
米ローリング・ストーン誌「史上最高のダンス・ソング TOP200の1位になってる、Donna SummerのI Feel Love。

amass.jpこれもMasters At Workのアレンジがカッコいい、SF感ある。

www.youtube.comDonna Summer - I Feel Love (Masters At Work DMC Remix)

MASTERS AT WORKのLITTLE LOUIE VEGAのバンドプロジェクト'ELEMENTS OF LIFE'の曲、序盤はSF感ないが、終盤にかけてスペイシーなアレンジになってくる。

www.youtube.comElements of Life - You Came Into My Life (Louie Vega Roots NYC Mix)

サカナクションも、スペイシーでSF感あるアレンジの曲あるよな、特にこの曲。

www.youtube.comサカナクション / セントレイ

「午前0時の狭間で」「夜間飛行疲れの僕は宇宙」というように、ある時間を契機にして、異世界である宇宙に意識が向かってる。

「1000と0と線と点の裏」は、宇宙のようなシンプルな2進数の世界に向かいたい欲望の現れだな。

www.excite.co.jpノイズの多い現実の社会、現実の大地から逃走して「僕と君が繋がる世界」という、シンプルな世界を求める。
人間の欲望が渦巻いていない、宇宙のようにシンプルで美しい世界に向かいたい。

インタビューによると、歌詞のテーマが「モラトリアム」らしい。

tower.jpモラトリアム、直線的時間に抗い、滞留している。
つまりこのスペイシーなSF感のある曲の中に、直線的時間の抑圧から解放されたいルサンチマンを垣間見ることもできるだろう。

また、直線的時間、歴史は、人種差別を生んだ。争いや戦争を生み続けた。
その醜い人間の世界から逃れたい。逃走したい。

デトロイト・テクノは、その可能性を提示した。

www.youtube.comUnderground Resistance - Hi-Tech Jazz 

テクノには、人種を超えて楽しめる可能性がある。決して、無機質な機械音の塊じゃねえぞと。

アンダーグラウンドレジスタンスは『Nation 2 Nation』(民族から民族へ)、『World 2 World』(国から国へ)、『Galaxy 2 Galaxy』(銀河を越えて)等のアルバムを出している。

URが何に対してレジスタンス(抵抗)していたかというと、アルバムのタイトルから伺うに、この差別的な世界だろうな。
それをテクノ、音楽による革命によって意識を変革させようとしたのではないだろうか。
Twitterが更新されていないので、今活動しているかどうか知らないが。

twitter.comまあそういう、少し政治的な意味合いもあって、曲もカッコいいからこの曲は「デトロイト・テクノのアンセム」みたいに言う人もいるみたいね。

似たような価値観でいうと「宇宙船地球号」だの、「地球市民」だの、「国境なんてない」みたいなヒッピー的な価値観。

それは素敵だ。
また今回、紹介した曲、どれも自分が好きな曲ばかりだ。

しかしそれはそれで、置いといて。
よーく考えてみると、やっぱり、ルサンチマンと繋がっている。

SFの世界、スペイシーな音楽、それは素晴らしい。
だがそれは直線的時間、この糞ったれの資本主義社会の大地からの逃走でもある。

宇宙という、日常から遠いテーマにフォーカスする。
それによって、「はぁ、100g500円の肉とか買えないわな」だとか、「今の給料で家庭とか作れんのかな」だとか、もっと自分に関係のある些細な日常や、自分の社会的ポジションを、希薄化していないだろうか?
SFの世界に浸る時に。
自身を、この資本主義社会の呪われた大地において相対化することを避ける。

そこに、ルサンチマンがある。
と、言わざるを得ない。

国会議員は儲かるんだから票になるなら何でもする。それによって誰かが傷つこうが俺は高収入になれるし幸せだから関係ない

そう思ってるんじゃねえのか?
一部の議員はよ。
カルト宗教団体との関係性を問われた時、ある政治家は言った。

「選挙ですから支援者は多く集めるということは必要なことだと思っております」

ってね。
調査は一応、建前としてはする。
だけどしっかりやるかというと、やってねえ可能性も高い。
だって調べて後ろ暗いものが見つかると、後で「知りませんでした」って言い訳できねえからな。
調査は最小限、組織票だけガッツリいただき、俺は国会議員になる。

国会議員がどれだけ恵まれてるか、わかるか?

www.news-postseven.com日本の国会議員たちは、“とても恵まれた環境”で仕事をしている。まず、高額の「現金収入」だ。国会議員の給与にあたる歳費は月129万4000円に、年2度のボーナスがつく。6月支給は291万円、12月は319万円だ。

 ヒラ議員で年収2000万を超えるが、それに加えて「文書通信交通滞在費(文通費)」が毎月100万円支給される。この文通費は使途の報告義務が一切なく、しかも非課税で支給される。年額にして「手取り1200万円」の手当が上乗せされるのだ。

toyokeizai.net 世界議員報酬ランキング

議員報酬ランキング30位は次のとおりです。イギリスのLOVEMONEY.COM の調査「This is what politicians get paid around the world」を参照しています。調査時期(2019年)は1ドル=110円であることから同水準で算出しています。

1位 シンガポール 88万8428ドル(約9772万円)

シンガポールの議員報酬は世界最高水準です。批判にさらされることもありますが、政治家は政治の質を維持するために必要だと弁明しています。

2位  ナイジェリア 48万0000ドル(約5280万円)

ナイジェリアの議員報酬も世界最高水準といえます。シンガポールと異なる点は、国民の多くが2ドル/日で生活している点です。

3位  日本 27万4000ドル(約3014万円)

改正国会議員歳費法が適用されて2割がカットされていますがそれでも高い水準です。各種手当を含めると世界1位の水準になります。

2000万だ。
手当を含めると5000万という話もある。

finance.yahoo.co.jpもちろん、5000万丸々と、私的に使うことは難しいかもしれないが。

数年間なるだけでも、家を建てることができるだろうな。
二期、三期と続けることができれば、23区内にタワマンや一戸建てを買うこともできるだろう。


お前が、ワンルームマンションのユニットバスで、湿気ムンムンの空間の中で便座に座る時、俺はもちろんセパレートだ。
風呂は足を延ばすことができる。
湿気は空調で管理だ。
風呂にテレビも埋め込んじゃうか?

そんな権利を、みすみす手放すわけにはいかない。
モラルだとか、社会問題とか、ぬかしてられるかよ。
俺の欲望が最優先!

国会議員はすばらしい。
俺は国会議員であり続けたい。

そう思ってる議員は、大勢いる。
もし議員以外の手段で、年収1000万~2000万クラスの収入を実現する場合、多大な能力が求められる。

医者、弁護士、公認会計士一級建築士・・・士業は簡単にはなれないぐらい難しい資格試験が立ちはだかっている。
IT業界であれば、複数の言語によるプログラミングが可能であるだけでなく、システムアーキテクト、システム設計等、高い知識や技術が要求される。

技術が無い場合も、大企業に入って安泰したポジションに就くことができれば年収1000万貰えるかもしれないが、出世競争も大変だ。まず大企業に入るために学歴が要請される場合もあるだろう。
大企業で成功するのではなく起業で年収1000万オーバーを目指すにも、失敗する可能性もある。
賭博黙示録カイジ利根川が語るように、よくあるルートでの年収1000万オーバーへの出世競争は、過酷だ。

想像してみろ
何も築いてこなかったおまえらに
どこまで想像が届くかわからぬが 想像してみろ
いわゆるレールの上を行く 男たちの人生を

おまえらのようにボォーッとしちゃいないぞ‥‥!

小学中学と塾通いをし‥‥‥
常に成績はクラスのトップクラス
有名中学 有名進学校と 受験戦争のコマを進め
一流大学に入る‥‥‥
入って3年もすれば
今度は就職戦争‥‥
頭を下げ
会社から会社を歩き回り
足を棒にしてやっと取る内定‥‥‥

やっと入る一流企業‥‥
これが一つのゴールだが‥‥‥‥‥
ホッとするのも束の間
すぐ気が付く
レースがまだまだ終わってないことを‥‥
今度は出世競争‥‥

まだまだ自制していかねばならぬ‥‥!
ギャンブルにも 酒にも女にも溺れず
仕事を第一に考え
ゲスな上司にへつらい
取り引き先にはおべっか
遅れず サボらず ミスもせず‥‥‥
毎日律儀に 定時に会社へ通い
残業をし
ひどいスケジュールの出張もこなし‥‥
時機が来れば単身赴任‥‥
夏休みは数日‥‥‥

そんな生活を10年余続けて
気が付けばもう若くない
30台半ば‥‥ 40‥‥‥
そういう年になって
やっと蓄えられる預金高が‥‥‥
1千‥‥2千万という金なんだ‥‥

わかるか‥‥‥?
2千万は大金‥‥‥
大金なんだ‥‥‥‥!

世間一般の道‥‥‥‥
つまり命を薄めて手に入れる場合は
これだけのことをしなければならない

それに比べて おまえらはなんだ‥‥!?

必死に勉強したわけでもなく‥‥‥‥
懸命に働いたわけでもない‥‥‥‥‥‥
何も築かず‥‥‥‥‥
何も耐えず‥‥‥‥‥
何も乗り越えず‥‥‥‥
ただダラダラと過ごし‥‥

やっとことと言えば
ほんの十数分の余興‥‥

なめるなっ‥‥!

(引用元:賭博黙示録カイジ 7 [ 福本伸行 ]

だから一発逆転、この大金を得られる国会議員という仕事、これになりたいんだ。
1度なりさえすれば、数年は安泰。
だから選挙の直前に、暑い日に街頭に出ることもまあ我慢してやるよ。

俺は「国会議員になる」という目的がある。
そのために、余計なものは排除する。

ドゥルーズは「差異と反復」によって、人間が対象から差異を認識する際、その差異は恣意的に抜き取られることを明らかにした。

同一性、類似、対立、そして類比――それら(四つの錯覚)はどのようにして差異を裏切るのか

差異は、どのような理由で、有限な、もしくは無限な表象=再現前化の諸要請に従属させられたのであろうか。なるほど形而上学プラトン哲学によって定義するのは正しいが、しかしプラトン哲学を、本質と仮象の区別によって定義するなら、それは不十分である。

プラトンによって打ち立てられた厳密な区別の第一のものは、範型(モデル)と似像(コピー)との区別である。ところで、似像(コピー)はけっして単純な仮象ではない。なぜなら、似像(コピー)は、範型(モデル)としての《理念》(イデア)との、精神的、精神論的(ノオロジック)(3)、さらには存在論的な内的関係を現前させているからである。

それよりもはるかに深い第二の区別は、似像(コピー)そのものと幻像(ファンタスム)との区別である。プラトンが範型(モデル)と似像(コピー)とを区別し、そしてそれらを対立させさえするのは、明らかに、似像(コピー)と見せかけ(シミュラクル)〔幻像〕との選択〔的な区別の〕基準を手に入れるためでしかないのである。

すなわち、似像(コピー)は、それが範型(モデル)と関係しているということによって根拠づけられており、見せかけ(シミュラクル)は、似像によるテストも範型(モデル)の要請も受け入れないがゆえに失格しているということだ。

したがって、仮象が存在する以上、肝心なことは、正しく根拠づけられた、光り輝くアポロン仮象と、根拠も根拠づけられたものも尊重せず、そっと忍び込んでくる、悪意ある不吉な別の仮象とを区別することである。〔表象=再現前化への〕差異の服従をもたらすのは、まさに見せかけ(シミュラクル)を祓おうとするそうしたプラトン的意志である。

(3)オイケン、アンペールらが用いる語であるが、ここでドゥルーズが誰を示唆しているのか、あるいは誰も示唆していないのかわからないので、一応、平凡社『哲学辞典』における訳語(オイケンの方法の名)に従う


(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 結論 差異と反復)

「悪意ある不吉な別の仮象」として、マスコミや国民からの「カルト宗教団体の存在との繋がりの追求」「国会議員を続けられなくなる脅威」が現れる。
追及の内容、その不吉な仮象を具体的に紐解くと「霊感商法による多額の献金が問題になっている」という話だ。

しかしその差異は、必要ない。
それは「見せかけ」(シミュラクル)だ。
俺はそう考える。そんな差異に服従してたまるかってんだ。祓いのけてやる。
大事な票田なんだから。
団体は「信教の自由の下に、宗教活動やボランティア活動等も行う団体」という差異として、認識しておく。
それも「見せかけ」(シミュラクル)だろうが、俺の欲望に適うのはこちらだからな。

宗教2世、信者2世、その他諸々の被害者の声によって根拠づけられた差異は尊重しない。
俺の欲望に叶う事実、その光輝くアポロン仮象(国会議員)に近付くための表象=再現前化を行う。

もちろん、俺は立候補できるぐらいだ。
別に国家議員にならなくても、そこそこ人望や職はあるし、金を得る手段はある。
だがそれは似像(コピー)だ。
落選した俺は、範型(モデル)ではない。

というのも、範型(モデル)は、《同じ》もの(自体ガ自体ニオイテ avto xa avto)の本質としての同一性の定位によってでしか定義されえず、似像(コピー)は、《似ている》ものの質としての内的な類似の状態によってでしか定義されえないからである。

また、類似は内的なものであるがゆえに、似像(コピー)はそれ自身、存在と真なるものとの内的関係をもっていなければならない。その真なるものとは、それはそれでまた、範型(モデル)という真なるものに対して類比的でなければならない。結局、似像(コピー)は、二つの対立する述語のうち、範型(モデル)に適合する述語の方をその似像(コピー)に帰属させるという方法によって、構築されなければならないのである。

以上のすべての仕方によって、似像(コピー)は見せかけ(シミュラクル)から区別されるわけだが、それが可能であるのは、差異を、《同じ》もの、《似ている》もの、《類比的な》もの、《対立した》ものという諸審廷へ従属させることによってでしかない。


(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 結論 差異と反復)

国会議員という範型(モデル)を手に入れるために、俺は国会議員の類似的な存在、インフルエンサーだの、人望があるだの、元議員秘書だの、そのような似像であるわけにはいかない。

国会議員の類比的な高年収の存在、弁護士だの人気漫画家だの人気Youtuberだの、それだけは不十分だ。もっとコスパよく大金を得る手段、それが国会議員なんだよ。
確かに、弁護士等の士業や漫画家やYoutuberも金を稼げる場合もあるが、国会議員よりもしんどいんだよ。類比的な存在ではあるが、やはり手っ取り早く年収2000万を得るには、国会議員という手段が一番お得感があるんだな。

そのために俺は、自分で自分を欺く。
宗教2世だが信者2世だが、カルト宗教団体に騙されようが、能動的に調べない。
追求しない。
だって票田になるんだよ?あいつら投票してくれるんだ、ヒャッホー!
もし、多額の献金を要求する反社会的行為を行う団体との繋がりだとか、票をもらうために実際付き合ってることがバレちまったら「知りませんでした」だの、何かしら言い訳して、時間の経過と共にけむに巻いて切り抜けてやる。

カルト宗教団体と党の関係がどうのこうのだの、国民が騙されて家庭崩壊を招くほどの献金を招いているだの、そんなのは二の次、三の次だ。
それよりも俺が当選するか落選するか、そっちが大事なんだよ!
この数日で、俺の所得が決まるんだからな。

まだ国会議員ではない状態。
そして国会議員だったのに、落選して、最低年収2000万を失う状態。

それらは俺の似像だ。
似像は、範型だけに対立するわけではない。
見せかけ(シミュラクル)とも対立する。

「見せかけ(シミュラクル)の差異」を、祓いたくて仕方がない。
票田になるんだったらいいだろうが。

ドゥルーズにおいて「見せかけ」(シミュラクル)は、決して「嘘偽り」という意味ではない。
国会議員の欲望によって、どの「見せかけ」を採用するかが決められる。

だが、ドゥルーズが述べている通り、生とはまさにシミュレーションであると主張することは、我々は、自分たちが演じている登場人物や仮面に他ならないのだと主張することである。

それは、正しい出来事、あるいは文学的な出来事の創出と創造の外側には正義ないし文学の「モデル」など存在しないと主張することだ。

それは、まず最初に我々が自己を持っていて、それがその上で、シミュレーションやパフォーマンスを通じて隠蔽、表現されるということではないし、また、今後の文学的創造に判断を下すために利用されうる文学の本質が存在するということでもない。

オリジナルな、根源的な自己とか本質とかいった観念は、生産された仮面やコピーの効果にすぎない。シミュラークルはオリジナルがもたらす効果を生み出し、パフォーマンスごとに、新しい自己とオリジナルを生み出す。

(引用元:ジル・ドゥルーズ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ クレア・コールブルック ]p194-195)

「事実なのか」「事実でないのか」という議論、確かに、真実を明らかにすることは大事かもしれない。
だが俺にとって、本音を言えば、真実なんて大事じゃないんだよ。
国会議員を続けられるか否か、高収入・高配当を受け続けられるか否か。
俺の利益に適う方のシミュラークルを優先する。
「カルト宗教団体への規制」というシミュラークルか、「カルト宗教団体を黙認する」というシミュラークルか。
もちろん俺は後者だ。
大事な票田なんだから、大切にしてやらなくちゃいけない。
そのシミュラークルをシミュレーションすることで、俺の国会議員としての地位も安泰だ。

生きることはシミュレーションであり、「国会議員になる」という生き方をすれば、俺には素晴らしい欲望の充足体験が訪れる。
それゆえ、俺にとって必要な「見せかけ」(シミュラークル)は「支持母体の調査をあまりしない」ということだ。
「被害者もいる団体から支援を受けているかもしれない」という「見せかけ」(シミュラークル)の方は、国会議員という自己確立には不要なんだよ。

正しいとか正しくないとか、誰かが傷つくとか傷つかないとか、じゃない。

俺の、俺自身のイデア、それは「国会議員としての俺」なんだよ。
生きるために行うべきシミュレーション、そのための事実(シミュラークル)とは、より俺の欲望充足に寄与できるかどうか、なんだよ!

維新の松井一郎、余計なことすんじゃねえよ。

cdn.tv-osaka.co.jp日本維新の会 松井代表】
「宗教が、全て信仰の自由があるから悪いわけではないけれども、その中で霊感商法・高額の、教会側からいうと自主的な寄付だというが、自主的な寄付に教団の教えという形に導いていくというのは、それで家庭が崩壊するのはおかしい。我が党の国会議員に、特に関係性についてはしっかり聞き取り調査をしたい。そういうところから政治資金なり、支援をしてもらわないようにしたい。広告塔のように使われるのはひかえるべき」

お前んとこも甘い汁を吸えるかもしれないのに、パフォーマンスかい。
七尾旅人、政治的な発言しやがって。

音楽によって国民の政治意識を希薄にさせるのが、音楽アーティストとしての役割じゃねえのか?
そういえば「ローリンローリン」って曲、出してたな。俺好きだよ。

www.youtube.comRollin' Rollin' /七尾旅人 × やけのはら

俺もローリンローリンしたいんだ。

年収2000万だぞ。毎日、軽い贅沢をしても財布に響かない。しゃぶしゃぶ食った後、そのまま銀座のスナックか、六本木のキャバクラだ。風俗にも行ってやる。
しゃぶしゃぶ→キャバクラ→風俗のローリンローリン、ループし続けてやる。

マニフェストは実現できようができないが関係ない。
議員にさえなっちまえば、達成できるかどうかは問題じゃないんだよ。
俺の欲望の充足、そのためのローリンローリンが大事だ。

オフの日は新宿に繰り出してローリンローリンだ。
WINS新宿で馬券を買うか、適当なパチンコ屋でパチスロだ。
国会議員の歳費でギャンブルに勤しむ。
勝つとか負けるとかじゃねえんだ。
大当たりして確変に入った時の脳汁が出る感じ、それを味わうために賭ける。

安い1円パチンコなんて打たねえぞ。
4円パチンコ、20円スロットだ。
学生の時、「押忍!番長」で13万勝ったんだぞ俺は。
スロットで買ったら、歌舞伎町のヘルスに行く。
そんでまたスロット。またヘルス。
スロット、ヘルス、スロット、ヘルス、スロット、ヘルス・・・ローリンローリンしてやる。
ヘルスロットだ。
七尾旅人に許可出してやろうかな。
Live Versionなら、俺の書いた歌詞で唄っていいぜって。
「ローリンローリン、廻り続ける、スロットと、ヘルス店~♪」「ローリンローリン、ヘルスロット~♪」みたいな。
JR無料だからな、地方都市でもヘルスとスロットでローリンローリン、してやるぜ。

なんてね。

国会議員も一人の人間だ。
聖人君子なんかじゃない。
上に書いたような、まあ想像だけどこれに近い、最低の志と欲望を抱き、高い年収を私利私欲に利用する国会議員もいるだろう。

こんな風に、マニフェストの実現や国民の幸せな生活のためではなく、私利私欲のために必要な「見せかけ」(シミュラクル)を取捨選択し、それに基づいたシミュレーションを日々、続ける。


そして「国会議員」として自らのリビドーの充足、欲望充足に至る最上級の体験を、実現しようとしてるんじゃないかってね。

票にさえなれば誰でもいい。国民が傷つこうが知らぬ存ぜぬ。

ああ、哀しいね、この国に国民のことを思いやる政治家はほんとに少ないんじゃないかって思っちゃう。
最近のニュースを見聞きするとほんとに。

秋葉原通り魔事件の背後には非モテ問題がありその背後にはイデオロギー装置の要求がある

上告してたんだ、知らなかった。

www3.nhk.or.jp2008年に、とんでもない事件があった。
ほんとゾッとする事件だったと思うよ。

7人もの命が犠牲になったのはゾッとしたが、加藤智大の携帯日記にもゾッとした。
なぜならその日記は、俺が昔、「大学生ブログランキング」とかにはまってた頃、書いていた日記にすごい酷似してたんだ。
いや、まあ今書いてるブログも、ルサンチマン精神分析と哲学とソロ活の話だから、大して変わらないかもだけど。

学生の時に書いてたブログは、クリスマスに呪詛を吐き、ラブソングの虚構性を叫んだりと、いわゆる恋愛市場主義文化への不満みたいなやつ。
モテないコンプレックスの噴出、嫉妬・怒り・恨み・辛みを抑制するためのルサンチマン、加藤の日記と似てたほんとに。

「自分もその予備軍ではないか?」と、自問自答したことはあるが、まあそれはないだろう。
町中で幸せそうな家族やカップルを見かけてジェラシーを覚えることはあっても、だからといってその幸せを邪魔したり、傷つけようとかは思わないし。
子どもを愛しすぎるあまり自由にさせすぎてる親とかいると「ちゃんと教育しろ!」とは思うけどな。

しかしこのモテないコンプレックスが極端に肥大化すると、"タナトス"のような破壊衝動に行き着いてしまう。
いや、エロスかな。
自らのタナトスを抑えるために、エロスによって他人を攻撃してしまうのがフロイトの理論らしい。

charm.at.webry.infoフロイトは死の本能(タナトス)と生の本能(エロス)の概念を導入することによって、人間の攻撃行動や攻撃衝動を合理的に解説しました。タナトスの欲動は『自己破壊的な行動(自己への攻撃衝動)』を生み出すが、自己破壊的な帰結を回避しようとするエロスの欲動によって『他者への破壊的な攻撃行動(攻撃衝動)』へと置き換えられるというもので、他者への攻撃行動を二重本能説に基づく生理学的本能(内的衝動)で説明しています。

「満たされないリビドー 攻撃」でググると出てきた。

「置き換え」の話は、この前もしたな。

gyakutorajiro.comこのように「置き換え」という防衛機制は、安部元首相のような関連性がある対象においても、物品や店員等の関連性がない対象にも起きるように、様々な事柄に当てはまる現象のため、それのみを原因とするのはあまりにも具体性に欠ける。
確かに理由の一因としてはあり得るが、網目が大きすぎるんだ。

「置き換え」は、山上容疑者の事件も、秋葉原通り魔事件も、当てはまってしまう。
超越論的シニフィエってやつだな、「置き換え」というワードに事件の原因が回収されてしまって、そこで止まってしまう。
だから「置き換え」という説明は、一因だとしても、より深い分析にはならない。


「置き換え」というワードに回収される前、そこまで戻って、何が起きていたのか考えてみるか。
加藤智大は、モテないコンプレックスを持っていた。

モテないコンプレックスが生まれる要因、それは生物学的な要因もあるかもしれないが、その生物学的欲求についても、シニフィアン連鎖に出会う時点で欲求は既に欲望」という、ラカンのテーゼによって、文化的な要因ともいえる。
そのラカンの話は以前、したな。

gyakutorajiro.com当時の彼の日記のメモがある。

「どれだけ金があったら友達になっともらえるんだろ」
「イケメソだったらお金なんかなくても友達できるのに」
「部屋の中に携帯のカチカチ音が虚しく響いてる」
「ぶっちゃけね、後輩に彼女ができたみたい。その幸せ自慢を毎日されてる。いい奴なんだけど、自分の中のどす黒い感情が抑えられない」
「スポーツカーに女乗せてる奴が居た 事故ればいいのに」
「助手席に女乗せてる奴に税金かければ日本の財政難は解決すると思う 女性にとって、彼氏は自分の価値を証明するもの 故に、不細工には彼女ができない」 
「他人に「○○さんの彼女」と認識されるのが嬉しい」

欲望の未達が伺える。
携帯に綴られたこれらの日記は、何の変形や歪曲もない、加藤容疑者の率直な心境が綴られている可能性が高い。

「抑圧された意識が表出するっていう点で、ネットも夢も似ていると思わない?」パプリカ)という映画のセリフがあるが、「抑圧」を行っているのは「法」のことだ。

両親、学校、法律、道徳、社会的規範など、それらの法を日常生活において内面化することを、精神分析では"去勢"(医学的・解剖学的な意味ではない)と呼んだりする。

去勢が完全に遂行されることはなく、夢やネットや無意識の世界で、醜い人間の本性が表出することは多々ある。
特に母親からの愛が不十分だったことが伺える加藤智大においては、人を思いやる気持ちや人の痛み等、内面化が十分でなかったのかもしれないね。

togetter.com

「察して」だと、子どもはわからないよな。何が善で何が悪か、子どもの時から道徳や規範を内面化してあげないといけない。
「置き換え」とは別の、家族内の問題も伺える。

また、自分の成りすましがいたこと、加藤智大が掲示板に入り浸っていたことからも、ネット空間による悪影響もあるな。
当時、SNSは今ほど盛り上がってはいなかったけど、その分、2ちゃんねるとかの掲示板文化は今より勢いがあったのではないだろうか。
2000年代後半~2010年代は「2ちゃんまとめサイト」みたいなのも流行った気がする。今もあるけどね。

ネット空間では、法律がほとんど機能不全に陥っており、警察による抑圧が小さいからな。
「侮辱罪」が法改正されたので、ネットに悪口や反社会的なこと、特定個人への誹謗中傷の抑制効果も、これから少しは期待できるかもしれないが。

これら家族のストレス、ネット空間のストレス、諸々が複合した作用によって凶行に至ってしまったかもしれないけど。

やはり根底、大きな原因には、掲示板による心情の吐露にあるように、モテないコンプレックス、非モテコンプレックス、リビドーの未達があると思われる。

先述したように、彼の携帯日記には、カップルや恋愛に関する記述が多かった。

それはこの資本主義国家では「(異性愛の)恋愛をすること」を、大量のイデオロギー装置で称揚しているからだ。

フランスのマルクス主義的哲学者であるルイ・アルチュセールが提示した概念にの"AIE"(appareils idéologiques d'Etat)ってのがある。
簡単に訳すと「国家のイデオロギー装置=資本主義を維持するために作用する抑圧装置」みたいな感じだ。
イデオロギー装置は至るところに存在している。
アルチュセールがすごいのは、イデオロギーを観念的な体系とか思想に留めるのではなく、スポーツだとか娯楽だとか、物質的なものに至るまで、国家の維持や貢献に作用するイデオロギーとして機能していると提唱したところだ。

第二のテーゼ

イデオロギーは物質的な存在を持つ。
(中略)
われわれは、国家のイデオロギー諸装置とその諸実践について語る際に、これらのイデオロギー装置はそれぞれある一つのイデオロギーの現実化である、と述べた(これらのさまざまな領域的イデオロギー――宗教的、道徳的、法的、政治的、美学的、等々――の統一は、支配的なイデオロギーのもとにこれらのイデオロギーを包摂することによって保障されている)。われわれは、一つのイデオロギーはつねに一つの装置のなかに、さらにはその装置の実践、あるいは諸実践のなかに、存在する、とうテーゼをここで再びとりあげる。この存在は物質的である。

(引用元:再生産について(下) イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー) [ ルイ・アルチュセール ]p219-221)

前にもアルチュセールの話はした。

gyakutorajiro.comなぜ異性愛は国家のイデオロギーとして尊重されるか。
それは異性愛が、資本主義や国力を増強するための労働力の生産(人間の生産)の目的に都合がいいからでもある。

LGBTは生産性がない」と発言した杉田水脈議員は、国家のイデオロギー装置の目的に沿った行動ではあるが、ダイバーシティという価値観に阻まれ、バッシングされ、社会的制裁を受けた。だが労働力の生産に寄与するゆえに異性愛が優遇される現実があるのは事実だ。

そのため、国家のイデオロギー装置と企業が行うキャンペーンが、異性愛の礼賛という価値観を前提にしているという点で蜜月関係である以上、BEAMSのキャンペーンも、国家のイデオロギー装置として機能する。

もちろん国家とBEAMSが手を結んでいるというわけではない。
しかし異性愛の表象物は「国家によって規制を受けない」という点で、イデオロギー装置として機能しているのは事実だ。

もし「虫が美味しいんです!チャバネがいいんです!」とか言って、新宿駅南口のデカい看板広告に、「虫を食べている若者たち」を撮影した広告みたいなのがドーンと出たら、どうだ?
速攻炎上して、何らかの権力によって広告取り下げになるだろうよ。
「虫食は文化です!」というイデオロギーは、肉食や穀物食等の支配的イデオロギーによる抑圧を被る。

若い時にアルチュセールを読んだ俺は「えっ、そんなものまで?」と衝撃を受けたが、実際、物質的な表象、シニフィアンの連鎖が、人間の意識や自我に影響を与えてるのは事実だろうよ。
イデオロギー」ではなく、「イデオロギー装置」ってのが新しかった。

これは令和になった現代でも通用する概念でもあるんだよな。西洋哲学史における観念論的思想を脱却し、物質や、物質的なイデオロギー装置や諸実践、それが人間の精神に及ぼす影響ってのを、この国家のイデオロギー装置という概念でアルチュセールは紐解こうとした。

そしてアルチュセール以降、その後に出てきたジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが「唯物論精神分析」と銘打ち、「アンチ・オイディプス」を生み出したんだと勝手に思ってる。

閑話休題

「政治に興味がない若者」を生産できるのは、政治意識を希薄化できるほどに楽しい娯楽が多く存在するからで。
それゆえ、娯楽もイデオロギー装置として機能してるってことだ。
アルチュセールがいう〈出版-放送装置〉〈文化装置〉という、イデオロギー装置だ。

マルクス主義理論」における〈国家装置〉は、政府、行政機関、軍隊、警察、裁判所、刑務所を含んでいることを想起しよう。それらは、われわれが今後、〈国家の抑圧装置〉と呼ぶであろうものを構成している。抑圧的とは、正確かつ強い意味では、物理的暴力の行使(直接または間接、合法または「非合法」の)であると極限では理解しなければならない(なぜなら、それは非物理的な抑圧の数多くのきわめて多様で、さらには隠された諸形態が存在するからである)。

では〈国家のイデオロギー諸装置〉(AIE)とは何か。
それについての最初の概観をつかむために、ここに暫定的に列挙してみる。

1/〈学校装置〉
2/〈家族装置〉
3/〈宗教装置〉
4/政治〈装置〉
5/組合〈装置〉
6/〈情報装置〉
7/〈出版-放送装置〉
8/〈文化装置〉


これが暫定的なリストであるのは、一方では網羅的ではないからであり(第12章を参照されたい)、他方では7の〈装置〉と8の〈装置〉は一体をなすことがありうるからである。私がこのようにふんぎりをつけることができないことを容認していただけるのではないかと思うのだが、というのも私の「包囲陣」は、探求に値するこの点にはまだ敷かれていない(3)からである。

(引用元:再生産について(上) イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー) [ ルイ・アルチュセール ]p170-172)

(3)「私の包囲陣は敷かれた」は「ご意見無用」という意。歴史家ルネ・オペール・ドゥ・ヴェルトー神父(1655-1735)が、1726年、ステレマン二世によるロドス島攻囲戦の戦記を書き終えたとき、未開の資料を提供しようとした人に向かって答えた言葉。

しかし、加藤のことを考えてみると。
加藤にはこれらのAIEが、機能していなかった、もしくはその装置からの要求が達成できなかったと俺は思う。

先述したように、母親とも折り合いが悪かった。
つもりそれは、最も親しい家族という共同体への配慮の欠如、家族的AIEの機能不全だ。

政教分離の日本、「人を傷つけてはいけない」という価値観の内面化は、宗教では行われにくい。
宗教的AIEは、日本では機能不全に陥ってるケースが相対的に多い。
もちろんカルト宗教にはまる人は一部存在するが。

ならば、二次元のアニメ世界やゲームといった文化はどうだ?
文化的AIEによって、自分へのタナトスや、他人への攻撃衝動は抑圧できるのだろうか?
しかしそれは皮肉にも、逆の作用をもたらす。

予定通り上野に行く。服屋にも行く。少し足を伸ばし。秋葉原にも寄った。秋葉原カップルだらけ。意味わからん。

と携帯で書いているように、二次元のアニメや文化の聖地であった秋葉原にさえ、三次元的主体としてのカップルが襲来している現実を知る。

二次元のカルチャーも、それを消費するのは、三次元の現実的な人間だ。
秋原原は二次元を愛好する、三次元で充実できない非リア充の人間が集まる聖地なんかじゃない。
それに気づかされた。

gyakutorajiro.com火山は「島の上にあって島以上のもの」であり、<現実界>の過剰である。同様に、聖者になることは「宗教的イデオロギーの中にあってイデオロギー以上のもの」であり、イデオロギーの中にある非イデオロギー的な核である。そして古い遺跡は「イタリアにあってイタリア以上のもの」であり、過去の失われた享楽の、沈黙せる目撃者である。三つのいずれの場合も、ヒロインはこの「実体」の亀裂に気づくことができる。

それは彼女が余所者の立場にあり、彼女の視線は外部からの視線だからである。実体の内部にいる者は必然的に盲目である。彼らを盲目にするメカニズムは、犠牲のメカニズムと同じである。犠牲の基本的機能は、<他者>の傷を癒すことである。「実体的な」(「原初的な」)共同体を繋ぎ止めているのは、その犠牲の儀式であり、「余所者」とはつまり、この儀式への参加を拒絶する者のことである。

(引用元:汝の症候を楽しめ ハリウッドvsラカン /筑摩書房/スラヴォイ・ジジェクp95)

秋葉原はオタクの町、平和島競艇の町、俺に合ってるね~と、ブラブラ歩いいても。
家電量販店で新生活に必要なアイテムを選んでいるカップル、子どもを抱っこしてボートを見せてあげている家族連れ等を視認し、自分の状況を相対化することで、自分が「余所者」であると、無意識に気付かされる。

現実界ってのは、ジャック・ラカンが提唱した精神分析の概念で、このサイトでは何回も出している。
判りやすくいうと「現実にある、現実以上の出来事や脅威」みたいな感じだ。

秋葉原カップルだらけ。意味わからん。」と加藤が思ったのは、「秋葉原はオタクのための街」という認識があったからだ。
それは加藤における現実の認識だ。

しかし実際の現実は、違った。秋葉原は、アローンのオタク達が集う街なんかじゃない。「現実」には亀裂が入り、現実界が姿を現す。
これがまさに"リアル"なんだと。

この現実界の襲来によって、アキバを歩くアローン達は、現実を打ち砕かれる。
アニメの世界のような、理想化された二次元の世界は壊滅する。
文化的AIEイデオロギー装置が提供する、二次元世界のイデオロギー(虚構)の内面化、それによる充実が、機能不全に陥る。

アルチュセールが定義したAIE、このAIEが機能する場合はある。
しかし機能せず、ストレスやコンプレックスを抑圧することができず、嫉妬・怒り・恨み・辛みが肥大化していくケースも多々あるってことだ。

目の前をカップルがいちゃつきながら歩いています。何故こんなに不愉快なのでしょう。これから夏がきます。嫌いな季節です

という感情の喚起。

夏という季節が嫌いなのは、漫画「ヒミズ」の主人公も述べていた気がする。
メディアによる諸々のキャンペーン、ポピュラーカルチャーという文化的AIEが、夏という季節と恋愛をセットにし、そのキャンペーンを幾度となく反復し、大衆の無意識に<夏=恋をする季節>というイデオロギーを刷り込ませる。

文化的AIEは、人々に「夏は恋をしなくちゃ!」と、"主体化"するように仕向ける。
ラブストーリーを彩る諸々の消費活動=海水浴、プール、スイカ割り、夏祭り、サンセット鑑賞・・・などなど。
消費活動の論理に、生殖活動の論理に、忠実に従う人間を作り出そうとするイデオロギー装置たち。

中にはソロのように、そういった資本主義的イデオロギーに染まらない or 染まることのできない疎外された人間も生じる。

そういった人間は「夏だからって、1人で海に行ってもいいじゃねえか!?」と、自ら対抗的な文化を生成しようと、ポジティブな試みを図る連中も出てきたりするかもしれない。

しかし、結局その運動は一般的に流布している夏のイデオロギーと拮抗することは決してなく、卵母細胞が分割したときに消滅する小さい極体みたいなもので、マイノリティーの文化的抵抗は一過性に終わるか、局所的だ。

大資本の企業や国家によるキャンペーンが生み出す「夏は恋をしなくちゃ!」に勝てるのは容易ではないし、生物学的にもこっちのキャンペーンの方が馴染めるんだよな。

経験がイメージを形作るように、一度刷り込まれたイメージは、なかなか変わることはない。
<夏=恋する季節>という思考回路を堰止めようとしても、やはり誰にでもこの回路は、幅の差こそあれ、開かれてしまっているだろうな。

だが、こういう資本主義的夏の恋愛イデオロギーの恩恵を、享受することができない疎外された主体も大勢いる。

「彼氏彼女ができない」「家族ができない」という欲望を達成できない主体はどう生きればいいのか。
この社会には「恋をして結婚して子どもを作りましょう」という国家のイデオロギー装置は、最大限に機能している。
このイデオロギーに応じる主体になることは、国家の労働生産性の向上にも寄与するし。
「子孫を残してくれ」という遺伝子の要求にも寄与することだろうから、誰もがこの主体になりたいと無意識に感じているし、意識的に努力したりもする。

それはまるで、当たり前の現実のように喧伝されているが。

現実よりも残酷な現実界が、加藤や俺のようなソロには押し寄せる。
イデオロギーや遺伝子が要求する、そういった主体になれない苦しみ。
これにどう立ち向かうか。

別のイデオロギーで対抗するか、イデオロギーを希薄にする時間を作ることぐらいか。
それは簡単なことではないし、不可能に近いことでもあるかもしれない。

俺はこのサイトで、そのようなイデオロギー的主体化に、少しでも対抗するために、嫉妬・怒り・恨み・辛みを鎮めるルサンチマン(奴隷道徳)というマインドフルネスや、ソロ活情報を発信しているつもりだが。

しかし簡単ではないかもしれないな。
そもそも、秋葉原になんか、行くもんじゃないのかもしれない。
東京というイデオロギータウン、恋愛至上主義の極限、そこから逃避するべきではないだろうか。

www.youtube.comフレンズの「東京今夜」、ストリングスが綺麗ないい曲だけど、「東京で恋愛をしろ」というイデオロギー装置として機能する。

物理的に都会は田舎よりも文化的AIE、「恋愛をしろ」というイデオロギー装置が過剰だ。
だからもう、ソロは東京を離れた方がいいのかもしれない。
よく「地方の方が独身だと白い目で見られる」と言うが、果たしてそうだろうか。
地方でもどうせソロで近所づきあいなんてほとんど無いのだから、だったら、イデオロギー装置が少ない田舎の方が余計な要求を受けずに済む。
「まだ東京イデオロギータウンで消耗してるの?」みたいな。

なんて、考えてみたりするんだけど、仕事があるのも都会だから、難しかったりするよな。
欠如している欲望を満たすのも、都会の方が便利かもしれないしな。