逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

女性に優しくされたオッサンやジジイが勘違いする理由についてドゥルーズの能動的総合の概念で解説

木梨憲武の曲に「GG STAND UP!! feat. 松本孝弘」というのがある。

オッサン、ジジイが出ている。
ファッションデザイナーの菊池武夫TAKEO KIKUCHI)も、デコトラの前で手を組んでいる。

そんで、若い女性と楽しくダンスに興じる。
若くなさそうな女性もいるが、画面内に女性が映る場合に大部分を占めている女性は、若い女性である。

現実には、こんな事態は皆無だろう。
まだ、木梨憲武菊池武夫のように、何かを成し遂げてお金を持ってたり、諸々の能力が高いイケおじとかならいける可能性もあるが。
それでも難しい場合もある。

大抵、オッサンやジジイが若い子を手に入れようとしても、失敗に終わることが多い。
大学教授だとしても無理だ。

anond.hatelabo.jpあなたに愛想よく振る舞うのは、丁度あなたが上司とか目上の人に礼儀正しくするのと全く同じでそれ以上でもそれ以下でもないです。
その優しさは人と人との関係上の優しさであって、あなたのことを異性として求めているからではありません。

自分の都合の良いように解釈しないでください。

社交辞令と愛を履き違えないでください。

間違えても勘違いして告白とかしないでください。

あなたは恋愛の土俵に立ったら、一気にただの激キモ勘違い老人に降格です。絶縁です。

今まで縋り付くことのできていた最低限の優しさすら享受できなくなりますよ。

相手の年齢と自分の年齢を逆にして考えてみてください。

男とか女とか関係ないです。

そんな歳上の異性に性的な目で見られて、あなたは嬉しいですか?

news.yahoo.co.jp「若い子ではなければいける」、10歳ぐらい年下ならいけるだろうと思い、50代の女性店員に歩み寄っても、このように粘着するとネットで叩かれてしまう。

b.hatena.ne.jp大抵はうまくいかないのに、なぜオッサンやジジイ達は、若い女性や年下の女性を手に入れようとするのか。

それは上の記事にあるように「社交辞令と愛を履き違える」というところが、ポイントだ。

「お店」や「大学のゼミ内」等の閉ざされた空間では、一つのコードが機能する。
それは「他人に配慮しよう」「優しくしよう」というものだ。

お店の場合、優しくすれば商品を買ってくれるかもしれない。
実際、ルピシアで起きた事件もそうだ。
札幌市にある発寒イオンのルピシア店内で、若い女性店員に執着する無職の59歳男性が店内で刃物を振り回して暴れ、逮捕されるという事件が起きた。

www.youtube.com刃物男】北海道札幌市西区イオンモール札幌発寒のルピシアで包丁を持った黒ずくめの男が暴れる事件 - YouTube

事件を起こす前からルピシアに足を運んでいた。おそらく最初、ルピシアの有名な神接客のように、優しく接してくれたのだろう。

59歳男性、若い女性からの優しい声掛け。
それはまるで、槇原敬之の「どうしようもない僕に天使が降りてきた」感覚だったかもしれない。

天使が降りてきたら、どうすんだ。
その天使との幸せな時間を、何度も反復したい。
あわよくば恋人にしたい。

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引用元:カフェでよくかかっているJーPOPのボサノヴァカバーを歌う女の一生
【渋谷直角】青年マンガSPA!コミックス

だって、相手も優しくしてくれたんだから、可能性はあるだろう?と考える。
ここである程度、自分を客観視できる人なら「店員だからサービスの一部だろう」と把握できる。
しかしそれが判らない。

gyakutorajiro.comオッサンは日常生活で女性への接近行動を行うがうまくいかない。
失敗の記憶は堆積し、なおも接近を行う反復活動にてある事実を見出す。
それは店員と客という関係性であれば必ず返答をしてくれること。
ドゥルーズは人間のこの無意識的な差異の掬い上げを縮約と呼び、縮約による学習を受動的総合と呼んだ

この分析は少し足りない部分があるので、訂正しとくか。
「ある事実を見出す。」というのは、無意識的に行われている可能性がある。

以前、ドゥルーズの記憶論について話をした。
ドゥルーズは記憶を時間と共に論じている。

gyakutorajiro.com・時間の第一の総合・・・諸瞬間を縮約(差異を抜き取る)し、それを反復し、累積する受動的総合を行う時間の土台)。習慣という。
・時間の第二の総合・・・第一の総合と同時に、縮約と反復による受動的総合によって構成されていく純粋過去。記憶という。

「時間の第三の総合」によって、記憶は順序化され、「時系列」という直線的時間になる。

gyakutorajiro.comおそらく「勘違い」は、「時間の第二の総合」と「時間の第三の総合」の間で生じている。
時間の第二の総合から、オッサンの中の「記憶」が形成される過程、もしくは形成されてからそれを「思い出す」段階で、「勘違い」が生まれている。
記憶を「思い出す」際、オッサンの自意識はどのようになっているのか。

ドゥルーズは時間の第二の総合によって形成された純粋過去を「古い現在」とも呼ぶ。

《記憶》、純粋過去、そして諸現在の表象=再現前化

一見したところ、過去というものは、二つの現在によって、すなわち、過去がかつては現在であったという場合の〔古い〕現在と、過去が現在から見ればいまや過去になるという場合の〔アクチュアルな〕現在とによって、挟みつけられているように思われる。だが過去というものは、古い現在そのものであるのではなく、古い現在がそこでねらわれる当のエレメントなのである。したがって、個別的であるのは、いまや、ねらわれるもの、つまり「存在した」ものであり、それに反して、過去それ自身が、つまり「存在していた」ということが、本性上一般的なものである。

一般的な意味での過去は、それぞれの古い現在が個別的にかつ個別的なものとしてそこでねらわれる当のエレメントなのである。

フッサールの術語を用いるなら、過去把持(レテンツイオン)と再生(レプロドウクツイオン)を区別しなければならないのである。(13)

(13)フッサール『内的時間意識の現象学』(立松弘孝訳、みすず書房)第二章十二節、十五節などを参照。


(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第二章 それ自身へ向かう反復)

「ねらわれるもの」というエレメントはまさしく、オッサンにとって「優しくされた店員との思い出」だ。
そしてこの「古い現在」は、「アクチャルな現在」の影響を被る。

先ほどわたしたちが習慣の過去把持と呼んだものは、継起的な諸瞬間が或る一定の持続のアクチュアルな現在〔現前〕のなかで縮約されている状態のことであった。アクチュアルな現在に本性上属している直接的な過去を、つまり個別性をそれらの瞬間が形成していたのである。

期待によって未来へと開かれている現在それ自体について言うなら、その現在が、一般的なものを構成していたのである。

「縮約されている状態のことであった」というのは、時間の第一の総合、縮約(差異の抜き取り)が行われる生ける現在だ。
しかし純粋過去に対して「思い出す」という行為が行われる際、なぜか、現在が追いやられる。

ところが、記憶の再生という視点からは、反対に(諸現前の媒介としての)過去こそが、一般的なものになっており、(アクチュアルな現在であろうと古い現在であろうといずれにせよ)現在が、個別的なものになっているのである。

一般的な意味での過去は、古い現在のひとつひとつがそこで対象化されうる当のエレメントであり、しかもその古い現在はそのエレメントにおいて保存されているのであって、そのかぎりにおいて、古い現在というものは、アクチュアルな現在の中で「表象=再現前化」されているのである。

誰しもあるだろう。
「昔は楽しかったな」と、過去を振り返る時、現在は「つまらないもの」と個別化する。
そして、全てを思い出さない。
再生されるのは部分的な「エレメント」だ。

そのような表象=再現前化つまり再生の諸限界は、事実、〔観念〕連合という名称のもとでよく知られている〈類似〉と〈接近(14)〉という可変的な関係によって規定される。というのも、古い現在は、表象=再現前化される以上、アクチュアルな現在に類似しているからであり、また、そうした古い現在は、互いにきわめて異なったもろもろの持続の現在〔現前〕のなかへと遊離してゆくのだが、それらの現在は、部分的には互いに同時的であり、したがって互いに接近し合っており、結局のところアクチュアルな現在に接近しているからである。連合主義の偉大な点は、人為的なしるし(シーニュ)〔記号〕の理論全体を、そのような〔類似と接近という〕連合関係のなかに打ち立てたところにある。

(14)ヒューム『人性論』(大槻春彦訳、岩波文庫)(一)、三九頁参照。


(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第二章 それ自身へ向かう反復)

「連合主義」ってのはよく知らないがイギリス経験論を元にして発展してきた心理学で、実験心理学に繋がっていったとか。

kotobank.jpこの連合の概念は,18世紀のイギリスの経験論哲学者によって組織的に論じられるが,それ以前にホッブズHobbes,T.(1651)は人が経験するある心像から他の心像への推移は,以前に経験した感覚上の同様な推移に基づくと連合主義の思想の萌芽を述べている。連合主義の思想的背景であるイギリス経験論哲学を確立し,心理学上の連合主義の基礎を築いたのがロックLocke,J.(1690)である。彼は,生得観念innate ideaを否定し,すべての観念は生まれてから得たものであるとした。彼は,人間がもっている知識はすべて感覚sensationと反省reflectionよりなる経験に基づくとし,それらによって人間の心の中にさまざまな観念ideaが生じるとした。しかし連合自体については1700年に例外的な観念の結合に関連して述べているにすぎない。

「結合原理」と言う方もいるようだ。

『差異と反復』における第三の時間への導入
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/625/625pdf/kimura.pdf
結合原理とは、ドゥルーズの言う「連合主義」を指す。ドゥルーズは、ベルクソンもまたヒュームと同じくこの原理に行き当たり、ヒュームの分析を取り戻している点を賛えている。DR,p.98.

今日の本題ではないので先に進むか。

アクチュアルな現在は人それぞれ千差万別ゆえ、記憶を再生する人間によって「古い現在」(過去)は変わる可能性がある。

1つの出来事に対して、例えばルピシアで接客した店員にとってのアクチュアルな現在は「店員として働いている」という現実であるがゆえに、オッサンが来ても「一人の客として接した」という記憶として再生される。
古い現在も店員として働いているゆえ、過去の出来事を再生する際、「店員として」再生されるという現在との類似性が生じる。

しかしオッサンの場合「ものすごく優しく接してくれた、仲良くなれるのでは?」と、再生される。それは「古い現在」において、他のお店の店員よりも優しい接客を受けたからだ。
アクチュアルな現在において、他の店員との出来事よりも、ルピシアでの出来事が際立つ。記憶が再生される際、店員の立場としてではなく「客として」再生されるアクチュアルな現在の影響を被る。

ところで、古い現在がアクチュアルな現在のなかで表象=再現前化されるときには、かならず、アクチュアルな現在それ自身が、その表象=再現前化のなかで表象=再現前化されるのである。

たんに何ものかを表象=再現前化するだけでなく、おのれ自身の表象=再現前性(ルプレザンタテイヴイテ)をも表象=再現前化することが、本質的に表象=再現前化に属する機能なのである。

したがって、古い現在とアクチュアルな現在が、継起的な二つの瞬間として時間の直線の上に存在しているのではなく、アクチュアルな現在が、必然的にひとつの次元を余分に含んでいて、その次元を通じて古い現在を表象=再(ル)=現前化し、かつその次元においておのれ自身をも表象=再現前化するのである。

純粋過去も、それを再生する際、アクチュアルな現在の影響を受ける。
つまり「あの店員さんともう1度話したい、お付き合い」したいという、アクチュアルな現在の欲望の影響を、過去を再生するときに被るということよ。

それが「間違えても勘違いして告白とかしないでください。」等の誤解につながる。

個々人によってアクチュアルな現在は異なるので、過去の出来事を再生する、思い出すとき、差異が生じる。

アクチュアルな現在は、思い出(スヴニール)の未来的な対象として扱われるのではなく、かえって、古い現在の思い出を形成するのと同時におのれを反省するものとして扱われるのである。したがって、能動的総合においては、対照的ではないにしても相関的な二つのアスペクトがある。

すなわち、再生と反省、想起(ルメモラシオン)と再認、記憶(メモワール)と知性。

しばしば指摘されたことだが、反省は、再生と比べて、より多くのものを含んでいる。ただし、この〈より多くもの〉というのは、あらゆる現在が古い現在を表象=再現前化すると同時におのれをアクチュアルな現在として反省する次元としての、ひとつの補足的な次元にすぎないのである。「あらゆる意識状態は、その意識状態に含まれる思い出の内容よりも、余分にひとつの次元を必要としている。」
そのようなわけで、表象=再現前化の原理を、古い現在の再生とアクチュアルな現在の反省という二重のアスペクトをもつものとして、〔派生的な〕記憶の能動的総合と呼ぶことができる。


(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第二章 それ自身へ向かう反復)

ここにおける「反省」「再認」「知性」というのは、アクチュアルな現在のことで、それらが古い現在を「再生」「想起」「記憶」する際に影響を及ぼす。
それがドゥルーズがいう能動的総合の二つの側面のことだろう。

もし店員さんは心の中では普通の接客をしていただけなのに、オッサンにとっては「笑顔で喜んでいた」という「反省」がされていた場合、「再生」する際にも美化された出来事になる。

店員さんを「想起」する際、優しく接してくれていた場合は「いい店員さんだった」と、「再認」する。もし無愛想な接客をされていたら、その店員さんのことを好意的に再認することはないし、そもそも再認さえしないかもしれない。

嫌がっているかどうか、客と店員という関係性ゆえに優しくされたという客観的な「知性」があれば、美化されたものではなく、通常のやり取りとして「記憶」されたはず。
しかしそれを「もしかしたら付き合えるかもしれない」という勘違いとして記憶する。
それはポジティブでプラスに作用する側面もあるかもしれないが、人に迷惑をかけてしまう事態に繋がる場合もあるだろう。

こうした記憶の能動的総合は、〔第一の〕習慣の受動的総合が〔あらかじめ〕あらゆる可能な一般的な意味での現在を構成するがゆえに、その習慣の受動的総合のうえに打ち立てられるのである。

しかし、能動的総合と受動的総合は深く異なっている。いまや非対称が、諸次元の恒常的な増大のなかに、諸次元の無数な増殖のなかに滞留するのだ。

習慣の受動的総合は、時間を、諸瞬間の縮約として、現在という条件のもとで構成していたが、しかし記憶の能動的総合は、時間を、諸現在自身の入れ子〔嵌入〕として構成する。そこで問題はまさに〈何を条件にしているか〉ということになる。

(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第二章 それ自身へ向かう反復)

能動的総合によって記憶を再生する際、オッサンは「時間の第一の総合」による習慣の影響を被る。
店員さんは「一人の客」として接客したのに、オッサンは「特別に優しくしてくれた」というように、1つの出来事に関する記憶は、再生の際に差異化され、非対称となる。

古い現在が嵌入(かんにゅう)される際の入れ子、アクチュアルな現在は、個々人で差異がある。
それゆえ、過去の記憶は決して同じようには再生されない。

まあ「出来事や思い出に対しての印象は人それぞれ違う」っていう、当たり前の話なんだけど。
それをドゥルーズは、様々な概念を用いてより詳細に紐解いているようにも思えるな。

まとめると、女性店員に近寄ってしまうようなオッサンやジジイが勘違いするのは、「あの店員さんともう1度話したい、お付き合い」したいという、アクチュアルな現在の欲望の影響を、過去を再生するときに被るということよ。

いやこれはさっきも言ったな。

現在という時間の第一の総合の際に、おのれの現状に関する反省や対象への認識や知性という現在の影響を受けながら、縮約(差異の抜き取り)という受動的総合が起きる。

時間の第二の総合にて記憶が構成される受動的総合の際、第一の総合の影響を受ける。

それゆえ記憶を呼び起こす能動的総合の際も、第一と第二の時間の総合の影響を被り、過去の出来事の記憶は恣意的に再生される。

勘違いをするオッサンやジジイにおいては、アクチュアルな現在において、「そんなの単なる店員としてのサービスだろ」と、客観的な意見を述べる対象や、情報等が無いのかもしれない。

表象=再現前化が行われる能動的総合において、「反省を促す対象が不在」であるアクチュアルな現在の影響を受け、それゆえ自分を服従させるのは自分のリビドー、エロスだけか、もしくはそれが大部分を占めるようになる。

それによって「利己的」「自分勝手」と言われてしまう行動が、促されてしまうような気もするな。

他人の欲望が転移して自分の言動や身体が他人に操られる傀儡人形になる感覚のデリダ的解釈

昨日の話の続きを。

gyakutorajiro.com「野村修也」について、自分は「理知的」「中立的」という印象を持っていた。
東浩紀」もだ。
この方がかつて提唱したネットによる直接民主制は、例えば部分的に「投票」のみに導入された場合でも。
もちろんネットリテラシー等によって語ることができない人の声が漏れる可能性はあるものの、どうしても仕事や事情で外に行けない方に参加を促す効果、投票の敷居を下げる効果、周囲の同調圧力の影響を受けにくい効果等があり、共感していたんだが。

www.j-cast.com彼らから受ける印象の変化、「理知的」「中立的」という意味作用が変わる。
7月10日のニコニコ動画参院選2022の開票特番で、福島瑞穂氏はあくまで、「もしも仮に統一教会の影響が大きいのであれば」と、仮定の話を述べていた。
しかし東浩紀氏は「とんでもない話だ」「統一教会はテロとは関係がない」と、声を荒げて非難した。

三浦瑠璃氏は、「現時点では何の証拠もない状況なんですね。」「我々としては慎重を期したい」と、一見すると妥当な考えを言っているように思える。
が、実は「可能性の話でも許さない」という、強権的な姿勢を感じる。

あくまで福島瑞穂氏は仮定の話をしていた。仮定の話、問題提起も許さないのだろうか。
三浦瑠璃氏は、福島瑞穂氏が出る前、志位和夫氏とのやり取りの中でも、安部元首相の事件について「個人的な思い込みが動機ではないかという風な報道がされていて」「こういう異常な人というのは時に生まれてしまうから警備を強くするしかないんでしょうか」、またネットの記事等にある「容疑者の妄想に加担してはいけない」というように、事件の犯人を「異常者」として結論を急ぎ、「異常者⇔正常者」という二項対立を作ってしまい、事件の中身が曖昧化してしまうような意見を述べている。

この、二項対立が生まれる権力関係にメスを入れることができるがゆえに、ジャック・デリダの思想は多くの人々に影響を与えた。


福島瑞穂氏による仮定の話、それはデリダ的に言えば「代補」だ。
代補はフランス語で"シュプレマン"(supplementaire)と言うらしい。
デリダ自身は“概念”ではなく“操作子”と言っている。
福島瑞穂氏の仮定の意見は、「操作子」として、この事件の議論を発展させる作用があったはずだ。

この「代補」された意見を、特に東浩紀氏が最も否定的に捉えているように見受けられた。「確かにネットでもそういう意見はある。まだ足りない情報もあるから、慎重を期したい」等の意見で、話を終えて、次の山本太郎氏とのやり取りに移れば、今回のように炎上にまで発展するまではなかった気もする。

しかし「とんでもない話だ」という言葉で福島瑞穂氏の意見を、福島瑞穂氏との映像が途切れた段階で否定しまうと、議論の発展性がない。

三浦瑠璃氏や石戸諭氏ではなく、むしろ東浩紀氏こそが、デリダ研究で第一線を駆け抜けてきたからこそ、事件が二項対立化する事態に流れてしまわないように、二項対立で語られてしまう事件を脱構築する役割を果たすべきではないだろうか。
ジャック・デリダの意志を敬愛しているのであれば。
なのに、一番興奮して福島瑞穂氏の意見を否定しているようだった。
参ったね、ほんとに。

デリダによれば、言語的記号(非言語的な身振りなども)は、それが指示するものと、完全に一致することは決してないと。
だから実際、「野村修也」「東浩紀」という記号は、構造的にはじめから不完全なものだったんだ。

勝手に俺は「理知的」「中立的」という印象を持っていたが、必ずしもそうはならない。意味が変容した。

このように理解されると、代補性(シュプレマンタリエ)とは、まさしく“差延”であり、差延する活動であって、その活動は、現前性(プレザンス)に亀裂を入れるとともに遅らせ、それを同時に根源的な分割と遅延に従わせるのである。差延(ディフェランス)は、差延する[differer]という動詞が、遅延としての作用と、差異の能動的な働きとしての用法とに分離する以前において、考えられるべきものである。

(引用元:声と現象 (ちくま学芸文庫) [ ジャック・デリダ ]

個々人が勝手に「理知的」「中立的」という印象を抱いていたとしても、ある契機や出来事によって、その存在に差延が起きる。

つまり、7月19日のミヤネ屋、ニコニコ動画参院選2022の福島瑞穂氏によって、「野村修也」「東浩紀」という記号に差延が起きた。
デリダ「代補性(シュプレマンタリエ)とは、まさしく“差延”」というように、ミヤネ屋によって、福島瑞穂氏によって、「野村修也」「東浩紀」の意味決定が、遅延し、差異化した。

本質性を持たないというのが代補の奇妙な本質である。それは、つねに、生起していなかったのだろう。さらに言えば、字義通り、それは場所をもっていなかったのだろう。それは、ここといまにおいて決して現前することはない。言ってみれば、それがそうであるところのもの、代補ではないかのようなのだ。・・・無以下でありながら、その効果から判断するなら、無以上である。代補は現前でも不在でもない。いかなる存在論もその作用を思考することはできない。

(引用元:根源の彼方に グラマトロジーについて 下 / ジャック・デリダ

7月19日のミヤネ屋の「代補」により、「野村修也」が差延した。
ミヤネ屋は情報番組であり、ワイドショーとして観ていた。
別に、人間が持つ政治的立場を観るために視聴しているわけじゃない。その意味では、代補ではないかのようだった。
しかしなぜか、想像していなかった「野村修也」の印象が変わる、無以上の作用があった。

ニコニコ動画参院選2022の福島瑞穂氏の「代補」により、「東浩紀」が差延した。
福島瑞穂氏の意見は、7月10日の段階で確かに仮定の話であり、"事実"という本質性を持っていなかったかもしれない。無以下であり、無以上であったかもしれない。
しかし彼の印象を変える作用があった。

この事実、あらゆる言語的、非言語的記号が定義上不完全で、欠落を抱えていることを示している。

もしかすると、今後のミヤネ屋の放送による代補、また東浩紀氏の話、それらの「追加あるいは補填」によって、「野村修也」「東浩紀」は差延し、また「理知的」「中立的」という意味を、自分にもたらすことはあるかもしれないが。

俺が知っている「野村修也」ではなかった。「東浩紀」ではなかった。
「野村修也」も「東浩紀」が差延した感覚を覚えたのも、やはりステークホルダー達による代補があったからだろうか。
野村修也氏はwikipediaの経歴を見ると、そう仮定してしまうような推論も出来るが、東浩紀氏は判らない。
だが、今回の代穂によって、脱構築という出来事が起きた。
「野村修也」「東浩紀」は、今回の安部元首相の事件に関わる代補によって、俺の中では確実に脱構築された。

まあ「脱構築された」(「野村修也」「東浩紀」がもたらしていた意味が脱臼して変容が起こった)って、カッコつけて言ってるけど、単に「印象が変わった」とも言える。

さて、長々と話したが、もっと一般的な話に進みたい。
「他人の欲望が転移して、自分の言動や身体が他人に操られる傀儡人形になる感覚」や、「自分ではなく他人が、自分の言動や身体を支配しているような感覚」。

これは「代補性を備えた差延の効果」ではないだろうか。
他者という記号、嫌な上司であれば、その余剰が自意識に代補される。
それは感情の生起にまで影響を及ぼすかもしれない。

例えば「仕事、がんばるぞー!」「家族の為にがんばるぞー!」という意識や志を持っていた。
にも関わらず、「嫌な上司」等の代補によって、そのポジティブな感情は、

「仕事がんばらないとな」
「仕事、家族のためにもやらないとな」
「仕事、なんでやらないといけないんだろう」
「仕事、やりたくないな」
「会社、行きたくないな」

と、代補によって感情が差延していく。
家族や会社の上司といった他人の欲望が、自分に転移し、傀儡人形になっている自覚が芽生えてくる。

そして、会社へ向かう足取りが重くなったり、月曜を憂鬱に感じてしまったり、家族を顧みず仕事を辞めることもあるだろう。
「漂流家族 竹下家」というドキュメントにおいて、竹下家の父親が、仕事を辞める。
養わなければならない子どもがいる。
しかしどうしても職場での仕事、他者という代補によって、感情が差延し、辞めたくなったのだろう。

このように欲望や感情が差延し続けるということは、安定的な自我や自己同一性も保てないということだ。

あるひとつのアイデンティティが与えられたり、受け取られたり、あるいは到達されることなど決してない。ただ、同一化[アイデンティフケーション]の幻想の終わりなき、そして際限なきプロセスが持続するだけなのである。

(引用元:「たった一つの、私のものではない言葉—他者の単一言語使用」ジャック・デリダ

上司に文句言うか。
そういえばデリダには"幽霊"という概念もあった。
"非現前からの差異"みたいな意味だったような。

kagurakanon.netこうしたシニフィアンの循環運動の決定不可能性をデリダは「幽霊」といいます。この点「現実界」は単数ですが「幽霊」は複数です。コミュニケーションの様々な失敗や揺らぎ。ここから様々な「幽霊たちの声」が出現する。このようなコミュニケーションに内在するメカニズムを東氏は「誤配」といいます。

大体合ってるか。
会社を辞める時、こう言うべきだっただろうか。

「あなたという存在、それが現前しない非現前の時も記号として、私という存在に代補を行う幽霊となっているのです。それによって私の感情は差延し、会社に行きたくなくなり、辞めたくなりました」

ってね。
「何言ってんだこいつ・・・大丈夫か」と思われるのがオチかもしれないがな。

とにかく、誰しもあるはずだ。
玄関で足が止まった時、鏡を見た際に「あなたは誰だ?」という感覚。
本当の自分じゃない。

環ROYの「YES」という曲みたいに。

鏡の中の「君」は、自分ではない。
「なぜか自分ではなくて 君であることにある日気が付いた」。

しかし「すがたかたちは何もかも違うけど」「そこにいたのは僕だった」と、何かの契機で、気付くんだ。

君というのは、他者や他者の記号、代補によって差延した自分。
いわゆる汚染された自分だ。

それは自分ではない、「君」になる。
「自分」はいつのまにか消えていた。

「はじめましてそしてさようなら」と言うように、どこかにいってしまったんだよ。

コラージュアートのように、パッチワークのように、大量のシニフィアンが無意識に供給される資本主義社会の大量のシニフィアン。次から次へと湧いてくる同一化対象、その影響によって形成される欲望は、自分の欲望なのか、自分の感情なのか。
そしてもはや自分はもう消えていて「君」(他者)になっているのではないだろうか。

他者および他者の記号による過剰な代補により、人間の自己同一性は差延し、自分が行っていると思われている言動や身体運動も、非現前の幽霊によって動かされている傀儡人形ではないのだろうか。

「印象が変わった」という前提がそもそも誤りで、他人も自分もそもそも常に安定なんかしてないんだろうな。

東浩紀氏の郵便的脱構築の未達やミヤネ屋(2022年7月19日放送)に出ていた野村修也氏から「他者の欲望の影響」を垣間見た

朝6時。かつてサラリーマンをしていた時、この時間に起きて、会社に行くための身支度をする。
人間の理想的な睡眠時間は7時間らしいが、前日の11時に眠気が来るとは限らないので、4~5時間しか睡眠を確保できない日もあった。

まだ疲労が残る寝ぼけ眼をこすりながら、顔を洗い、スーツに着替え、7時前までにバス停に向かう。
調子がいい時は、何の疑問もなくバス停に向かうことができた。

しかし何日かに一度は「会社行きたくないな」という働きたくない念慮に襲われ、そして1ヶ月に一度ぐらいだろうか。


(引用元:闇金ウシジマくん(11)[ 真鍋昌平 ]

「ギギギ・・・会社……行きたくねェーなァ…」

このように実際、玄関で少し足が止まる瞬間がある。
まるで「これは俺の意志なのか?」と、意識的に問うてるわけではないんだけど、無意識的な働きたくない欲望が、自分の足を止めた。

その間隔が、どんどん短くなってきて、自分は会社を辞めた。

そもそも「俺の欲望なのか」という話だ。
このサイトで何度も話題にしているジャック・ラカンが「欲望とは他者の欲望である」と言うように、会社に行くことは、本当に俺の欲望なのかと。

他者の欲望じゃねえかって。

リーダーは、俺が会社に来ることを欲望する。
俺が行かないと管理不行き届きとして、現場のプロパーが不安になるだろうし、派遣元会社も不安になるだろう。

派遣元会社は、俺が派遣先に出社することを欲望する。
俺が出社することで、1人月数十万で契約している派遣先企業から、何十%かを中抜きし、金銭という利益を得ることができるため、俺が出社してほしい欲望を持っている。

では俺は欲望していたか。ITエンジニアになろうという欲望はあったが、日に日に薄れてきたような気もする。

gyakutorajiro.comその「ITエンジニアになろう」という欲望も、実社会で「役に立つ」「カッコいい」という大量の物理的表象による刷り込み、「ITが出来ると社会の役に立つ」等のイデオロギーを内面化し、自分の意識がITエンジニアに向かうように組織化されたがゆえに、その欲望を抱いたのであって、タブラ・ラサ(白紙の状態)に近い状態まで自分を遡っていくと、欲望の原因は自分自身ではなく他者、ラカンでいう象徴界(現実社会)の影響を多分に受けて構成された欲望だ。

それをこんな風にテキスト化しなくても、皆、無意識に思うことがある。
「自分は本当にこれを求めていたのか?」と。
オールドルーキーの第1話で、交通誘導員の仕事をしながら「俺、何やってるんだ・・・」と呟く綾野剛のように。

gyakutorajiro.com時にはそのような自我分裂のような感覚を抱く時が誰しもあるはず。
ドゥルーズガタリなら、この身体が自分ではない誰かに組織化された、奪われたような感覚は「器官なき身体」と呼ぶだろう。
その話は前にした。

gyakutorajiro.comラカンドゥルーズガタリは自分の好みなので、何度も話題にしているが。

たまには別の哲学者、ジャック・デリダで話をしてみるか。

なんだっけ、デリダの本は一時期読んでいた気がするが、忘れているので、おさらいだ。
姉妹サイトで、デリダの話してたな。

iine-y.com確かそれまでの西洋哲学は、あんまよく知らないけどパロール優勢だったんだ。
よくよく考えてみると、エクリチュールの優位性は、随所に見受けられるよな。
数学、Excelの表、ダイヤグラム(図式)、絵画、彫刻、Webサイト、プログラミング言語で構築されたシステム、これらも、パロールよりもエクリチュール(書かれた言語)の領野に属しているだろうし。
刑事ドラマで出てくるダイイング・メッセージとかな。エクリチュールは真実を示す物的証拠になる。
DNA(デオキシリボ核酸:deoxyribonucleic acid)もそうかもしれない。四つの塩基のアレンジメント(組み合わせ/配列)から出来ているというし。

Dr.ハインリッヒという芸人が、「パロール」という哲学的概念を出してたから、パロールエクリチュールの違い、エクリチュールの優位性について述べたんだ。


日本人だとデリダ研究と言えば東浩紀が有名だ。
この人の主著である「存在論的、郵便的」は読もうと思ったけど、まだ読めていないので、調べた。

amaikahlua.hatenablog.com幾何学の唯一性は歴史の唯一性と純粋性によって保証されている。しかしデリダは、「非コミュニケーションと誤解は文化と言語の地平そのものではないだろうか」と提起する。たとえ幾何学の定理でも、文書によって伝えられるものならば、その伝達は必然的に純粋なものではありえない。エクリチュールは発信者の支配から逃れ、メッセージは歪められうるからだ。エクリチュールおよびコミュニケーションの失敗可能性という前期デリダのテーマは、歴史の単数性を批判し、歴史の複数性を思考するためのものとして捉え直すことができる。

エクリチュールは伝達の失敗可能性、伝達不可能性がある。
そうだ、デリダの「エクリチュールと差異」とかは、そういう話だった気がする。

ひとつの 「テクスト」というのは、これ以後もはやエクリチュールの仕上げられた集合体、一冊の本やその余白のうちに何らかの内容を封じ込めたものではない。そうではなくて示差的〔差異的〕なネットワーク、それ自身とは別の何かを際限なく、それ自身とは別の何かに、他の示差的な痕跡に際限なく言及する、さまざまな痕跡からなる織物なのである。かくしてテクストは、それへと付与された一切の限界をはるかに超過する (無差別な均質性のうちに、それら〔限界〕を沈めたり、溺れさせたりするのではなく、むしろそれらをより複雑にし、その線と線を刻み付ける身振りとを分割し多重化させる) - すべての限界を、エクリチュールとの対立のうちにおかれているありとあらゆるものを(発話、生命、世界、現実、歴史、そして、その他の言及のすべての領域――身体や精神、意識や無意識、政治、経済、その他諸々)。(1986a:127-8)

(「ジャック・デリダ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ ニコラス・ロイル ]」p128)

「1986a」ってのは、このテクストを指す。

tetsugaku.tripod.comParages, Galilée, 1986.(「境界を生きる」の英語からの部分訳、大橋洋一訳、『ユリイカ』、1986年4月号。「ジャンルの掟」野崎次郎訳、W.J.T.ミッチェル編『物語について』平凡社、1987年。「Pas」)
はじめてのまとまったブランショ論。数少ないブランショ論のなかでも(?)トップレベル。

ブランショは「モーリス・ブランショ」らしい。

「白日の狂気」を読みたいが、アマゾンで6000円のプレミアム価格だったな。定価の3倍。高いよ。文庫になってくれないか。

www.asahipress.comあらゆるブランショの作品と同様、このテクストもまた、人間の存在の閉塞の寓話であり、死の苦悶が限りなく続く人間存在の絞〇である。<白日の狂気>――昼=理性の狂気とは、白日の光として欲望された狂気と、それを求める眼を傷つける白目の光の無限の反復である。ギリシアからヨーロッパへと到来した光それ自体の錯乱の物語り。「『白日の狂気』についての試論」「詩人のまなざし」(レヴィナス)、「われらの密かな同伴者」(ブランショ)併録。

話が逸れそうなので戻すと、デリダが言う「それへと付与された一切の限界をはるかに超過する」という箇所は、デリダの概念である「散種」(dissemination、意味が一義的に解釈、決定できない拡散状態にいる)を思い出す。


また、意味が決定できないがゆえに、精神分析では"現実界"等の「超越論的シニフィアンシニフィエなきシニフィアン」が用いられてる。

kagurakanon.netまず「形而上学的思考」によれば、全てのシニフィアンはそれぞれ対応するシニフィエに回付され、こうしたシニフィアンの循環運動は最終的には「超越論的シニフィエ」によって担保される事になります。エトムント・フッサール現象学バートランド・ラッセルの記述理論、アンナ・フロイトの自我心理学などは、こうした形而上学的思考の典型例とされます。

けれども数々の精神分析の症例が示すように、もちろん世の中はそんなにうまく出来ていない。真理、理想、正義、希望。こうした言語を超えた「過剰な何か」に奇妙なほどに魅入られてしまうのが人という生き物です。

これに対して「否定神学的思考」によれば、シニフィアンの循環運動は不完全であり、最終的には「超越論的シニフィアンシニフィエなきシニフィアン」によって担保されることになります。こうしたシニフィアンの循環運動の不可能性として「現実界」を想定するラカン精神分析否定神学的思考の典型例と言えるでしょう。

すなわち、ラカンがいう「手紙は常に宛先に届く」とは「全てのシニフィアンは常に唯一のシニフィエなきシニフィアンへ回付される」という事です。

そうなんだ。デリダラカンの"現実界"などの概念を、超越論的シニフィアンとして否定したのか。

このブログの著者はかがみ(@kagurakanon)さんという方だが。

twitter.comこの方によると、「オブジェクトレベルでシステムを解体したと見せかけて、メタレベルで再びシステムの全体性が回帰することになります。」とのことだ。

確かに"現実界"というエクリチュールも、結局はクラインの壺のように「現実以上の何か」を意味するシニフィエとして、ジジェクにも映画を語る時に利用されているしな。
そのジジェクの映画論を引用した記事、前に書いてた。

gyakutorajiro.comその超越論的シニフィアンを疑義にかけるデリダ脱構築を「郵便的脱構築」として、前期デリダ脱構築を「ゲーデル脱構築」として、その違いを明らかにした東浩紀は評価されたらしい。

gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp下記の記事を読むと、二つの脱構築の違いがよくわかる。

kagurakanon.sakura.ne.jpこれに対して否定神学的システムにおいては、シニフィアンの循環運動の完全性を不可能にする「穴」を発見する。しかしこの「穴」は「シニフィエなきシニフィアン」という超越論的シニフィアンで名指され、全てのシニフィアンの運動はこの超越論的シニフィアンに回収される。ここでオブジェクトレベルとメタレベルは短絡される。この認識構造を図式化すれば底面と頂点の間で循環運動が生じるクラインの壺構造となる。

こうした否定神学システムを整備したのがハイデガー存在論であり、これをより洗練させたのがラカン精神分析ということになる。すなわち、ラカンがいう「手紙は常に宛先に届く」とは「全てのシニフィアンは常に唯一のシニフィエなきシニフィアンへ回付される」という事である。

否定神学システムは形而上学システムでは説明できない世界の「限界」や「過剰」を巧妙に説明してくれる。しかし同時に否定神学システムは世界の「限界」や「過剰」を単数的な超越性へと回収してしまう。ここに複数的な超越性の「可能性の束=幽霊」を導入するのがデリダの郵便空間システムである。

すなわちデリダのいう「手紙は宛先に届かないかもしれない」とは「全てのシニフィアンは想定外のシニフィアンに誤配されるかもしれない」ということである。手紙は宛先に届かない〈かもしれない〉。仮にそれが正しい宛先に届いた時だって、別の宛先に届いた〈かもしれない〉。こうした「可能性の束=幽霊」が常に郵便空間には内在しているのである。

その東浩紀が最近、炎上していた。

amamako.hateblo.jp三浦瑠璃、石戸諭とともに福島瑞穂の発言を歪曲し、自民党統一教会との関係性を語るのを止めるような態度を示したそうだ。

live.nicovideo.jpこのニュースを見聞きした際、俺は「なんだ、立派な知識人の人じゃなかったのかい」「自民党というステークホルダーのために、学者の本分である真実への探求心を放棄したのか?」と、失望していた。「東浩紀」という記号は散種した。

ジャック・デリダの意志はどこへいった、受け継いでねえのかと。超越論的シニフィエを疑義にかける存在論脱構築を乗り越えた郵便的脱構築によって、自民党などあらゆる一義的な存在、あらゆる超越論的シニフィアンから逃れ続ける可能性の幽霊を展開するのが、東浩紀の魅力じゃなかったのかい?

いや、むしろ郵便的脱構築を行っているのか?
山上容疑者ははっきりと動機を述べているのに、「統一教会自民党の関係」を、郵便的脱構築によって、有耶無耶に、意味の決定を遅延させる。

だけどそんなのは郵便的脱構築ではないはずだ。郵便的脱構築への意志があるのであれば、三浦瑠璃が言う「容疑者の妄想に加担してはいけない」にある"妄想"という、超越論的シニフィエによって事件が回収される事態も脱構築しないといけない。
あらゆる超越論的シニフィアンを疑義にかけてない。
やはり東浩紀は郵便的脱構築を行えていないようだ。

翻って、昨日だよ。
ミヤネ屋で、野村修也が出ていた。
野村修也は、俺にとってはいつもの感じではなかった。

有田芳生「旧統一教会関係者が議員事務所でロビー活動しているのを目撃した」
野村修也「ロビー運動は色々な団体で行っている。弁護士会だって!」

俺が抱いていた、弁護士ではあるが、時事問題を語る時は、弁護士でも検察官でもなく、裁判官のような中立性と事実のみに即して意見を語る理知的な印象が失われていた。
「どうしたんだ?」と、東浩紀の時と、同じような印象を抱いた。
実際、他の人のツイートを調べてみると、やはりそうだ。

「精神鑑定」とかいう極端なワードを出すような人だったのか。

コロナ渦でサラリーマンをしている際、リモートワーク中に仕事をサボる際の肴が、ミヤネ屋の放送だった。
その際、野村修也の言動のキレ、それは、何の違和感もなかった。

右や左といった政治性に偏ることなく、事実に即して忠実に問題を語る理知的な印象があった。
かたや、昨日の7月19日の放送はどうだ。

明らかに、何かへの配慮が伺える。そして俺は初めて、野村修也のプロフィールを調べた。

ja.wikipedia.orgすると、腑に落ちた。
民主党政権の下でも、2011年には、行政刷新会議における独立行政法人改革のWGに参加」とあるが、自民党政権時代での仕事の方が圧倒的に多い。

まあそれは、実際に2010年代は第2次安倍内閣~第4次安倍内閣が長く続いたから、当たり前といえばそうなんだけど。

つまりステークホルダーへ配慮した、自民党からの仕事に勤しんでいた過去、もしくはこれから仕事をいただく可能性が高い自民党側のポジションに根差した意見になっている。まさにポジショントークだ。
ステークホルダーの欲望の転移に侵されることなく、裁判官のような中立的ポジションとして語ることこそが、学者や知識人のあるべき矜持ではないのだろうか。

三浦瑠璃は明らかにいつもそうだから、違和感はなかったけど。
東浩紀は違和感があった。
野村修也は、もっとだ。
そんな人だったのかと。

学者や知識人は、ステークホルダーイデオロギーに捉われず、政治的中立性や事実に基づいて議論を重なる理知的な存在ではないんだと、改めて思い知らされた。非常にがっかりした出来事だった。

それは最初の話に戻る。
まるで朝、上司や家族やステークホルダーや世間といった、他者の欲望によって会社に向かうサラリーマンのようだ。

そんな野村修也を見て「他者の欲望の影響」を、垣間見たんだが。

「自分ではなく他人が自分の言動や身体を支配しているような感覚」も、思い出した。

長くなったからその感覚については、また次に話すかな。