逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

弱者女性論が盛り上がらない理由について

いつも通りニュースをチェックしていると、こんな話題があった。

anond.hatelabo.jp喪女はいつも透明化される、読んでみると、弱者男性の女性版、いわゆる弱者女性の悲哀がつらつらと書かれていた。

そして増田は疑問に思った。

意中の男性に相手にされない女性、勇気を出して告白しても迷惑がられたり笑われたりして苦しむ女性の存在を一切想定していないのはどうしてなんだろう。

これについての回答、実はある。
人間のルサンチマンと無意識を研究している俺は、その答えを提示できる。
赤いカプセルを飲む勇気があるなら、その理由を示そう。

その理由は、これだ。

弱者女性論は、金にならないから。

これに尽きる。
以下、その理由を説明していこう。

既に弱者男性論は金になるという話は、ソフィスト達の「結婚できないのはあなただけじゃない」という奴隷道徳($◇a)の供給と内面化によって自らの自尊心や存在意義を保つの記事で、その可能性を示した。


ではなぜ、弱者とされる女性に寄り添う言論が生まれないのか、その理由はどうしてなのか。
それは、女性の場合は強大すぎるんだ。
「(異性愛の)恋愛をしろ」イデオロギーの強さは、男性よりも圧倒的に強い。
それについても既に「フェミニズム離れを考える暇がないほど強大な女性らしさを無意識に押し付けるイデオロギーの存在について」という記事で語った。

gyakutorajiro.com男性の場合は、恋愛以外の実存のロールモデルがある。
金、仕事、社会的地位、それらの力でのし上がる物語やロールモデルが生産されている。

逆に女性はどうだ。もちろん、あるにはあるが。
しかし、「女性らしさ」を押し付けるイデオロギーは強大だ。
例えば、フェミニストが好みそうな「キャリアのある強い女性の表象」として、古いが安野モヨコの「働きマン」等があるとしよう。

働きマン」の主人公は確かに、男に媚びず芯のある強い女性として描かれているようではある。
しかし重要なのは、その主人公が日本のルッキズム的な価値観に則ると「美人に描かれている」ということだ。

ドラマの主演も菅野美穂だった。

君に届け」(きみとど)とかもそうだ。
主人公の黒沼爽子は陰キャ女子、いわゆる喪女、一見すると、弱者女性に寄り添っているかのように見える。
しかし陰キャ女子の爽子はこれだ。

真ん中の黒髪の女の子が爽子だ。
その顔面の造形をよく見てほしい。
決して、醜女でも圧倒的醜女でもない。
実写化された際、爽子は多部未華子であり、恋物語を繰り広げる風早翔太は、三浦春馬だった。

こんな風に、喪女に寄り添うカルチャーであるかのようで、ルッキズム的には全く寄り添っていない現実が横たわっている。

男性の場合は、古谷実の漫画など、一部イケてない喪男の実存を描くような作品はある。
弱者男性が自己実現するルサンチマンが具現化したコンテンツもある。
だが、女性の場合は圧倒的に少ない。

異性愛の恋愛以外で自己実現する物語、ロールモデルの総量は、女性は圧倒的に少ない。
試しに数えてみたらわかる。電子コミックのサイトにアクセスし、少女漫画のメインテーマの総量が、圧倒的に異性愛の恋愛であり、主人公は美少女ないし美少女ではないが醜女ではなく描かれている。

強い女性を描くコンテンツ、「セーラームーン」や「プリキュア」もそうだ。
男性に媚びていないようで、「美少女戦士」セーラームーンである。
男性を魅惑する造形美を備えている。
なぜ醜女戦士セーラームーンが存在しないか?
考えてみてほしい。
それが、女性が「こうあるべき女性」を押し付けられ、内面化する力によって抑圧されている現実を示している。
プリキュアに至っても、その造形は可愛らしく魅惑的で、最初の「二人はプリキュア」に備わっていた暴力性や男性らしさは、シリーズを重ねるごと置き換わっていき、結局は「かわいい女性」が魔法などを使うようになってしまった。

レズビアンカルチャーにおいてもそうだ。

秋葉原駅デジタルサイネージで、百合ラブスレイブ(鈴音れな)という漫画の広告を見かけた。
異性愛主義へのカウンターカルチャーにおいてさえ、美少女がその主人公となり、本当の喪女や弱者女性が活躍するコンテンツが存在しない。
もちろん、中にはあると思うし、あるのであれば教えてほしいが、多くの女性の意識を変えるほど強大な力を有した生産物は見当たらないだろう。

ロールモデルの強さは、そのまま、資本を生産するパワーとイコールだ。
女性文化を生む生産者でさえ、身体を女性として組織化され、異性愛の恋愛を実践する物語を生み出すように組織化される。

そのカウンターとして、フェミニストやLGBTQのカルチャーというロールモデルが生まれる。しかし、LGBTQのようなマイノリティーのカルチャーを描く場合も、美少女だったり醜女には振り切らず、男性からも愛される余地が残るようになっている。

もうお判りだろう。

増田が疑問として指摘するように、性的マイノリティーとしてではなく、性的マジョリティである異性愛者における言説において、パートナーを得られず苦しむ弱者女性の言説が不在である理由が。

それは、それぐらいまでに女性の意識や身体は「異性愛をしろ」というイデオロギーによる領土化(特定の価値観の浸透)の影響を被っているからだ。漫画やアニメやドラマや映画等の架空のロールモデルだけでなく、脱毛、化粧、体操、ダイエット、衣服など、女性らしい身体を強制する言説もある。

たまごっちは、結婚せずに放置すると、そのまま年老いて死ぬ。定期的に餌をやるだけでなく、結婚して子どもを産まないと生き続けられず、液晶画面に墓場と悲しい演出が流れる。異性愛恋愛イデオロギーの強制は、子どもが遊ぶゲームにさえ及んでいる。

どうしようもない喪女は、推し活やホスト遊びなど、弱者男性におけるオタ活や風俗のような、消費活動による慰めに走る。

美醜、生まれ、育ち、運命、それらはすべて才能の一部だ

 市原悦子主演のテレビドラマを観た。スワローバンクの話である。主婦が若い男を買うというやつだ。スワロー役は金田賢一だった。市原悦子が、いかにもという感じで、最後まで観てしまった。
 市原悦子の夫役はレオナルド熊だ。夫婦は爪に火を灯すような苦労の末、小さなスーパーを経営している。だが、苦労を共にしてきた夫は小金ができたことで、台湾やフィリピンに出かけては女漁りをしている。
 市原悦子は、金田賢一に金を貢ぐ。売れっ子の金田賢一を確保するために、三十万円を店からくすねて、スワローバンクの正会員となる。金田賢一は、大会社の専務夫人に就職の世話を頼んで、警察に売られる。上流社会の力がスキャンダルを拒み、弱者である売春夫を叩き潰す、そういう図式である。
 警察が踏み込んだ時、ホテルの一室には市原悦子もいた。市原悦子は、夫や家族や社会から断罪される。だが彼女は屈せずに、金田賢一のアパートを訪ね、冷たくされた末に、彼を刺すのである。
 「愛してるって言ったじゃない」
と、市原悦子金田賢一を責める。
 「それは単なる仕事だ」
と、金田賢一は答えて刺されるのだ。とにかく市原悦子がすごかった。説得力のある演技だった。

(引用元:すべての男は消耗品である (集英社文庫) [ 村上龍 ]


整形をして、男性のマジョリティの言説やルッキズムに叶う身体を再編成しようとまでする。

(引用元:名探偵コナン(5)[ 青山剛昌 ]カラオケボックス殺人事件)

誰も「弱者女性がルッキズム等で虐げられる現実」を声高に主張しないし、ルッキズム等で苦しめられた弱者女性が活躍する物語」が生まれない。
なぜなら、主張しても、ロールモデルを生産しても、誰もその中身に金を払わないからだ。

もしその主張に共感し、同一化した場合、どうなるだろうか。
まさにその同一化によって、異性愛者の女性は、男性に愛される存在としての自己実現を喪失するからだ。

その恐怖から、女性自身からさえ、弱者女性の言説は発生せず、生産されない。
同一化する女性もいない。
カネを払わない。

男性の場合は、弱者男性論等のルサンチマン(奴隷道徳)への同一化による慰めに金を払う。そのルサンチマンを信仰することで現実のストレスを希薄化できる。弱者男性の言説やロールモデルを生産して金儲けを図る男性もいる。

女性は希薄化できない。田嶋陽子の言説や、江口のりこ主演の「ソロ活女子のススメ」等、一部マイノリティの喪女に寄り添うコンテンツ等もあるが、先に述べたように、女性はその同一化によって異性愛の恋愛イデオロギーの要請に従えない人間となることを恐怖し、カウンターを生産しようとしても、男性が好む造形の余地を主人公に残してしまう。
男性的要請を完全には放棄しきれないほど、女性の身体が無意識的に組織化されている。弱者女性の言説やロールモデルを生産する女性の不在だ。


「恋愛すべし」や、ローラのように美しくなりなさい等、異性愛イデオロギーの強さ、異性愛ロールモデルの総量が男性よりも圧倒的に多いため、反比例する形で、異性愛において虐げられる弱者女性の言説も少ないんだ。

だがこれはある意味で契機だ。

増田のあなたが、喪女、弱者女性の実存を提示するんだ。

女性に異性愛恋愛主義を押し付けるこの腐れきった現実を変質するような生き様や価値観を、生産してみてはどうだろうか。


(続き:弱者男性論が盛り上がる理由について

ソフィスト達の「結婚できないのはあなただけじゃない」という奴隷道徳($◇a)の供給と内面化によって自らの自尊心や存在意義を保つ

面白い記事を読んだ。

davitrice.hatenadiary.jpベンジャミン・クリッツァーさんという有名な人らしい。
「21世紀の道徳」という本を出しているみたいだね。

批判されているのは、この本と、この記事。


p-shirokuma.hatenadiary.comベンジャミン・クリッツァーさんは、このような本や記事は、以下のような問題点があると指摘する。

・「世の中の理不尽さ」や「不都合な真実」を強調して、読者が既に抱いている信念や感情を慰撫するだけ。

・「非モテ」や「弱者男性」が事前に抱いている被害者意識をさらに補強するだけ。

ソフィストのように感情に訴えるレトリックを用いて感覚的な興奮を味わせて溜飲を下げるものを与えているだけ。

結果、「それらの不健全な感情を悪化させて、当の読者たちの人生の質をも下げさせている。」とのこと。

確かにすごく共感できた。
不健全な感情を煽ったり、悲観的な言説を繰り広げても、何の解決にもならない。

まあでもそうなんだけど、そのソフィストの話を、人間は求めてしまう。

なぜ求めてしまうか。

それはある種の心地よい宗教、ルサンチマン(奴隷道徳)だからだ。
ニーチェは、人間が抑圧され隷属の日々を過ごす中で、価値転倒によってルサンチマンを生み出すことを発見した。

ベンジャミンさんが記事で引用している、メロンダウトさんのこのツイートは、多くの人にいいねされている。

これもルサンチマンだ。

ルサンチマンには色々な種類がある。
前回、能力主義への抵抗を彷彿させる山下達郎の言説はルーザーを「従順な身体」に組織化してグッドルーザーを生産するルサンチマンにも成り得るで語ったルサンチマンは、「ルーザーに自尊心の拠り所になる奴隷道徳を供給する」という性質があった。

しかしこのタイプのルサンチマンも、人間の意識・無意識に供給するという点は共通しているが、少し違う。
「自分だけじゃないんだ」という安心感によって、一個人にかかる負荷を分散するルサンチマンだ。

このルサンチマンの存在を証明するため、卑近な事例を出そう。
2022年5月16日放送の「月曜から夜ふかし」における「幸福度が最低の年齢が発表された件」についての話の中で、マツコデラックスがこんな発言をした。

・・・48歳だからちょうど2年前ぐらいよ。こんな、何にもすることがない、仕事場と家の往復で、バカじゃないの。って思ってたけど。
みんなが困ったわけじゃん、コロナって。
あんまりいい言い方じゃないんだけど、困っている人もいっぱいいる中でこういう言い方をするのはあれだけど、なんか、何・・・ちょっと分散したのよね。『自分の困った・苦しい』気持ちが、『世の中のみんなが困った・苦しい』と。あれこれ、どっちの困っているなんだろう?みたいな。
ちょっとごまかせたのよ。

そう、このように、コロナウイルスによるストレスで自分は苦しめられたが「自分だけじゃないんだ」という安心感によって、ストレスが分散され、希薄化される。

それゆえ、御田寺さんやシロクマさんの言説は、価値を帯びる。

「こんなにも結婚できない人はいるんです、データも示しています」というルサンチマンの供給と、それを「自分だけじゃないんだ。みんな結婚できないし、不安じゃないぞ」というルサンチマンの内面化によって、安心感と自尊心を得ることができる。

このルサンチマンを自分は、「西武池袋線の駅員との会話から怒りやストレスを和らげる方法を発見」で示したように「ストレス共有化」と述べている。

さて、その供給された奴隷道徳を内面化した弱者、まあ自分も独身で結婚できないし低所得だしそうなんだけど、その弱者、声なき者の精神はどのような動きをしていくだろうか。

精神分析のアプローチをしてみよう。

スラヴォイ・ジジェクは「イデオロギーの崇高な対象」において、ジャック・ラカンの欲望のグラフ第3図を用いて、ヒステリーの構造について説明する。

シニフィアンの連鎖が「キルティング」されて、そのシニフィアンの意味が遡及的に固定された後には、つねにあるずれが残る。それは第三図において有名な「汝何を欲するか」の生み出す開口部で示されている――「汝は我にかくのごとく語る。だがそれによって汝は何を欲するか。汝の目指すところは何か」。

したがって、「キルティング」の曲線の上方にあらわれるこの疑問符は、言表と言表行為とのずれの残留を示している。言表のレベルでは、あなたはこう言うが、あなたはそれによって、それを通して、何が言いたいのか?(発話行為理論の確立された術語を用いれば、もちろんこのずれを、ある言表の、発語と発語内容な力との差異としてあらわすことができる)。

そして、言表の上方に疑問があらわれるまさにその地点に、つまり「何故にあなたはこう言うのか」という場所に、要求とは異なる欲望(図中のd)を位置づけなければならない。
あなたは私に何かを要求している。だが、あなたが真に欲しているのは何か。この要求を通してあなたが狙っているのは何か。
この要求と欲望との間の亀裂が、ヒステリー的な主体の位置を決定する。

ラカンの固定的な定式によれば、ヒステリー的要求の論理は「私はあなたにこれを要求する、だが、私が本当にあなたに要求しているのは、私の要求を拒むことだ、これは私の本当に欲しいものではないのだから」というものである。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 汝何を欲するか)

シニフィアンの連鎖が「キルティング」されて、そのシニフィアンの意味が遡及的に固定された後」というのは、ジャック・ラカンの欲望のグラフ第2図についてのジジェクの説明だ。
それについては 欲望と欲動と欲求の違いについてラカンおよびフロイトの精神分析と闇金ウシジマくんの実例で解説の記事で既に説明した。

「汝、何を欲するか?」は、この現代社会において、シニフィアンの影響を受け続けた人間が、自らに課す要求だ。
実家の両親などによって「ちゃんといい会社に勤めている人にしなさい」「気立てがよくて、一緒に故郷に帰ってくれる奥さんを見つけなさい」等の要求もあるだろう。
その要求とともに、欲望(d)は、対象aに向かう。

対象aは、男性においては「可愛くて料理が上手な理想の奥さん」という家事能力を体現した存在であったり、女性においては「身長170cm以上で年収600万円以上」のよう資本主義的価値を備えた人物であったり。
そして両者ともに、パートナー候補の対象を知覚した際に自我で行う無意識的なルッキズム的審判によって対象aが構築される。

しかし対象aを求める独身は、欲望のグラフ第3図にあるように、$◇a [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]、疎外の袋小路に突入する。

縁の過程、循環的過程、この関係は、この小さな菱形によって支えられます。私は自分のグラフの中で、アルゴリズムとしてこの菱形を使っています。なぜなら、あの欲望の弁証法の最終的諸産物をいくつか統合するにあたって、この菱形が必要だったからです。

たとえば、まさに幻想のなかにも、これを組み込まないわけにはゆきません。つまり、幻想は"$◇a" [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]―棒線で消されたS、錐穴、小文字の「a」となります。

また、要求と欲動が結合するあの根源的な結び目にも、これを組み込まないわけにはゆきません。この結び目は"$◇D"[S barré poinçon grand(エス・パレ・ポワンソン・グランデ)]―棒線で消されたS、錐穴、大文字のDと書かれます。これを我々は叫びと呼ぶことができます。

(引用元:ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念(下) (岩波文庫 青N603-2) [ ジャック=アラン・ミレール ]p197)

結婚できない独身者はこのように、疎外(◇)の状態に置かれ、幻想($◇a)の中に向かう。

実現可能性の低い「理想のパートナー」という要求を拒み、欲望は実現可能性の高い幻想によって充足される。
闇金ウシジマくん」に出てくる板橋のように、欲望の中に含まれる性衝動という欲動のエネルギーを、対象aを求めて向け続ける。


(引用元:闇金ウシジマくん(10)[ 真鍋昌平 ]

「街中じゃこんな若い娘をじっくり見られないからなぁ…くふふぅ。女の子選べよ、小堀!!」

(引用元:闇金ウシジマくん(11)[ 真鍋昌平 ]

「グチョオ クチョオ グチョオ スカーッ グチョッグチョ グチョグチョ スカー」


ラカンが"欲動はその周りを巡る la pulsion en fait le tour」"と述べたように、対象aに近い存在の周りを、終わらないメリーゴーランドのように廻り続ける。

この終わりなき欲動の湧出と発散の繰り返しは「享楽」と呼ばれる。

後期フロイトは「快感原則」という次元を導入することによって―ラカンによってなされたように、そのすべての結果を考慮に入れるならば―そこから更に二歩前進し、右に述べたような構図を完全に変える。

死の欲動」の仮説は直接にこの点に関係してくる。それが意味するところはこうだ―「快感原則」によって動かされる心的装置の調和的な回路を妨害する異物・闖入者は心的装置の外にあるのではなく、心的装置に内在しているのである。「外的現実」とは無関係に、こころの内在的機能そのものの中に、完全な満足に抵抗する何かがあるのだ。

いいかえれば、たとえ心的装置がそのまま放っておかれたとしても、「快感原則」が追求する均衡には絶対に到達することなく、その内部にあるトラウマ的闖入者の周りを回り続けるだろう。「快感原則」が躓く限界は、快感原則の内部にあるのだ。

この異物、すなわち「内的限界」に対するラカンの数学素はもちろん<対象a>である。<対象a>は「快感原則」の閉回路を中断し、その均衡のとれた運動を狂わせる。あるいは、ラカンの基本的な図を引用すると、左のようになる。

したがって踏み出すべき最後の一歩は、この内在的障害物をそのポジティヴな次元において据えることである。たしかに<対象a>は快感の円が閉じるのを妨げ、縮小不能な不快感を導入するが、心的装置はこの不快感そのものの中に、つまり到達しえないもの、つねに失われているものの周りを永久に回り続けることに、倒錯的快感を覚える。いうまでもくこの「苦痛の中の快感」に対してラカンが与えた名前は享楽[jouissance]であり、どうしても対象に到達できないこの循環運動―この運動の真の目的は目標へといたる道程と合致する―が、フロイトのいう欲動である。

欲動の空間はこのように逆説的で曲がった空間なのである。<対象a>は空間内に存在する実在物ではなく、究極的には、空間そのもののもつある種の歪みに他ならない。このゆがみのせいで、われわれはまっすぐに対象に到達しようとすると必ず曲がらなくてはならないのだ。
スラヴォイ・ジジェク汝の症候を楽しめ ハリウッドvsラカン /筑摩書房)』p84-p85)

先述のように、欲望のグラフ第3図では、終わらないこの疎外状態から幻想を求め続ける欲動の運動($◇a)を、ヒステリーの構造としてジジェクは解説していた。

しかし享楽の袋小路から脱出できる場合もある。

それがジャック・ラカンの欲望のグラフの完成図だ。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 汝何を欲するか)

「理想の結婚相手」という対象aを手に入れることができなくても大丈夫ではないがあなただけではないぞ、というシニフィアンを求める。

そのシニフィアンこそ、御田寺さんやシロクマさんが供給するルサンチマンの信仰と内面化($◇a)だ。

したがって、グラフの左側の下向きのベクトルの三つの水準は、それらの順序を調整する論理という点から捉えることができる。
まず第一にS(Ⱥ)がある。これは、〈他者〉の欠如を、つまり享楽(ジュイツサンス)に侵入されたときに象徴秩序に生じる矛盾(インコンシステンシー)をあらわしている。

次に、空想の公式$◇aがある。空想の役割は、その矛盾を隠す遮蔽幕になることである。

最後にs(A)がある。これは空想に支配された意味作用の効果である。
空想は「絶対的意味作用」(ラカン)として機能する。空想は、われわれがそれを通して世界を一貫して意味のあるものとして経験できる枠組み、つまりその中で意味作用の特定の効果が生じる先験的な空間を構成する。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 汝何を欲するか)

ジジェク的に言えば、独身が享楽の袋小路に突入した場合、理想のパートナーとの結婚という欲望を実現するのが困難になり、矛盾した状況(S(Ⱥ))になる。

そこで、空想の役割が必要となる。

御田寺さんやシロクマさんが供給するルサンチマン(空想)によって、自らの矛盾した状況、結婚したいのに、出会い喫茶等の風俗やオ〇ホールでの自慰行為の享楽を繰り返してしまう矛盾した状況によって、自尊心が傷ついたり自己嫌悪に陥ったりといった疎外と死の欲動への接近を回避するため、遮断幕となるルサンチマンが必要になる。

「例え結婚できなくても、みんな結婚できていないし、自分だけじゃないぞ」という空想の意味作用の効果(s(A))を獲得する。

「結婚できなくても生きていくんだ。それでいいんだ。」という人間として、I(A)に至ることができる。象徴的同一化を果たすことができる。

まあベンジャミンさんが言うように、人生を余計に惨めにしているといえば、そうかもしれない。
幻想を信仰してアイデンティティを保ってるんだからな。
しかし弱者を「あなただけじゃないんですよ」という慰撫するルサンチマンは、別に御田寺さんやシロクマさんだけが供給してるだけじゃない。

上に述べた「生きていくんだ。それでいいんだ」という、玉置浩二の唄(田園)もそうだ。

これもルサンチマンの供給なんだよね。
でもその内面化がうまくいかないと、どうなるか。

(引用元:「最強伝説 黒沢 3 [ 福本伸行 ]」)

最強伝説黒沢の黒沢のように、「生きているだけでいい」のような幻想の信仰には納得できず、苦悩する。

欲望のグラフ第4図のように象徴的同一化を達成することができず、疎外され続け、死の欲動に接近する危険を抱えながら生きていく。

遺伝子の生存戦略としての本棚の中身

はてなブログにこんな企画があるみたいね。

blog.hatena.ne.jpなるほど、今週のお題ってやつ、いいね。
これに取り上げられたら、自尊心を得る機会が極めて少ない独身男性の自分も、束の間の承認欲望を満たせるかもしれないね。

よし書くぞ。

今週のお題「本棚の中身」

まず「本棚の中身」について、考えた。
もちろん、自分にも本棚もあるが、ほとんど裁断して電子化してしまったので、面白いものではない。
そこで「本棚の中身」について、もっと主語を大きくして考えたところ、3つの性質が浮かび上がった。
それは、

・自己顕示欲の充足およびステータスシンボルや生物学的強さの象徴
・リビドーが変容して人間ではなく物質に向けられた事例
ミニマリストなど、本棚を持てない人間が生み出したルサンチマン


だ。
それぞれ、語っていこう。

自己顕示欲の充足およびステータスシンボルや生物学的強さの象徴

ピンとくる人もいるだろう。
コロナウイルスによるテレワーク、リモートワークの推進によって、自らの知的教養をアピールする「ZOOM映え」「ZOOMマウント」というマウンティングが発生しているらしい。

nikkan-spa.jp記事には、マウンティングに用いられものとして現代アート作品、ピアノの音色などが紹介されているが。
本棚の中身も、マウンティングに用いられる物質として利用される。
安住紳一郎の本棚が、話題になったこともある。

kk-information.com東浩紀やメンタリストDaigoの本棚、びっしりと本が埋め尽くされている。

jadeshiny.comこのように、本棚は、知性や能力を示すシニフィアンとして機能する。

ただし「本棚の中身」も重要で、なるべく自らの知性をアピールできる難解な文学や哲学書、能力をアピールするための法律の本や技術書などを並べる必要がある。
室井佑月「本棚って一番、自分の頭のレベルを見られちゃうところなんだよ?相当入れ替えしないと」と語ったように。

www.sponichi.co.jpこの行動は、非常に動物的でもある。
最近、「ワールド極限ミステリー」というテレビ番組を観た。

www.tbs.co.jpSixTONESの田中樹が、あるミステリーサークルについてのVTRを紹介していた。
そのミステリーサークルは、奄美大島の海底で見受けられるらしい。


そして、このミステリーサークルを作っている生き物の正体が、フグ。
そのフグは、体の後方、胸びれを使って外周の凹凸を作る。
サークルの真ん中は、余計なものを排除し、細かい砂だけにする。

そしてなぜ、フグはこのようなサークルを作るのか?という問いに。
魚類生物学の専門家、海の博物館(千葉県立中央博物館分館)の川瀬浩司という方が、こう語る。

「このフグは、アマミホシゾラフグといい、最近発見された新種のフグです。サークルの中央の平たい部分の上で、オスとメスがペアで産卵をする。」

アマミホシゾラフグは、1週間ほどかけて、産卵するための巣となるサークルをつくる。
円が完成すると、お腹の大きなメスがやってくる。
オスが近づき、身体を擦り合わせる産卵行動を行い、この瞬間、メスは砂の中に直径1ミリにも満たない卵を産むらしい。
サークルの画像は、このサイトが詳しいね。

nature-and-science.jpなぜかこんな変わった模様のサークルを作るのか?

専門家は「オスがメスを引きつけるための要素になっている」「立派なサークルを作るオスは優良なオスだとメスに判断される」

「俺はこんなにすごいサークル作れるんだぜ。俺と付き合わない?」と、田中樹によるナレーションで、紹介VTRは終わる。

リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」という本がある。

興味深い一節を紹介しよう。

社会性昆虫では、個体は子作り要因と子育て要因の二つの主な階級に分かれている。子作りにあたるのは繁殖力のある雄と雌であり、子育てにあたるのはワーカーたちである。ワーカーは、シロアリ類の場合は雌雄の不妊虫であるが、その他のすべての社会性昆虫では不妊の雌である。
子作りと子育てのいずれのタイプの個体も、自分の仕事だけに専念できるので、それに関してはとても効率のよい仕事ぶりを示す。しかしいったい、誰の立場からみて効率がよいのか。ダーウィン的理論に投げかけられる疑問は、例の決まり文句である。
「そんなことをして、ワーカーにいったい何の利益があるのか」。

ワーカーには「何の利益もない」と答える人々もいる。彼らの考えでは、女王は自分の利己的目的のためにワーカーに化学物質による操作を加え、彼女の産み出す莫大な数の子供の世話をさせている。こうして利益はすべて女王が手にしてしまうというのである。
これは8章で紹介したアリグザンダーの「親による子の操作」理論の一形態である。

しかし、これと正反対の考え方によれば、ワーカーのほうが繁殖虫(女王)を「自分の利益のために養っている」、いわば養殖業の対象にしているということになるのだ、彼女らは、繁殖虫に操作を加えることによって、繁殖虫が彼女らワーカーの体内にある遺伝子のコピーをもっと大量に増殖するように仕向けているというのだ。少なくともアリ類、ハナバチ類、狩りバチ類では、女王と子供の近縁度より、ワーカーとその妹との近縁度のほうが実際に高くなりうる。

リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」p266)

アリの生態とは違うが、ドーキンスが言うように遺伝子は自分の複製子を大量にコピーしようとする利己的な機械だとした場合、アマミホシゾラフグも、サークルを作ってメスを呼び、自らの遺伝子をコピーせねばならない。

そう、つまりアマミホシゾラフグにおけるミステリーサークルが、人間にとっての本棚だ。
本棚という、空間に大量に本を配置することで自らの能力を誇示するという点で、人間とアマミホシゾラフグの類似性が垣間見れる。

また、ニワトリにおけるトサカや肉だれ、これも、人間における本棚だ。
肉だれは、くちばしの下にぶら下がっている赤い部分のことを指す。

amor1029.exblog.jpアモツ・ザハウィという動物行動学者の本に、『生物進化とハンディキャップ原理―性選択と利地行動の謎を解く』(白揚社)というものがある。

この本によると、ニワトリのトサカや肉ダレは、生理的役割としては全く意味がないらしい。
しかもトサカは、血管がたくさん通り、無防備でデリケートであるため、他の個体に攻撃される弱点になるという話だ。
しかし弱点だからこそ、立派なトサカを持つことが、強さの象徴として機能する。
トサカが大きいオスの個体がモテるのは、敢えてハンディを背負いつつも生存しているからこそ、環境適応能力や生存能力や遺伝子が強いというメッセージになるっていう話だ。

アマミホシゾラフグもそうだろうよ。
ニワトリ同様、広い海で、サークルなんて作ってる間に、食物連鎖の強者によって喰われてしまう脅威がある。にも関わらず、サークルを作れるというとは、そのハンディキャップを背負うということこそが、強さの証になるからだ。

俺の地元では、御神輿を担ぐお祭りがあった。
地元のヤンキーたちは「痣ができちゃったよ」と、まるで勲章のように、お神輿を担いだことを誇っていた。
それも、「重い物を持てるんだぞ俺は」という強さの象徴になる。

本棚もそうだ。それもハンディキャップとして機能する場合がある。
もし災害や有事の際は、本棚が倒れてきて凶器となり、自らの身体を傷つける可能性もある。
にも関わらず、人間は本を読み、知識を求め、本棚の中身を難しい本だったりオシャレな文学作品を並べ立て、他の人間との差別化を図る。

サークルで差別化を図るアマミホシゾラフグ、トサカや肉だれで差別化を図るニワトリ、知識や能力を示すための本棚とのその中身で差別化を図る人間、根本的には同じだ。

人間もフグやニワトリ同様、差異化とマウンティングを行っている。

では人間は本棚の中身に、どんな本を置こうとするのか。
やはり先述したように、医学や法律や科学やコンピュータや哲学や難解文学の本等を置きたがるケースが多い。

また他の具体例を挙げると海外文学、ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」だ。

この本は、難解文学で、自分の知性や能力やおしゃれさをアピールする記号として利用される。
「寿命を買い取ってもらった。一年につき、一万円で」という2ちゃんねるの有名なスレッドがある。
そこで、こんなシーンがある。

「私のことはいないと思ってくださって結構ですよ」
俺の気持ちを察したのか、ミヤギはそう言う。
だが、本人がいくらそう言っても、気になるものは気になる。
自分で言うのもなんだが、俺はかなり神経質なんだ。

同世代の女の子に見られてるのを意識しだすと、行動のひとつひとつがおかしくなるんだよ。
「自然体っぽい格好よさ」を出そうとしちまうんだな。
気付くと髪を触ってるんだ。完全に自意識過剰だ。

しばらくは、手元に残ってた本の中でも一番難解なフィネガンズ・ウェイク」を読んで格好つけてた。
当然、内容はさっぱり頭に入ってこなかった。
余命三ヶ月だってのに、何をやってるんだろな。

(引用元:http://sharetube.jp/article/13487/

そう、同世代の女性にカッコつけるため、フィネガンズ・ウェイクを読むそぶりをする。

オモコロの「読まずに語れ!積ん読王決定戦」も、知識や能力があると思われそうな本や、少し難解さがあるオシャレ本が出てくる。

omocoro.jpニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」、ウラジーミル・ソローキンの「テルリア」とかな。
J・G・バラードの「クラッシュ」とか、面白そうだな。

日本人作家なら、村上春樹も利用されることがある。

この記事で語られているように、イケてる男っぽさを出すため、本棚には金融関係の専門書、村上春樹の本があるらしい。

toianna.hatenablog.com記事に出てくるチャラ男は、村上春樹は決して、知性や能力などのステータスシンボルとしてではなく「気づいたら集めてた」と語っているみたいだが。

しかし「誰かに見られてもいい」という存在価値を備えているのは明らかだ。

もし見られたくない本、例えば誰かに馬鹿にされる可能性がある本の場合は、あらかじめ本棚の中身から撤去される。
自己啓発本のように。

honsoku.comjadeshiny.com村上春樹はなぜ、本棚の中身に置かれても問題ない対象となるか。
それは、村上春樹が、数々のシニフィアンによって、権威化・神格化されているのが理由でもある。

www.nikkansports.com毎年、ノーベル賞候補として挙げられ、世界的にも人気の文学者だ。「女のいない男たち」に収められている作品は、カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞した映画「ドライブ・マイ・カー」の原作にもなっている。


このように、様々なシニフィアンの価値をまとった村上春樹の言説に、自らも作品を読み、自分を投影し、同一化しようとする無意識の感情の動きがある。

「そうじゃない、面白いから、読んでいるんです」

そうなんだね。だから本棚の中身にあると。
決して、自らのブランディング、ステータスシンボルとして村上春樹を消費しているのではないと。
まあそれもあるだろう。
だが「本棚の中身」にあるものとして、恥ずかしいものではない。
しかし逆にどうだ、自己啓発本や昔流行ったケータイ小説はどうだ?

「それも別に本棚の中身にあってもいいし見えてもいいよ。自意識過剰だよ」

と言われるか。
じゃあ昔あったAVの企画モノのような、電話ボックスに人間が何人入るかみたいな映像作品だとかどうだ?それは本棚の中身にある場合、どうする?

「それは・・・さすがに、プライベート的な性的嗜好のことなので、本棚の中身に入れないですよ。隠しますよ」

というのが通常の反応だろう。
そう、つまり、あるってことだ。


人間の身体同様、本棚の中身が、イデオロギー的な価値、権威、社会的見栄え等によって、組織化されている現実が。

昔、裏BUBKAに「ワンフーの図鑑」だとか「ワンフーの生態」という特集があった。

新ワンフーの図鑑 第一章「村上春樹好き&村上龍好き」でも、村上春樹は取り上げられていた。
引用元の情報が無いから、発行元である白夜書房BUBKAのリンクを引用元として貼っておこう。

www.byakuya-shobo.co.jpワンフーの図鑑では、全てのハルキストを敵に回すかのように、村上春樹好きを「文学者気取りのナルシスト」と馬鹿にする。

確かにその傾向は、一理あるかもしれない。

本棚の中身に村上春樹を置いたり、村上春樹の魅力を語る時、村上春樹への同一化を思わせる行動を取ろうとした際、このようなカウンターの言説が出てくる。

なぜ反撃を加えるか。

それは、村上春樹を語る人間が、村上春樹の消費者であって、村上春樹の価値に及んでいないからだ。
及んでいないにも関わらず、村上春樹を愛読している、高尚な文学を読んでいるという、それだけの差異化によって、他者に知識マウンティングをしたり、自らの自尊心の充足のために、村上春樹を利用するその浅ましい態度を軽蔑しているんだ、このワンフーの図鑑は。

自分はこのワンフーの図鑑を肯定する。

本棚の中身を、イデオロギーや過剰な自意識で編成する行為は、先に述べたアマミホシゾラフグやニワトリと同じで、高尚でもない、自らの生物学的価値を高めるための動物的行為よ。

前の「ディスタンクシオンは趣味を自尊心の拠り所にするルサンチマンの側面がある」という記事でも紹介したように、クリエイターではなくコンシューマーに過ぎないのに、価値があるかのように虚飾のベールで自らを装飾する。

だから、本棚の中身を、再編成する必要がある。

見栄や他者の存在を排除して、本棚を再編成する。
それで残った本こそが、自分が愛する本だろうよ。

いや違うな、人間は外界のシニフィアンの影響を受けているゆえ、無意識的に本の中身が構成されている可能性もある。
本棚の中身を「選んでいる」のではなく「選ばされている」ような感覚。

機械のように、自動的に選んでいる。
ニワトリやフグのように、自分の価値を高めるための本を買い、領域を広げ、本棚の中身がイデオロギーの要請に従った物質によって構成されていく。


主体的に「愛する」のではなく、機械のように「愛するように仕向けられた」本棚の中身だ。
その本棚の中身は、遺伝子の生存戦略なのかもしれないね。

本棚の中身について、3つのテーマで語る予定だったが、「リビドーが変容して人間ではなく物質に向けられた事例」「ミニマリストなど、本棚を持てない人間が生み出したルサンチマン」を語る前に、最初のテーマだけで長くなってしまった。

残り2つのテーマについては別の機会にしよう。

余談だけど、実話BUBKAの関係者がもし、この記事を読んでくれたなら。
ワンフーの生態、ワンフーの図鑑を、本にしてほしいと思ってる。

あの特集では、今回紹介した村上龍村上春樹好きではなく、モーヲタバンギャル、ゲーおた、鉄ちゃん、お笑い好き、ディズニスト、ブランド女、オリーブ少女ハガキ職人、ヅカファン・・などなど、人間の全ての文化活動の内奥にある深層心理を露悪的に暴き、その神話性や価値に依存する基盤を脱構築してしまうような破壊力があった。

それが重版もされず、埋もれてしまうのはやっぱり、寂しいからな。