逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

人間の快感原則(リビドー)を喚起させて現実原則(メッセージ)を伝えるマーケティング手法

このサイトの主なテーマは、ルサンチマンとともに「無意識を顕在化する」というのもあるから、今日はその話をするか。
「おっ」と惹きつける広告、もしくは無意識的に目を留めてしまう広告。
そのような広告には必ず、人間の性欲、リビドーを喚起させる仕掛けが組み込まれている。


今日はその一部を紹介したい。
例えば、この広告。

「合コン」という言葉が入っていたので、思わず目が留まった。
合コンという、生殖行為の前段階に位置するコミュニケーション活動、ないし疑似的生殖活動をメッセージに含めることで、人間の欲望を喚起する。

「欲望」といったのは、合コンという行為は人間の文化であり、それは欲求とは異なる。

フランスの精神分析学者ジャック・ラカンによればシニフィアン連鎖に出会う時点で欲求は既に欲望」といもいえるけどね。

我々は、主体と世界との純粋に想像的な関係が、主体と、それに対立すると言われている現実との関係の発展の根源にあるものとする考え方が、さまざまな困難と袋小路を引き起こしているのを見たわけですが、我々の置かれているこうした地点においては、私がずっと使い続けてきたささやかなシェーマを再び取り上げることが重要になります。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p321)

想像的な関係と、現実の関係は、異なる。
それは明らかだ。誰しも自分の思い通りに世界は動いてくれない。

 


ここには何か欲求(ブゾワン)と呼んでもよいようなものがありますが、私はいまから既に、これを欲望(デジール)と呼びます。なぜなら、起源的な状態も、純粋な欲求という状態も存在しないからです。

そもそもの初めから、欲求は欲望の平面上で、つまり、人間においてシニフィアンとある関係を持つことになるような何かの平面上で動機づけられています。この欲望する志向は、まさにここのところで、主体に対してシニフィアン連鎖として立てられているものを横切ります――これには、シニフィアン連鎖が既にそのさまざまな必然を彼の主体性に課してしまっているという場合もありますし、またそもそも、シニフィアン連鎖が母のもとでつねに既に構成されてしまっており、母のもとで既にその必然と障壁とを主体に課しているという形において初めて、主体がシニフィアン連鎖に出会う、という場合もあります。

主体はご存じの通り、まず〈他者〉という形でシニフィアン連鎖に出会い、次にメッセージという形でこの障壁に達します。このシェーマ上に、これが投影されているのを見ていただかなくてはなりません。


(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p322)

以前、「欲望と欲動と欲求の違い」の違いについて、話した。

gyakutorajiro.com【欲求】:飢えや渇きや性欲を満たしたいといった生物学的、根源的な衝動。

【欲動】:欲求が、シニフィアンのネットワーク(象徴界)によって抽象化されたもの。欲求と同じく反復性がある。

【欲望】:シニフィアンのネットワーク(象徴界)による影響や抑圧によって、リビドー(性衝動)が変容し、金銭や社会的地位、名誉などを求めること。

この定義は間違いだとは思っていないけど。ラカンが言うように、人間の欲求は図におけるA、すなわち〈他者〉と出会うことが必然であるという点で、既に欲望なのかもしれないね。

「合コン」という文字で喚起された欲望。
なぜ喚起したか。
それは「広告に注目してもらうため」である。
この広告を作った人は、人間の心理をよくご存じだな。

この「合コン」等のシニフィアンの記号について、ラカンはこのような分析をしている。

記号は、本能の理論のなかで、イメージとの関係によってしか特徴づけられないということはありません。記号は、欲求を目覚めさせるには十分だがそれを満たすには足りないような、そうした類の疑似餌(ルアー)ではないのです。

記号は、他のシニフィアンとの関係のなか、例えば、記号と直接に対置されている、記号の不在を意味するシニフィアンとの関係に位置しています。

記号は、既にシニフィアンとして組織立てられ、既に象徴的な関係のなかで構造化されている一つの総体のうちに場所を占めています。これは記号が、現前が不在とせめぎ合い、不在が現前とせめぎ合う、その連結点において現れる限りのことです――このせめぎ合いそれ自体は、通常、声による分節化と結びついていますが、この分節化において既に、シニフィアンであるような離散的要素は現れているのです。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p323)

「記号の不在」、それは「合コンができない」という現実だ。
欲望はシニフィアンで日々、離散させられている。(法律やルールなど)

それゆえに「お部屋と合コンしませんか?」は、強大だ。
まず「~しませんか?」という、声がけのようなシニフィアンである点。

いかなる現実にであれ、主体がそのなかに導き入れられるということを、何であれ、欲求不満(フリュストラシオン)や不調和、衝突、やけど、何でも構いませんがそうしたものの単なる経験から出発して考えることは絶対にできません。
一つの「環界 Umwelt」を一歩一歩たどたどしく、直接に手探りで研究する、ということはないのです。

動物では、本能が助けになってくれます。ありがたいことです。動物が世界を再構築しなければならないとすれば、死ぬまでかかっても足りなかったことでしょう。
ではなぜ人間に、あまりにわずかしか適応していない本能を持った人間に、言ってみれば自らの手で、世界の経験を行うことを期待したりするのでしょうか。シニフィアンがあるという事実は、非常に重要です。そして――こんなことを言うのは月並みでほとんど愚かしいことなのですが――人間が現実を体験する際の主要な表現手段とは、なんといっても声なのです。人間が受ける教育は、本質的に大人のパロールからやって来ます。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p326)

ラカンが「経験から出発して考えることは絶対にできません」というのは、「言語を覚えて、言語秩序に入っていないと無理だ」ってことだろうな。

声によって、教育によって言語を覚え、言語秩序に突入することで動物としての欲求が、人間としての欲望に分節化される。
欲求が言語によって変容した「合コン」という欲望の文化を無意識的に覚える。

そしてこの広告の一番の強力な部分は、「合コン」というワードを利用して、「欲望を強く喚起する幻覚を作り出している」ということだ。

逆に事柄を反対側から、妄想という面から捉えようとして、皆さんはこれを、フロイト以前のある時期に仕方なくそうしていたように、主体のある種の欲望に対応させたいという気になるかもしれません。何度かそれを見やって、妄想として斜めからちらちらと見ることによって、皆さんはそれに成功します。しかし、妄想のあらゆる現象のうちの主要な現象、もっとも際立った、もっとも数多くみられる、もっともはびこっている現象が、欲望の満足の夢想に関係するような現象ではけっしてないということは、明らかではないでしょうか。そうではなく、それは言語幻覚と同じぐらい確固たる何かなのです。

人は、この言語幻覚はどの水準で生み出されているのだろうか、言語幻覚では主体において精神運動性幻覚――これを確認しておくことはたいへん重要なのですが――といった形での、内的な反映のようなものがあるのではないか、投影か何かがあるのではないか等々のことを問います。しかし、この幻覚の構造化において支配的なもの分類の最初の要素という役割を果たすに違いないものが、幻覚のシニフィアン的構造であるということは、最初から明らかではないでしょうか。
幻覚とは、シニフィアンの水準で構造化された現象なのです。この現象において最初に強調されるべきなのは、それがシニフィアンの現象だということである、このことを見て取ることなしには、これらの幻覚の組織化について一瞬たりとも考えることはできません。

(中略)

お気づきの通り、このささやかなシェーマでは、欲求は回路のいわば外側のこの部分、右側の部分でかかわってきます。欲求は、ぎりぎりのところでしか存在しない何かのような、シニフィアン連鎖の一種の尻尾のような形で現れてくるのですが、しかし、そこではつねに、何かがこのシェーマのこの水準にたどり着くたびごとに起こります。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p324-325)

ラカンは、人間の妄想や内なる精神等が幻覚を作り出すということではなく「言語構造、この世界の象徴秩序そのものが、幻覚を作っている」ことを強調していると思われる。

人間は、妄想する。しかしその妄想する意識は、言語を覚え、言語秩序での生活を過ごさないとその行為自体を行うことはできない。
あらかじめ、生まれた時点で、未来が用意されている。義務教育が用意されている。幻覚は自分が見ているのではなくて、幻覚を見るように仕向けられている。幻覚を見るためのコード(規則)を覚える。
何かそんな話、前にしたな。

gyakutorajiro.com話を戻して、「合コン」という快感をもたらし得るシニフィアンを、「お部屋探し」に結びつけたシニフィアン連鎖を作る。
「合コン」という快感原則に近いシニフィアンの尻尾をつかんだら、「お部屋探し」という現実原則のM(メッセージ)にまで意識が向かう。

機知がまさしく快感に行き着くのは、機知では必ず、〈他者〉の水準で実現されるものが、意味の彼方を目指すことによって初めて潜在的に完成されるからです。この意味の彼方は自身のうちに、ある満足を含んでいるのです。


(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p325)

「機知」ってのはウィットとかジョークだとか笑い話の意味らしい。

shigemoto.blog105.fc2.comここにおいては、ウィット(含蓄)を含む「広告」も当てはまるだろう。
広告は、機知(お笑い)とかと違って、「クスっと笑える」ケースとは違う場合もあるだろうが、何らかの満足を得るようには仕向けられている。

快感原則がシェーマ化されるのが回路の外側の部分とすれば、同様に、現実原則はその反対側に位置づけられています。我々が経験のなかでかかっているような人間主体にとって、これ以外には現実原則のいかなる理解も定義も可能ではありません。
というのも、主体はそこで、二次過程の水準に入るからです。現実が問題となっているとき、シニフィアンが人間の現実的なもののなかに、独自の現実として実際に入って来るのを無視することなどできません。ランガージュなるものがあり、世界の中でそれが語ります。そしてそのことによって、シニフィエであるような一連のもの、対象が存在します。これらは、シニフィアンが世界に存在しなかったならば、絶対にシニフィエではなかったことでしょう。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p325)

快感原則無しには、現実原則は生まれなかった。

「お部屋探し」だって、「暑さや寒さ、災害から身を護る快適な住居環境で生命を維持したい」という生物学的で根源的な欲求、その欲求がランガージュで組み立てられた象徴秩序と結びついて、「お部屋探し」という欲望が生まれた。

つまり全ての広告、広告でだけではなく、あらゆる現象には、現実原則(メッセージ)の奥深くに、快感原則が眠っている。

しかしその快感原則を、強く刺激しないと、広告が無視されるケースがある。

それゆえ「お部屋と合コンしませんか?」というキャッチコピーにした。

「お部屋探し」という、メッセージを伝えるだけでは足りない。
人間の快感原則を刺激しなければ、シニフィアンの幻覚が作用しない、「お部屋探し」という現実原則のメッセ―ジを届けることができない可能性がある。

「不動産契約」「金銭の獲得」というシニフィエを生むためには、まず現象の上流、根源に位置する人間の快感原則を刺激するのが肝だ。

実はそれは、おそらく広告代理店の人間は意識的に行っている。それはラカン精神分析を踏襲したというよりは、「性欲を刺激する」という形だろうけど。

今日は1つの広告しか紹介しなかったけど、次回、もっと実例を挙げる。
ほとんどの広告が、快感原則を刺激するようになっているという事実を明らかにする。

(続き:広告という記号による言語幻覚は快感原則を刺激するマーケティング手法を採用している

ステークホルダーでもないのに自民党を支持する心理に潜む権威主義的パーソナリティ

id:koba_ji さんからブロガーバトンが来た!

kobaji.hatenablog.comなるほど、今週のお題「最近あった3つのいいこと」について書くってか。
孤独なソロ生活を送る自分に、この問いは難しい。
koba_jiさんのこの記事みたいなことを書きたい。

kobaji.hatenablog.com対して自分のブログはどうだ。
人が持っている無意識のルサンチマンだとか、職業差別の話だとか、暗い話ばっかり。

しかし小さな幸せを探すことも大事だよな。

頑張って考えてみた。

1.餃子、チャーハン、油淋鶏を同時に食べることができた

2.ピンクリボンの宿を紹介できた

3.権威主義的パーソナリティについて知ることができた

の3つだ。
1つずつ書いていこう。

1.餃子、チャーハン、油淋鶏を同時に食べることができた

これは非常に、些細な喜びだ。
例えば「餃子の王将」とかに行った時、こんなことはないだろうか。

チャーハンと、おかずの唐揚げや油淋鶏は来たけど、餃子が5~10分後ぐらいに来た

という事態。
俺はこれが非常に、店員さんに言ったりはしないが、少しイラっとくる。
だって・・・

三角食べをしたいでしょうが!

ってね。「北の国から」の田中邦衛のように、ガツンと言ってやりたくなる。
餃子の肉汁、油淋鶏の肉汁と、チャーハンを交互に、三角食べしたいのによ。
なんで餃子だけタイムラグ5~10分、生じるんだよ。

もちろん、店によってはそれが発生しないケースもあるけど。
たまに、忙しい時間帯とかに店内に行ってしまうと「餃子の焼き」が追い付かずに、餃子だけ後から出てくる事態に遭遇する。
それは餃子の王将だけでなく、中華料理屋でよくある。

逆に、チャーハンとか坦々焼きそばとか、炭水化物が先に来て、唐揚げとか餃子が5~10分ぐらい後に来るケースもあったりね。

いやおかずも欲しいでしょうが!

ってね。
まあ忙しい時は仕方ないかもだいけど。
自分のこの現象を、三角食べが達成できないという点、客の三角食べしたい欲求を無視しているという点で、

三角食べできないハラスメント

として、広めていきたいと考えている。
三角食べがしたいんだよ。
天津飯とスープだけ先に来ても、ダメなんだよ。
餃子もほぼ同時に食べたいんだよ。

だから三角食べができた日があったので、「最近あったいいこと」にカウントしたね。


2.ピンクリボンの宿を紹介できた

友人の母親が、乳がんになったという話を聞いた。
既に手術は終わり、その後、放射線治療をみっちりやったとのこと。

ただ、放射線治療によって、焼けた所が日焼け後みたいに皮がむけたりするようで。
プールの塩素とか、温泉とか、色々と制限があるようだ。
そんで、何気なく調べたリンクを友人に送ってあげた。

www.akiramenai-gan.compinkoyadnet.tabi-kura.comそしたら「ありがとう」と感謝してくれた。
確かに温泉も、放射線治療跡が気になって入りにくい場合もあるようだけど。
宿泊費は高くなるだろうけど、部屋風呂とか個室の温泉なら抵抗も小さいだろうし。
成分も、赤ちゃんでも入れるような、弱いアルカリ性だと大丈夫な場合もあるようだ。

もちろん、アルカリ性だからといって温泉に入っていいかどうかについては、ちゃんと医者に相談はしないといけないけどね。

感謝されたから「たまには俺いいことしたかな?」なんて思ったりな。

 

3.権威主義的パーソナリティについて知ることができた

安部元首相の例の事件によって、最近、すごい社会の分断を感じる。

gyakutorajiro.comの記事にも書いたけど。自民党支持者の人は、安部批判をしていた人を「アベガー」といって、ここぞとばかりに糾弾する。
安部批判をしていた人は、どういう態度になっているか知らないけど。

自分は、批判それ自体は悪いことだとは思わない。
民主主義なんだから、それは大切なことだろうよ。
出来る限り人の主義・主張・信条は尊重した上で、「しかしそれはおかしいのでは?」という事があれば、相手の人格等を否定しない形式で、その行為等を追求するべきだとは思うし。

でも汚い言葉で、人格否定するような言葉もあったりする。品がない人が多い。

本当は、お釈迦様が言うように「中道」「中庸」のような、平和な社会だったらいいんだけど、なかなか現実は宗教的世界観のようにうまくいかないな。
それゆえに、宗教団体に大金を献金するような事態もあり得るのだろうか。安定した世界を手に入れるために。

まあそれはさておき、支持政党については、人それぞれ、自分に利益をもたらしてくれるステークホルダーは違うだろうから。
自民党を支持するのも、立憲民主党を支持するのも、共産党を支持するのも、自由だし、その自由が担保されていることは民主主義の多様性が守られていることだから、素晴らしいことだとは思うが。

1点、疑問に思ってることがあった。
それは、

なんでこの人、自民党ステークホルダーでもないのに、自民党支持なんだろうか?

という疑問だ。
例えば自分と同じく所得が低い人、派遣社員契約社員やフリーターの中にも、自民党支持者がいる。

銀行や鉄道会社や不動産会社に勤める友人が、自民党支持なのは何となくわかる。
企業など法人を尊重する政策をしてくれる政権の方が、自分の組織も安定するだろう。

逆に俺は派遣社員として、なんか色々と搾取を感じたことが多かったからな。
この記事にも書いたけど。

gyakutorajiro.comピンハネ」「派遣企業の伸張をもたらした」自民党のKや、それに繋がってるTに、少し嫌悪感がある。
ちなみにKとかTという表現は、この記事を読んで参考になったので、使うことにした。

nyaaat.hatenablog.com派遣企業への恨みから、ついこんなこと呟いたこともあったっけw

「メンバーシップ型雇用」ってわかりにくい言い回しだな。「多重下請けで中抜きされて現場で汗流すエンジニアに金が落ちてこない雇用」でいいんだよ。 

別に自民党でも、自民党以外の政党でもいいんだけど、派遣労働者を守るために「給与還元率」で規制を設けてほしいと考えている。
この記事にあるように、給与還元率が8割超えの派遣企業もあるみたいだ。

journal.peakers.jpだからITエンジニア派遣とか、人材派遣とか、人を派遣する際に中抜きしまくる派遣会社は、要らないと思ってる。
本当は派遣という雇用業態自体、好きではないんだけど。
「会社経営して利益も出してる私が賃上げをしない理由」っていう記事で読んで、経営者の気持ちも少し分かった。

anond.hatelabo.jp企業は人件費を固定費(固定資産)ではなく流動費(流動資産)として使いたいっていう話だから、まあ仕方ない部分もある。

だからせめて、派遣会社を利用するのは仕方ないにせよ。
このリベラルエンジニアズっていう派遣会社さんみたいに、働く人、現場で手を動かす人や汗を流す人に、高く還元してほしいんだよな。
3割~6割中抜きするような派遣会社は、本当に要らない。

なんか話が逸れたな。

そう、なんで全く自民党ステークホルダーではない低所得者が、自民党支持なのかについて。

その謎を明らかにするために、最近「おっ」と思ったのが、エーリッヒ・フロムの「権威主義的パーソナリティ」という概念だ。

www.21medical.orgまた、次いで取り上げたのは彼らフランクフルト学派が唱えた「権威主義的パーソナリティ」。人は自由を求めているようでいて実は無自覚的に権威や規制にしばられたいという性質のことである。不適切だったり古くなったりした規制や手順の修正に動けばそこには責任がのしかかってくる。周囲の賛同を得るまでは孤独でもある。一方、規制通りに仕事を進めれば批判されることは無いし責任もとらなくていい。官僚主義、前例主義は気楽で居心地がよいというのである。自由に生きていい筈なのに、権威主義とは自由であることが苦しくそこから逃げ出したくなる大衆心理、それが当時のナチズムを生んだ正体であるというのが彼らの出した答えであり、鳥が鳥かごに戻りたくなるという、「自由からの逃走」行動だ。

1000retire.hatenablog.comhoshinokatachimi.blog.jpameblo.jp強いものに従順で、強いものに同一化したくなる。
テオドール・アドルノの「権威主義的パーソナリティ」っていう本があるみたいだけど、高すぎて手に入れられないな。

webcatplus.nii.ac.jpテオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルント(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund、1903年9月11日 - 1969年8月6日)はドイツの哲学者、社会学者、音楽評論家、作曲家。 マックス・ホルクハイマー、次世代のユルゲン・ハーバーマスらとともにフランクフルト学派を代表する思想家であり、その影響は現在でもなお大きい。 ナチスに協力した一般人の心理的傾向を研究し、権威主義的パーソナリティについて解明した。 権威主義的態度を測定するためのファシズムスケール(Fスケール)の開発者であり、20世紀における社会心理学研究の代表的人物である。

news.yahoo.co.jpphilosophy.hix05.com

日本だと「ヤンキーとかそうでないか?」と思った。

俺がかつて出会った、自民党が全くステークホルダーではないはずなのに、自民党支持者の人も、元ヤンだった。
そしたら、それを分析してそうな本があったな。


斉藤環の本。また時間あった時に読んでみるか。

自分の今、手元にあるスラヴォイ・ジジェクの本にも、権威主義的パーソナリティに言及しているような箇所があった。
ジジェクは、その権威主義的な法を前提とするカントやデカルトを、ラカン精神分析理論を用いながら批判している。

啓蒙の主要モチーフは、もちろん、「自立的に考えよ!」という命令のいくつかのヴァリエーションである。「自分の頭で考えよ」「あらゆる偏見を捨てよ」「その合理的根拠に疑問を投じずには何物も受け入れるな」「つねに批判的距離を保て」等々。

だが、カントはすでに、その有名な文章『啓蒙とは何か』において、不快にして不安な補足をこれに付け加え、啓蒙の企図の中心部に一種の亀裂を生じさせた。「何でも好きなものについて、好きなだけ考えよ。しかし服従せよ!」
これはつまり、啓蒙された聴衆に語りかける、理論的思索の自律した主体として、われわれは自由に考えることができるし、あらゆる権威に疑問を投じることができるが、社会的「機械」の一部として、つまり主体(サブジェクト)としてではなく臣民(サブジェクト)として、われわれは目上の命令に無条件に従わなければならない、ということだ。

この亀裂は、啓蒙の企図そのものに最初から含まれている。それはすでにデカルトの『方法序説』に見られる。いっさいを疑い、世界の存在そのものに疑問を投じるコギトの裏面は、デカルト的な「暫定的道徳」、すなわち哲学的な旅の日常生活を生き抜くためにデカルトが打ち立てた一連の格率である。

まさにその最初の格率は、自分が生まれた国の慣習と法を、その権威に疑問を抱くことなく受け入れ、従うことの必要性を強調している。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」症候からサントムへ)

ドゥルーズも、デカルト的なコギト、それを「概念というものは究極的な基礎ではありえないのだ」って、批判してたな。

gyakutorajiro.comジジェクは、カントの思想の背後に、その前提にしている価値観について述べている。

もちろん、啓蒙主義のいちばんの錯覚は、われわれは社会的慣習という外的な「機械」から単純な距離を保つことができ、それによってわれわれの内的な反省の空間を、慣習の外在性によって汚されないままにしておくことができる、という考え方であるといえよう。

だが、この批判はカントにはあてはまらない。というのもカントは、定言的命法を肯定するにあたって、内的な道徳律それ自体が外傷的で真理も意味もないことだということを考慮に入れている。カントのいう定言的命法とはまさしく、真であることなしに必然的で無条件の権威をもった法に他ならない。

それは――カント自身の言葉によれば――一種の「先験的事実」、あたえられた事実であって、それが真理か否かは理論的に証明することができない。だが、われわれの道徳的行為がなにがしかの意味をもつためには、その無条件の価値を前提としなければならないのだ。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」症候からサントムへ)

カントは「先験的事実」として、法を疑ったりしなかったんだろうか。
法は真理か否かの証明はできないがゆえに、内的な道徳律として、それを前提としなければならないというわけか。

ファシストは、自分たちがイタリアを支配するのだという主張を、どうやって正当化するのか。そのプログラムは?」という質問にたいする、ムッソリーニの有名な答えを思い出してみればいい。「われわれのプログラムはきわめて単純だ。われわれはイタリアを支配したいのだ」。

ファシズムイデオロギーの力は、自由主義的な、あるいは左翼の批判者が、ファシズムの最大の弱点だとみなした、まさにその特徴にあるのだ。その特徴とは、そのアピールがまったく空虚で形式的だということ、服従のための服従、犠牲のための犠牲を要求するということである。

ファシストイデオロギーにとって、重要なのは、手段としての犠牲の価値ではなく、犠牲の形式それ自体である。それは「犠牲の精神」であり、自由主義デカダンスという病に対する治療なのである。

どうしてファシズム精神分析に脅えたのかも明らかだ。われわれは精神分析によって形式的犠牲というこの行為の中にはたらいている猥褻な享楽を突き止めることができるからだ。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」症候からサントムへ)

自由であることの辛さ、それゆえの格差の増大、退廃的な日々を強いられる現実などなど。
その反動で、それを解消してくれる圧倒的強者、ファシストを、救世主として求める。

ヤンキーといえば、自己犠牲の精神だ。
部隊のしんがりを務めることもあるかもしれない。
秩序のため、チームのために、自分を差し出す物語に同一化し、享楽(反復性を備えた欲動)を満たす快楽を得ているかもしれない。

反グレはまた違うだろうな。反グレは倫理感が欠如した利己主義者が多いだろうから、恐らく自らのステークホルダーに成り得る政党を合理的に選んでいるような感じがする。

後は「他者のまなざし」もあるかもしれない。
例えば会社の同僚、自分のパートナーとか家族や友人が、自民党を支持していた場合は。
その他者のまなざし、相手に同一化したい、同調圧力等から、自民党を支持するケースがあるだろう。

政策の中身は重要ではなかったり。
それゆえ、テレビに出たり、SNS等で好感度や親近感を高めるイメージ戦略というのは、マニフェストの中身を洗練させるより効果がある場合も多々あるかもな。

他にも、この漫画のケース。

(引用元:漫画ルポ 中年童貞 [ 桜壱バーゲン ]p86-87)

性的欲望の未達と欠如によって、ナショナリズムヴァーチャル階級闘争のような言論活動に傾倒し、承認欲望を満たそうとする者もだろう。
しかし政治意識が高いということは、権威主義的パーソナリティがもたらす無意識的な行動ではなく、何らかの出来事によって判断して、ネトウヨ活動を行っている可能性もあるな。

むしろ「大都市に住むミドルクラス」のようなサラリーマンの方が、権威主義的パーソナリティによって右翼的活動に傾倒しやすいのかもしれない。

www.j-cast.com強者への同一化、強者が備える象徴の獲得とともに。
日々、仕事でノルマや売上に追われているがゆえに、低所得者ニート等は「税金をあまり納めてないがんばってないやつら」という意識があり、自分と対照的な生活を送っている者達への嫌悪感から、権威主義的パーソナリティを醸成してそうだ。

ネット右翼の逆襲」を読んでみないと、具体的にはわからないかもだけど。

何にせよ、政策の中身とかステークホルダーか否かではなく、無意識的に「強いものへの同一化」「他人のまなざしを気にするがゆえの同一化」を行ってしまう場合、その対象として、自民党はやはり支持を得やすい気がするな。

なんか「最近あったいいこと」の話からずれてる気がするけど「新しい概念を知ることができた」という点で、まあいいことかなと。

 

次に回したい人のidを入力(2人)

さて、バトンを回す人だけど。
今までスターをくれた人から選ぼうと思って、でも専門ブログをやってる人も多いから、あんまり「今週のお題」テーマが向いてないような気がした。
だから自分と同じく雑記ブログの人から選ぼうかな、と思って。

であれば、

id:naruzawan さん

にお願いしようかな。
自分と同じく、たまに闇を感じさせるような記事もあって、なんか勝手に共感したりw

blog.naruzawan.net

 

後は、メンタルケアに詳しい id:k_k_azuki さんとか。

mento-re.com森林浴の効果についての記事、参考になった。

森に行って小鳥のさえずりとかを聴けたら。
それも「いいこと」に成り得るかもしれない。
古川麦「Green Turquoise」のPVに出てくるような、緑豊かな森でのんびりしたい。

www.youtube.com暑いのと虫は嫌だけど。

「最近あった3つのいいこと」というテーマでも、なんかメンタル不調を改善してくれるような、些細な幸せを見つけるのが得意な方ではないかと勝手に推測している。

気が向いたらよろしくお願いします。

落合陽一やホリエモンがアベガーを嫌悪する理由について

先日「はい論破」という言葉に潜むルサンチマンについて、書いた。

gyakutorajiro.com市場競争で勝つことが難しい社会的強者に対して、「言論」「論戦」といった言葉の応酬による階級闘争なようなものを仕掛けて、それに打ち勝って論破して自尊心を得ようとする試み。

まあカッコ悪いような気もするんだけど、そういうの、あるよな。
そういえば、はあちゅうとかイケダハヤトも粘着されてたよな。
二人とも社会的強者だ。
はあちゅうインフルエンサーだし、旦那のしみけんはポルシェのカイエンに乗る一流AV男優だし。
イケダハヤトも情報商材を売ったりサロンの運営等によって相当、金を稼いだ成功者だろう。
そういう強者への嫉妬心があるゆえ、一挙手一投足を批判したくなる。

もちろん、本当に常識的かつ客観的に考えて、おかしな言動がある場合は、その批判は妥当かもしれないけど。

粘着的に行う場合は、私怨が混じっている可能性がある。
しかし私怨や悪口だとは思われないよう、その活動は「批判」「言論」という、無意識的にルサンチマン(奴隷道徳)のベールで覆い、対象を攻撃する活動が展開される。

まるでゲームみたいな、ヴァーチャル階級闘争だね。
そんな記事について、id:amaikahluaさんからブコメがあった。

社会的強者や上級国民にヴァーチャル階級闘争を挑み自尊心の獲得と維持を試みるルサンチマンについて - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

落合陽一さんのTwitterアカウントも、昨日の昼ぐらいまでエライ事になっていたなあ……(呆れ)

2022/07/11 15:13

b.hatena.ne.jp落合陽一?
と思った調べたら、あった。

togetter.comなんか炎上してたのか。
誰かが、落合陽一に論戦を仕掛けたのか?

b.hatena.ne.jp政府で働く人の悪口をみんなで言うと,その悪口を聞いた誰かが,日本を良くしようと思って銃でその人を撃ったりするんだよ.その人が撃たれた後にみんな暴力はいけない断固として許せないって言うんだよ.言葉の使い方は気をつけようね,みんなの悪意の責任はみんなで取ろうね,メディアも個人も.

なるほど、この発言が炎上したようだ。
そういえばホリエモン堀江貴文)も似たようなこと言ってたな。

まあ確かに、一理はあるかもしれない。
山上容疑者が、安部批判をするツイッターのアカウントやツイートを読んで、それに自身を投影し、共感して同一化して、安部晋三元首相への恨みを募らせた可能性はゼロではない。

だけどそれは根本原因ではないだろうよ。
10が11や12に、20が21や22になるという影響はあったかもしれない。

ただ、時系列や影響力の大きさを考えると、0から1になる根本原因。
それは犯人が言うように家族の問題、「母親が宗教団体への献金によって家庭が崩壊した」という事実だ。

山上容疑者は、奈良県の公立高校の進学校、郡山高校に進学していた。
同志社大学の在籍は、大学側は事実ではないとの話だが。

www.excite.co.jp「母が入信し、金を納めて生活が苦しくなった」という、犯人はそれを動機として語っている。

にも関わらず、その供述を無視して「アベガーや安部批判論者が焚きつけた」と捉えられるような、犯人の供述と照らし合わせて主要因とは考えにくい理由で話を進める。
なぜか。

それは落合陽一やホリエモンにとって、アベガーたちは、

金儲けや日々の活動の邪魔だから

恐らくこの理由が大きいだろう。
だから「アベガーや安部批判論者が焚きつけた」という、副次的要因の方を、強調する。
そこには、落合陽一やホリエモン等の、社会的強者の無意識の欲望がある。
精神分析のアプローチで、それに迫る。

まず、社会的強者や自民党支持者の精神構造は、ジャック・ラカンの欲望のグラフ第2図に書き込むと、以下のようになる。

ここでいう「アベガー」「アベノセイダーズ」は、社会的弱者(弱者※)とする。
※差別的な意味ではなくて、アベガー等は大企業や富裕層を優遇する政策を取る自民党を毛嫌いするという点で、金銭面で相対的に「富裕層ではない=所得が多くない」という理由だ。

「アベガー」「アベノセイダーズ」等のシニフィアン(他者)が、上記で述べたようなヴァーチャル階級闘争のように、SNSクソリプを飛ばして非難してくる。

弱者達は、社会的強者である自民党の政治家や、大学教授やお金持ちやインフルエンサー等の社会的強者に、批判の矛先を向けがちだ。
持たざる者が、持っている者たちに、嫉妬・怒り・恨み・辛み等の私怨が混じった「意見」「言論」というルサンチマンをぶつける。
もちろん、社会的強者の行為のみを取り上げて、理性的に糾弾する人もいるだろうけどね。

社会的強者は「うっとうしいなこいつら」と思いながら、日々の生活を強いられる。
資本主義社会においては、強者ではあるものの、「言論の自由」「表現の自由」という民主主義社会において、それら弱者の声を取り締まるわけにもいかないので、弱者たちから日々、ルサンチマンの精神攻撃に苛まれる。

そこで生ずるのが、新たな欲望だ。
それがジャック・ラカンの欲望のグラフ第3図「汝、何を欲するか?」である。

社会的強者は、サロンにも入らないし自分のフォロワーにもならないし課金もしてくれない「アベガー等の弱者はいらない」と欲望する。
「アベガーの粘着、うっとうしいな」と。

それゆえ「汝、何を欲するか?」に対する問いの答えは、必然的に「アベガーのいない世界」となる。

しかしそれの行き着く先は、"$◇a" [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]という、ラカンがいう「幻想」になっている。

縁の過程、循環的過程、この関係は、この小さな菱形によって支えられます。私は自分のグラフの中で、アルゴリズムとしてこの菱形を使っています。なぜなら、あの欲望の弁証法の最終的諸産物をいくつか統合するにあたって、この菱形が必要だったからです。

たとえば、まさに幻想のなかにも、これを組み込まないわけにはゆきません。つまり、幻想は"$◇a" [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]―棒線で消されたS、錐穴、小文字の「a」となります。

また、要求と欲動が結合するあの根源的な結び目にも、これを組み込まないわけにはゆきません。この結び目は"$◇D"[S barré poinçon grand(エス・パレ・ポワンソン・グランデ)]―棒線で消されたS、錐穴、大文字のDと書かれます。これを我々は叫びと呼ぶことができます。

(引用元:ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念(下) (岩波文庫 青N603-2) [ ジャック=アラン・ミレール ]p197)

なぜ幻想か。
それは、a(アベガーのいない世界)は、「望んでも手に入らないから」だ。
言論統制が出来る独裁国家でもないんだから、アベガーを排除することは出来ない。
「アベガーのいない世界」を要求しても、その欲望は達成できず、自我に亀裂が生じる。

社会的強者という主体は、欲望を達成できない斜線を引かれた$となり、◇(疎外)の状況となる。

ではどうするか。
それが、ジャック・ラカンの欲望のグラフの完成図だ。

欲望(アベガーのいない世界)の達成が危機に迫ると、どうするか。
社会的強者は、$◇a(幻想)を作り出す。
その幻想が、

アベガーや安部批判論者が、山上容疑者を凶行に至らせた原因だ!

という主張だ。
それはもちろん、一理はあるかもしれない。

しかし、母親と宗教団体との関連、夫と祖父を失った母親の精神状況、進学が困難になった山上容疑者の心境など、その他の主要因を全て無視しているという点で、「事実」に到達しているとは到底言い難く、「幻想」のレベルだ。


このような幻想を、スラヴォイ・ジジェクは社会的空想(イデオロギー的空想)と呼んだ。

したがって、社会的空想という観念は、敵対性という概念の不可欠な対応物である。空想とはまさしく、敵対的亀裂を遮蔽する方法である。言い換えれば、空想とは、イデオロギーがそれ自身の失敗をあらかじめ計算に入れるための手段である。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 汝何を欲するか)

「アベガーのいない世界」の実現、それを実現に近付けるイデオロギーの流布は、失敗に至る可能性がある。
そのため、その欲望を出来る限り達成に近付けるために、「アベガーと山上容疑者との結びつき」という空想を、生産する。

社会が十全な同一性を獲得できないのはユダヤ人のせいではない。それは、社会それ自身の敵対的性質、それ自身の内在的障害物のせいなのである。社会はこの内的否定性を「ユダヤ人」のイメージに「投影」する。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 汝何を欲するか)

金を持つものと持たざる者、地位や権力を持つものと持たざるもの、資本主義社会はそれ自身が敵対的性質を備えている。
また、この箇所の「ユダヤ人」を「アベガー」に変えても当てはまるだろう。
社会的強者は、自身の欲望の未達の原因を「アベガー」に投影しているという話だ。

だがこのイデオロギー的空想の流布は、id:ta-yajis さんが言うように、恐怖でもある。

安倍晋三さんを死なせたのは誰だ フジテレビ上席解説委員 平井文夫

安倍氏の死を「(自民党政権に対しての)批判なき政治」の実現につなげたいというムーブをしている人たちが多くて怖い。

2022/07/10 03:44

b.hatena.ne.jp幻想を、プロパガンダ(宣伝)によって信じ込ませることもできる。
社会的強者はフォロワーや支持者も多いので、フォロワーによるリツイート、信者による「いいね!」など、強大な支持者の動員と同調圧力の展開によって、真実味を帯びてくる場合もあるだろうよ。

個人的には今まで、落合陽一とかホリエモンは別に嫌いではなかったけど。
今回の件で少し嫌いになったな。
それは、

真実を求める姿勢として不誠実だから

だ。容疑者の動機の主要因を無視して、事実と呼べるには乏しいイデオロギー的空想をツイートするその有様。
その問題の矮小化、アベガーという原因のみを声高に主張する問題の単純化、死んでしまった安倍元首相への冒涜ではないだろうか。

まあ別に「なぜあのような凶行に至ったのか?」なんて、別にどうでもいいんだよな。
俺も人のこと言えないけど、ほとんどの人は、この話題を取り扱ってるほど暇ではないだろうよ。
日々の生活で精一杯な人も多いはず。

だけど、誰かが言ってた「長年に及ぶ苦悩が、安倍元首相への逆恨みに転じた」という理由において、その"長年に及ぶ苦悩"の原因を深く、迫っていくことで。
第2、第3の山上容疑者を防ぐヒントも、得られるような気もするんだけどな。