逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「君たちはどう生きるか」は「君たちはこう生きろ」的なステレオタイプな家父長制への従属と家族主義の押し付けでありマイノリティへの配慮無し

9月の3連休の休日。
いつも通りの朝↓を迎えていた。

最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

この最強伝説黒沢の主人公、44歳独身の黒沢のように。

「何もやることねぇなぁ」と。
今日は仕事はしたくない…でも暇だな…という休日。
そうだ、宮崎駿の最新作、まだ観てなかったな。

www.ghibli.jp

よし、君たちはどう生きるか、観に行くか。

映画館に到着した。

自分の座席を確認。
夏の初めに上映開始された映画だろ、なんでまだこんなに人が?
自分の両隣も人がいた、さすが連休。

で、鑑賞。
感想は・・・

タイトルに偽りあり、何がどう生きるか?やねーん!
生き方の押し付けがひどい

時代遅れのノスタルジーにもううんざり
!!


と、かなりの嫌悪感を催した。
以下、ネタバレあり。
この映画の問題点を以下の順に沿って指摘していきたい。

1.父親への従属
2.母親からの去勢と継母への妥協的な歩み寄り
3.青鷺への羨望からの敵対と和解による自己正当化
4.大叔父の提案の拒絶
5.結論:「君たちはどう生きるか」は「君たちはこう生きろ」という宮崎駿の家父長主義的価値観の押し付け
6.追記:本当に「君たちはどう生きるか」を問うた作品(おおかみこどもの雨と雪、ベニーズ・ビデオ、ドイツ零年)

あらすじと詳しいレビューについては、この方が詳しい。民俗学的な視点もすばらしい。

【徹底考察】ジブリ映画『君たちはどう生きるか』産屋の禁忌・13個の積み木の意味とラストの意味(ネタバレ解説) - ユリイカ

yureeeca.com

自分はあらすじや解釈はさておいて、この映画の気持ち悪い点をひたすら指摘していく。

登場人物一覧はこちらに記載されている。

www.oricon.co.jp

1.父親への従属

主人公・眞人(まひと)の父親である勝一(しょういち)がまず、バリバリ仕事ができる、テストステロンたっぷりの性欲モンスターという感じだ。
奥さんが火事で死んでもすぐに、たぶん数年後だ。
自分の母親の妹、夏子を嫁にする。
昔はそういうの、よくあったのか?
これがまず、嫌悪感を催すポイントでもある。
母親への愛はそんなもんだったのか?
すぐ、次の奥さんに鞍替えか~?
でもfujiponさんのレビューによると、よくあったことらしい。

fujipon.hatenadiary.com

父親の、母親への愛の希薄さ。
を、眞人は感じていたはずだ。
だから受け入れられない。
誰だよ、このおばさん。

という感情が、継母への冷たい態度となって現れているのが序盤だ。
しかし露骨に反抗はしない。
父親に従順だから、父親に支配されているからだ。

2.母親からの去勢と継母・夏子への妥協的な歩み寄り

眞人は、父親との赤ちゃんを宿す継母に、やはり愛情を抱くことはできず。
つわり等で体調が悪い継母の部屋にお見舞いにもなかなか行かず、行っても一言会話を交わした程度で去る。

夏子が森の中へ入っていった時もそう。
本当の母親であれば、すぐに様子を伺いに行っただろう。
実際に、夏子の様子を心配して森に向かったのには、大きなタイムラグが生じている。
その時間の間隔が、夏子への愛情の希薄さを象徴している。

夏子も、姉の子ども、腹違いの子の眞人に、そこまで愛情を抱いていない。
それは映画の後半、塔の中で明らかになる。

だが、その夏子に対して、眞人は歩み寄ることになる。

森の中に入る夏子を追いかけない眞人が、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を読む。

そして、その母から贈られた本の読書がきっかけで眞人は、継母である夏子に積極的に歩み寄るようになるという分析をしていた方もいた。

animeanime.jpそんな自分の行動や態度について薄々感じていた後悔。『君たちはどう生きるか』の母の言葉を通じて、それを死んだ母に言い当てられたような気がして、眞人は泣いたのだ。だからこの本を読んだ後から、眞人は夏子を探すことに積極的になるのだ。

継母への冷たい態度、自分の行動を恥じた…だがここに、大きな偏見、価値観の押し付けがある。
それは、

継母だろうが父親の配偶者を大切にすることを善とする価値観


だ。おかしい。
別に眞人は、夏子に愛情を向けなくてもよかった。
継母を認めないことこそが、父親への反抗であり、本当の母親への愛情の深さを示すことでもあり、自立心でもあり、主体性とも言える。

しかしこの映画の前提に、おそらく継母だろうが戸籍上は母親になるんだから歩み寄るべきだという、家族主義、家制度を美徳とする価値観が根付いているのだろう。

だから本当は、別に継母に冷たい態度を取るのは子どもの自然な感情なのに、それを「君たちはどう生きるか」という説教臭い本を通じて、子どもを教育し、「義理のお母さんにも優しくするべきだ」という価値観を押し付け、眞人に罪悪感を植え付けるように仕向けた。

そう、この本のシーンによって象徴的に、子どもの主体性を剥奪したんだ。

「最近会ったばかりの父の再婚相手(しかも距離感微妙)を救うために冒険しなくない?」という疑問は自分も抱いた。

anond.hatelabo.jp

なのにその違和感を、母親からの本の贈り物によって正当化した。
母親による「しつけ」が行われたんだ。

しつけを行うのは父親だけではない、母親も行うという話は以前もした。

gyakutorajiro.com

ここでラカンが言っているのは、〈超自我〉R.iが機能し、想像的に子どもにしつけを行うのは、父親にも母親にも成り得るという話だ。
最初の表の「現実的父」の部分は、「現実的母」にも成り得る。

精神分析で言うところの"去勢"が、母=吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」によって行われたんだ。

そのため、眞人は塔の中に入ったシーンからは以後、主体性を失った傀儡人形のような振る舞いを見せる。


3.青鷺への羨望からの敵対と和解による自己正当化

眞人は最初は、アオサギに対して敵愾心を抱いていた。
しかし憧れもあったはずだ。
自由気ままに生きているように見えるアオサギ

実際、アオサギは群れを形成せず、単独で行動することが多いらしい。

www.grey-heron.net

アオサギというと、コロニーに大勢集まっている印象が強いので、どうしても群れで暮らしているように思いがちですが、基本的には単独で行動する鳥です。コロニーから餌場へ向かう時も基本的には単独で向かいますし、コロニーがなければ生きられないということはありません。実際、ひとつがいだけでひっそりと子育てしている場合もあります。

かたや、父親に縛られ、行きたくもない学校に行かざるを得ず、愛したくもない新しい継母と暮らさければならない自分に不平不満を抱き、無力感も感じていたはずだ。


そこに出てくるアオサギは、眞人と対極な存在として描かれている。

note.com

しかし今作で、母に会いたい眞人は、アオサギという気持ち悪い鳥に導かれて、地下へと墜落して死の世界に引きずり込まれる。

堕落というか、憧れでもあったのではないだろうか。
アオサギのように、自由に、単独で、空を駆け回る存在になりたいという羨望。

本当の母親を愛する素直な感情に従いたい。
だが、その感情は抑圧された。
母親からの贈り物「君たちはどう生きるか」によって、眞人は既に去勢されたからだ。

家族である継母、夏子への救出に積極的になる。
憧れであったアオサギと戦い、それを否定することで、去勢された自分を自己正当化する。

戦いに勝利し、大叔父の導きによって、アオサギと眞人とキリコ(ばあやの一人)は異世界へと足を運ぶ。

結局、眞人はアオサギにはなれなかったということだ。
憧れの対象を「友達」という、自分と対等な水準の存在に格下げすることで。
眞人は、アオサギになることを諦めた自分を直視することから逃げている。

 

4.大叔父の提案の拒絶

眞人は現実世界の方で既に母親に去勢されているので、異世界での冒険においても、その価値観に従って行動している。

ヒミ(眞人の母親の異世界での姿)が、ワラワラ(地上で人間になる存在、DNAのらせん構造を描いている、生命の象徴)を救出するために、ワラワラの捕食者であるペリカンの大群を焼き尽くすシーンがある。

ワラワラも燃えて慌てる眞人。
人に優しく、吉野源三郎仕込みの、人間至上主義が根付いている。

翼が折れ、死にゆく老いたペリカンに敬意を払い、その死体を埋めてあげる眞人。
死ぬ間際にペリカンは、生きるため、家族の為には仕方ない的なことを言っていた。

実際、ペリカンは家族愛が強い鳥らしい。

kakuyomu.jp ちなみに、青鷺の風切羽のおかげでペリカンに食べられなかったというとは、恐らく青鷺がペリカンの仲間(お友達という意味ではなく、分類上近しい)だからかと思います。ペリカンは自身の血を子供に分け与えるくらい家族愛が強い鳥のようなので、仲間である青鷺の風切羽に守られた眞人を、たとえ飢えていたとしても食べることができなかったのではないかと感じました。

ペリカンに共感したのは、眞人が既に母親に去勢されていることの証左だ。
家族を大事にするペリカンの姿に胸を打たれ、埋葬してあげた。

そして塔の中で、眞人は大叔父から提案を受ける。
が、「それは木じゃない。石だ。墓と同じ悪意の石だ」と、大叔父の仕事を、悪意のある行いとする。

「この傷は、僕の悪意の印です。僕は、その石には触れません。夏子お母さんと自分の世界に戻ります」と語り、自らの意志に基づいた過去の行動を否認し、世界をコントロールする大叔父の仕事を引き継ぐことを拒絶し、結局は現実の家族を優先することを選択する。
いや、選択すらしてないか。
インコ大王によって結果的に異世界は崩壊したんだから。

これらペリカンの埋葬や、大叔父とのやり取り以外にも、紹介すべきシーンはあるだろが。
眞人の行動は、家制度を重要視する価値観によって選択されていることは明らかだ。
決して「君たちはどう生きるか」という主体性はない。

大叔父に従わなかったのは、眞人が「母親によって既に去勢されているから」だろう。
塔をコントロールする力を手に入れれば、母親であるヒミ(ヒサコ)を、死なないようにするため、別の世界への扉へ導くこともできたかもしれない。

だが継母である夏子との生活を選んだ。
自分の自然な感情、本当の母親への愛情より、新しい継母との生活を優先した。

ameblo.jp

眞人は聡明な少年なので、夏子を異世界に追放したのが自分であることに潜在的に気づいています。だからその責任を取るために、夏子を探さねければならないと思っている。

母親によって、塔に入る前に「君たちはどう生きるか」の本を通じて、家族を大事にしろという価値観が植え付けられたがゆえに、大叔父の仕事を引き継ぐことを放棄した。

映画のクライマックスでも、眞人や夏子を救出しようと息巻く、父親である勝一が美化され、その父性のようなものが描かれ。

hiko1985.hatenablog.comしかし、彼は妻と息子が行方不明になった時、果敢に怪物に向かい打ち、さらにその胸元には彼らのためのチョコレートを忍ばせている(実にさりげない描かれるこのシーンは感動的だ)。

夏子の子が生まれ、新しい家族として皆で生きていくシーンによって映画は終わる。

結局、眞人は主体的に選択したわけではなく、父親の威厳と母親の去勢によって、流され、半ば消極的な選択によって、自分の主体的な感情よりも新しい家族に利するような選択を行っていった。

インコ大王のシーンもそうだ。

note.com

もう一つ宮崎のエゴが爆発してるのは「塔の上で孤立する天才の大叔父(宮崎駿)」と、「右腕ながら組織のため(大人の事情のため)なら対立を恐れず上申も辞さないインコ大王(鈴木敏夫)」と、大叔父を恐れインコ大王になびく、支配者(宮崎駿)に意見する勇気もない凡百のインコ(スタッフ)たちという構図。

この分析にもあるように、中央集権的な支配体制として塔が管理されること、それを管理しようとするインコ大王の欲望は達成に至ることなく、塔は崩壊する。

だが、その塔を崩壊させてまで伝えようとしたことは、現実世界の家族至上主義。

アオサギも、インコ大王も、否定的に描かれ、アオサギにもインコ大王にもならない眞人を善とするような描き方。

それが、この映画の最大の問題点、気持ち悪い部分だ。

5.結論:「君たちはどう生きるか」は「君たちはこう生きろ」という宮崎駿の家父長主義的価値観の押し付け

結局、この映画は主体性を尊重しているようで、実は主体性を踏みにじっている点が、気持ち悪いんだ。

だが、眞人が家族中心主義から抜け出し、新たな塔を造る余地は残してはいる。
自分は気付かなかったが、killminstionsさんの記事によれば、石を一つ持ち帰ったシーンがあったそうだ。

killminstions.hatenablog.com

これは、新しい家族を捨てる選択肢もあり得るという可能性の示唆にも思える。

その点で完全には主体性を剥奪していないかもしれない。

だが最終的に、現実世界に戻り、継母と新しい子どもが映り込むシーンをラストとするのは、やはり家父長主義的な宮崎駿の思想や自己愛が、作品にも影響を及ぼしていると思わざる得ない。

息子の絵コンテを非難したり、女房と争ったりと。

fc0373.hatenablog.com自己中心的で自己愛が強い印象…しかし、作品は世界的な評価も得ているし、仕事は出来る。
まるで、眞人の父親、勝一のようでもある。

そう、結局はラストシーンで、勝一が望むような世界を美化してるんだ。
継母だろうが家族を大事にしよう、という価値観。
それに取り込まれ、従属する眞人。

大叔父が宮崎駿だという説によって隠蔽されているが。

note.com 下の世界、塔の向こうの世界にいる大叔父が、眞人に積み木を託して継いでほしいと頼む場面がある。その崩れそうな世界に、スタジオジブリが重なって見えた。

勝一こそが、宮崎駿の欲望が投影された存在だと思うけどな。

本当の母親であるヒサコ(ヒミ)による、吉野源三郎君たちはどう生きるか」の贈り物を、美化し、新しい母親である夏子を受容させる手口は「家族への貢献のためなら、女性は犠牲になってもいい」という家父長主義的な考えそのものだ。

www.aynrand2001japan.com

日本の民話は,このような一種の「守るお姫さま」に事欠かない。「安寿と厨子王」の姉は弟を救うために入水し白鳥となって母や弟を見守る。「雪女」は,貧しい平凡なきこりの家に嫁に行さ,姑に孝養をつくし良き子も多く産んで家事万端怠りなく老けることもない。「夕鶴」の鶴の精は,愚かな夫のことばに「よひょう,あんたのことばがわからない」と悲痛な声をあげても,夫を喜ばせるために自らの羽を抜いて布を織る。日本の民話や伝説は,このような健気な女たちでいっぱいである。まるで,日本の女は,守ってもらうには,あまりに男の頼りなさや弱さが目につき理解できるので,つい守ってあげてしまうという風情である。

つまりこの作品も結局は、「ムーラン」等と同じく、家父長制への奉仕で終始してるんだ。

www.aynrand2001japan.com

実は,フェミニズムに影響されたヒロインが活躍する1980年代以降のディズニー・アニメでさえ,男性中心主義はまぬがれていない。『人魚姫』のヒロインもその活力は結局王子を獲得することに費やされるのだし,『美女と野獣』のヒロインの聡明さと愛情は,野獣の姿から王子を解放するために重要となる。『ポカホンタス』のヒロインの努力も,スミスという白人男性開拓者の名誉に帰する。究極の英雄である女戦士ムーランさえ,戦士になったのは自分を見つけたかったからと言いながら,その機能は,父と未来の夫たる軍団長の青年と皇帝を守るわけで,結局は家父長制への奉仕なのだ。もともと,中国の女戦士の史実も,彼女たちが夫や父や兄弟の代理として戦ったからこそ是認され歴史にとどめられたのであって,彼女たち自身の業績や力量そのものを賞賛されてのことではない。

父親を大事にしろ、家を大事にしろ、家族の安定を維持することこそが美徳であり、子どもの主体性は二の次となる。

だからこそ、この映画のタイトル「君たちはどう生きるか」は、偽りだということ。
父親や家族を中心として「君たちはこう生きろ」という価値観の押し付けで終わっているということ。
その偏った価値観の押し付けに着地した点が、残念で、面白くないと感じた大きな理由でもある。

5.追記:本当に「君たちはどう生きるか」を描いた作品(おおかみこどもの雨と雪、ベニーズ・ビデオ、ドイツ零年)

家族仲が悪い家庭や、子どもの人権を踏みにじられている家庭の子どもが。
君たちはどう生きるか」を観ても、あまり感動はしないだろう。

anond.hatelabo.jp

逆に、自分の尊厳が毀損されているにも関わらず、家族至上主義を強化し、さらに主体性を失う可能性がある。
結局は「家族が大事」「父親が大事」というクライマックスなんだからな。

上級国民映画だという指摘はごもっともだ。

anond.hatelabo.jp

家族を作り、子を産み育てるこそが至高。
アオサギのようにふらふら生きる生活は美化されていない。

結局は、スタジオジブリ作品も、商業映画だっつーことだ。
ありきたりな結末、家族を大事に、家族愛の礼賛。
そんな中身で、この多様性の時代、古き良き家制度に従った家族を構築できない独身の人間や、LGBTQといった性的マイノリティは、どう思うのよ?
結局、俺たちは正解じゃないってことか?俺たちの実存を肯定的に描くことはできないってか?ああん?

最大公約数的に納得できる結末、商業的成功を収めるという点でも、古き良き家族中心主義、家族愛の礼賛は、都合のいいラストなんだろうな。

だがそんな映画ばかりじゃ、つまらないからな。
逆に子どもの主体性が描かれている映画は?


と。そういう映画もあるんだよ。
3本ぐらい紹介しとくか。

おおかみこどもの雨と雪

ジブリを追われた男、細田守の作品。

www.excite.co.jp

君たちはどう生きるか」のような、家族至上主義に着地する結末とは違って、二人の子どもの主体性を描いた作品だ。すばらしい。

だが結局、興行収入や商業的価値観に影響されたのだろうか、後年の「未来のミライ」は、資本主義のイデオロギーに取り込まれていたな。

www.yuzufhana.work

家族愛を礼賛する陳腐な結末となっている。


ベニーズ・ビデオ

ミヒャエル・ハネケ監督の作品。
ものすごく後味が悪い映画だ。
子どもの主体性ともいえるかもだが、ある種その負の側面、子どもの残虐性、おぞましさがひしひしつ伝わってくる名作だ。

あらすじとレビューはこのリンク先が詳しいね。

zilgz.blogspot.com 「もちろん、最初から相手を傷つけようという悪意のある場合もある。だが、普通はもっと複雑で、偶発的なものだと思う。“有罪性”というものは、人が罪を犯す行為は漠然としている。明確なものではない」(ハネケ監督の言葉)

子どもの不安定な感情、規律や道徳が内面化されていないがゆえに犯す過ち、両親でさえもコントロールできない恐怖、クライマックスもすごかった。

Amazonでプレミア化して簡単には観ることができない。
だがこの映画こそ、子どもの残虐な主体性と繊細な意識、「君たちはどう生きるか」を描いた作品とも言える。

ドイツ零年

この映画はスラヴォイ・ジジェクがレビューしている。

『ドイツ零年』の主人公エドムントは十歳の少年んで、一九四五年の夏、占領下のベルリンに、姉と病気の父といっしょに住んでいる。彼はちょっとした犯罪や闇物資の密売で家族を養っている。彼はしだいに、ナチの教師で同性愛者のヘニングの影響に染まっていく。ヘニングはエドムントに、人生は生存競争であり、弱者は重荷にすぎないから情け容赦なく処分すべきだ、という思想をさかんに吹き込む。エドムントはそのヘニングの教えを父に適用しようと考える。父は、「どうせもう二度と快復しないんだから、早く死にたい」と四六時中嘆いているばかりで、一家にとっては重荷でしかなかった。エドムントは父の願いを聞き入れ、ミルクの入ったコップに致死量の薬を入れる。

父が死んだ後、彼は荒廃したベルリンの町を当てもなくうろつき回る。子どもたちは彼を仲間に入れてくれない。まるで彼の恐ろしい行為を見抜いたかのように。そこで彼はしばらくの間、不器用にひとりで石けりをするが、どうしても遊びに身が入らない。子ども時代が終わり、人間社会からも切り離されてしまったのだ。姉が彼を呼ぶが、彼はもはや姉の慰めを受け入れることができない。そこで彼は姉から隠れ、崩れ掛かった人気のない建物の三階にのぼり、目をつぶって窓から飛び降りる。

(引用元:汝の症候を楽しめ—ハリウッドvsラカン / ジジェク スラヴォイ 鈴木晶 / 筑摩書房p59-60)

これは、子どもが罪悪感の重みに耐えられず自殺した、という単純な話ではないらしい。

『ドイツ零年』の二年後、ロッセリーニは聖フランチェスコを題材にした『神の道化師、フランチェスコ』を撮る。ロッセリーニはその中で、あらゆる世俗的な制度の柵から逃れ、まさに「すべてを失った」からこそ「すべてをもっている」という幸福な無垢の状態へと帰った聖フランチェスコと、普通の人間から追放され孤立したエドムントとを繋げた。

エドムントの根源的な「空虚性」は、彼の控え目な行動そのものによって示されている。たとえば、毒の入ったミルクのコップを父に渡す場面で、エドムントは父を、無表情な、疲れた、生気ない視線で見つめている。そこには恐怖も同情も後悔も、それ以外の感情もいっさい見あたらない。そのために、エドムントへのいかなる「同一化」も裏切られる。われわれ観客はエドムントといっしょに身震いしたり、彼の緊張や後悔や自分の行為に対する恐怖心を感じとることができない。「エドムントは、もっと月並みな映画だったなら、観客の同一化の焦点になることだろう。ところがここではむしろ、いわば零集合みたいな、さまざまな効果の焦点のようなものになっている」。

零集合とは、シニフィアンの主体、すなわち、想像的・象徴的同一化に根ざしていない空虚な場所という意味での主体に対し、ラカンが与えた名前である。エドムントは純粋な「悪魔的な」悪ではあるが、忘れてならないのは、まさにそれゆえエドムントは、あらゆる「病的な」動機から生まれる意志の純粋な精神性を体現しているということである。

(引用元:汝の症候を楽しめ—ハリウッドvsラカン / ジジェク スラヴォイ 鈴木晶 / 筑摩書房p60-61)

つまりエドムントには、父親や母親からの象徴的去勢も、規律や道徳やイデオロギーも内面化さえも行われていない純粋性がある。

まさにありとあらゆる支配から逃れ、「君たちはこう生きろ」というレールに沿っては生きてくれない、「君たちはどう生きるか」と目が離せない、主体性を備えた子どもであると言える。

以上、紹介した3作品のようにだ。
もっと複雑で、感情豊かで、残酷でもある子どもの豊かな世界を描いてほしいと思うね。

スタジオジブリ日本テレビの傘下に入り、また今回のようなありふれた家族愛映画ばかりが再生産されないか心配だ。

www.tokyo-np.co.jp

ぜひ、後進のスタジオジブリの方々や、ジブリから独立したスタジオポノックの人達に望む。


君たちはどう生きるか」の眞人のように、大人の理想が投影され、去勢された子どもは、描かないでほしいね。

AFURIが炎上した理由は貧乏人に寄り添っていないから

最近の話題のニュースといえば!
ジャニーズもあるだろうけど、その前にあったのはAFURIが吉川酒造を商標権侵害で提訴した話題だよな。

b.hatena.ne.jp

まあ俺は多くの人同様、吉川醸造の方に共感した。
地名や山の名前、歴史や文化に根ざした名前、その歴史的ブランドを独占しようとするなんて傲岸不遜!
ラーメン屋のAFURIは、ラーメンに集中せい!
ってね。

いっぱい、商標登録してるけどよ。

patent-i.com

特に登録6609897ってのがな。

patent-i.com

何だこの、山みたいなロゴは!?
阿夫利山を自分の山みたいな、みんなの山やろ~!?
品性がないと俺は思ったね。
歴史的自然遺産、既存のブランドに乗っかるってのはよ。

0から1、だったら文句はなかった。
任天堂とか備長ひつまぶしとか。

いや、備長ひつまぶしはちょっと品性がないか、"備長炭"という一般名詞を独占しようとする私利私欲を少し感じる。
でもまあギリ、セーフだ。

丸亀製麺はアウトだ。
俺の基準では品性が無い企業と認識している。
ロサンゼルスの個人店にクレーム入れたり、米国でMARUKAMEで商標取ったりね。

www.ipkato.com 米国の商標法でも、地名自体には商標登録を認めていません。しかし、東京や京都ならいざ知らず、丸亀市は、世界的に有名な都市ではありませんので、米国特許庁のこの判断は妥当だと思います。

AFURIは、公共物であるはずの自然、阿夫利山という巨人のブランドに乗っかってるにも関わらず、謙虚さを失い、その地名を独占してビジネスに利用しようとたのはまずかった。

一人の一般人として、ラーメン好きのラーメンおたくとして、AFURIには一過言申しておきたい気分にもなったね。

と、思ったけれど。
本当にAFURIは叩かれるようなことをしたのだろうか?
後から出た情報によると。

www.hageatama.org

あと、『雨降(AFURI)』は「最初から海外向けを意識した売り方」であり、「銘柄ではなくブランドそのものとして売ろうとしている」、「AFURIのアルファベット表記もセット」なのも、競合メーカーとしてのラーメン屋側は無視できなかった部分と思います。

特許庁の判断では認定されているため…保証されるべき…正当な権利であると。

president.jpAFURI社は法律に則って、自社ブランドの関連商標を取得し、その権利を行使したに過ぎない。だが、SNSAFURI社への批判であふれている。つまり、AFURI社は知財戦で優位に立ったが、広報戦で完敗しているのだ。

AFURIはビジネスとして正当な手続きを踏んでいた。
だが…仮にそうだとしても!
AFURIを糾弾したくなってしまう…なぜか?

俺は考えた。
ラーメンおたくとして、AFURIに行ってみないとだ。
そこで何となく思ったのは、最初から嫌われていたのではないか?と。

なぜ「AFURI」は炎上したのか 商標権めぐる主張で重ねた「悪手」

元々嫌われてた説を提唱したい。モテないラーメンおたくは自分とは違い女性に愛されるAFURIに無意識に嫉妬心を抱いていた。その嫉妬心を正義に変えれる口実ができた。元々嫌いだから権利行使の正当性は関係なかったり

2023/08/29 13:17

b.hatena.ne.jp

そしてわかった。
この一件には「ルサンチマン」が関わっているということを。

なぜAFURIを叩きたくなるのか、AFURIが叩かれる理由と、叩く人間のルサンチマンの正体を、えぐり出してみよう。


1.飲食店ビジネスとして成功している

AFURIの歴史、ラーメン1号店「ZUND-BAR」で、その次は恵比寿だ。

afuri.com全国規模ではないにせよ、多店舗を展開する飲食チェーンとも言える。
いわば外食産業における成功者だ。

だからこそ、今回のように叩いたら埃が出てきそうな事案が発生すれば、人生がうまくいっていないルーザーズ、ビジネス的に成功していない人間(低所得者)は、ここぞとばかりに成功者を糾弾する!


ビジネスや金儲け、資本主義の現実社会で勝つことができない。

だからルーザーズ(貧乏人)は、品性だのモラルだの、自分が勝てる可能性のある領域を展開する。
下部構造(経済)ではなく、上部構造(品性、モラル)などのフィールドに、ここぞとばかりに下部構造の成功者を叩くチャンスをうかがってる。

佐野研二郎のエンブレム騒動にもあったように。

matomedane.jp

成功した起業家や一流デザイナー等、高給取りの人間を叩いて憂さ晴らしをする貧乏人達。
自分が勝てる可能性がある、上部構造のフィールド(地名を商標に利用するのはどうなの?)に持ち込み、成功者を叩いてやろうというルサンチマンを駆動させる。

 

2.商品の値段が高い(特にトッピングの炙りチャーシュー)

ちょっと待てと。飲食店ビジネスとして成功してるのは別に、AFURIだけじゃない。
吉野家だとかコメダ珈琲だって成功している。
なんでAFURIばかり叩かれる?

それは・・・値段が、高いからよ!
AFURIのラーメンの料金だ。

普通のラーメン1杯で1200円オーバー。
さらにトッピングも、細かく値段設定されている。

最近、食べに行った時の話をしよう。

俺は、柚子塩ラーメン+炙りコロチャーシュー飯(税込1890円)。

高いけど味は結構、美味しいんだよ。

柚子の酸味がきつい日があったけど。
酸味が抑えられて「スープうまい!」と感じた日もある。
「新鮮な鶏ガラや豚肉、昆布や煮干し。鰹節や香味野菜など、厳選された食材の数々。」を使ってるらしい。

afuri.com

醤油ラーメンとか味噌ラーメンだと、大味になってしまって動物系素材や魚介の風味が消し飛ぶ店も多いからな。
けどAFURIの塩ラーメンは、塩味はきつすぎす、ダシの旨味を感じられる。
ゆずの酸味のおかげだろうか、食材を多くし過ぎて逆に味のキレがなくなりぼやけた味になる事態も起きていない。

俺が重要視する「麺とスープの絡み具合」も悪くない。
加水率もそこまで高くして無いのだろう、スープの味を麺が吸収しているのがわかるし。
細麺の毛細管現象(麺と麺の隙間をなくしスープの汁気が麺の上に滞留すること)により、スープとの絡みの向上もうまくいってる。

味は美味しいが・・・納得し難いのはやはり、値段の高さだ。

このトッピングのチャーシュー、いくらするか知ってるか?

なんと…350円!

なんじゃこりゃァ~!?チャーシュー1枚か~い!!

と、ツッコミ入れたくなったよ。
せめて3枚…いや、2枚でもいい。

youtu.beにまい、にば~い!って言われちまうぞ、高見山が来店したらよ。

めちゃくちゃ小さくはないが、厚切りとも言い難い。

タモリが愛した「満来」のチャーシューらぁめん(1800円)を見習えっつーの!

まあ満来も1000円オーバーで安くないけど。
でも大きくて美味しいチャーシュー付けてくれて、お腹いっぱいになれる。
AFURIで満来と同じチャーシューのグラム数にしようとしたら、何枚トッピングだ?
1杯3000円超えのラーメンができちまうぜ(笑)

ラーメン二郎等と異なり、ボリューム的にも弱く、腹持ちも普通だ。

350円って、あと50円出せば、松屋牛めし(400円)食えるからな。

びっくりするよ。
ラーメンのトッピング1つや2つで、牛丼食えるんだから。
味玉だって1個210円、高いやろ!?
2個で牛丼の値段、超えるがな!

そして極めつけはこれよ。

炙りコロチャーシュー飯…その値段、なんと!

税込730円だぁ!?

いや炙りチャーシューも、炙りコロチャーシュー飯も、炭火で焼く手間もかかってるし。
美味しいといえば、美味しいんだけれども。

いやでも高いだろ…なんで大根おろし、入れてるんや?
かさ増ししてんじゃねーよ!
大根なんていらねぇ、全部チャーシューで埋め尽くせ!
それで730円ならわかる、わかる…

否!


わからない…どんぶりとしては、大きいどんぶりでもない、茶碗サイズだからな。
松屋とか吉野家の並の牛丼よりも小さい茶碗。
それで730円…大根おろし、入れてるスペースには、チャーシューが無い!

柚子の皮も入れてる。

そういう一手間があるから、仕方ないってか?

俺はそうは思わない。
大根おろしも柚子の皮もいらない。
炙りチャーシューがもっと欲しい。

730円って、どれたけ高いか、認識してるのか?
松屋で、牛めし(400円)と、豚汁(250円)と、半熟卵(80円)つけた金額と同じよ!

松屋で腹を満たせる1食が、AFURIの腹を満たせないサイドメニューとイコールだぜ。

つまりAFURIは、気軽に行けるラーメン屋じゃないんだよ。
貧乏人は行くのに躊躇する価格帯だ。


3.恵比寿、中目黒、新宿など、庶民的ではないオシャレな街や地価の高い場所ばかりに出店している

AFURIの店舗一覧を見てみよう。

afuri.com

なんで、なんで三郷や三河島じゃねえんだよ!?
座間とか橋本に来ねえんだよ?
クパチーノってどこだよ?
小洒落た町、地価の高い街ばっかりに出店してよ。


俺が行った店舗もそう。
エリートサラリーマン達が、ランチで多く利用してた。
平日のランチ時に行けば「この客の中で、年収が一番低いのは俺じゃないのか?300万ないしな…ははは」と、劣等感を喚起する疎外空間。

身なりのいいスーツを着たビジネスマン、オフィスレディ達。
かたや、洗濯を繰り返して色褪せ、襟元がゆるくなったTシャツとGパンと汚い靴でラーメンをすする俺。
悲しくなってくる…なんで、あんたらはなぜ、俺らの町に来てくれない?

俺の住む町で、ラーメンを作ってくれないんだ?
一等地ばかりに出店する?
俺の町に来て、1杯1000円以下でお腹いっぱになれる、ラーメンを出してくれよ!?

斎藤工みたいによ、俳優もできて、芸人っぽいこと(サンシャイン斎藤)もできる二面性がカッコいいと思わねえのか?
地価が高いオシャレな街ばかり出すのもいいけどよ。
庶民が暮らす街にも出店する…その二面性が、カッコいいと思わねえのかよ?

ブランディングなのか知らねえが、庶民は相手にしないってか?
貧乏人は客層が悪いから嫌だっつーのか?
貧乏人が大勢いる町には出店しなくないってのか!?

庶民の町、俺の町に出してみろっつーんだ!!

4.女性人気が高い

AFURIに行ったことがある人ならわかるが。
小綺麗な空間、ラーメン屋独特の豚骨等の臭いがない。

おそらくセントラルキッチン方式を採用しているんだろう。

en-gage.net

スープは工場で作っているのかな?
俺が行った店舗では、むき出しの骨などの食材が見えたりはしなかった。
炭火でチャーシューを焼いてるのは見たけどね。
寸胴もキレイだった。

臭みが移らないからだろうか、女性客も多い。
紙エプロンも言えばくれただろう。
女性が愛されるサービスや空間づくりが意識されている。

貧乏で女性にモテない男たちは、AFURIに嫉妬する。
「は!女性に媚びてるサービスばかりしてからに。それよりラーメン二郎みたいに安くして、量も増やせや!!」みたいにね。

女性人気が高いということは、女性に愛される存在であるということ。
すなわち、女性に愛されない弱者男性等は、無意識的にAFURIに嫉妬心を抱くこともあるだろう。

「AFURI」騒動を見ると法的な正しさだけでなく振る舞いや言動が「誠実に見えるかどうか」がSNSでは重要だとわかる、という話

AFURIは恵比寿や中目黒など、洒落た街ばかりにある。三河島にはない。小綺麗で女性客も多い。すなわち、女性に受け入れられないミソジニーや弱者男性はAFURIの存在そのものに無意識に嫉妬し、叩いてる部分もあるような

2023/08/27 13:52

b.hatena.ne.jp

自分の不遇な人生、性的パートナーを得られないストレスを解消するために、女性に愛される存在を糾弾するルサンチマンを、意識的にも無意識的にも実践する。

その対象は、特定の一個人の場合もあるが。
ジャニーズや芸能人などのルックスや所得に恵まれた存在や、飲食店として一定の成功を収めているAFURIや、無差別的な対象(京王線小田急線の事件等)にも及ぶ。

韓流文化を叩くネトウヨ等もそう。

女性に愛される韓流アイドル、韓国旅行、韓国の食文化を叩いて値打ちを下げようとすることで、日本人女性に愛されない性的不遇者は自分のストレスを解消しようとする。

(引用元:漫画ルポ 中年童貞 [ 桜壱バーゲン ]p86-87)

だから女性ファンが多いお店は、嫉妬心や劣等感を抱えてルサンチマンを実践する可能性に満ちた弱者男性や貧乏人に糾弾されるリスクが常に付きまとう。


結論.AFURIは貧乏人に普段から寄り添っていないので、SNSで暇を持て余している貧乏人達は擁護もせず逆に糾弾した

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なぜ人は花火に魅了されるのか?サイダーや酒やビールを飲むのか?についての精神分析

毎日毎日、暑くて嫌になってくる。
早く夏が終わってほしいよな、こん畜生!
8月下旬でちょっとはマシになったか…いや、でもまだまだだ。


熱中症アラートが北海道で初めて出たとか。

www.fnn.jp

猛暑で生クリームが固まらなくて、秋田県でさえ主力商品のケーキが作れないとか。

b.hatena.ne.jp

猛暑でタイヤがパンクするとか。

本当、浦安鉄筋家族2巻みたいなことも、あながち嘘じゃなくなってきてるかもね。

(引用元:浦安鉄筋家族(2)[ 浜岡賢次 ]p130)

サンダルが溶けて、アスファルトにへばりつくぐらいの炎天下。
500mぐらい歩いただけで、すぐ汗が噴出する。
1kmは日中は歩けない、危険だ。
夜も暑い、ムシムシする。外に出たくない。

そんな中でも、なぜだ?


隅田川花火大会、そんなに行きたいか?

b.hatena.ne.jp

クソ暑い中、人込みをかき分けて、ムシムシした土手で、打ちあがる花火を見て何がいいのー!?

まあでもな、いいよな、ほんと。
偶然、隅田川花火大会とは全く関係ない用事で7月29日の土曜、つくばエクスプレスの浅草駅にいた俺は、浴衣と甚平を身にまとった大勢の若者達に羨望のまなざしよ。

「きれいだねー花火!」

「そうだね…」
「あのさ」
「えっ、何、寅ちゃんから言ってよ」
「いや、○○ちゃんから言ってよ」
「あのね、私…寅ちゃんのことが…ひゅ~ドーン!(花火の音で"好き"がかき消される)」

みたいなシチューエーション、お前らこれから味わうのか?
PSY・Sのフレンズ・オア・ラヴァーズ的な感じ?

www.youtube.com

今同じこと♪言おうとしてふたりは♪目と目そらした~の~♪

みたいな。
いいな、俺も混ぜてほしいね、その幸せに。

www.youtube.com

あなたの幸せ 私もまぜてほしいの♪

ってね。ちょっと古いか、名曲だけどよ。
そんでじゃあ濡れていこっか的シチュエーションに発展するんだよな、ああ羨ましい。

anond.hatelabo.jp

って、そんなことあるかぁ?
それよりも、人混みの不快指数の方が高いだろうが、そんなロマンスが起こる確率よりもよ。
そもそも隅田川花火大会を選ぶチョイスがバッドよ。
沢田研二に言わせれば、恋のバッドチューニングだぜ。

www.youtube.com

そんで最近、東京礼賛、東京は素晴らしい、上京してよかった、みたいな記事を見かけたけどよ。

「今更」という呪いを捨てて、35歳で上京した話。|Miyu

n=1にすぎない成功体験だね。東京は快楽充足の機会が豊富ゆえ、子孫繁栄など生物として行うべき事柄が後回しされる仕掛けだらけだ。代償行為に金を払い、一時的快楽に満足し、弱者男性や弱者女性が大量発生する街だよ

2023/08/23 13:49

b.hatena.ne.jp

俺は上京して15年以上だが全然、そうは思えないな。
隅田川花火大会で人でごった返す浅草でも思ったが、なんでこんなとこに住んでんだ。
嫌いな野郎が大勢住んでる地元に戻るよりはマシだからってのもあるが。


東京にいれば、都会にいれば、何か頑張ってる風体を装える感はあるよな。
いわばるろうに剣心14巻における、魚沼宇水だってことだ。
上京してパッとしない暮らしをしてるのに地元に帰ろうとしない、俺のような弱者男性や、弱者女性ってのはよ。

斎藤一がその内面をえぐったようにだな。

「心眼」を得て自分はより強くなったと思った
だが再開した志々雄は死線をくぐり抜けそれ以上に強くなっていた

闘ったところで敗北は必至
そしてお前のそれまでの人生全ては無駄に帰す

そこでお前は
志々雄の誘いをスキあらばいついかなる時でも殺していいという条件付きで受け入れることにした

そうやって常に狙うフリをしていれば
少なくとも周囲の人間には自分の敗北を悟られずにすむ…

(引用元:るろうに剣心ー明治剣客浪漫譚ー 14巻 [ 和月伸宏 ]p42)

「志々雄誠の命を狙っている」ということで、自分はすごいぞ、と取り繕ってるだけ。だけど実は勝負を放棄してる根性なし、ああ情けない。

この宇水と同様に、「東京でがんばってる」という大義名分に寄りすがり、大したこともせず、日銭を稼いでは即自的快楽で消費、日銭を稼いでは即自的快楽、日銭を稼いでは…そのループ&ループを繰り返してるだけの、そこのあんた!

ダッ・・・さい!んだ!よ!!

何も立派じゃねえからな。
東京に住んでるごときで、花火大会行ったぐらいでイキってんじゃねえよ、人生充実してまっせアピールしてんじゃねえぞオイ!!

東京にはうじゃうじゃいる。宇水みたいな中途半端な輩が。
志々雄誠になれない、志々雄誠を打倒しようと勝負もしない、腰抜けどもがウジャウジャと街を練り歩いている。
実力はないくせにプライドだけはいっちょ前で、地元に帰ろうとせず、都会でまだ何か自己実現できるんじゃないかっていう無根拠な期待と、けど何も起きない、起こせない絶望感の混濁状態の中で、無為な日々を過ごしてる。

そして何も築けずに、孤独に朽ち果てていく…。

jp.quora.com

まともに恋愛経験なくて彼氏いなくてできる兆しもなくて結婚もできそうになくて生涯孤独ルートに片足突っ込んでる人の自己肯定感の保ち方教えてほしい

b.hatena.ne.jp

まあ、俺もその1人だから、あんま言えないが。

群衆に紛れることで、希薄化しているんだ。自分という存在を。
地方に行くと、人口密度だけでなく、精神的人口密度のようなものも低いからな、意外と自分が客観的評価にさらされちまうんだ。
「あそこの長男、働いてないんですって」「あそこの娘さん、まだ結婚もしてないんですって」等、地元は人口が少なく、やることも無く、生活の原始的度合いが都会よりも強い分、結婚や子どもの有無等、生物学的価値尺度で自分を評価されてしまう。

その評価から逃げられるから東京に来ている。
東京に居続けている。
単なる逃げ、何もすごくない。
群衆の壁、都会の喧騒の壁によって、自分が外の世界から評価されないように逃げている。

ちょっと前に文化がどうこう、みたいな話が盛り上がってたよな。

anond.hatelabo.jp

anond.hatelabo.jp

文化的活動、ただ消費しているだけなのに、何かを成し遂げたように錯覚する。
一種の防衛機制よ。
消費活動によって何かした気になり、仮初の自尊心を築くことで、自分を客観的に評価することを抑圧できるからな。

本当に力のある者は、都会でも仕事ができるし、地方でも丁寧な暮らしができる。
財前直見のように。

www.nhk.or.jp

一方、ルーザーおよびルーザー予備軍は、都会か地方、どちらかにしか住めない。

都会のルーザーは自尊心を守るために、消費活動によって、故郷(原始的共同体)から生物としての自分が評価されることから逃げ続け、地方のルーザーは生活を守るために、親などの既存の資産やインフラに依存する。

そんな地方の人間を馬鹿にするが、都会に住むあんたはどうなんだ?
ただ消費生活を繰り返しるだけだろう!?
都会はただ文化的資源が多いだけで、自分自身は何も成し遂げていないくせに、それを消費しただけで高尚な人間になった気に錯覚してやがる。

だから都会だろが田舎だろうが、関係ない。
自分は何者なんだ?って話だよ。

なんてね、軽く東京人や大阪人等、都会に住む人間の文化帝国主義を批判したところで、本題の花火の話に戻るか。

大津市みたいによ、有料観覧席、いわゆるVIP席とかで、のんびり冷たいものでも飲みながら観る花火とかは、楽しそうだけどね。

gigazine.net

暑くて、狭くて、見づらい環境で観る花火のどこがいいんだ。
それでも足を運んでしまう花火大会…なぜか?

それがわかった、人が花火に魅了される理由が。
それは…

人間が重力に支配されているから

だ。
まあその話は、前にもしたんだけどね。

gyakutorajiro.com人間は重力に支配されているがゆえに、このように水中に漂うような描写を知覚すると、反射的にその対象に好意的な評価をしたり、そこに描かれているシチュエーションを欲望する。常に重力に支配されているゆえ、重力から逃れたい欲望を無意識的に抱いているので、このような表象物に惹かれる。

そう、人間は重力に支配されてるから、花火みたいな、重力に抵抗するような存在が大好きだ。

違う、単に綺麗だから、美しいから、観てるんだ!

ってか?

否!

そもそもなぜ、美しいと、思ってしまうのか?
それは「自分とは逆の存在だから」だろうよ。

花火と比べてどうよ、おれたちの人生!

宙空にただようことはなく、大地に足をつけ、電車や車に乗って会社や仕事現場に向かう。

闇金ウシジマくん(10)[ 真鍋昌平 ]

満員電車という重力に支配され、コンクリートジャングルの得意先を練り歩き、上司や取引先の輩にへーこら頭を下げる日常…重力に完全に、支配されてるじゃねえの!?

gyakutorajiro.comポーランド出身のパヴェウ・ヤシュチュク(Pawel Jaszczuk)は「High Fashion」によって、ドイツ出身のマイケル・ウォルフ(Michael Wolf)は「東京コンプレッション」によって、再領土化された人間の姿を暴き出す。

www.vice.comwww.mirainoshitenclassic.com

ナニワ金融道に描かれているほどのブラック企業、ブラック労働ほどはないにせよ。

よっしゃ ほんなら 手始めに ワシの靴 舐めてもらおか

ナニワ金融道11 [ 青木雄二 ]

システムにバグやエラーがあれば責任を取らされて頭を下げる、営業ノルマや納期が達成できなかったら頭を下げる…どうだ、思い当たる節はあるだろう?
時と場合によっては土下座をし、靴を舐めることもあるかもしれない。

それはかつてフランスの哲学者、シモーヌ・ヴェイユが洞察していたように。

 たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される。
 
 ものごとは重力にあい応じて起こってくるものだと、いつも予期していなければならぬ。超自然的なものの介入がないかぎりは。
 
 ふたつの力が宇宙に君臨している、――光と重力と。
 
 重力―― 一般的に言って、わたしたちが他人に期待するものは、わたしたちの中に働く重力の作用によって決められる。また、わたしたちが他人から受けるものは、他人の中に働く重力の作用によって決められる。ときには、これが(偶然に)一致することがあるが、多くの場合一致しない。
 
 ひとりの人間が、ほかのもうひとりの人間を多少とも必要としている様子を見せはじめると、このもうひとりの方がさっと遠ざかるのはなぜか。重力のため。
 
 『リア王』(1)、重力の悲劇。「低さ」と名づけられているものはすべて、重力による現象だ。何より、「低さ」という語がそれをよく示している。
 
(1)シモーヌ・ヴェイユは、晩年のロンドン滞在中、シェイクスピアの『リア王』を見て、深い省察をしている(『ロンドン論集とさいごの手紙』所収、一九四三年八月四日付の手紙参照)。

(「重力と恩寵 [ シモーヌ・ヴェイユ ]」)

人間と人間との間の関係性にも、重力を加える側と、加えられる側に分かれる。
つまり、人間は重力および重力に類似したプレッシャーに支配されているということ。
弱い者や虐げられるものはより、重力に支配される。

一方、花火はどうよ。
パン・・・と打ちあがり。
パッ!ドッ!パラパラパラ~!
ドドン!ドンドンドンッ!

と、何物にも支配されず、重力に逆らい、宙空で大輪を咲かせる存在。

だから惹かれるんだ。
重力の支配から脱出できる存在を、美しいと感じる回路、羨望する感情が、人間には無意識的に形成されている。

実際、フジファブリックの「若者のすべて」が今でも人気なのも、花火が人間とは逆の存在だからよ。

www.youtube.com最後の~花火に今年も~なったな~何年たっても~思い出してしまうな~

ってね。
花火の終わり、それは、花火に自分の意識や自我を投影していた非日常的空間に終わりが告げられ、重力に支配されている日常が回帰する残酷な瞬間だ。

その哀愁と寂寥感をこのフジファブリックの曲は描いてる。
重力から解き放たれた花火の世界が崩壊してしまう…すばらしい時間が終わる…この曲を聴くと泣きそうになるのは、当然だろうよ。

だが、ごまかすんだよ、人間は!
本当は、花火が終わり重力の世界、日常が戻ることが辛いのに。
やれ花火大会の思い出だの、浴衣着てデートしただの、認知や記憶の脚色作業を行い、フジファブリックの曲を、美化された記憶を呼び覚ますトリガーとして利用する。

逃げてるんだ。
フジファブリックの曲を聴いて、記憶の世界に没入して、現実の重力支配された世界から逃れようとしている。

そして、花火だけじゃない。
人間が、重力の支配から逃れる際に利用している物質がある。

それは、サイダーだ。

これは柴又サイダー、じゃない、柴又ラムネだ。

去年、寅さんサミットに行った時に飲んだんだよ。

gyakutorajiro.comそう、寅さんはこの現代社会という下部構造の価値基準、仕事や収入や学歴といった、殺伐とした価値基準で評価しないからこそ、愛されるのであり、言葉は悪いがストレスや不満を抑圧するルサンチマンを供給する存在でもあり、柴又という街や男はつらいよは、その舞台装置としても機能している。

美味かったな。
甘さ控えめ、刺激もある、といってもウィルキソン辛口ほどじゃないけどね。

どこにでもある、愛される存在。

www.asahiinryo.co.jp

伊勢のおかげ横丁、野あそび棚もある、横丁サイダーを使った料理まで。

genki3.net

ふるさと納税、で貰えたりもする。


地サイダー、というのも充実してる。

toyama-asbb.com

幕張メッセでサイダーのイベントまでやってね。

www.j-sda.or.jp

なんと、本屋でも売ってたりする。

www.rakuda.ne.jp
サイダーも、花火と同じだ。
人間が意識や自我を投影し、現実逃避を行う際に利用される対象という共通点がある。

ジャック・ラカン精神分析でいう対象aよ。
対象aは、欲望の対象であり、欲望の根源だ。

gyakutorajiro.comその劣等感や満たされない欲望を解消する手段として、抑圧された階級は、ホリエモンに寄りすがる。
ホリエモンは「馬鹿にする対象」(ラーメンおたく、お笑いファン等)を用意してくれるからだ。
いわば、上記フロイトにおける他国民であり、ラカン的に言えば「対象a」でもある。

先回私は、対象aは、欲望に対して、つねに原因と関連して現れること、そして対象aはおそらく我々――皆さんも私に従うとすれば――にとって主体の中に原因の機能が作り出される根源の点であるということをお示ししました。原因の原初的な形式は欲望の原因なのです。

ジャック・ラカン 不安 下 [ ジャック=アラン・ミレール ]]p217)

例えば、知能指数だとか境界知能とか学歴の話を持ち出すやつは、自分の学歴等に自信があるが、満たされない性的不遇や経済的劣等感なども同時に備えている可能性がある。
だからその自尊心を補強するための存在(対象a)を求める。
そこで、ホリエモンが提供してくれる「知能指数が低い馬鹿」「境界知能」「ラーメンおたく」といった存在を馬鹿にするような話が心地良いし、無意識的に求めてしまうんだ。

ラカンスラヴォイ・ジジェクの文献を当たれば、対象aは人物や概念に留まらず、物質的なものが相当するケースも読み取れる。

そのため、花火やサイダーも対象aに成り得る。

花火(対象a)の鑑賞によって、人間は重力の支配から一時的に逃れ、安定的な自我の契機を無意識的に生み出している。

同様に、サイダーや、炭酸が含まれているビールやハイボールやスパークリングワイン等の酒を飲むときも、花火ほどの規模感はないが、類似効果を得ることができる。

サイダーと花火は、同じだからだ。
本当に似ている、共通してるんだよ。


サイダーも花火と同じく魅惑的な存在であるがゆえに、花火同様、音楽でもよくテーマとして利用されてる。

秦基博の「サイダー」。

www.youtube.comサイダー シュワシュワ 泡のように いのちが 毎秒はじける

とね。
そう、サイダーの特徴、泡がはじける。

アネモネリア『Life is サイダー』

www.youtube.com

しゅわしゅわ生まれて しゅわしゅわはじける Life is サイダー・・・泡になって消えるの・・・

かせきさいだぁ - さいだぁぶるーす

www.youtube.com

キミのあの夏は もうにじんでぼやけた さいだぁぶるーす

赤い公園、サイダー。

note.com

www.youtube.com

ざらついた舌 乾いた胸に サイダーが刺さる~

ってね。
そう、サイダーの特徴、それはシュワシュワ生まれて、重力に逆らうように泡となって上昇し、はじけて消える。
そっくりだろう?

TUBEの「花火」にあるような。

www.youtube.com燃えて散って花火~

だとか。
DAOKOと米津玄師の「花火」の。

www.youtube.com

パッと光って咲いた~静かに消えた~

ってね。
そう、サイダーも花火も、「上昇する」「消える」という点で、似てるんだよ。
そしてどちらも重力に逆らっている。

だから重力に逆らえない人間は、魅了される。
花火のように、サイダーのように、重力の支配から逃れたい。

唾奇の「Soda Water」だってそうだ。

www.youtube.comこの曲で、サイダーは歌詞には出てこないが。
だが、無軌道な生き方を肯定するような内容、それは、soda water(サイダー)の軌道だ。

サイダーの泡の軌道は、上から重力に支配されて生き続けている人間とは違い、方向もバラバラで、無軌道で、重力に逆らえる。
自力で下から上への移動が可能だ。

花火になりたい。サイダーになりたい。
その羨望から、「美しい」「すばらしい」と感じる。
花火やサイダーを認識したり消費する時に。

だが、花火やサイダーという対象を求め続けるのは、過酷な現実の裏返しなんだよな。
自分が重力に支配されてる存在だということを、重力を超越する存在を無意識に欲望しているということを。

人間には、重力に逆らってパっと消えて咲く花火のエネルギーも、乾いた舌に刺さるサイダーの疾走感もない。


毎日毎日、泳げタイヤキ君が鉄板で焼かれるように、鉄やコンクリートの塊の上に立ち、精神や身体を焼き尽くされながら生きるための日銭を稼ぎ続ける人間。

だから穴埋めしようとしたんだ。
つまり、結論。

人間は無意識的に、重力から支配された日常から逃避したいがために、重力に逆らえる自由な存在である花火やサイダーを消費し、それらの対象に意識や自我を投影して現実を抑圧するというルサンチマン(奴隷道徳およびそれを物質化した産物の生産と消費による現実逃避)を実践している

ということ。
花火やサイダーも、重力からの解放を欲し続けた人間の欲望の産物、奴隷道徳の産物足り得る性質があるってことだ。

ああ、本当に哀れな存在だよ人間は。
花火やサイダーにはなれないのにね。

何言ってんだオッサン、って話かもだけどよ。
だがなぜ、花火を観たくなるのか?サイダーや酒を飲みたくなるのか?
それを考えてみろ。

花火を鑑賞する時、サイダーや酒やビールを飲む時、その瞬間、何かから解放される多幸感を得ていないか?

その何かは、重力に支配された日常だ。

荒唐無稽な妄言と、言い切れるのか?