逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「男はつらいよ」の寅さんに共感する背後にルサンチマンがある

おととい、今日と、ブログのアクセスが普段の4~5倍ぐらいある。
「弱者女性論が盛り上がらない理由について」という記事にアクセスが集中している。

gyakutorajiro.comツイッターで共有してくれた人がいるってのもある、感謝。

15ブクマも越えてくれた。
バズる、というほどではないだろうけどね。

さて、今日ははてなブログ今週のお題「わたしのドメイン」をテーマにしようかな。
ドメイン、インターネット上の住所のことってことで、その話題を書くか。

このドメイン、「https://gyakutorajiro.com/」は、「男はつらいよ」の寅さんにすらなれない、世にいう弱者男性としての生き様、ルーザーとしての生き様を、このドメインに込めたのよ。

自分語りになるが、なぜ逆寅次郎は、寅さんよりも生き辛さを抱えているのか?
それは、寅さんと独身という点は同じだが、寅さんと違ってロマンスも起きず、家と職場の往復や似たような仕事の繰り返しという機械運動を繰り返し、自分が食う分だけの仕事をしているからだ。

「いやそんなことはない。仕事を通じて、社会に役立つものや感動させているものを生み出しています!」という、どこかしこから供給されてきたに社会人としてのこうあるべき道徳を、忠実に内面化し、その価値観を自分のレゾンデートル(存在意義)を補強するために自己暗示によって内面化、従順な身体を組織化して満員電車に乗って仕事に明け暮れた20代もあった。

しかし今は、サラリーマンをやめて寅さんみたいな、テキ屋ではないが、自営業をしている。
フーテンだ。自営業だからといって、儲かっているわけではない。
自分が食う分だけの仕事しか出来ていない。
自尊心が瓦解してタナトスが立ち現れる前に、自分を肯定してくれる伴侶を獲得するための婚活をしようにも、その費用がないぐらいの低所得の有様。

「じゃあがんばって、また会社で頑張りなさい!」といっても、もう無理だ。
20代は出版社で頑張れてたが、会社の経営悪化や人間関係のストレスもあった。
IT人材不足の原因について元底辺ITエンジニアが考えてみたらこの国のITエンジニアの中間層は没落する結論に行き着いたでも語ったが、IT業界にたった3年いただけで、俺はもうクタクタになってしまった。

そして寅さんになる。
福山雅治主演の「そして父になる」は、礼賛される。
父親になるということ、資本主義的イデオロギーの要請の実現に対して、その行為を神聖化するメディアやコンテンツがありとあらゆる現場に散乱している。

逆に「そして無職になる」「そして寅さんになる」といった、無職や風来坊になる物語は、その主人公が神聖化されることはないのか?

否!

そんなことはないだろう。
寅さんも神聖化されている。

男はつらいよ」で寅さんは、車寅次郎を演じる渥美清は、今も愛されている。無職や風来坊でも愛される。

風来坊といえば、風来のシレンを思い出す。
実はこの、日本の雇用形態は、風来のシレンと類似性がある。
風来のシレンは、たしかどんなに頑張っても、ダンジョンから出たらレベル1とかになってた。
そう、リセットされる。
その感覚を俺は、味わった。
出版社からIT業界にキャリアチェンジする際、年収300万に落ちた。
姉妹サイトのこの記事でも語ったが、「キャリアの分散」によって、風来のシレントルネコの大冒険RPGシステムのように、レベル1になってしまったんだ。
30過ぎたオッサンに片足突っ込んでいる男が、新卒の若僧と同じ給与水準になっちまったんだ。
出版社の編集マンから、ITエンジニアにキャリアチェンジして、大失敗だ。
「転生したら学生に毛が生えた新卒の若僧と同じ給与水準だった」という、まったく面白くもなさそうな屈辱の日々の出来上がりだ。
なろう系小説のようなチート能力も、爽快感も、何もない。
それが現実。

また、風来坊といえば、名古屋の風来坊の手羽先もおいしい。
山ちゃんよりも上品な味付けなんだよ。
山ちゃんは山ちゃんで、あの化学調味料なのか天然系なのか知らねえが、魔法のスパイスがガツーン!って感じで、あの傍若無人なワイルドな感じが好きだけどな。ルード(荒々しい)な感じだ。
逆に風来坊は、ハーモニー(調和)って感じ。ちょっとシャレオツこいてる、いいちこのCMみたいなイメージ。

話が脱線したので元に戻す。

こんな記事があった。

anond.hatelabo.jp男はつらいよ」が嫌いだと。ああそうかい。

まあわからなくもない。
どこがいいんだと。

メロンが食えない些末な事柄で激昂し、テキ屋として放浪し、トラブルを生み出し続ける。
なんでこんな男を、多くの人が愛し、同一化対象になり得るのか。
その答えとして、ジジェクの「イデオロギーの崇高な対象」で、こんな一節がある。

われわれがごくふつうに抱いている同一化の観念は、モデル、理想、イメージ・メイカーを模倣するというものである。たとえば、よく(たいていは「成熟」した視点から下を見下ろしたような言い方で)、若者は人気ある英雄、ポップ・シンガー、映画スター、スポーツマン等々に同一化する、と言われたりする。この一般的な観念は二重に誤解を招く。第一に、われわれが誰かに同一化するときにその根拠となる特徴は、ふつう隠されている。それはかならずしも魅力的な特徴とはかぎらないのだ。

このパラドックスがわからないと、深刻な政治的誤算を生むことにもなりかねない。一九八六年のオーストリアの大統領選を例にとろう。その中心にいたのはワルトハイムという問題の人物である。左翼陣営はワルトハイムはその偉大な政治家というイメージで有権者を惹きつけるだろうという予想から出発して、次のようなことを大衆に証明することを彼らのキャンペーンの柱とした。すなわち、ワルトハイムは疑わしい(おそらくは戦争犯罪に絡んだ)過去の持ち主であるばかりか、自分の過去を直視しようとせず、そのことに関する重要な問いから逃げてまわる人物だ、要するに、ワルトハイムの基本的特徴は外傷的過去を「洗い直」そうとしない(「徹底捜査」にかけない)ことだ、と。

左翼陣営が見落としていたのは、中道派有権者の大多数はまさにその特徴に同一化したのだということである。戦後のオーストリアは、まさにその存在からして、ナチと関係したというみずからの外傷的な過去を「洗い直す」ことへの拒否の上に成立していたのである。だから、ワルトハイムがみずからの過去との対決を避けていることを証明することは、有権者の多数の同一化の特徴そのもの強調していたのである。

ここから学ぶべき理論的教訓は、他者の失敗とか弱さとか罪悪感といったものもまた同一化の特徴たりうるということだ。したがって、われわれは失敗を指摘することによって、はからずも同一化を強化してしまうのである。とくに右翼イデオロギーは、同一化の特徴として、弱さとか罪悪感を大衆に提供することに長けている。その痕跡はヒトラーにさえ見られる。ヒトラーが大衆の前に姿を見せると、大衆はやり場のない怒りのヒステリックな爆発とでも言うべきものに同一化した。つまり、大衆はこのヒステリックなアクティング・アウトの中に自分自身を「認め」たのである。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 汝何を欲するか)

2020年にこんな記事があった。
なぜ安部支持は揺らがないか。

gendai.ismedia.jpこの記事にあるように、安倍晋三が裏で何やってようが、不祥事を起こしていようがどうだろうが、関係ない。
政治家は時折、上記記事で紹介されているように、「かわいいおじさん」となって若者や小市民と同じ土俵に降り、同じ文化を消費しているように振る舞い、親近感を湧かせて同一化対象になってもらうように接近する。
接近された人間は愛着が湧いてしまって、マニフェストの中身だとか、過去に不祥事はないかとか、調べたりしない。

もちろん「若者は~」といって説教垂れる気もないし、若者の中にも、高い政治意識や情報処理によって、自分や社会に有益なステークホルダーを真剣に考える人もいるだろうけど。
重要な判断要素が抜け落ちた、無意識的な情報処理が行われる場合も多々ある。

不祥事やスキャンダルといった外傷的な部分を隠蔽するための、政治と関係ない同一化要素を目立つようにし、アピールする手法。手品のトリックみたいなものだろうか。

また、ジジェクが言うように、弱さも同一化の要素になり得るだろう。
ここに垣間見れるのは、ルサンチマンだ。

フーテンの寅さんを生産することで、そのロマンスを描くことで「無職でもすばらしい恋ができるんだ!」といった、反資本主義的なルサンチマンを生産する。

現実には、無職で甲斐性無しの寅さんのような人間を尊敬して寄り添ってくれる人は、女性も男性も、滅多にいない。
にも関わらず、「男はつらいよ」においては、舎弟としてテキ屋業務をいつも手伝ってくれる登という男が傍におり、「無職でも尊敬してくれる人はいる!」といった承認欲望を満たすルサンチマンを生産する。


柴又、昭和の下町のような人情空間への同一化。「よぉ寅ちゃん!」と声をかけてくれる。でも現実はどうだ?令和のコンクリートジャングルで、誰にも声をかけられずに家路につく。

家に帰れば、さくら(倍賞千恵子)のような可愛い妹がいるか?実際どうだ。妹はいるかもしれない。だが、さくらのように気遣ってくれるだろうか、もしフーテンの渡世人で、定職についていない場合、妹はお兄ちゃんを話題にせず、存在しないように振る舞うのではないだろうか。

いや決して、寅さんを否定しているわけではない。逆寅次郎というハンドルネームやドメインも、寅さんにインスパイアされたわけだしな。
寅さん語録、たくましいフーテン、現代でいうフリーランスや、独身男性に、力を与えてくれる言葉もあるかもしれない。

寅さんの口上、トラブルを起こして罵り合う姿が、面白かったりする。
しかし上記に述べたように、ルサンチマンではある。
そんなこと言うと、寅さんファンに怒られるかもしれないけどね。

でも寅さんだけじゃない。

資本主義社会であるにもかかわらず、もっと素晴らしい別の価値観があるように見せかけ、人々のコンプレックスが爆発しないように抑制をかける。
ドゥルーズガタリが語るように、マネー資本主義による不調和が起きようとする際、寅さんのようなルサンチマンが具現化した生産物が抑制に向かう。

分裂症とは私たちの病気であり、私たちの時代の病気であるといわれるとき、単に現代の生活が狂気を生むということを意味しているはずはない。
確かに、コードの破綻という観点から見れば、たとえば、分裂者における意味の横滑りという現象と、産業社会のすべての段階で不調和が増大するメカニズムとの間には、平行関係が存在していることは確かであっても、実は私たちが言いたいのは、資本主義は、その生産のプロセスにおいて恐るべき分裂症的負荷を生み出すものであり、そのため資本主義は、抑制の全力をこれに向けるが、この負荷は資本主義的過程の極限としてたえず再生産される、ということである。
なぜなら、資本主義は、自分自身の傾向においてつき進むと同時に、みずからこの傾向に逆らい、これを抑止することをやめないからである。
それはみずから極限に向かうと同時に、この極限を拒絶することをやめない。

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』p70)

2000年代に流行った「電車男」もそうだろうよ。
「オタクでもアキバ系だとしてもすばらしい恋ができるんだ!」といったルサンチマンの生産物によって、資本主義が生みだす分裂症的気質を抑制し、資本主義を維持しようと、労働者たちが継続的に資本を再生産するよう、資本主義は機能する。

「年をとっても長澤まさみのような若い娘と恋愛できるんだ!」と思わせてくれる「二十歳の恋人」、「ブスでも鈴木おさむのようなアッパークラスの男を手に入れることができるんだ!」と思わせてくれる「ブスの瞳に恋してる」、「オッサンでも小松奈々みたいなブルベ女子高生が好きになってくれるかも!」と錯覚させてるかのような「恋は雨上がりのように」等、資本主義の残酷さ、ルッキズムの残酷さ、資本主義のあってはならない外傷的な部分が表出しないよう、全力で生産し、抑制する。

昔、友達の結婚式でGreeenの曲を聴いた。

ただ泣いて笑って 過ごす日々に 隣に立って いれることで~♪(愛唄)


その曲は、「全面的な肯定」に満ち満ちていた。
現実に存在する、カネという資本主義的要素を含んだ性愛関係を無視し、まるで「恋愛には資本主義は関係ない」かのように見せかける。

Greeenを聞いて、プロレタリアート達は、自らの経済的コンプレックスから解き放たれ、安堵する。
二つの生産物、生理的快楽を満たす物質的生産物と、それがもたらす不調を抑止するための観念的防衛機制装置(ルサンチマン)の生産によって、資本主義は再生産と維持を続ける。

この見せかけ、映画「マトリックス」において、ジャン・ボードリヤールの「シミュラークルとシミュレーション」の本が登場するシーンがある。

マトリックスにおいて、上記に挙げた「男はつらいよ」や「Greeenの曲」の世界観は、まるで「資本主義は存在しない」かのようなルサンチマンや見せかけ(シミュラークル)によって、人間の意識や自我を組織化する作用、マトリックスで人間をプラグに繋ぎ、都合のいい見せかけの現実で日々を過ごすように仕向ける人間へのコード化がある。

しかしそのシミュラークルが機能しない場合もある。
かつて高樹沙耶は、無償労働を求めた。

www.j-cast.com高樹沙耶のブログが炎上したのは、「見せかけ」が機能不全に陥ったからかもしれない。
マトリックスが機能しなかった。

ルサンチマンというマトリックスが、ネットワークになって資本主義社会を網羅している。寅さんは好きだが、当サイトはルサンチマンや無意識の存在を暴き出したり、逆にルサンチマンをマインドフルネスに活用するというコンセプトなので、まあこういう結論になっても仕方ない。

増田ももし、この記事を読んでくれたらわかっただろう。

寅さんは弱いからこそ、無職でロマンスがなくて性格もよくない男たちは、より一層と同一化することができ、フロイトがいう「夢は願望充足である」を具現化しているということを。

冨田ラボ「須臾の島 feat. ぷにぷに電機」の「ハイエー」の謎について

最近、ヘビロテで聴いてる曲がある。
冨田ラボ&ぷにぷに電機の「須臾の島」だ。

冨田ラボ20周年のアルバムにも、この曲は収録されているみたい。

www.jvcmusic.co.jp冨田ラボのアレンジ、民族音楽のようなテイスト、エレクトロな打ち込み音と、プリミティブなアコギの音、この人のアレンジはいつもカッコいい。
そこにぷにぷに電機の、耳障りのいい声で、催眠術をかけるような歌声が重なる。

映像もいい。金髪の女性ダンサーの踊り、奇妙で、この世のものではない異様さが出ていて素敵だ。
ぷにぷに電機が分裂したり、ダンサーの身体が伸縮したり器官が解体されるような映像で、この音楽を聴きながら映像を観ていると、意識が混濁してくるような陶酔感がある。


この世界を堪能するため、歌詞も調べた。
しかし、歌詞の詳細がわからなかった。
そこで、人力検索はてなで質問してみることした。

q.hatena.ne.jpid:punipuni501さんに回答してもらって、謎の一部がわかった。

mifuti juru muci(みふし ゆる むち)
kumori buddi kazi(くもり ぶでぃ かじ)


この歌詞も謎ではあるが、ハモっている部分で一番目立っている「ハイエー」について。

一体、なんだ・・・もう1度調べると、わかったことがある。

ameblo.jpクラシック音楽の音域の話。もこれはハイエーではなく、「High C」(ハイシー)らしいから、たぶん違うだろう。

やはり「須臾の島」という内容、そして歌詞の世界観から考えるに、民俗学的・宗教学的な現場で出てきそうな言葉ではある。

そこに目星をつけて調べると、興味深い記事があった。
「沖縄音楽総攬(下巻) 」のページだ。

columbia.jpDISC-3
V 八重山諸島民俗芸能篇
1. 祭祀音楽(正月御願/豊年祭〈穂利〉/盆祭/結願祭/節祭/種取祭/進水式/雨乞い/旅祈願/夜籠り)
●正月ユンタ
●正月ユンタ(世乞い)
●豊年願い唄(今日ぬ日)
●にうすいの唄
●思(うむ)いそ
●さーよい
●東(あーり)ぬ渡(とぅー)から
●いんきゃらぬ唄
●与那覇主(ゆなはしゆー)
●白保(しらふ)節
●夜雨(ゆあみ)節
弥勒(みるく)節(石垣島白保)
●やーらよー節
●さんぐるろー
●とぅんちゃーま
●道唄《♪平良と友ぬ〜》
弥勒(みるく)節〜しーざ踊(竹富島)
●仲良田(なからだ)節
弥勒(みるく)節〈西表島祖納〉
●笠踊
●鎌踊
●ぴゅーながれ
●ぺんさ
●しらかがー

DISC-4
●巻踊
●たてぶどる
●世乞(ゆーく)いジラマ
●世上(ゆーあ)ぎジラマ
●ぱいみジラマ
●角皿(しぬざら)ぬ唄
●中皿(さかざら)ぬ唄
●無蔵念仏(んぞにんぶちぃ)節
阿弥陀仏(あみだんぶち)
●いらんぞーさ
●だーとぅだー
●おーぱんやージラバ
●節(しちぃ)ジラバ
●ぴょーし
●今日(きゆ)ぬ誇(ふく)らしゃ
●五尺手巾(ぐさくてぃさじ)
●くぐば
●今日が日(きゆかぴー)
●二月(にんがち)
●真謝乙女(まじやみやらび)
●うぶぬぴーだ
●種子取(たにどぅる)アヨー(石垣島白保)
●種子取(たにどぅる)アヨー(石垣島宮良)
●道唄《♪ハイエー戌子ぬ〜
●巻唄
●しきどーよー


ここで一つの仮説が浮かび上がる。

「須臾の島」は八重山諸島のことで、「ハイエー」は八重山諸島で用いられている言葉

という説が。
もちろん「須臾」ってのは、時間の単位のことで、全くそんな意図はないかもしれないけどね。

mainichi-kotoba.jp短い時間のこと。須は常用漢字に採用。仏教で、一昼夜の30分の1の時間。数の単位としては1000兆分の1。国際的な単位としてはナノ(10億分の1)、ピコ(1兆分の1)よりも小さいフェムトに相当する。

かといって「ハイエー」に、何の意味もないというわけではないはず。

八重山諸島に行って調査すれば「ハイエー」の謎も明らかにできるかもしれないが、そんな時間もお金もないゆえ、図書館とかで調べてみようかと考えたが。
まず、民俗学や宗教学に詳しいツイッターアカウントの人「幣束 (@goshuinchou) 」さんが、「ハイエー」について呟いていないかを調べた。

twitter.com「@goshuinchou ハイエー」「@goshuinchou はいえ」で呟き検索してみたが、該当はしなかった。
「@goshuinchou 八重山」だと、興味深いツイートがあったけどね。

「独特の来訪神」がいるそうだ。
といっても、「ハイエー」が来訪神行事と関連しているとは、まだ断定できない。
「道唄《♪ハイエー戌子ぬ〜》」の、「戌子ぬ~」の方を先に明らかにした方がよさそうだ。


まず「ぬ~」について、これは「怒り、疑問視、代名詞、驚き」を表しているかもしれない。

japan-hougen.comでは「戌子」の方は何だろうか。

検索したところ、八重山諸島の1つ、竹富島のブログがヒットした。

www.taketomijima.jpNovember 24, 2012
祈願と幕舎張り 【種子取祭5日目】
11月19日のトゥルッキから
はじまったタナドゥイ(種子取祭)。

昨日(23日)は
干支の戊子(つちのえね)の日。
竹富島では、
タナドゥイの祈願と幕舎張りが行われました。

戊子の日は、
種子取祭でもっとも重要な一日である祈願の日。
午後1時30分から
竹富公民館執行部と神司一行は、
玻座間御嶽、世持御嶽、清明御嶽、根原屋を祈願します。
(チチヌニヌ タニドゥルヌ ニガイ)

一方、午前8時から、
18歳から69歳までの男性たちは、
タナドゥイの奉納の舞台となる
世持御嶽のテントを設営しました。
(トゥマヤ張り、幕舎張り)

どうやらブログによると、「戊子の日(つちのえねのひ)」には、種子取祭が行われるみたいだ。

「戊子」については、中国の陰陽五行を土台とした算命学では、暗号異常干支というらしい。

xn--n8jx07h.cc
稲子取祭についてさらに調べると、星野リゾートがその祭りについて取材しているページがあった。

www.hoshinoresorts.com・・・そこで根原金殿は妹を幸本節瓦に嫁がせ、戊子つちのえね の日の効力を夫に伝えさせた。----たとえあなたが作る量と同じでも、兄の粟は、酒や料理ができあがったときに量が増える。また、戊子の日に種子を蒔いた作物は、己丑の日のそれとは違ってよく根づく----・・・

ここまでで少し、前進できた。

「ハイエー」は、戊子の日(つちのえねのひ)の、稲子取祭の際に用いられる言葉

この可能性が高い。
先述の「沖縄音楽総攬(下巻)」の楽曲の並びからも、伺える。

●種子取(たにどぅる)アヨー(石垣島白保)
●種子取(たにどぅる)アヨー(石垣島宮良)
●道唄《♪ハイエー戌子ぬ〜》

の順番ゆえ、種子取祭に関わる内容ではないだろうか。

それゆえ「ハイエー」は、「イーヤーサーサー、ハイ、ハイ」と同様、祝祭空間を創り出す掛け声や合いの手として機能している。

と思ったけど、違う可能性もある。
先述の「ぬ~」が、「怒り、疑問視、代名詞、驚き」ではなく、助詞や接続詞の可能性である記事があった。

www.zephyr.justhpbs.jp (戌子:つちのえ ね) 種取子祭5日目。
 各家の家長は、それぞれ半間(畳半分)ほどの広さの畑に粟や麦、黍などの種子を蒔きます。(但し、現在ではほとんど行われていません。) また各家の女性たちを中心にイイヤチを作ります。イイヤチとは、イヒハツ(飯初:粟と糯米と小豆を混ぜた種子取祭用の餅)の義で、「慶来慶田城由来記」に記されたイハツのことです。 当日はチチヌニヌタニドゥル(戊子の種子取)と称されるように、もっとも重要な播種の日です。

この箇所にあるように、"チチヌニヌ"で、”戊子の”という意味だ。
ということは、「ハイエー戌子ぬ〜」の「戌子ぬ〜」の箇所も、「戌子の」というように、名詞+助詞になるのではないだろうか。

助詞の後、掛け声や合いの手等、感嘆詞が来るだろか。
「戌子の」と来たら、名詞が来るのが自然なような気がする。
「種子取祭」という名詞が。
しかしその場合は「タニドゥル(稲子取祭)」が来るだろう。「ハイエー」を用いているということは、稲子取祭とは別の意味がある可能性が十分にある。
また「ぬ~」と、伸ばしているのも気になるな。


やっぱり、この「道唄《♪ハイエー戌子ぬ〜》」を実際に聞いてみないと、これ以上は信憑性を高められないな。

弱者男性論が弱者女性論よりも盛り上がる理由は求愛行動の方向性にある

夏が近い。
ラジオからこんな音楽が流れてきた。

ああ、これはいい、真心ブラザーズの名曲だよな、ほんと。
俺みたいな30代後半~40代にとって、夏のアンセムだろうよ。
音のアレンジとドラマチックな展開のカッコよさ、夏の儚い一瞬を切り取ったような世界観、すばらしい。

響くサラウンドの波 時が溶けてゆく真夏の夜♪
そうさ~僕ら今~はしゃぎすぎてる 夏の子供さ♪

ってね。
異性愛恋愛の実存のロールモデルとして、誰もがサマーヌードの世界に憧れる。
サマーヌード的な夏を味わたい。
同一化対象として、サマーヌードは男女問わず、憧れだ。
山P主演でドラマにもなったからね。

しかし昨日取り上げた喪女の方においては、どうだろうか。

anond.hatelabo.jpまあ俺もそうだが、このサマーヌードの世界には同一化できず、サマーヌード的な波の音やカモメが鳴く声も、反町隆史竹野内豊のようなビーチボーイズと接することなく、無音の一人きりの部屋で秒針を嚙む音を聴きながら素麺を食べる夏を過ごすのが関の山だろうか。

と言うと失礼だったかもしれないので、お詫びにもう1つ、謎に答えよう。

常に女性側が告白「される」側だという前提で進んでいるのは、フェミニストも自称弱者男性も何故か同じなんだよね…。

これは仕方ないことなんだ。
その「前提」の原因を教える、それは、

求愛行動の方向性

にある。
生物学だとか動物行動学だとか文化人類学の本だとかを何冊か読めばいい。
この前、当サイトで書いたこの記事でもいい。

gyakutorajiro.comアマミホシゾラフグの求愛行動を紹介してる。


オスからメスへという求愛行動の方向性が関わっている。
ほとんどの生物で、遺伝子レベルで刻まれているんだ。
オス→メスという求愛行動の方向性が。

organicindiatoday.com繁殖期が始まると、雄鶏はオーバードライブになり、交尾が彼の職業となり、執着するようになります。

www.3030.co.jpそもそも、コケコッコーと大きな声で鳴くことは、オスのみが行うメスへの求愛行動であり、早朝の静かな時間に鳴くことで、メスに声が届きやすくなり、アピールもしやすくなると考えられています。

このオス→メスという方向性は、遺伝子レベル、生物学的レベルで起きていることゆえ、人間においても抗うのが難しい。 

それゆえ、その動物たちの遺伝子の残滓や共通項が残っている場合、人間が生み出す文化においても、「オス→メス」という求愛行動の方向性は大きな力を持つ。

進化生物学における「ランディ・ソーンヒルによるレイプの適応戦略説」というものもあるように、オラウータンチンパンジーではレイプが行われている。

https://web.archive.org/web/20070616050231/http://anthro.zool.kyoto-u.ac.jp/evo_anth/symp0507/kuze.html【レイプするサル――オランウータンの性行動と繁殖戦略 久世 濃子(東京工業大学)】

人間社会においてはあってはならない行為ではあるもののの、医学による流産や社会的倫理が醸成されていない時代においては、DNAを継承するための最適戦略(Evolutionally Stable Strategy)になりうる可能性もあっただろう。

よって生物学的次元で行われている求愛の方向性が、人間の文化においてもそのまま反映され、「告白は男性から女性に行うもの」というイデオロギーが生まれる。

このイデオロギーこそが、弱者男性論が先行して出現した原因だ。

弱者男性論が生まれる以前まで、時代をさかのぼろう。

90年代カルチャーへの嫌悪感を示している人がいた。

anond.hatelabo.jp90年代後半、ではないが1990年付近のバブル期のモテ文化は、ヒエラルキーがあったようだ。
数年前にテレビで放送していたマツコ・デラックスが紐解く日本のモテ現代史」を観ると、「バブル期における男女のモテカーストとして、このようなカーストがあったらしい。

・空間プロデューサー・・・エムザ有明ディファ有明)を手掛けた山本コテツ、港区芝浦のタンゴや港区西麻布のレッドシューズを手掛けウォーターフロントブームの仕掛け人である松井雅美など。
・ヤンエグ・・・ヤングエグゼグティブ(青年実業家)。
・商社マン・・・英語混じりの会話と、アメックスのプラチナカードで下位を圧倒
・アッシー・・・女子の送迎を行うことで快楽を得る。
・メッシー・・・女子に食事を御馳走することが喜び。
・公務員・・・現在は大人気だが当時は底辺、安定=カッコ悪い。

・キャリアウーマン・・・勝気なルックスと舌鋒の鋭さが不人気。
・おやじギャル・・・休日を競馬・ゴルフ、アフターファイブを居酒屋などで過ごすおやじのような女性。

ヤンエグは当時の漫画に出てきたのを見かけた記憶があるが、空間プロデューサーはそんなにすごかったのか?
番組を面白おかしくするための茶番めいた部分も含まれているかもしれない。事実と虚飾の混合物?

でもPOPEYE等の雑誌カルチャーにおいて、異性愛の恋愛を煽るコンテンツ、男性から女性へのデート必勝法的なコンテンツが大量に存在していたのは事実だ。

このカーストだけではなく、見えないカーストのようなものは今もあるし、その結果ひずみが生じる。

上記の「当事者としては90年代後半の青春時代はクソ」という意見があるように、オスからメスへという、支配的な求愛行動の方向性によって、女性は「選ぶ側」としての地位や立場が固定化し、「選ばれない男性」が大量発生する。

この「選ばれない男性の大量発生」こそが、モテない男性であり、女性から選ばれない男性の嫉妬・怒り・恨み・辛みが肥大化し、潜勢力を持つ。
その潜勢力は顕在化し、ルサンチマンが具現化した文化となる。

大江千里格好悪いふられ方、だけではない。
90年代の、男性のルサンチマンが具現化した、モテない男性の実存を提示するルネッサンスについては詳しくないが。

2000年代には、非モテ男性のルサンチマンが具現化した産物、例えば「電車男」や「ナポレオン・ダイナマイト」(バス男)、革命的非モテ同盟のクリスマス粉砕渋谷デモ等が、男性主導で行われていた。

メロコア青春パンクでは、「GOING STEADY」の「童貞ソー・ヤング」が流行った。

www.youtube.com「求愛する側」「選ばれる側」として男性は組織化されているがゆえに、「モテない」文化は、女性ではなく男性が生み出すものとなってしまった。

それが、今も続いている話だ。

ブラックサンダーのラップバトル、「非リア充」の男性が出てくる。
女性は「選ぶ側」としてしか登場しない。

男性の方は華開いた。

非モテ」「リア充・非リア充」の文化を経て、性の喜びおじさんを嘲笑する文化、KKO(キモくて金の無いおっさん)の言説の生産等。
そして「弱者男性論」も、それらの流れの中にある亜流の1つだ。

川の流れを上流に辿っていけば、「告白は男性から女性へと行うもの」という強大な支配的イデオロギーがあり、さらに上流に向かえば、動物や生物の求愛行動において圧倒的に雄から雌、雄→雌という方向性が存在している事実に行き当たる。

弱者女性論が男性論よりも圧倒的に弱いのは、先述のような求愛行動の方向性、および、先日話した女性の異性愛の恋愛イデオロギーの強制力の圧倒的強さおよび喪女への同一化による異性愛恋愛における実存の喪失への恐怖によって、ヘテロ女性においては非モテルネッサンスが起きないんだ。

なんかあったな。ヘテロ喪女の物語、「恋なんて贅沢が私に落ちてくるのだろうか」だったか。
小説の方はありかもしれないが、実写版は佐々木希を主演にしてしまった時点で、これは電車男級のモテないヘテロ喪女のためのルネッサンスになる力は失ってしまっただろう。いや、仮に佐々木希でなくても、電車男みたいにはならないかもな。
「猪又進と8人の喪女〜私の初めてもらってください〜」も怪しい。

だから今後も、「選ばれる側」である女性は、女性らしく振る舞うように組織化するイデオロギーの強制を受け続け、ヘテロの弱者女性や喪女カルチャーが、ヘテロ男性の悲哀や文化、弱者男性の話題よりも勢いを得るのは非常に難しい。

こういう「男性に愛されるための文化」が依然として強く、支配的イデオロギーとして機能し続ける。

mdpr.jpまあだからこそ、ヘテロ喪女の強い文化が生まれたら、面白いんだろうけどね。


KOEIが、ヘテロ喪女のための「喪女無双」みたいなゲーム作って、自分を振った男性や強者女性、読者モデルやインフルエンサーやインスタグラマーやティックトッカー、港区女子やインテリフェミニストや子ども自慢ママやマウント女子、およびブサメンやKKOではなくその他全てのイケメンおよびフツメンからの愛されモテ子全員を滅多斬りにしていくみたいな(笑)