逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

フワちゃんや指原莉乃になりたい願望の中に「フワちゃんや指原以外の他人」が混ざっている理由について精神分析の概念で解説

最近、こんな記事がバズってた。

b.hatena.ne.jpなるほどね、相談者だけでなく、フワちゃんや指原莉乃にも、自分もそうなれたかもしれないと思う対象がいるんだけど、それにはなれないから「見ないようにしている」ってことね。

これは自分が語っているルサンチマンの実践、「対象aからの逃走」ではないかと思った。

gyakutorajiro.com嫉妬に駆られたときの対処法として、ぜひ当ブログで発信しているルサンチマンの呼吸を参考にしてほしいと思うんだけどね。

まあそれは今回の本題ではなく、そもそも「フワちゃんや指原莉乃になりたい」という願望の中身について、考察していく。

まず、フロイトはこう言ってる。

個人は誰もが数多くの集団の一部であり、同一化を通して多方面に拘束されていて、これ以上異なりようがないほど多様な模範に従って自我理想を形成してきた。

従って、個人は誰もが数多くの集団の心と関わりを持っている。自分が属する人種に、身分に、信仰共同体に、国家に等々という具合に関わりを持っているのであり、それらを越え出たところまで自分を高めることでようやく、ささやかながら自立性と独自性を確立できるのである。

(『フロイト全集〈17〉1919‐1922年―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学』p203-204)

まあそうだよね。自分の理想の形成に際して、自分以外の集団や他人からの影響から完全に免れることってのはできないだろうね。

この図は、フロイトの『集団心理学と自我分析』に載ってる図式なんだけど。

f:id:gyakutorajiro:20220416082501j:plain

これが、同一化や集団心理学を考察する際において、参考になる気がする。
まず、この図が面白いのは「外的対象」と「対象」を区別している点。

フワちゃんという対象は一人しかいないにしても、人によって、フワちゃんに対する印象や認識が異なっている。
自分は別にフワちゃんに憧れていないけど、テレビの相談者は自由奔放に生きているフワちゃんに憧れと嫉妬心を抱いているように。

このフワちゃんに対する個々人の認識の差異は、図における「------」(点線)によって示されている。
一人一人の認識のフィルターを通って見ているフワちゃんは、もはやフワちゃんじゃないと。
フワちゃんA、フワちゃんB、フワちゃんC、がいる。
その認識のフィルターや偏見を超越し、純粋なフワちゃん(図における"外的対象")を見ることは、決してない。
だから外的対象には「×」印がある、っていう話だったと思う。

では、後ろにある「自我」と「自我理想」は何だって、話よ。
これはラカンが説明している。

彼はここで、彼の言う対象―ここにみなさんは私の言う「a」を認めなくてはなりませんが―、自我、そして自我理想を示しています。
この曲線はいうと、これらは、「a」と自我理想との結合を示すためのものです。フロイトはこの曲線によって、対象「a」そのものと 自我理想と呼ばれるシニフィアン的な印を同じ位置に重ね合わせ、これが催眠というものの境位であるということを示しています。
ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』p367)

ラカンを引用すると話がややこしくなる。

Signifiant(シニフィアン)は、「フワちゃんそれ自体」であり、そこから、個人による同一化の過程の中で、相談者の場合だと「年上に敬語を使わなくてもやっていけるの羨ましい」「自由奔放なユーチューバーはいいなぁ」といったシニフィエ(意味作用、イメージ)が発生するし。

自分の場合だと、「フワちゃんの動画、あんまり見てないけど面白いの?」「come againのLISAのコスプレしてるのは見た、かわいかった」等のシニフィエが発生する。

フワちゃんに対する印象が、人それぞれ異なっているように、フワちゃんから抽出されるシニフィエは、人それぞれ異なっている。

それでラカンが面白いのは、この同一化対象に関して「まなざし」っていう概念を持ち込んでるところね。

このことを理解するために必要な要素を、私はすでにみなさんに、対象「a」が眼差しと同一でありうるというお話をしたときに、提供しておきました。フロイトはまさしく、催眠における対象は、把握困難だがしかも抵抗できないような一要素、すなわち術者の眼差しであると定式化することによって、催眠の革新を指し示しています。

私が眼差しの機能や、眼差しとシミとの根本的な関係について述べたことを思い出してください。

世界には世界を見るための視力が存在する以前に眼差すものが存在しています。
いいかえれば、擬態における目玉模様は、主体が見、かつ魅了されるための前提条件として不可欠であるということ、すなわち、シミによる魅惑はシミを発見する視力に先立つものであるということです。
ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』p367)

対象aがまなざしと同一でありうる」というのは、どういうことかというと。

相談者が「フワちゃんみたいになりたい」と願望を抱くとき、 そのフワちゃん本来の魅力だけでなく「ユーチューバー、芸能人としての多くの視聴者やフォロワーを持つ」「Youtuberとして豊かな生活をしている」といった他者のまなざしが、内包されているということ。
つまり、フワちゃんは対象aであり、同一化対象ではあるんだけど。

本当に求めているのは、フワちゃんそれ自体というわけでもなく、フワちゃんから派生するシニフィエ(イメージ)、「フワちゃんに対する多くの女性や男性、社会からのまなざし」であり、そのまなざしと同一化したい。

大勢のフォロワーといった「<他者>のまなざし」のために、フワちゃんと同一化したい。
大勢のフォロワーといった「<他者>のまなざし」があるからこそ、フワちゃんが同一化対象としての価値を帯びる。
丁寧な言葉遣いや上司への気遣いなんて出来なくても、フワちゃんのようになれば、楽しい人生が過ごせる。

「金持ちになれば、振り向いてくれるんじゃないか」「甲子園に行けば、多くの人が俺を見てくれるんじゃないか」 とかね。

そういった「他者の眼差し」も含めて、同一化対象が形成されるんじゃないかって。

まあ小難しい引用とかしたけど、当たり前の話かもしれない。
憧れの存在とかには実は、他人や社会からの評価が内包されていて、純粋にその人自身でなかったりする。
もしフワちゃんが再生回数の多い人気ユーチューバーじゃなくて、過疎配信者の場合だと、どうよ?
テレビにも出てなく無名だし、質素な生活を過疎配信で流してるけど、生き方や考え方に憧れる・・・って、なるか?
同一化対象にならない可能性もある。

だから本当は相談者は、フワちゃんになりたいというよりは、他者からのまなざしによって形成されたフワちゃんのイメージ「多くの人から人気を得ているインフルエンサー」「ユーチューバー、芸能人として評価され年収が高く豊かな生活」を求めてるんじゃないかと思うね。
想像的同一化はつねに、<他者>のあるまなざしのための同一化である」(イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ] p166)って話。

もし「さしフワご相談ナイト」の相談者がこの過疎ブログの記事を読んでくれたなら、問うてほしいね。

本当に求めているもの、憧れの対象は、フワちゃんというよりは、フワちゃんに向けられている他人や世間からの評価や、それらが帰結した豊かな生活とかじゃないかって。
他人や世間からの評価を得る方法は、別にフワちゃんにならなくても出来る。
フワちゃんになれないなら、別の方法で得るしかない。

それかこのブログに記載している嫉妬や怒り、恨み辛みといったネガティブな感情を抑えたり発散させるルサンチマン(奴隷道徳)でやり過ごすか、だな。