逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

山上容疑者はアベガーも嫌悪する冷静な思考を持つが母親に逆らえないエディプス・コンプレックスの可能性がある

昨日の「ラカン派の精神分析を学んでいるはずなのに片田珠美氏はラカン的な視点が欠けている」という記事、かなりアクセスが増えている。

gyakutorajiro.com問題点の指摘として、ある程度の説得力があったからだと思われる。

あまり悲惨な出来事を記事にしてアクセス集めをするのは不謹慎な部分もあるが、動機や原因を詳しく解明しないと再発防止にも繋がらないゆえ、ブラックボックスのままで終わらせないためにも、話を続ける。

というか単に、自分のサイトのアクセスが多いのはいいことだし私利私欲な部分もあるのは否めないけど。知識人や著名人の説明もどうも説得力に欠ける部分が多いゆえ、自分で調べるしかないと思ったというのもある。

news.goo.ne.jp 片田氏は「容疑者は恨みの感情に長年とらわれ、相手を置き換えてでも復讐を果たさないと精神の安定が保てない状態に陥っていたのだろう」と推測する。

 碓井真史・新潟青陵大教授(社会心理学)は「あくまでも恨みを晴らす相手は旧統一教会だったはずだ」との見方を示す。その上で「通り魔事件を起こす犯罪者と同じ心理で、元首相の安倍氏を狙うことで自身の境遇をアピールし、旧統一教会に批判を集めようと考えた可能性がある」と分析する。

片田珠美氏も碓井真史氏も、家庭崩壊の大きな原因となった母親および母親と山上容疑者との関係性への言及が一切ない。
あまり調べずに書いているのが伺える。

片田珠美氏が語る「置き換え」という防衛機制は、「八つ当たり」がそれに近い。
以前、当サイトの別の記事でも話をした。

gyakutorajiro.com映画「空白」において、青柳直人(松坂桃李)が、添田充(古田新太)に追い詰められるストレスで、弁当屋にキレたのが「置き換え」の事例でもある。

青柳直人は、「特選海苔弁当」を買ったが、それは特選海苔弁当ではなく、唐揚げが入っていない普通の「海苔弁当」だった。
そして、弁当屋に怒りをぶつけた。
怒りの対象を、添田充から、弁当屋の店員に変えた。

つまり「置き換えは、全く関係ない対象にも転移する」ということだ。
例えば机などの物品や、弁当屋の店員などは、ストレスを吐き出す対象が置き換えられた結果ではある。

しかし安部元首相の場合は、物品や弁当屋の店員等とは異なり、置き換えられた怒りの対象として「関連性がないとは言い難い対象」でもある。
実際に宗教団体にビデオメッセージを送ったのは事実として、ミヤネ屋でも7月15日の放送でそれが流れていたのを観た。
全弁連がそれに対して抗議文も送ってることも、報道されている。

このように「置き換え」という防衛機制は、安部元首相のような関連性がある対象においても、物品や店員等の関連性がない対象にも起きるように、様々な事柄に当てはまる現象のため、それのみを原因とするのはあまりにも具体性に欠ける。
確かに理由の一因としてはあり得るが、網目が大きすぎるんだ。

昨日の話にあるように「ラカン的な視点が欠けている」というのは、上記の記事においても変わらない。

また、ホリエモン氏や落合陽一氏が言うような「アベガーや安部批判論者も原因」というのも、かなり部分的で、理由としては小さいだろう。

gyakutorajiro.com実際、先日話題になっていた山上容疑者のツイッターアカウントのツイートを見ると、アベガーの影響を受けていない事実が浮かび上がる。

自民党に対して、否定的なツイートもあるようで。

逆に、「自民党でもいい」というようなツイートもあり。

野党を嫌悪するツイートもある。

立場としては自民党支持ではないが、かといってアベガーのような乏しい根拠で否定する自民党批判者も嫌悪している」事実が浮かび上がる。
決して、アベガーに自分を投影して同一化するような性格ではなく、確固たる自分の思想を持っている。
まあ確かに、郡山高校という高偏差値の進学校に進学できる知性を備えているゆえ、デマや根拠のない情報に共感したり流されるタイプではなさそうではある。

もっと大きい原因に迫るには、やはり家族の関係性に焦点を当てる必要がある。

ジャック・ラカンおよびジークムント・フロイトは、父と母と子、この三角形の関係性を重要視する。
それに対して批判的な心理学者等もいるだろうが、この事件において家族内の問題性が極めて強いという点で、ラカンの分析は有効性を発揮すると思われる。


ラカン精神分析のアプローチを試みてみよう。

〈自我理想〉をめぐっては、問いが立てられてこなかったということ、この点については先ほど既に取り上げましたが、ここでもまた、先ほど取り組み始めた還元に努めてみましょう。皆さんにはこう申し上げておきます――父はここで、邪魔者の位置を占めることになった、といまから主張するのは、あまり前進することではありません。
彼がそうした位置を占めるのは、嵩高いからではなく、禁止するからです。しかし、父は正確には、何を禁止するのでしょうか。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p251)

〈自我理想〉というのは、「象徴的な同一化対象」と思ってくれたらいい。
そして〈理想自我〉というものもある。
〈自我理想〉は、〈理想自我〉とは異なり、〈自我理想〉は現実社会での生活によって象徴的に去勢されたゆえに生ずる自分像だ。

わかりやすい例を言うと、東京卍リベンジャーズに影響されて暴走行為を行った事件がある。

www.sankei.comここにおいて、東京卍リベンジャーズに出てくるキャラクターは、カッコいい等のかなり短絡的な衝動で〈理想自我〉の同一化対象となる。

しかし、警察による検挙、法による象徴的な去勢によって、暴走した若者の多くは悔い改め、それぞれの道に進むであろうし、自我も成長を遂げ「暴走族」ではなく「サラリーマン」等になるとする。
ここにおける「サラリーマン」は、〈自我理想〉であり、このサラリーマンが「象徴的な同一化の対象」となる。

ルソーの後期の著作、すなわち彼が精神病の譫妄(せんもう)状態で書いた『ルソー、ジャン=ジャックを裁く』にも、同じような分裂が見られる。この著作を、名と姓に関するラカンの理論を粗述したものと捉えることもできよう。ラカンによれば、名は理想自我、すなわち想像的同一化の点をあらわすが、姓は父親に由来し、父の名として象徴的同一化の点、すなわちわれわれが自分自身を観察し判定する(裁く)際に依拠する審級をあらわす。この区別において見落としてはならない事実は、i(a)は常にI(A)に従属しているという点だ。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 汝何を欲するか)

つまりラカンがここで議論しているのは、家族内で子どもが、母や父の法によって象徴的に去勢され、〈自我理想〉というI(A)に向かうまでの自我の成長についてだ。

しかし、どうして父なのでしょうか。経験が証明するところでは、母もまた禁止を行います。ハンス少年の観察記録を思い出してください。そこでは、「しまっておきなさい、そんなことをするものではありませんよ」と言っているのは母です。一般に、「いつまでもそんなことをしていると、お医者さんを呼んで切ってもらいますよ」と言うのは、たいてい母です。ですから、父は、現実的欲動の水準で禁止するという点では、それほど重要ではないと言うべきでしょう。この点について、昨年皆さんにお見せした三段階の表をもう一度取り上げましょう――これがいつも最後には役に立つことがお分かりですね。


(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p251)

ハンス少年はフロイトが父親を介して分析した患者だ。

conception-of-concepts.comそうである以上、ハンスは自分に似ている存在におちんちんがないとは思えず、母にも妹のハンナにもおちんちんを帰着させる。そして、それへの絶えざる関心は、当然のごとく他の人のそれを見たいという欲望を生じさせ、母の着替えを注視したり、父や母に「おちんちん」を持っているかを尋ねたりもする。

ハンスの症例を説明していると話が先に進まないので、割愛する。

去勢(カストラシオン)の脅かしの水準では、何が問題になっているのでしょうか。それは、想像的な脅かしに関する父の現実的な介入、R.iです。

想像的な脅かしというのは、子供のペ〇スを実際に切ってしまうのはめったにないことだからです。皆さんに申し上げておきますが、この表では、去勢とは象徴的行為であって、その動作主=要因は現実的な誰か、子供に「切ってしまいますよ」と言う父親か母親であり、またその対象は想像的対象です――子供が切られてしまうと感じるのは、子供がそう想像するからです。この逆説に注意してください。皆さんはこう反論なさるかもしれません。――「それこそまさに去勢の水準ですが、あなたは、父はそれほど役に立たないとおっしゃっているじではありませんか。」私はまさにそう申し上げているのです。そうなのです。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p252)

ここでラカンが言っているのは、〈超自我〉R.iが機能し、想像的に子どもにしつけを行うのは、父親にも母親にも成り得るという話だ。
最初の表の「現実的父」の部分は、「現実的母」にも成り得る。

実際に父親が機能するのは、二列目の水準になる。

他方で、父は何を禁止するのでしょうか。我々が出発したのはそこでした――父は母を禁止するのです。対象として、母は父のものであり、子供のものではありません。まさにこの平面上で、少なくともある段階では、男児でも女児でも、父との競合関係が成立します。この競合関係はそれだけで攻撃性を産み出します。父は、子供からまさしく母を奪い取る(フリュストル)のです。

これがもう1つの段階、欲求不満(フリュストラシオン)の段階です。ここでは、父は権利所有者として介入してくるのであって、現実的な人物としてではありません。例えば父が母を電話で呼び出す場合でも、結果は同じです。ここで欲求不満(フリュストラシオン)に介入してくるのは、まさに象徴的なものとしての父です。この欲求不満(フリュストラシオン)は、子供が必要としているものたる母という、現実的な対象にかかわる想像的な行為S'.rです。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p252)

「象徴的母」は、父親の介入によって、「現実的」に子供は自分の物ではないことを認識し、「欲求不満」に陥る。

最後に来るのが三番目の水準ですが、これは剥奪(プリヴァシオン)の水準で、エディプス・コンプレックスの分節化のなかに介入してきます。ここで問題となるのは、母よりも自分の方を好むようにさせるものとしての父であり、これは、皆さんが最終的な役割つまり〈自我理想〉の形成に至る役割のうちへと絶対に介入させてなくてはならない次元、S←S'.rです。
最終的な同一化が打ち立てられるのは、父がどのような面からであれ、強さの面からであれ弱さの面からであれ、母よりも好ましい対象になる限りにおいてのことなのです。


(中略)


結局のところも問題なのは、父の持つ本質的に禁止的な機能が、男児において第三の平面のはっきりとした結末つまり剥奪へ行き着かないということがいったいどのようにして起こるのか、ということです。剥奪は、理想的な同一化と相関しており、この理想的同一化は男児と同じく女児にも生じる傾向があります。女児においては、父が〈自我理想〉となる限りにおいて、自分はファルスを持たないという認識が生まれます。しかし、これは女児にとって好ましいことです――これに対して男児では、これが完全に惨憺たる結末となるかもしれませんし、時として実際にそうなのです。ここでは、動作主=要因はIで、対象はsです――I.sですね。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p251-252)

ラカンが言うこの「第三の平面のはっきりとした結末つまり剥奪へ行き着かない」という状況は、山上容疑者の家庭内の状況にも当てはまっている気がしてならない。

小文字の想像的な自我i(ideal)ではなく、父による剥奪を経た大文字の自我I(Ideal)によって、子どもという主体S(Subject)は小文字のs(subject)となり、エディプス・コンプレックスを克服するのが一般的な家庭だ。

しかし父が死んでしまったことにより、エディプス・コンプレックスの出口へと、山上容疑者を連れていくことが出来なくなった。山上容疑者にとって、父もしくは父性を持つ誰かが〈自我理想〉の対象となる前に、惨憺たる結末に至ってしまった。

それによってもたらされるのは、上記の図の一列目、母親の〈超自我〉の暴走だ。

    父親は不在で、父性的機能(平和をもたらす法の機能、父-の-名)は中止され、その穴は「非合理的な」母なる超自我によって埋められる。母なる超自我は恣意的で、邪悪で、「正常な」性的関係(これは父性隠喩の記号の下でのみ可能である)を妨害する。もちろん『鳥』が描こうとしている行き詰まりは、現代アメリカの家族の行き詰まりである。父性的自我理想が不十分なために法が獰猛な母なる超自我へと「退行」し、性的享楽に影響を及ぼす。これは病的ナルシシズムのリピドー構造の決定的特徴である。「母親にたいする彼らの無意識的印象は重視されすぎ、攻撃衝動につよく影響されているし、母親の配慮の質は子どもの必要とほとんど噛み合っていないために、子どもの幻想において、母親は貪り食う鳥としてあらわれるのである」。


(引用元: 斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ / スラヴォイ・ジジェク p188)

事実、山上容疑者は母親の欲望に呑み込まれ、母親に対しては強い恨み言を言っていない。

news.yahoo.co.jp

ツイートを検索しても、宗教団体や韓国人に対する怒りや恨みのつぶやきは大量に見受けられるが、なぜか、献金の原因となった母親に憎悪が向いていない。

これはおかしいと思わないだろうか。
例えば、「虐めを待つ人」という、家族からの虐待被害者・加害者の実体験を描いた漫画がある。

このケースでは、父親が再婚相手の継母によって、洗脳のような状態に陥り、父親の権威が機能不全となり、母親の〈超自我〉が強大になり、子どもが虐待されている。

そして子ども達は、母親への怒り、そして変えられてしまった父親への失望を抱く。

山上容疑者も、その兄も妹も、ネグレクト等の虐待はあった。

news.yahoo.co.jp家庭によっては、子どもの育児をそっちのけで宗教活動に没頭する母親に、怒りが向くケースもあるだろう。
「くそばばあ!」と言うような、反抗期が来てもおかしくない。

そうなれば、恨みの矛先は、宗教団体だけでなく母親にも向かうはずだが、なぜ向かわないのだろうか。

家族には向かっていないが、しかし、母親が最も上位に位置している。
父親に対しても反抗し、母を守ろうとした。
それはまだ4歳という幼さゆえ、父よりも母に愛着を抱くのは、仕方がないことかもしれないが。

オイディプス王の悲劇と類似性がある。
父を拒絶した。
父による理想的同一化、「俺と同じように、宗教へ傾倒する母を止めろ」という父の要求よりも、母を優先した。
家庭内が父性欠如の状態となっている。

つまり山上容疑者は、エディプス・コンプレックスの出口に繋がる二列目と三列目、父による母の剥奪と、父を自我理想として同一化対象とする過程を引き受けることなく、一列目の母の〈超自我〉に従い続けている。

父がもっと強権的になることも出来た。実際、暴力を振るったこともあるようだ。

しかし、父は母の祖父のおかげで出世した恩義もあるゆえ、母に対してそこまで強権的にはなれなかった事情も伺える。

news.yahoo.co.jp 実はこの社長、すなわち徹也の母方の祖父も父とは別の大阪府内の大学の土木科を卒業していた。そして、63年に建設会社を設立。徹也の父は入社後、ヒラ社員から工事部長を経て、最終的に取締役にまで出世している。

他にも、「from:@333_hill since:2020-1-20 until:2020-1-30」でツイートを検索した際、気になるツイートがあった。

これはどういうことかというと。

koto88.com山上徹也容疑者の母親は夫を亡くしたことで子供を連れて実家に戻ります。

実家は奈良市平松市にあり、祖父が1人で生活をしていました。

祖父は1人で過ごしていたが、同居することになったんだ。
しかし祖父は母親の常軌を逸した献金に、怒りを覚えていた。
出て行ってほしいと思っていた。

「オレ達」というのは、山上容疑者・母親・兄・妹の全員なのか否か、わからないが。
しかし「オレを守るのは、皮肉な事に張本人の母だった。」とあるように、母親は山上容疑者を守っていたのだろうか。

祖父も、血縁関係にある自分の娘を、無下にすることはできなかったのだろうか。

理由は複数あるにせよ、最も大きい要因は山上容疑者が供述するように「宗教団体への献金による家庭崩壊」にある。怒りの対象の置き換え、アベガーへの共感や同一化、ゼロではないかもしれないが、部分的だ。

明らかになっていない事実は「祖父が出て行けと言った理由」「祖父に従いなぜ母親を止めなかったかのかの理由」
これを、警察やジャーナリストは明らかにするべきではないだろうか。そこに、このような事件が起きてしまった背景、二度と起こさないための大事な何かが、ある気がする。

祖父が、夫の代わりとなって〈父の名〉の権威として、山上容疑者をエディプス・コンプレックスの克服に導くことも可能だったはずだ。

例えばそれがもし「山上容疑者が常に母親の味方をし、それによって祖父の献金の抑止などの行動が邪魔されていた」等の事実が明らかになった場合、「母子分離の失敗」「母親への愛情の固着」等、もっと大きな原因が把握できるような気がする。

ラカン派の精神分析を学んでいるはずなのに片田珠美氏はラカン的な視点が欠けている

精神科医の片田珠美さんという方が、山上徹也容疑者ついての精神分析を行っている記事があった。

biz-journal.jp確かに、自らの不遇によって<例外者>としての特権意識が芽生えてしまった、というのはあるかもしれない。

しかしどうも、釈然としない。

出演するはずだった原田隆之氏の方に、肯定的な意見が集まっている。

b.hatena.ne.jp片田珠美氏のコメント欄が荒れているのも「何かが欠けている」と、読者の方も薄々と気付いているからな気もする。
特に、

 職を転々としたり、職場でトラブルを起こしたりするのは、母親が宗教にのめり込んで自己破産したことと直接関係があるのだろうかと疑問を抱かずにはいられない。

という箇所はおかしい。
ラカン精神分析をフランスで学んだのであれば、こんなことを書いたりはしないはずだが。

なぜならジャック・ラカン「〈他者〉との関係性を極めて重要視する精神分析学者だから」だ。
フロイトだってそうだ。

ラカンフロイトだったら、父親・母親・祖父・兄・妹と、山上容疑者との関係を、「直接関係があるのだろうかと疑問を抱かずにはいられない」で、終わらせるはずがない。

フロイトラカンを愛読する一読者として、不快だった。
大きく欠けているのは、以下の3つだ。

1.〈父の名〉について

2.母親の欲望が止まらない理由について

3.母親の暴走を山上容疑者や祖父が止められなかった理由について


それぞれ、概要を説明する。

1.〈父の名〉について

山上容疑者の母は、夫と父(山上容疑者の祖父)を失っていた。
その場合、〈父の名〉が機能不全に陥ることを意味する。
〈父の名〉とは、以下のサイトの説明がわかりやすい。

irukauma.siteラカンは、枠組みを与える父親の機能を、「父の名(ノム・ド・ペール)」と呼んだ。父親の存在は、掟に背くことをダメだと禁止することによって、野放図な欲望をコントロールする働きをもつと考えた。

つまり、〈父の名〉が不在の場合、欲望のコントロールがうまくいかなくなる。

2.母親の欲望が止まらない理由について

これは恐らく、母親において不在となった〈父の名〉のポジションに、夫や父の代わりに宗教団体が配置されたのだと思われる。

ラカンによる母親の欲望に関する言及について、詳しく解説してくれているサイトを紹介する。

kaie14.blogspot.comたとえば、向井雅明氏によって、次のように説明されている(向井雅明「精神分析と心理学」 『I.R.S.―ジャック・ラカン研究―』第 1号,2002)。

    母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。

  だが、母親の欲望の法は気まぐれな法であって、子どもはあるときは母親に飲み込まれてしまう存在となり、あるときは母親から捨て去られる存在となる。母親の欲望というものは恐ろしいもので、それをうまく制御することは子どもの小さなファルスにとって不可能である。ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。

山上容疑者の家庭を彷彿とさせる。
ラカンが言うように母の欲望がワニだとしたら、口を塞ぐ石の役割が父の役割なんだろう。
父親のファルス(Φ)の不在、父の名の隠喩が不成立だった。
いわゆるラカンがいうファルス的意味作用、x=(―φ)、母親の欲望の排除。
それが機能せず、母親のファルスに従い、宗教団体への献金を止められなかったのではないかと考えてしまう。

ラカン精神分析で有名なスラヴォイ・ジジェクも、「父の機能」の不在について警鐘を鳴らしていた。

kaie14.blogspot.comジジェクは「父の機能」がないとどうなるかについて、90年前後からしきりに記してわれわれはそれを面白く読んだ。

    父親は不在で、父性的機能(平和をもたらす法の機能、父-の-名)は中止され、その穴は「非合理的な」母なる超自我によって埋められる。母なる超自我は恣意的で、邪悪で、「正常な」性的関係(これは父性隠喩の記号の下でのみ可能である)を妨害する。(……)父性的自我理想が不十分なために法が獰猛な母なる超自我へと「退行」し、性的享楽に影響を及ぼす。これは病的ナルシシズムのリピドー構造の決定的特徴である。「母親にたいする彼らの無意識的印象は重視されすぎ、攻撃欲動につよく影響されているし、母親の配慮の質は子どもの必要とほとんど噛み合っていないために、子どもの幻想において、母親は貪り食う鳥としてあらわれるのである」(Christopher Lasch)(ジジェク『斜めから見る』1991)

ジジェクが言う「獰猛な母なる超自我」は、宗教団体に献金する母親を彷彿させる。父不在の状況で、母を止めるのは難しいか。

実際、〈父の名〉が機能しているこちらの方のケース。

anond.hatelabo.jp父はもちろん母にお金を渡さず、切り詰めた生活を強いられていた。ご飯が足りないということはなかったけれど、贅沢や外食は一切なかった。宿泊するような旅行も帰省以外ほぼなかった。

まだ父親の権威(父の名)がブレーキとして機能しており、破産等の最悪の状況にまでは至ってない。

それゆえ、ラカン精神分析学者であるならば、〈父の名〉の重要性は判っているはず。
にも関わらず、片田珠美氏が山上容疑者の父親と祖父の不在について言及しないのは、あり得ない。

3.母親の欲望を山上容疑者や祖父が止められなかった理由について

デイリー新潮の記事(「週刊新潮」2022年7月21日号に相当)によれば、母親は別の団体にも傾倒していたと言われている。

news.yahoo.co.jp 山上容疑者には、兄と妹がいる。母は統一教会を信仰する以前に、実践倫理宏正会という団体の活動に入れ込み、その傾倒が理由でノイローゼ状態になった父は自ら命を絶った。(「【独自】安倍元総理射殺事件 『山上容疑者』父の自殺の背景にあった“もうひとつの団体”の名」を参照)

〈父の名〉の機能不全と、母親の欲望の暴走は、山上容疑者の犯行と線で繋がっている。

だが山上容疑者の父親が存命である状況、〈父の名〉が機能しているその時期においても、母親は別の団体に傾倒していたようだ。

傾倒した理由は、兄の後遺症にあるからだろうか。

news.yahoo.co.jp「山上容疑者の兄は、幼い頃に頭をけがした影響で、うまく言葉が出てこなかったり、走ったりするときに体のバランスを取りにくいといった後遺症があったんです。お母さんは、けがや後遺症のことを気にしていたんだと思います。そのうえ自分も持病があって……そういったことが重なって、宗教に傾倒していったのかもしれません」(前出・山上容疑者の兄の友人)

夫は止められなかったのだろうか。

news.yahoo.co.jp 「84年に弟(山上容疑者の父)が自殺した。さらに長男(同兄)が小児がんになり、抗がん剤投与で右目を失明し、脳にも転移した。これが一番大きい。(山上容疑者の母親の)弟も76年に小学5年で交通事故死している。最愛の母(山上容疑者の祖母)も82年に亡くなった。この方が聡明(そうめい)な方で、その血を受け継いでいた。これも伏線だったと思う」

山上容疑者も壮絶だが、母親も壮絶だ。
母親はもしかすると内罰性が強すぎて、自分を責め過ぎてしまっていたのかもしれない。まだ、夫や祖父が生きている時、山上容疑者とともに、母の不安定な精神を支える〈父の名〉として、機能することは出来なかったのだろうか。
もし、母の暴走を食い止めることができれば、このような最悪な不幸な出来事をもたらす結果にはならなかったかもしれない。

読売新聞オンラインによると、祖父が死去したのは1998年頃となっている。

www.yomiuri.co.jpつまり母親の欲望の暴走を、夫が不在となった状況でも、まだ山上容疑者や祖父が止めることができた可能性があった。
〈父の名〉の不在を、なんとかして、その役割を山上容疑者や祖父が担うことが出来たかもしれない。

しかし「出来たかもしれない」というのは、勝手な推測で、それが不可能な家庭内の状況があったかもしれない。
その、再発防止に繋がるような事実、母親と山上容疑者・祖父との関係性を明らかにすることは、ジャーナリストの方でないと難しいゆえ、片田珠美氏の役割ではないかもしれないが。

4.まとめ

フランスでラカンを学んでいるのであれば、絶対に〈父の名〉の概念の把握や、母親の欲望の暴走、それが子にもたらす影響についての知識は持っているはずだ。

しかしそれに一切、言及せずに、まるで山上容疑者のみに事件の原因があるかのような分析。

母親への言及、つまり宗教団体と母の関係性に関する分析を避けているという点で、コメント欄にあるように、何らかの配慮が働いているように思える。「真実を伝えよう」「ラカン理論で真実に迫ろう」という、真摯な精神分析から目を背けている疑問を抱かずにはいられない。

確かに、顔を出している公人の方ゆえ、母親および統一教会と母親に関する精神分析を行うことは、恐怖やリスクがあるかもしれない。
その精神分析を行って得られるメリットよりもリスクが大きい故、一部の大衆が納得するかもしれない「山上容疑者の責任」のみに収束するような、どこか説得力に欠ける分析で終わってしまっている。

だけどせめて、自民党統一教会を刺激しない形で、〈父の名〉が機能していない事実や、母親の欲望の暴走についての分析を語ることぐらいであれば。
フランスでラカンを学んで、経歴を見ると輝かしいキャリアを築いてきているのだから、できるはずなのに。

哀しいかな、やはり分析家も〈他者〉に影響を受けて、〈他者〉の欲望が転移し、正確な分析が行えなくなることがあるのだろうか。

はてぶのコメント欄にあるように、片田珠美氏の分析が納得いかない、欠けているがゆえに。
フロイトラカン精神分析の有効性が、否定的にみられることが無いよう、市民ラカニアンの自分としては願う。

(続き:山上容疑者はアベガーも嫌悪する冷静な思考を持つが母親に逆らえないエディプス・コンプレックスの可能性がある

広告という記号による言語幻覚は快感原則を刺激するマーケティング手法を採用している

昨日の話の続きをするかね。

gyakutorajiro.comフランスの精神分析学者ジャック・ラカンによれば「記号はシニフィアンとして幻覚を作る機能を持つ」という話だった。

シニフィアン、はこのサイトでは当然のごとく使っているけど、一旦これも整理するか。
シニフィアン「世界を認識する時に用いられる言葉や概念」という定義にしておくか。
それゆえ、人間による恣意的な部分がある。そして記号とシニフィアンの違いだが、記号はシニフィアンよりも範囲が広いイメージだな。
シニフィアンは記号の部分集合みたいな、「シニフィアン⊂記号」のイメージ。

既に最初に引用したフリース宛の五二番の手紙をご覧になれば分かりますが、フロイトが無意識の諸構造の誕生をはっきり述べようとしたとき、そして、一時過程を正確に説明するのを可能にしてくれるような心的装置の一つのモデルが、彼にとってはっきり形を取り始めたとき、フロイトはまず最初に、欲求の現れに対して幻覚的に応えるような記憶の刻印が、一つの記号、「Zeichen」以外の何ものでもないことを認めざるを得ませんでした。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p323)

記号(Zeichen)は、欲求を引き出すトリガーになる。
同義でもいいんだが、ラカンシニフィアン「人間の精神に何らかの意味や影響を与え得る機能が含まれている」という点で、単なる記号(それだけでは何も意味しないシニフィアン)と区別して用いている気もする。

シニフィアンは何ものかを意味している。そして何ものかを意味するためにシニフィアンを用いる誰かがいるという考え方、これらは「Signatura rerum(本態標)」と呼ばれます。これはヤコブベーメの著者のタイトルです。それが意味するところは、自然現象においては、神なる人物がいて、我々に神のラングを語るのだということです。

そうかといって現代の物理学はすべての意味(シニフィカシオン)を無に帰すとは考えてはいけません。極限において、一つだけ意味(シニフィカシオン)があるのです。ただしそれを意味する者は誰もいませんが。物理学の内部にシニフィアンのシステムがあるというそのことだけで、少なくともシステムが一つ存在するということ、つまり「Unwelt(環界)」という意味(シニフィカシオン)を含意しています。
つまり物理学は、一とすべてという二つのシニフィアンの最小限の結合を含意しています。すなわちすべては一か、あるいは一はすべてということを含意しています。


科学におけるこれらのシニフィアンは、その数がいかに少なくとも、それらは初めから与えられているものであって、それを何らかの経験主義的態度が引き出すと考えるのは誤りであり、いかなる経験的理論といえども、自然数全体の存在すらも説明することはできません。

ユングが私達にそれと反対のことを説得しようとしたとしても、歴史や観察や民俗学の示すところによると、原始共同体、あるいは未開民族集団というような文化におけるシニフィアンの使用の水準では、たとえば5という数字を見出すことは一つの征服です。オリノコ河の河畔には4という数字は習得しているがそれ以上の数を知らない部族がいます。そういう部族と、5という数が驚くべき可能性を開いた部族、しかも彼らが挿入されているシニフィアンの体系全体と矛盾を来たさない可能性を開いた部族とを、はっきりと区別することができます。

 

(引用元:ジャック・ラカン「精神病 下」p46-47)

"5"という数字を知らない部族がいるように、シニフィアンはあらかじめ用意されているものではない。概念や名称等のシニフィアンは、経験で生み出される場合もあるだろうが、自然数っていうシニフィアンも、目に見えるものではないよな。
日本語のシニフィアンの体系全体に「5」が加わっていても矛盾は来さない。5は現代の多くの社会や共同体では、シニフィアンとして確立されている。

ただ、話がややこしくなるから、今回は「記号」も「シニフィアン」も、同義として話を進めるか。
記号論」っていう、精神分析と別のジャンルもあるからな。

liberal-arts-guide.comまずありとあらゆる広告には、リビドー(快感原則)を刺激する仕掛けとなる記号が含まれている。
Youtubeの動画を見てみるといい。自分はRasmus Faberの「Divided/United」という曲をよく聴く。


この曲は、人間が心の内で無意識で行っていることを唄っているような感じもするな。
シニフィアンという記号や概念や他者によって世界を切断(Divided)して、認識や価値観を構成(United)するっていうね。

まあそれはさておきこのPVを見る直前に、Youtube広告が流れる。

youtubeの動画広告はテレビ等より規制が緩いのか、「儲けませんか?」という広告や、「痩せてかわいい子と付き合える」だの、「夫にまた求められるようになる」だの、極めて快感原則を喚起する内容になっている。


(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p324)

ラカンのこの図のように、現実原則のM〈メッセージ〉、つまり記号で構成される幻覚(広告)を見せる際、広告の中身とあまり関係がない場合でも、快感原則のA〈他者〉を、リビドーが向かう対象を、用意しておく。
動画広告だと、セクシーな女性であり、イケメンの男性だ。

つまり広告という現実原則の中に、リビドーが向かう備給対象(A)を設定しているということだ。

リビドー備給については、このサイトの説明がわかりやすいな。

blog.goo.ne.jp エスには本能的エネルギーのリビドーがあります。フロイトは、このリビドーの量は個人によって異なるが一定で、それが移動したりたまったりすると考えました。
 例えば、異性を好きになったとします。リビドーはその異性に向かいます。このとき、リビドーが「備給された(カテクシス)」と言います。「備給」とは「充当」とも訳されている 概念で、リビドーが特定の感情や思考、対象などに注がれることを意味します。一方、好きになった異性に向けられていたリビドーが自分に向かうと、極端に自分の身体を気にしたりします。一方、これとは逆に、対象から今まで向けてきた興味・関心を切り離し、リビドーを引き上げることを「逆備給」と呼びます。これは、臨死患者などがこの世への未練を断ち切って安らかな最期を迎える、いわゆる死の受容における重要なプロセスとされるものです。このように、リビドーはまるで経済における貨幣のように働いているので、この考えを「経済論」と呼びます。
 また、フロイトは、人間の心のなかで起こる意味ある事柄(心的行為)を、リビドーの動きとして心的構造論のなかで説明しています。「心のなかで起こる意味ある事柄」とは、夢や思い違い、悩みといった類です。それらの現象は、エスや、超自我の無意識的な部分から発せられるリビドーが自我に与える力関係から起こってきます。このような考えを、精神分析における「力動論」と呼んでいます。
 フロイト精神分析理論を理解するには、「局所論」「心的構造論」「経済論」「力動論」といった枠組みが必要となります。

前回も話したが、「合コン」というワードを使うということは、それが活発な若い男女もターゲットになるし、例えば俺のような独身の30代後半~40代等、合コンが欠如している人間も対象になるだろう。

文字だけの広告だが、不在の他者、リビドーが向かう対象が現れるかのような幻覚を作り出している。

何度も言うが、このような、言語幻覚(広告)の中に快感原則を刺激する記号を仕込むマーケティング手法は、ありとあらゆる現場で利用されている。

例えば、この転職サイトの広告だ。

サラリーマンが、転職サイトを探している際中になぜか、吉谷彩子が合いの手を入れる。
それは、「このサイトを利用して転職する」という現実原則のメッセージを伝えるために、その幻覚をより一層強力に機能させるために、人間のリビドーを刺激する必要がある。
そこで、吉谷彩子が利用される。

こちらの飲料のCMも、人間の快感原則を刺激している。

福原遥が全面的に出演し、商品をPRしているが「満たされろ」というシーンで、抱きしめるポーズを取っている。
すなわち、シニフィアンの連鎖に、リビドーを刺激するシニフィアンを必ず組み込む。

それが消費者を、人間を引き付ける力になる。

しかしあまりにそれが露骨な場合、サントリーのCMの「コックーン!」が炎上した時のように、リビドーを喚起する描写が強すぎる場合は、視聴した人が気付いていしまう。

それゆえ「快感原則を刺激はしているが、それだとは気付かれないようにする」という、ギリギリのラインを責める必要がある。
それが上記の転職サイトであり、飲料のCMだ。

また、これは別に男性に対してだけではない。

飲料のCMの福原遥は、化粧をしているシーンや会社でプレゼンをしているシーンがあるように、「働く女性の1日」を描いている。
それゆえ、福原遥は男性だけでなく、女性の同一化対象としても機能し、商品を消費することで福原遥のような可愛いくて、バリバリ働く女性になれますよ」というメッセージを女性にも与えることができる。

この松坂桃李貫地谷しほりのCMもそうだ。

松坂桃李貫地谷しほりという記号、ルッキズム的魅力を備えた人物を、シニフィアンの連鎖に加える。
転職活動をすると、貫地谷しほりのような魅力ある女性になれるかのような、松坂桃李のような魅力的な男性と近付けるかのような印象を与える。


ピタットハウス鈴木亮平も然り。カッコよくて頼もしい兄貴としての力を放つことができる記号であればあるほど、その広告に価値が出る。


こんな風に、広告の中に快感原則を刺激するシニフィアンを加えることで、視聴者によりその世界観に浸ってもらうようにしなければならない。

では全く、一見すると全く性的な印象がない?と思われるCMはどうだろか。

www.youtube.com吉永小百合のCM、一見すると、性的な印象はないように思える。

だが吉永小百合という存在、それは、ターゲットとなる中高年においては、若い時の吉永小百合、大女優としての吉永小百合等、ありとあらゆる吉永小百合に付随するシニフィアンの記憶が、無意識に堆積している。

つまりこのCMのように新幹線で旅に出ることで「自分の女性としての魅力を向上させたい」「吉永小百合のような女性になりたい」という無意識の願望に対する応答となり、その快感原則を刺激するためには、吉永小百合という記号でなければならない。

 

長塚京三もしかり。

www.nicovideo.jp俳優として権威と品格があり、社会的実績を積んでいる男性という記号を設けることで、それに同一化することで「男としての魅力を向上させたい」「長塚京三のような男性と旅に出たい」というリビドーを刺激する。

「新幹線で旅に出る」という現実原則のメッセージの役割は「新幹線」と「旅行先」の記号だけでも担えるはずだが、それだけでは足りない。
吉永小百合」「長塚京三」という快感原則、人間の欲望を喚起する記号も必要になる。それによって、言語幻覚の力を最大限に発揮させようとする。

パリッとしたスーツを着た3人の男性。松重豊野間口徹満島真之介

www.youtube.com松重豊「してやられたな」とつぶやく時、そこには「ものすごく豪華なホテルの中にある喫茶店が映し出される。
また、「飛行機のターミナル」「都会の景色を一望できる大きな窓ガラスがあるオフィス」が映し出されている。

つまりこの名刺サービスを利用すれば、「こんなにも立派な場所でコーヒーを飲めるようになれますよ」「飛行機で出張できるぐらいに出世できますよ」「こんなにも立派な場所で仕事ができるようになれますよ」という、快感原則を刺激するステータスシンボルの記号が加えられている。

また、男性しか出ていないCMだとしても、「パリッとしたスーツで立派なビルで働く高収入の男がいい」というような、女性の欲望を満たす記号、そこには「女性のまなざし」も含まれている。

景色が悪いワンルームマンションで仕事をしているような男が出るようなCMには絶対にしない。会社のブランドイメージを強くする作用も、上記の記号にはあるだろう。
ターゲットを絞れば、そういうCMの方が共感を得られる場合もある気もするけどね。

このように、よくある消費者金融のCMだけでなく、ほとんどの広告やCMに、性的表象が隠されている。
宮川大輔と犬しか出てなくてもだ。


「半額」という、金銭のアピール、これが性的だ。
金銭は欲望と深く結びついているがゆえに、快感原則を刺激する記号となる。

テレビCM以外はどうだろう。
最初に紹介した不動産会社の広告以外に「サブリミナル広告」というのもある。
なんかの本に載ってたので、紹介しよう。
(引用元がわからなくなっているので、もし権利者等がこの記事を読んだ場合は言ってくれ)

まずこれ。

これは深層意識に訴える形で、人間のリビドーを刺激している。
写真を逆にすると、それがわかる。

まるで女性がマス〇ーベーションをしているかのような構図になる。

日本で発売されたかは知らないが、90年代初期のペプシコーラ

ネオン調の赤と青のラインによって、"SEX"という文字を浮かび上がらせている。
青と赤が交わって"X"の部分を構成してるのが面白い。

タバコで有名なCAMEL。

スレンダーな女性の像を埋め込むことで、男性の快感原則を刺激し、購買意欲へと繋げる。

いい加減しつこいかもしれないが、この酒の広告にも埋め込まれている。

右側のグラスに入っている氷3つを、よぉ~く凝視してみると、それがわかるw

"subliminal seduction"だの"深層意識"で検索したら、こういう広告が出てくるかもしれない。
でもバレた時が面倒だから、今はあまりこんなサブリミナル広告みたいなのは少ないかもしれない。

ただ、こういう露骨なものでなくても、テレビCMでさえ必ず、人間のリビドーを刺激する何かが隠されている。
それは先述した通りだ。

昔、よく視聴していたCMがあった。


このCMに流れていた曲がすごくよくて、調べたことがある。「Tahiti 80だ!」と思った。1000timesを昔、ヘビーローテーションで聴いた時期があったので、声が似ていると思った。
けど、タヒチ80ではなかった。
Jhameelというアーティストの「Tokyo New Story」という曲らしい。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jpしかしよくよく思えばこのCMも、快感原則を刺激しようとしているな。
夏の東京に新幹線で旅をすれば、イケメンと出会えるっていうね。

芸能人が出てなくても関係ない。

無意識的にリビドーを刺激する。商品やサービスをPRするとともに、「こうすれば快感を得られますよ」「気持ちいいですよ」というメッセージを、無意識のレベルで与える。

しかし快感原則と結びついたシニフィアンの過剰供給、この「気持ちよくなるために消費しろ」というメッセージの過剰供給が、それが実現できないストレスによる「生きづらさ」とか、他の病気に繋がるケースも、あるような気もするな。