逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「イニシェリン島の精霊」のレビューと考察。子孫を残せない独身男性は、退屈な日々に従順な驢馬になるべきか、貪欲に世間にマーキングを試み続ける犬になるべきか

日比谷のTOHOシネマズシャンテにて。
観終わった後に、後味が悪いってほどでもないが、変な余韻を残す映画を観た。
イニシェリン島の精霊、という映画だ。


宇多丸も絶賛してたな。

www.tbsradio.jpふたりのオジサンの諍いの地味な映画、と思って観に行ったのに、観た後数週間にわたって、あれは一体何だったのだろう、と考えてしまう、わたしのなかで、始めは小さな存在だったこの映画が、いまや忘れられないものとなっていることに気付き、マーティン・マクドナー脚本、監督の力量の凄さを感じる映画でした。

あらすじはこんな感じだ。

realsound.jp 舞台となる「イニシェリン島」は現実には存在せず、アイルランド西部のアラン諸島にある島という設定になっている。ロケ地の一つとなった、実在するイニシュモア島は、石灰岩に覆われた荒野と、その岩を積み重ねた「ドライ・ストーン・ウォール」が広がる農村地帯、切り立った巨大な断崖などが特徴的で、本作の舞台となる、荒涼とした風景のイメージの多くを占めている。

 そんな、人間の小ささを意識させる広大な舞台で物語の中心となるのは、気のいい“善良な”男パードリック(コリン・ファレル)と、彼が親友だと思っていた、作曲やフィドルの演奏を趣味としているコルム(ブレンダン・グリーソン)との諍いだ。ある日パードリックは、いつものようにパブでスタウトビールを飲み交わそうと、コルムを尋ねに行く。当時のアイルランドでは内戦が勃発する時期だったが、そんな激動の時代とは切り離されたように、彼は満足そうに友人との会話を楽しみにして歩みを進め、その背後には虹まで輝いている。

 だがパードリックは、コルムが露骨に自分を避けていることに気づいてしまう。しつこく追いかけ、なぜ自分と話したがらないのかと直接疑問をぶつけると、コルムは「人生の時間を、お前と話すことで無駄にしたくない」と答えるのだった。つまりは知的レベルが違うので、交流し続けても自分にとって利益がないから距離をおきたいということだ。

以下、この映画が、人間の本質的な部分を描いているという点を、示していきたい。


1.波長が合わない、縁を切りたい人間の存在

誰しもあるだろう、人間関係の悩み。
縁を切りたい人間、恨んでいる人間。
本当は関わりたくないが、職場にいるので仕方なく付き合わざる得ない人間。
コルムにおけるパードリックのように、今すぐ縁を切りたい人間。

これと似たような経験をしたことは、あるのではないだろうか?
全国に「縁切り寺」というのが存在するように。

travel.navitime.com誰しも1人や2人、縁を切りたいと思った相手はいるはずだ。

自分も大学生時代に、1人いた。
淋しがり屋のやつで、同じ寮だったせいもあり、毎夜どうでもいい話をしに俺の部屋に来ていた。
その話は以前、姉妹サイトで書いたな。

iine-y.comそして元友人は、今日の出来事や愚痴を毎日俺に語ってきやがるのだが、「俺は別にお前という人間の日常に、それほど興味はないのだ!」と、俺はいつも悶々と思いながらそいつに話を合わせていたのだが、いい加減うんざりした頃「お前の話はどうでもいいのだ!」みたいなことを言うと、キレて、俺の胸ぐらを掴みやがる。女々しくて暴力的なのだ。 だがキレさせたことにより数週間連絡が来なくなって、俺はスッキリ、自由な日々が過ごせていたのだが、学校や寮内で久しぶりに会うと、また仲直りの風潮になり、また束縛の日々に俺は陥るのである。

以下、ネタバレだが。
まさに俺はコルムであり、そいつはパードリックだった。
パードリックがロバの糞の話をするように、そいつもパチンコで勝った負けた等の話や、自分の話ばかりをした。
それを延々と聞かされる苦痛。

俺は大学生ながらも、大学デビューも出来なかったこともあり。
何かを成し遂げたいと日々、奮闘していた。
いわゆる起業的な、この没落した京大生のように、2000万引っ張ったりするほどすごくはないが。

anond.hatelabo.jpウェブサイトを作って稼ごう等と、息巻いていた時期だ。
闇金ウシジマくんに出てくる池田のように、若さゆえの尖り、変な優越感のようなものを持っていたと思う。


エラソーに講釈たれやがって……
俺様がおめーくれーの年齢の時にはもっと高い位置にいる……
なぜなら、俺は天才だから。

闇金ウシジマくん(1)[ 真鍋昌平 ]

俺は忙しいんだ。
コルムが作曲活動に専念したように、サイト作りに専念しなければならない。

sm324.blog129.fc2.com歴史に名を残すモーツァルトを引き合いに出し、「自分はすぐに忘れ去られる」という恐れから芸術に勤しみたいのだと言う。

また、俺がどちらかというと文化系男子で普通に受験で入学した人間で、そいつはスポーツ推薦で来ていたので、そもそも共通点や趣味など、共感できるポイント等が著しく少なかった。

判りやすくいうと、コルムが自分で、そいつがパードリックだ。
昔「いい旅夢気分」に出ていた宮本隆治堀内孝雄との関係性にも似ている。

2.友情に亀裂が生じてしまう理由(個人的感動の最大化を追求する宮本隆治と、人とのコミュニケーションを優先する堀内孝雄の事例から)

宮本隆治は、この人だ。
毒蝮三太夫youtubeに出てた。

www.youtube.com堀内孝雄は元アリスの歌手ね。

こんなエピソードがある。
いい旅夢気分」という番組だ。

奈良が特集されてた。
「宝の家」だったかな、吉野山が見渡せる、有名な旅館が登場していた。
残念ながら今は閉館したみたいだけど。

hotelbank.jp
宮本隆治「うわ~急斜面に桜が!満開だったら見事だったでしょう!!」

と、吉野山の絶景に興奮してよ。

んで、旅館とか吉野山の紹介があって、2人で宿自慢の温泉に行ったのね。
そんとき、 堀内孝雄がこう言った。

堀内孝雄「日頃見ない顔だね。だってニュース読んでる時の顔と違うもんね。うわぁ~人間ってこの景色の中・・・」


そしたら・・・なんと・・・


宮本隆治:「ちょっと黙ってていただけますか?ちょっとこのねぇ、湯のせせらぎとね、時折鳴く、鳥の声をね、満喫してるんですよ・・・」(目を半分閉じながら)


って、カメラ回ってるのに、気まずいやり取り(笑)
堀内孝雄「あっそうっすか・・・」って、ちょっとシュンとなっちゃってたな。

これ、たまたま観てて「放送事故じゃねえかw」って、思ったんだけどね。
しかしこの宮本隆治の対応は、非常にコルム的ではある。

目の前の人間、堀内孝雄とのコミュニケーションよりも、自然を満喫することを優先する。
もちろん、一時的に塩対応になっただけで、普段は人間関係も大切にする人かもしれないけどよ。

かといってテレビでこりゃねえだろ…って、普通は思うかもしれない。
だが、こういった人に冷たくする振る舞いを、つい行ってしまう。
なぜだろうか。

3.いい年こいた独身男性はジーン(遺伝子)を残すのが困難であるためミーム(文化的伝達物)を残したい

宮本隆治堀内孝雄のエピドソードは1つの事例だが。

映画では描かれなかったが、おそらくコルムとパードリックも、こういったコミュニケーション不全が何度も積み重なり、ついにはコルムは我慢しきれなくなり、絶縁を決めたのだと思われる。

そしてコルムは作曲活動に邁進する。
それはコルムが、子どももいない、老齢の独身男性だからだ。
老い先短い。生きた証を残したい。

30代の独身中年男性でさえ、ジーン(遺伝子)を残せない焦燥感も一因として作用しているだろう、狂ってくるんだ。

anond.hatelabo.jpまして60代のブレンダン・グリーソン演じるコルムが、この世界に何かを残したいと、パードリックとの関係を切り捨て、作曲活動に奮闘する気持ちはわからなくもない。

note.com「17世紀に優しさで知られている人物がいるか?モーツァルトの音楽は200年後も残る」

と、コルムがパードリックに語ったように。
年を取るごとに焦っていく。
こんなところで自分の人生は終わりなのかと。

責められた側の「心の耐性」によって量刑が決まる危うさについて - いつか電池がきれるまで

確かに年をとれば心も穏やかになっていくと思ってたけど真逆だ。年とともに可能性の灯し火が消えていく。その焦燥感と「自分はここまでか」という諦念と絶望感が増幅してくる。そのマイナス感情が怒りになる場合も。

2023/03/13 18:59

b.hatena.ne.jpジーンが残せないなら、せめてミームだ。
ミームとは「文化的伝達物」という訳が分かりやすいだろう。
それは以前の記事でも紹介した。

gyakutorajiro.comもちろん人間には、ジーン(子孫)を残したいという本能だけでなく、ミームを残したいという欲望もあるという説もある。

「生きているだけいいってのは、動物のすることだ」と、最強伝説黒沢でも語られているように。

生きてりゃ勝利なんていうのは…動物の話だ……!
オレは…
人間だ…!

人間は、動物と違う・・・!
決定的に違う・・・!
生きてりゃいい・・・生きてりゃ十分なんて・・・
誰が思うかよ・・・!

理想があるんだよ・・・・・・!
みな・・・!
みんなそれぞれ理想の男像・・・・・
人間像ってのがあって・・・
そういうものを・・・

目指すから人間だっ・・・!

(引用元:「最強伝説 黒沢 3 [ 福本伸行 ]」)

生きてきたからには、自分の足跡を残したい。
自分の脳(memory)が生み出した存在を、多く人の脳に伝達したい。
遺伝子のように、自分の複製物を社会に広めていきたい。

 新登場のスープは、人間の文化というスープである。新登場の自己複製子にも名前が必要だ。文化伝達の単位、あるいは模倣の単位という概念を伝える名詞である。模倣に相当するギリシャ語の語源をとれば〈mimeme〉ということになるが、私のほしいのは、〈ジーン(遺伝子)〉ということばと発音の似ている単音節の単語だ。そこで、このギリシャ語の語根を〈ミーム(meme)〉と縮めてしまうことにする。私の友人の古典学者諸氏には御寛容を乞う次第だ。もし慰めがあるとすれば、ミームという単語は〈記憶(memory)〉、あるいはこれに相当するフランス語の〈meme〉という単語に掛けることができるということだろう。なお、この単語は、「クリーム」と同じ韻を踏ませて発音していただきたい。
 
 旋律や、観念、キャッチフレーズ、衣服のファッション、壺の作り方、あるいはアーチの建築法などはいずれもミームの例である。遺伝子が遺伝子プール内で繁殖するにさいして、精子卵子を担体(たんたい)として体から体へと飛びまわるのと同様に、ミームミームプール内で繁殖するさいには、広い意味で模倣と呼びうる過程を媒介として、脳から脳へと渡り歩くのである。科学者がよい考えを聞いたりあるいは読んだりすると、彼は同僚や学生にそれを伝えるだろう。彼は、論文や講演の中でもそれに言及するだろう。その考えが評価を得れば、脳から脳へと広がって自己複製するといえるわけである。
 
 私の同僚のN・K・ハンフリーが、本章の初期の原稿を手ぎわよく要約して指摘してくれているように、「……ミームは、比喩としてではなく、厳密な意味で生きた構造とみなされるべきである。君がぼくの頭に繁殖力のあるミームを植えつけるということは、文字通り君がぼくの脳に寄生するということなのだ。ウイルスが寄生細胞の遺伝機構に寄生するのと似た方法で、ぼくの脳はそのミームの繁殖用の担体にされてしまうのだ。これは単なる比喩ではない。たとえば「死後の生命への信仰」というミームは、世界中の人々の神経系の一つの構造として、莫大な回数にわたって、肉体的に体現されているではないか」。

(「利己的な遺伝子 40周年記念版 [ リチャード・ドーキンス ] 」p296-297)

「独身である」という社会的属性も、1つのミームだ。
これは受動的な状態だが。
「独身主義」というミームの場合、それを遂行しようとすると、ジーンを残すという点においてはマイナスに作用する。
しかし特定のミームを残す目的においては、プラスに作用する場合もある。

 ミームと遺伝子は、しばしば互いに強化しあうが、ときには相対立することもある。たとえば、独身主義の習慣などは、おそらく遺伝によって伝わるものではあるまい。社会性昆虫にみられるような非常に特殊な状況を除けば、独身主義を発現させる遺伝子は、遺伝子プールの中での失敗を運命づけられているからだ。しかし、独身主義のミームには、ミーム・プールの中で成功しうる可能性がある。たとえば、ミームの成功は、それを積極的に他者に伝えるために人々がどのくらいの時間を費やすかによって決定的に左右されると仮定してほしい。そのミームを伝達しようとすること以外に費やされたすべての時間は、そのミームの立場からみれば時間のむだ使いとみなされよう。
 
独身主義のミームは、聖職者たちから、まだ人生の目標を決めていない少年たちに伝えられる。伝達の媒体になるのは、各種の人間的影響力をもつもの、たとえば、話されることば、書かれた文字、人による手本等である。ここで、議論の都合上、大衆に対する聖職者の影響力が結婚によって弱められてしまうものと考えることにしよう。結婚が彼の時間と関心を大幅に牛耳ってしまうかもしれないからだ。事実これは、聖職者に独身生活が強要される際の公式な理由として提示されていることでもある。

もし万が一このような事態がありうるなら、独身主義のミームは、結婚をうながすミームよりも高い生存価を示しうることになろう。もちろんのこと、独身主義をうながす遺伝子などというものがあるなら、それについては、独身主義のミームとはまったく逆の結果になるはずだ。僧侶がミームの生存機械であるとすれば、独身主義というのは彼に組み込まれれば役に立つ属性である。独身主義は、多数の互助的な宗教的ミームの上に作り上げる巨大な複合体の、小さなパートーナーなのである。

(「利己的な遺伝子 40周年記念版 [ リチャード・ドーキンス ] 」p307-308)

映画「セッション」で、彼女に別れを告げるように。

hitocinema.mainichi.jpこちらの場合も、引き金をひくのは焦り。年こそ若いが、主人公は成功に取りつかれていて「文なしで早世して名を成したい、元気な金持ちの90歳で忘れ去られるよりも」というセリフまである。学年問わずに優秀な人材のみ集められたバンドに在籍しているのだから、すでに順調といっていいが、それがなおさら強迫観念に拍車をかけることにもなる。別れを切り出すのは、バンドに新ドラマーが加入して立場が脅かされたあと。

ねほりんぱほりんに出てたリーンFIREを達成した人のように、彼女を断捨離し、好きなことをする時間の確保を選ぶように。

togetter.comおそらく上の記事を書いた独身中年男性の増田も、無理にでも結婚できた可能性はあったかもしれない。
しかし大して好きでもない女性と無理矢理結婚してジーンを残すことよりも、独身主義というミームがプラスに作用する、何かしらのミームを大事にした。
それが「趣味」であり。
妻や子どものために嫌な仕事を続けてなくてもいいという「自由」であり。
コルムにおける「作曲活動」でもある。


だからコルムの気持ちはよくわかる。
わからないのはパードリックの方だ。

なぜコルム同様、パードリックも、独身男性でジーンを残すことが出来ないにも関わらず、代わりにミームを残そうと欲しないのか?


4.なぜパードリックはコルムと違って生きた証(ミーム)を残そうとする欲望が見受けられないのか

それはパードリックが「イニシェリン島で2番目に馬鹿だから」という理由もあるだろう。

filmarks.com「俺って一番馬鹿だと思われてないか?本当に思われてない??一番は圧倒的にドミニクだろ!!いや、まてよ。だとしたら2番目に馬鹿だと思われてないか?」

もしくは、パードリックが同性愛者だからだろうか。
独身でパートナーがおらず、ジーン(遺伝子)を残せないことは既にわかっていても、特に焦らず、達観していると。

同性愛とは、ジジェクによれば異性愛的空想によって生じる不安や反応、とあるが。

ジャクリーン・ローズが示しているように、メラニー・クラインによる精神生活の象徴以前的な拮抗の描写には類似の機構が含まれている。同じ一つの原因が、正反対の結果をもたらす――つまり、結果が根本的に決定できないような過程を起動することがあるということだ。過度の攻撃には攻撃の抑圧が対抗することもあれば、あるいはどんどん攻撃的になる上向きのらせんを引き起こすこともある。同性愛は、まさにあまりにも強い異性愛的空想によって生じる不安から出て来る。時によっては不安と罪悪感がリビドーの発達を抑制し、またある時にはそれらがリビドーの発達を強める(主体は、不安と罪悪感への反応として、立て直しという統合的作業の方へ押されるからだ)……。ここで重大な点を逃してはならない。抑圧された「多形倒錯」の反乱、あるいは何であれ、異性的なファルスの経済に対する反乱としてではなく、過度に強い異性愛的空想に対する反応として生じる。

(「仮想化しきれない残余 [ スラヴォイ・ジジェク ]」p58)

しかし、そういったパードリックの性的嗜好についての描写、過去の異性愛に関するエピソード等は、描かれていない。

またコルムの方は、同性愛者であることを疑われて激昂していたように。

nohouz.blog.fc2.comもちろんパードリックはそんなことを自覚していないと思われますが、教会の懺悔室で神父に同性愛を疑われて激高するコルムの意識には、友情を超えた(超えそうな)愛情があったと思われます。この閉鎖的なカトリックの島でふたりとも独身。同性愛者だと判明すること(自分にとっても)を恐れたコルムが、パードリックとの絶交を決意したのかもしれません。

コルムもパードリックも、同性愛者であることを窺えるシーンがあったようには思えない。

だからパードリックは、イニシェリン島で2番目、ドミニク(バリー・コーガン)の次に馬鹿であるがゆえ、ジーンもミームも残せず孤独死する未来が待ち受けていようとも、誰かとの競争心も芽生えず、コルムのような焦燥感も無く、怠惰な日々を過ごしているという説も、あながち間違ってない気もする。

しかし、もっと深い分析をしている人もいた。

www.ele-king.net孤島で素朴に生きているパードリックはいわばカトリック信者で、作品中の言葉に倣えば「いい奴」であることが最も大事なこと。彼は毎日、牧畜業に精を出し、働いた後は友人たちと楽しくビールを飲む。それ以上は望まない。神の恵みがそれ以上ではないからである。
・・・
「生産性」を重視するプロテスタントに、人間の力ではなく「神の恩寵」を重視するカトリックが反撃を開始し、いわば「宗教改革」に対する逆襲が始まったのである。

なんと、宗教改革のメタファーだと。
二人のそれぞれの生き方、パードリックはカトリック的、コルムはプロテスタント的だと。

その観点でもう1度映画を観ると、面白いかもしれないな。
カトリックプロテスタントの教義の違いは知らんけど。

また二人の生き方の違いについて、別のメタファーも見受けられた。
それが「驢馬」と「犬」だ。


5.パードリックが驢馬であり、コルムは犬である理由

驢馬は7つの大罪における怠惰、犬は強欲の象徴でもあるそうだ。
ただ、驢馬は淫欲の象徴として描かれる場合もあるし。

七つの大罪
〈憤怒〉〈傲慢(PRIDE)〉〈嫉妬〉〈淫欲〉〈大食(GLUTTONY)〉〈怠惰〉〈貪欲〉が七つの大罪である。これらの罪を犯した者は罰として地獄行きを宣告され、地獄ではそれぞれの罪に応じた罰を悪魔から課される。これらの罪はさまざまな持物をもった擬人像であらわされる。〈憤怒(ANGER)〉は自分の服を引き裂く女性、〈貪欲(AVARICE)〉は財布を手にしていることが多い。ダンテは『神曲』「地獄篇」(14世紀)で、高利貸しを地獄の第七圏に置いている。

〈怠惰(SLOTH)〉は怠けている情景によってあらわされる――この主題は17世紀のオランダ美術で好まれた。また、〈怠惰〉はニコラス・マースの『眠る女中とその女主人のいる室内』(1660年代)のように、居眠りをする女性や白昼夢を見ている女性として描かれることもある。〈淫欲(LUST)〉が怠惰な眠りを引き起こすことを暗示した画家もいる。また、淫欲の象徴として驢馬や豚を用いた画家もいる。オウィディウスによれば、〈嫉妬(ENVY)〉は不潔な日の当たらない家に巣食う。彼女は瘦せ衰え、病気で、その舌からは毒がしたたる。マンテーニャは『海神たちの戦い』(1470頃)で、〈嫉妬〉を瘦せこけた老女として描いた。

七つの大罪表』(部分:1480~85頃)で、ボッスは中央のキリスト像の周囲に罪を描いた。全体の円形は神の全知の眼をあらわしている。

(「西洋美術鑑賞解読図鑑/サラカー=ゴム(著者),川野美也子(訳者),高橋明也」p250)

七つの大罪 - 聖書研究wiki@trinity_kristo - atwiki(アットウィキ)

淫欲とは逆に、イエスの生誕を祝福する動物として、驢馬が好意的に描かれる場合もある。

 古今東西を通じて、動物は神話的、文化的、宗教的意味合いを与えられてきた。ギリシャ神話では、オルフェウスは音楽によって動物を馴らした。旧約聖書では、神はエデンの園で動物を創造し、アダムがこれらに名前をつけた。(『創世記』1:24~25)

ノアは箱船にのせるために動物のつがいを集めた。(『創世記』6:19)
これらの物語があらわしているのは、人間が動物と調和して暮らしていた時代である。しかし、そのような時代でも、人類は動物を大規模に殺して神に捧げものとした。神の世界に供物をしなければ復讐されると信じていたからである。

 中世の動物誌は現実と想像上の動物の諸特性を概略し、それらの動物に重要な道徳的な象徴体系を与えた。たとえば、猿(APE)は人間の本能をあらわすことが多く、人間の愛情、愚行、虚栄を諷刺するのに使われる。モレナールの『貴婦人の世界』(1633)では、猿が肉欲の象徴であるスリッパに足を滑りこませている。『猿の画家』(1740)で、シャルダンはこの動物を用いて、画家がいかに「猿真似をする」すなわち本質を模倣するかをあらわにした。また、19世紀には、カリカチュア画家たちが、学生たちを教師の真似をする猿として嘲笑した。

 神話において、猿ほど諷刺的ではないがやはり喜劇的な役割を与えられているのが驢馬(ASS)で、怠惰で愚鈍であると見なされることが多い。しかし、キリストの降誕においては、キリストを神の子として認めるのは卑しい牡牛と驢馬なのである。石臼を首に巻いた驢馬は、イサクの犠牲、エジプトへの逃避途上の聖母、キリストのエルサレム入城の場面に見られるように、従順を暗示している。

 

(「西洋美術鑑賞解読図鑑/サラカー=ゴム(著者),川野美也子(訳者),高橋明也」p236)

ここでいうキリストの降誕は、おそらくドメニコ・ギルランダイオ『キリストの降誕』を指していると思われる。

ameblo.jp

www.wga.hu

マリア、牡牛と驢馬、東方三博士(マギ)等がキリストを見守っている。

sononism.com『羊飼いの礼拝』
ドメニコ・ギルランダイオ
Domenico Ghirlandajo
サンタトリニータ(フィレンツェ)
1485年
美しく丁寧に描かれたマリアは、レースの被り物をかぶり幼子キリストを拝します。また、キリストを指し示す羊飼いはギルランダイオ自身だと言われています。画面左には、降誕の知らせを受けた博士たちの一団が、長い列をなして向かってくるが見え、ヨセフは目を上げて彼らの様子を確認しています。山々が美しく描かれ、遠くまでずっと抜けていく景色が美しく確かな技量が感じられます。

つまり、パードリックを象徴する驢馬は、ダブルミーニングの可能性はある。
コルムと違って目標もなくただ食えるだけの日銭を稼ぎ、毎日パブに行き酒を飲み、くだらいな会話で満足するという怠惰な日々の象徴でもあるが。

コルムと違って求めすぎず、節制し、倹約で、自傷行為も行わなず、従順に信仰と共に日々を過ごしていくというキリスト教的美徳の象徴にもなっている。

逆にコルムが飼っている犬、こちらはキリスト教において、貪欲の象徴らしい。

犬(DOG):美術では犬に多様な性質が帰されてきた。信頼できる誠実な動物である犬は、中世の墓では主人たちの足下にうずくまる姿で描かれたが、肖像画でも同様の性質をあらわしている。犬は見張り役でもある――古典の神話では、たとえば三頭のケルベロスは冥界への入り口に立っていた。犬が肉欲をあらわしたり、貪欲を意味することもある――顎にケーキをくわえながら、水を見下ろして水面に映ったものをとろうとしてケーキを落としてしまう寓話の犬のように。犬は聖ロクスの持物であり、ドミニコ会の場面での白黒のぶち犬は、会の名称による地口で、ドミニ・カネスすなわち「神の犬」として描かれており、異端をあらわす狼を追いかけている。

 

(「西洋美術鑑賞解読図鑑/サラカー=ゴム(著者),川野美也子(訳者),高橋明也」p212)

では妹のシボーン(ケリー・コンドン)はどうだろう。
パードリックの驢馬を嫌悪するシーンはあった。
コルムの犬を嫌悪するシーンはあっただろうか、もう1度観ないとわからないが。

妹は結局、パードリックもコルムも、島自体を見限るかのように、島を出る。
島民のことを「ここには退屈な人しかいない」みたいに言うシーンがあった。

イニシェリン島ではない本土で、自分の知識や経験を活かした仕事をしたい。
兄の面倒を見ながら、退屈な日々を過ごす、ただ生きているだけのイニシェリン島の生活なんて抜け出したい。

movies.yahoo.co.jpそんな葛藤を抱えるシボーンに対し、死刑を見るのを楽しむような警官が「いきおくれ」と罵り、ゴシップ好きの女店主は「可愛げのない子だよ!」と罵倒してくる。しまいには一緒に食事するのも虫唾が走るようなドミニクに告白され、それを振る。下品な人間達に付き纏われ、蔑まれるしかない自分について考えると泣けて泣けて眠れないシボーン。

シボーンはスピードを求めてる。
仕事での達成感や、行き遅れと言われてしまう性的不遇を解消するには。
本土で戦争が行われていようとも、スピードのある社会に飛び込まないと実現は難しい。

 ヤン・デ・ボンの映画『スピード』が、ハリウッドのよく知られたカップルの生産手法の一変種であることを示すのは簡単だ。キアヌ・リーヴス(〇イの傾向があることはわかっている)を「正常な」異性との関係に入れるために、人質でいっぱいのバスという極めてストレスのかかる状況が必要である――映画は最も伝統的なエディプス的筋書きに沿って終わる(猥褻な父としての人物――デニス・ホッパー――を殺〇ことで、リーヴスとサンドラ・ブロックとの愛が確固たるものとなる)。

カップルを生み出すためにこのような極端なストレスを必要とするということが、今日における両性間の関係の混乱の指標であることは明らかだ。しかし、もう1つ、もっと深い(むしろ表面に近く、まさにそのために、今の話にはふさわしい)ところがある。最初にバスを乱暴にすること(その速さは時速八〇キロを超えていなければならない。それ以下になったとたん、爆弾が爆発するのだ)が、永遠の宙吊り状態として、ストレスのかかる終わりのない悪夢として経験される――我々の唯一の願いは、この事態ができるだけ早く終わることだ。しかしいずれ観客は、バスを乱暴に運転することは人生そのもののメタファーであることに気づく。人生も永遠の緊張状態、生き続けるとすれば、スピード(あるいは心臓の鼓動)がある速さ以下になってはいけない走りであるとすれば、待ち望まれる乱暴な走りの終わりとは、他ならぬ死だということになる。要するに、最初に生への脅威として体験されたことが、生そのものの究極のメタファーであることが明らかになるのだ……。

 

(「仮想化しきれない残余 [ スラヴォイ・ジジェク ]」p55-56)

シボーンには、自分は退屈な人にはならないぞという向上心がある。
何かを手にれるために、ある一定のスピード以上で生きる覚悟がある。
いや、無かったのかもしれないが。
イニシェリン島の、緩慢な日常に耐え切れなくなった。スピードが無い島の生活は、死とほとんど同じだ。
島の退屈な人間達と関わる中で、本土のスピードに自分を合わせようという、自己変革の意思が湧いた。

コルムと共通点もあるように見受けられるが。
しかしコルムには、島を出て、音楽活動に励むほどの力はもう残っていない。


6.まとめ

まだコルムの自傷行為や、ドミニクについても語り切れていないが。
また2回目に視聴して何か気づいたことがあれば語るか。

結末として、別にどの生き方が正しいだとか、そういうメッセージ性は無かったように思う。
ただパードリックは、幸せ者かもね。
ジーンもミームも求めようとせず、怠惰で退屈な日々を過ごそうとも構わないと達観できるメンタリティ。
シボーンやコルムのように、焦燥感や向上心を持つのが人間だと思うんだけどね。

「イニシェリン島で2番目に馬鹿である」ということを示すシーンは、パードリックがジーンもミームも求めない根拠に成り得る。
ただ、人間の本能や欲望として、子孫を残そうとしたり、金や地位や名声を求めようとする志向性はあるはずだ。
その執着を捨てているような、パードリックのようになるには、どうしたらいいのか…その答えは、この映画では示されていない。

だから余韻というか、モヤモヤが残る映画でもある。
パードリックのアナザーストーリーが必要だな。

WBCどうでもいいとか野球ハラスメントとか言ってるのは金がなくテレビが買えないミニマリストかチームワークが苦手だが自尊心は肥大化してるチー牛説

ニューヨーク嶋佐、やってもうたな~!

www.jprime.jp岡村のコロナで美人がお嬢やります発言に匹敵する失言かもだ。

こりゃまずかったか…いや、でもそんなおかしいこと言ってるか?
正直でいいじゃねえか。

小山晃弘はアウトだと思ったけどよ。

小山晃弘「大谷翔平、28歳なのに高校生みたいな顔してて正直キモい」

大谷はいい化粧品使ってるらしいから肌が若々しい。童顔や若さもネオテニーと言ってヘイトに変換…どういう人がこの人の有料noteを購読してるのか知りたい。誰かを叩くルサンチマンで保とうとする自己肯定感は脆いよ

2023/03/13 21:49

b.hatena.ne.jp嶋佐は他人非難ではなく、自分の好き嫌いの話じゃねえか。

普段は大して野球見ないくせに、みんなが応援して盛りあがってるから付和雷同して、便乗して、盛り上がって、流される生き方してるよりよっぽどいいぞ。

大谷翔平はそんな流される生き方してない。
このように、マンダラチャートで目標設定をしてよ。

自分を研鑽するために時間を使ってる。
時間がもったいないから牛丼だと…?もっといいもん食えるのによ。

bunshun.jpかたや同調圧力に屈し、野球をなんとなく観ている人々と大違いだ。
イチローあそこでよく打てた、感動をありがとう!
だと?
感動なんて別にねえよ。
あ、2009年だったか、今は何回だっけ?
まあ野球のパフォーマンスとしてすごいって場合もあるかもだけどな。

www.youtube.comたけしも言ってるだろ。

ワールドカップを観ていて相変わらず「感動をありがとう」なんて言ってるやつはもうてんで駄目なんだよ。ほんとうの感動は、やった奴しか分からない。
by ビートたけし

その通りだほんと。その話は去年も散々した。

gyakutorajiro.com自分の、自分自身が成し遂げた歓喜じゃねえんだよ。

この漫画の黒沢がいいこと言ってるよ。
テレビの向こうで活躍するサッカー選手達に対して、
「俺が求めているのは……オレの鼓動……オレの歓喜。オレの咆哮。オレのオレによる、オレだけの……感動だったはずだ!」
「他人事じゃないか…!どんなに大がかりでも、あれは他人事だ…!」
ってね。その通りだって俺は思ったよ。

野球も同じだよ。

たけしだけじゃねえ。
マルクスも言ってる、「スポーツは人民のアヘンである」みたいな話をな。

www.jstage.jst.go.jpしたがって、第一期の「マルクス主義の旗の下」で進められたスポーツ研究とは、スポーツという身体文化は資本主義を体現し、人々に現行の資本主義社会体制への従属を求めるイデオロギー的な産物ということを告発することを強く展開するものであった。つまり、スポーツは「資本主義社会体制を維持するための民衆のアヘンである」ということになろう。このような研究のテーマは、まさにブローム(Jean-Marie Brohm)の著作のタイトル『スポーツ:測定される時間の奴隷』(1978)に象徴されていた[Brohm,1978]。
それゆえに、残念ながらマルクスが『ヘーゲル法哲学批判序論』で指摘した「宗教上の不幸は、現実の不幸に対する抗議である」というフレーズへの関心はほとんどなされなかった。つまり、このフレーズを「スポーツを現実の不幸への抗議」として読み変え、スポーツの内在的原理から現代社会を批判する試みは、この時期においてマルクス主義的アプローチの主要なテーマとはなりえなかったのである。

なるほど、スポーツによって資本主義に即した身体の最適化、政治的意識の希薄化や忘却についての作用を研究した人はいたようだが。
その逆で、スポーツにおける身体表現が、政治的批判にも成り得るという話もあるようだ。

確かにそうだよな、カタールワールドカップの時もあったしよ。

amamako.hateblo.jpだが、やはりアヘン的な側面もある。
ちびまる子ちゃん」を読めばわかる。

さ~~~野球だ野球だァ ♪ビ~~ルと野球で この世はバラ色~タララ~♫

ちびまる子ちゃん 10 [ さくらももこ ]

グータラなヒロシが、テレビの野球の勝負に一喜一憂し、自分の人生の直視から目を背けてる。

最近行った洋食屋にテレビがあって、WBCのダイジェストみたいなのがニュースで流れててよ。
その洋食屋のホールのオジサンは、仕事そっちのけでそのテレビを観てた。
そんで「よし!」とか言って、仕事に戻ってたけどよ。

ここで「よしっ!」とした時、スポーツ鑑賞を楽しみ、自分の目の前の労働への集中力を失っている。
自分のホール仕事が希薄可され、労働のさなかに「楽しさ」が加わっているが。

それで何か、自分の日々が劇的に変わるというわけではない。
せいぜい、労働の疲労を慰撫し、メンタルが一時的に上向く作用はあるのかもしれねえけどよ。

まる子:フンだ 巨人が勝ったってどうせおフロ入ってねるだけじゃん べつにどうってことないじゃん

ヒロシ:勝ったーっていう気分でフロ入るのがいいんだよ


ちびまる子ちゃん 10 [ さくらももこ ]

まる子がいうように、どうってことねえだろうよ。

また2009年のWBCの時、自分はちょうど会社で仕事中だった。
なぜか課長がテレビを付け、一同でWBCを鑑賞した。
皆が沸き上がっていた、仕事中なのに。
その空気を許す。国民的イベントだからか知らねえけどよ。

そのため、スポーツには薬物的な陶酔作用や、労働の辛苦を希薄化する作用があり得る。

また、上記で紹介した論文に「ヘゲモニー」という概念が出てくるが、これは野球観戦を半強制する空気の形成と関わってる。

navymule9.sakura.ne.jpこのヘゲモニー(hegemony):ヘゲモニーと は、人々による合意にもとづいた覇権や支配権のことをさす。マルクス主義思想家のアントニオ・グラムシ(1891-1937)は、強制や恐怖による権力支 配とは異なり、人々の合意による権力掌握のことについて指摘し、それをヘゲモニーと称した。これは、暴力や強圧的力により市民を屈服させるのではなく、合意を通して支配関係を確立するということである。つまり、力ずくの暴力ではなく、文化、道徳さらには教育というプロセス、さらには市民社会の確立や民主主義という政治制度がヘゲモニーの行使に関係しているのである。私たちは子供たちを学校に行かせたり納税したりするという、普通の市民的義務を果たすが、常に納得づくで行なっているわけではない、実際は政府や国家のイデオロギーが装置のように私たちを「それを行わなければならないよう」に仕向けていると考えられるのである

イデオロギーに似ているが、イデオロギーよりも気づきにくく、無意識的で、広範に影響を及ぼしている。

iss.ndl.go.jp12 Terry Eagleton,Ideology: An Introduction, Verso, 1991.(テリー・イーグルトン『イデオロギーとは何か』平凡社、1999年)、David McLellan,Ideology, second edition, Open University Press, 1995.
13 イーグルトンはグラムシヘゲモニー論にかんして以下のように述べている。「イデオロギーヘゲモニー、このふたつの用語の区別は、じっくり考えてみるにあたいする。グラムシヘゲモニーという語を、支配権力が、その支配体制に対して従属者から同意(concent)をとりつけることという意味で使っている―ただし、グラムシが、ときおり同意と強制(coercion)の両者を含めてこの語を使うことは事実である。さて、[ヘゲモニーには、]すぐに目につくイデオロギーとのちがいというものがある。というのは、イデオロギーは強制的に押し付けられるかもしれないというのが明らかだからだ。・・・ただしヘゲモニーはまた、イデオロギーよりも広い概念である。ヘゲモニーイデオロギーをふくむ。しかしヘゲモニーイデオロギーに還元されない。」Eagleton,p.112.240~241頁(p10)

いわば「合意形成のある特定の主義・主張・思想の行使」「空気のように無意識に作用する権力行使」みたいな訳が適切だろうか。

「日本代表を応援するのは、当然じゃない?」という空気感も、ヘゲモニーの一種だ。

じわりじわりと、頑張ってる日本人がいたら応援しなければならないと、身体が組織化されていく。

思い出してみてほしい。
中学や高校の時、なぜか野球部の試合の応援に、駆り出されたことはないだろうか?
あれも変だよな。
なんで卓球部とかカバディ愛好会とか三国志研究会の試合じゃなく、野球部の試合なんだよ。
吹奏楽部も暑い中、駆り出されたりよ。

bunshun.jp コロナ禍でブラバン応援が禁止された大会もあったが、今年は50人という演奏者の人数制限こそあったものの、平時の応援風景が戻ってきていた。地方大会でさえ、1回戦から吹奏楽部を動員して全校応援をする学校も多い。

そう、この野球というスポーツは、もはや生活に浸透している。
その覇権的力は、やはり野球の性質、資本主義との相性の良さにもあるだろうな。

それは大きく4つの要素がある。
1つずつ挙げていこう。


まずは「剛速球」だ。
大谷翔平や佐々木朗希が投げる100マイル(160km)オーバーの球。
これは直線的時間を礼賛する資本主義と非常に相性がいい。

とにかくスピードを出せ、PDCAを回せ、金を稼げと、速度を求める資本主義的加速主義の礼賛。


資本主義は直線的速度が求められる。
命を削り、短時間で最大の売り上げを計上する至上命題を多くの企業は課す。

うわーーっ!!
50キロオーバーのスピード違反だ!!
下手したら交通事故だ!!

 

闇金ウシジマくん(10)[ 真鍋昌平 ]

剛速球はその象徴として機能する。
だから剛速球を投げる人間は、資本主義社会の価値を示すアイコンとして礼賛される。

次に「時間の長さだ」。なかなか終わらない。2時間も3時間も費やす。
だがその時間の長さが大事だ。
覇権的スポーツの地位になったのは、長い人間の人生を象徴するからだ。
陸上競技の短距離種目のように、あっけなく終わっては困る。


さらに「チームプレー」だ。
個人競技であるテニスがそこまで盛り上がらないのは、人生が個人競技ではないからだ。
大体の人間は、会社等の組織に所属し、チームの一員として労働を与えられる。
その日々の所作や労働に、最も類似するリアリティを持つスポーツが野球だ。
「組織のためなら、チームのために自分を捧げる」という自己犠牲の精神を養うのにも野球はうってつけだ。デッドボールで塁に出たりな。


そして「逆転劇が起きる可能性の高さ」だ。
ルーザーになりそうだったのにウィナーになる。人生にもそれぐらいの起伏があってくれないと困る。

つくりもののドラマとは違うんだよ
野球はなァ
毎回毎回泣いて笑って最高の娯楽なんだっ!!

ちびまる子ちゃん 10 [ さくらももこ ]

久保田利伸の唄みたいに、グランドスラム(満塁ホームラン)で逆転するみたいな攻防戦もあるだろうよ。

www.youtube.comつまり野球とは人生を象徴するのにうってつけのスポーツで、それゆえ共感や感情移入しやすい側面があるのかもしれない。

でも共感できないやつもいる。
それは教育の失敗だ。


学校でソフトボールの授業があっただろう。
あれは球技を教えているというか、企業の一員として働くに際し、チームプレーを擬似的に学ぶ訓練だ。
それにうまく適応できない子どもは、ソフトボールや野球等の球技に良いイメージを持たない。

だからチームプレーの大切さ等の観念形成が未熟となり、個人主義や自信過剰等が促進され、社会に出ても組織の一員として働くことに支障をきたす。

なんでこんな仕事せなアカンのや~~~!?
俺は人に頭を下げるようなレベルの低い人間とちゃうわ


漫画ルポ 中年童貞 [ 桜壱バーゲン ]

そして仕事を辞め、低所得になる。
金は無いが、プライドだけは高いがゆえに。
牛丼屋でアクロバティックなメニューを頼もうとする。
「自分は人とは違うんだぞ」という自己認識を加速させるセルフ・イニシエーションとして、チーズ牛丼を頼む。

そう、チームプレイではなく、チー牛プレイが加速される。
だからこの記事のタイトルにあるように、「チー牛=チームワークが苦手なやつ」の可能性がある。

それに気付いてる人もいるんだよ。

名越稔洋は炎上してしまったが、事実として、薄々感じているからだろう。
チーズ牛丼を食べているやつが、肥大化した自尊心を持っている可能性があるということを。

gendai.media「チーズ牛丼食ってるやつはヤバい」だと差別になるから、「チーズ牛丼食ってそう」と、柔らかく表現したけどよ。

【画像】最新の女版チー牛がこちらwwwwwwww : ていへん!!

IT企業社長が、680円のメニューを頼むやつに苦言を呈したのは、事実として、牛丼よりも高い価格帯であるチーズ牛丼を頼むところに、そいつの自己主張の強さや、客観的事実の否認、自画自賛的な自惚れが見え隠れするからだ。

itainews.com「カネがないという」低所得であるという客観的現実があるにも関わらず、肥大化した自尊心によってそれが抑圧され、制限された現実の中で個性を出そうとする涙ぐましい努力の結実、それが「チーズ牛丼」なんだよ。

だから人材として扱いにくい。
牛丼屋に来てるくせに、金ねーくせに、プライドだけはいっちょ前だ。
ルッキズムとか容姿の問題じゃねえんだ。
チー牛問題ってのは、自分のわがままやプライドを抑えてチームワークができるかどうかを量るリトマス試験紙だっつーことよ。


あとチー牛に似ているのに「ミニマリスト」がいる。
ミニマリストを自称しているやつも、チー牛同様、カネがないという現実が横たわっているにも関わらず、それを「ミニマリスト」という概念(奴隷道徳)で抑圧し、自分を美化するプライドの高さが見え隠れする。

日経新聞の「風呂なし物件が若者に人気」記事に批判が殺到するワケ(マネーポストWEB) - Yahoo!ニュース

そうだよね。仕方なく住んでるのに「シンプルライフ」とか「丁寧な暮らし」とか「ミニマリスト」なんて美化するのはなんか、虚しい気がする。

2022/12/24 17:03

b.hatena.ne.jpだからチー牛やミニマリストは、自分の金がない稼げないという客観的現実を認めようとせず、ちっぽけな行動で自己ブランディングするんだよ。

その一例が「野球ハラスメント」よ。

woman.excite.co.jp《職場でWBC興味なくて見てないって言ってるのに昨日のWBC見た?って出勤すると聞かれるのなんなん》

《いい加減年寄りの野球ハラスメントにうんざり》

《サッカーの時も野球の時も興味が持てなくて今もリアルタイムで1度も観てないんだけど 仕事場とかで誰かにその話題を振られた時「観てなくて…」と答えると非国民扱いされるの意味わからん 応援したい人が応援するんじゃ駄目なの?》

周囲の「WBCを観て、応援して当たり前」という風潮に、SNSでは悲鳴にも近いような「興味がない」ユーザーの声も上がっている。

なーにが野球ハラスメントだっつーの。
そう、ここで俺は新しいルサンチマンを見つけた。
それが「能動的無関心」だ。


「野球を見ない」「興味がない」というどうでもいい自分の行為や感情等を「野球ハラスメント」と概念化し、自分がまるで特別なことを行ってるかのように、崇高化する。
だが実際、野球ハラスメントだとSNSでウダウダ言ってる自分と、大谷翔平やその他大勢の野球選手等の年収を比較した時、到底その人達に及ばないという客観的現実がある。

だからこそ無関心になった。

「野球ハラスメント」等といって他人を罵倒し、野球に能動的に無関心になることで、自分を崇高化するとともに、自分の経済的コンプレックス等を無意識的に喚起するスター選手から目を背け、自分の冴えない現実を抑圧しようとしてるんだ。

メジャーで活躍するのは、文化の違いや言葉のカベとか大変だけど、
目標に向かって障害を乗り越えていけたら人間的に成長出来るンで、
楽しいっス‼

チッ‼
将来有望な若いスポーツ選手の前向きな発言は、
正直、ヘコむ。
どう考えても俺の生活とはかけ離れていて、
どんな素晴らしい言葉も参考にならねェ。


(引用元:闇金ウシジマくん(8)[ 真鍋昌平 ]

これでわかっただろ?
「野球ハラスメント」とか言ってるチー牛やミニマリストも、ちびまる子ちゃんのヒロシも、怠惰なんだよ。

まるで贖罪のように、自分の非生産的な怠惰な日々を忘却するように、他人事である野球に熱狂し、全く自己研鑽を行わないヒロシと。

話題を振ってくれた人の気遣いや思いやりを「野球ハラスメント」と罵倒し、自分は忙しいだの他にやるタスクがある等と崇高化しているが、中身をよく見ると、大して金もねえ、何も築けてねえ、チーズ牛丼程度の贅沢で満足するチー牛やミニマリスト

どちらも「自分の人生と向き合ってない」という点で、情けねえ。
たけしが言うことが正しいよ。

www.asagei.com「感動ばっかりもらってどうすんだよ。たまには感動を与える側になってみろってんだ!」

大谷翔平は、フジテレビの社食で牛丼を食べただろうが、チーズ牛丼なんて食ってねえだろうよ。


チーズ牛丼で満足してる場合じゃない。

自分の悲劇的な現実から、逃げてはいけない。

フロイトによれば「勘違い」が起きた時、自分が無意識に抱いている偏見や抑圧していた感情や歪曲したい事実と対峙する契機となる

JALスマイルキャンペーン、色々と混乱があったみたいだね。

anond.hatelabo.jpまあ自分はJALではなく、ANA派だけどね。
陸マイラーANAの方が貯めやすいんじゃないかな。

メインのカードはリーダーズカードよ。

www.jaccs.co.jpこれはアフィリエイトリンクではないので、気にせずクリックしてくれ。案件探したが見当たらなかった。

昔、調べたことがあるが。
100円=1マイル以上を貯めるには、ANAとかJALの上位カードとか、アメックスとか、年会費が高いカードを手に入れなければならない。

しかしこのリーダーズカードは、1250円で11ポイント貯まる。(2023年3月時点)
つまり1ポイント、113円だ(1250÷11)。

そして1400ポイントにつき、ANAマイル960マイルと交換できる。
113×1400=158200円使えば、960マイルよ。
つまり164円で1マイル(158200÷960)…ANA一般カードの還元率0.5%を越えて、0.61%(≒100÷164)か。
悪くないだろう?


まあ旅行とかあんまりしない人はな。
Gポイントってやつに交換して、そのGポイント経由でTポイントにして、ウェル活をしてもいいし。
「Jデポ」っていうやつで、普通にカード利用分からキャッシュバックとかもできる。

興味ある人は申し込んでみるといい。

ちなみにハピタスから申し込んだ方がいい、1500ポイント貰えるからな。(2023年3月時点)

まあ、リーダーズカードの説明とは違って、ハピタスの方はアフィリリンクだけどよ。

上記の情報に価値があったと思ったら、仁義を通してハピタス登録してちょうだいや。

さて、軽くポイ活情報に触れたところで。
ANAマイラーの自分は、貯めたANAマイルで大阪に行くことにした。
毎週、火曜日の午後ぐらいかな、ANAの「トクたびマイル」ってのが掲載されて、少ないマイル数で飛行機乗れるのよ。

www.ana.co.jpJALスマイルキャンペーンの、ANA版みたいなもんだ。
すると「羽田空港関西国際空港」(3000マイル)、というプランがあったので。
このプランを申し込んで、大阪へ。

この「ミュシャと巡る旅」っていう展覧会に行こうと思ってたんだよ。

mucha.sakai-bunshin.com関西国際空港に到着。13時過ぎぐらいだったかな。
だが、空港を降りてすぐの飲食店に入るなんて無粋だ。
せっかく旅行に来たんだから、珍しい、地元の人が行くようなお店に行きたい。
だから空港内はスルー。

エアロプラザ(AEROPLAZA)の中も行ってみたけどね。

飲食店も、営業していない店が多く、スルーだ。

「東洋のベニス、堺でうまいもん食うたるで~」ってことで。
適当に調べたところ「堺カリー」ってのがあることを知った。

よし、昼は大阪カレーじゃ。大阪は最近、スパイスカレーのお店が増えてるっていうしね。

三国ケ丘駅から路線バスに乗り、向かう。
徒歩で歩くと…到着。時刻は14時20分ぐらいにもなっていた。

なんじゃ~こりゃ~テイクアウト専門かい!

せっかくバスを乗り継いで来たのによ…。
仕方ないので、周辺で食べられる店はないか探した。

「中国酒菜 華」は営業終了…確かに、もう14時40分過ぎてるし、いい時間帯だわね…。

パティスリーラボソアラ、うーん、スイーツは食後にしたいよね。

ここはどうだろう。

むぎまる、美味そうだ。ネギたっぷり、ネギヤキがあるかな~。
ガラガラと、中に入る、

誰もいない。
そりゃ15時前だからな…奥に人の気配はしたけど、今から呼んで作ってもらうってのもな…諦めて外に出る。

大失敗だ。素直に関西国際空港の中で昼食を食うべきだった。
そもそもANAの出発時刻だよ。
羽田空港12時出発、13時ちょい過ぎに関西国際空港に着いたから、堺まで移動してると14時過ぎになるわな。
だから11時のフライトにしてくれたらよかったのに…って、完全に個人的なワガママだけどね。

「炭火焼鳥 将吉」は、弁当は売ってそうか。いや弁当じゃなくて店内で食べたいよ。


力餅食堂」は、昭和レトロ感あっていいけど…うどんの気分じゃないなぁ。

 

お好み焼あじ房」…も、15時前だからさすがに営業してない。
お好み焼き、くいてー!

Pinksは営業してるみたいだったけど、カフェだしなぁ。

COFFEE SHOP DONKEY、いやコーヒーは食後だからなぁ。

Gelateria、店構えはいい感じ。でも先にメシを食いたい。


結局、彷徨った挙句、ジョリーパスタ大仙店へ。

ジョリーパスタなんてどこにでもあるチェーン店に行くなんてね…。
1月に紀伊田辺市を観光してる時も、ジョリーパスタ田辺新庄店、見かけたよ。

iine-y.com

まあサーモンといくらの明太子クリーム、美味かったけどよ。

ただ、このチェーン店に来たには理由がある。
態勢を整えようと思ったんだ。

目的はミュシャ展、「ミュシャと巡る旅」を、楽しむことだよ。
だからここから堺市博物館まで、バスを使うか徒歩で行くかタクシー呼ぶか、考えようと思って。


でも調べたら、ジョリーパスタから歩いて1kmぐらいだったからね。

よし、徒歩で行こう!と思ったんだけど…。
ふと地図を見て思った。
あれ、堺市博物館で、百舌鳥古墳があるとこだったか?
ミュシャの展示が古墳ある所でやってる?

なんか変だな…と思い、堺市博物館のホームページを見る。

www.city.sakai.lg.jpああ~間違えた!
ここじゃない、ミュシャやってないわ~!

こっちやがな…。

mucha.sakai-bunshin.com堺市博物館ではなく、堺市立文化館やないか~い!


ってね。パスタ食べ終わってから気付いたよ。
しかも15時まわってて、ミュシャ館の閉館時間も近い…あー、行く気なくした、もうええわ。

JR堺市駅で降りたら、すぐにアクセスできたのによ。
大体、カレー食いたいからって、三国ヶ丘で降りてウロウロしたのが間違いだ。いや、そもそもさっきも言ったが、関空に着いたのが遅すぎた。

しかし食い意地だけだろか。
そもそも、この勘違いは、どこで生じたのか。
それはもしかすると「あらかじめ形成されていた堺市に対する印象」が、影響したのかもしれない。

だから勘違いした。
ジークムント・フロイトは「勘違い」が起きる際、人間にどのような心理的機制が発生しているかを分析した。

 私は友人や患者の夢を報告したり夢分析の中で暗に言及したりすることがあるが、彼らが、一緒に体験した出来事の様子について私が不正確に語っていると指摘してくれることがこれまで何度かあった。考えてみれば、これもまた歴史的な勘違いであろう。間違いを訂正したあと、個々の事例をあらためて検証してみたが、そうするここでもやはり同じように、具体的な点に関して自分の想い出が不正確であったのは、私が分析において意図的に何かを歪曲するか隠すかした場合に限られるということが確認された。ここでもまた、気づかぬままに生じる勘違いは、意図的な黙殺や抑圧に対する代償として生じていたのである。(6)

 抑圧に由来するこういった勘違いと、実際の無知に起因する間違いとは明確に異なっている。例えば私がヴァッハウ地方(7)に行楽に出かけた際に、革命家フィッシュホーフ(8)の住んだ土地を通ったと思ったのは無知ゆえである。単に二つの土地の名前が同じだっただけのことで、フィッシュホーフのいたエンマースドルフは、ケルンテン地方にある。だが、私はよく知らなかったのである。(9)


(6)これの一例と見なしうるものが、『ヒステリー研究』(一九八五年、英語版全集二巻)、三〇七ー三〇九頁の付録Aで論じられている〔これは英語版全集の編者による注記であり、『ヒステリー研究』(日本語版全巻第二巻所収)の中で論じられるエミー・フォン・N夫人の症例に関して、その治療の時期や場所が従来のドイツ語諸版での記述に互いに矛盾があって一定していないことを指摘している。編者はそこで、フロイトが婦人の身元を隠すために治療の場所や時期を故意に歪曲しながら、その架空の時期や場所をその後、一貫して維持することを怠った可能性があるとしている。この英語版全集編者の指摘は、日本語版全集第二巻では、「病歴A」の編注(1)として、一部省略した形で紹介されている(四〇一頁)〕。
また同様の機制の一例が「十七世紀のある悪魔神経症」(一九二二年)に付された原注の中で論じられている〔同第十八巻、二二三頁〕。

(7)オーストリア北部、ウィーンよりいくらか西寄りに位置するドナウ河沿いの渓谷地帯。風光明媚で、デュルンシュタインやメルクの修道院など名所や史跡も多い。メルクの修道院の対岸、やや北東寄りにエンマースドルフという町がある。
(8)アドルフ・フィッシュホーフ(一八一六―九三年)。ハンガリーの出身でウィーンにて勤務医をしていたが、四八年のウィーンの三月革命で指導的な役割を演じた。革命が挫折したあと、逮捕されたが釈放され、医業に専念した。しかし間もなく健康を害して医師を廃業したあと、ふたたび政治評論などで活躍した。晩年をオーストリア南部ケルンテン地方のエンマースドルフで過ごし、その地で亡くなった。
(9)この例は『夢解釈』でも取り上げられている〔日本語版全集第四巻、二七五頁〕。

(「日常生活の精神病理 (岩波文庫 青642-1) [ フロイト ]」p384-385)

無意識に造形が深いフロイトでさえ、歪曲したい事実があり、それを「勘違い」によって実行してしまった。

例えば、思い出したが木島佳苗もそうかもしれない。

www.sankei.com状況が悪くても、ひたすら無罪を主張する。
まあこれは「勘違い」というより「自己暗示」かもしれないし、「演技性人格障害」と言う人もいるけど。

unagiinuu.seesaa.net抑圧したい現実、歪曲したい事実がある際、その欲望によって「勘違い」を発生させる心理的機制が、人間にはある。

フロイトはその実例を、他にも紹介している。

 四 もうひとつ、やはり恥ずかしいが教えられるところの多い勘違いで、一時的な無知とでも言うべき例を挙げる。ある時ひとりの患者が、私に、約束したヴェネツィアについての本を二冊貸してほしいと催促した。復活祭の旅行の下調べをしたいのだという。私は、もうそれは用意してあると答えて、本を取りに書斎に行った。しかし、実は、私はそれらを探し出しておくのを忘れていた。私は、その患者が旅行に行くと治療に余計な支障をきたす上に、医者にとっては経済的な損失になると考えて、その旅行に必ずしも賛成していなかったからである。というわけで、私は、書斎に入って、急いで辺りを見回し、かねてより目星をつけていた二冊の本を探した。一冊は『芸術の町ヴェネツィア』であるが、もう1冊、私は似た叢書の中の歴史関係の本を持っているはずである。そう、これだ、この『メディチ家』がそれだ。私はその本を手にして、待っている患者にそれを持ってゆくが、そこで恥じ入りながら自分が勘違いしたことを認める破目になる。実際のところ私も、メディチ家ヴェネツィアと何の関係もないことくらいは知っている。だが、ほんのしばらくのあいだおよそ見当違いとは思えなかった。ここで私は公正な振る舞いに出ることを迫られる。この患者には、再三、彼自身の症状行為の裏に何があるかを言ってきた手前、彼に対して自分の権威を守るには、このさい率直に開き直り、これまで隠していた、彼の旅行に対して自分が気乗りしない動機を告げるほかなかった。
 
 総じて、人間の中にある、真実を通すべきだとの圧迫は、通常、考えられているよりも遥かに強い。まさかこれほどまでに強いとは、と驚かされる。ちなみに、私が今ではほとんど嘘をつけないのは、精神分析に従事していることの結果なのかもしれない。何かを歪曲しようとしても、そのたびに勘違いや別の失錯行為をしでかし、そこから、右の例やその前に挙げた一連の事例のように私の不正直が露呈してしまうのである。

(「日常生活の精神病理 (岩波文庫 青642-1) [ フロイト ]」p385-386)

フロイトは患者に、旅行に行ってほしくなかった。
旅行になんて行かず、患者として診療に来て、顧客としてお金を落とし続けてくれと。個人的な経済的利益という欲望によって「勘違い」を起こした。

他にも、前の記事に書いたように、Colaboは気に食わないと無意識に思っていた。
だからファクトを検証することなく、「(日常的に)1食8300円の食事をしている」と、勘違いを起こした。

gyakutorajiro.comアベ政治に嫌悪感があった。
だからコロナ禍で困窮者が増えたのは自民党のせいだと「勘違い」して、侮辱する。

togetter.com困窮の要因は家庭環境が大きいだろう。

親が子どもの将来の年収に与える影響

http://www.isfj.net/articles/2017/%E3%80%90%E6%95%99%E8%82%B2%E2%91%A0%E3%80%91%E3%80%90%E9%9D%92%E5%B1%B1%E5%AD%A6%E9%99%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%80%91%E3%80%90%E5%AE%89%E4%BA%95%E5%81%A5%E6%82%9F%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%E3%80%91%E3%80%90%E6%98%9F%E9%87%8E%E6%84%9B%E7%BE%8E%E8%8E%89%E3%80%91(%E8%A6%AA%E3%81%8C%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%AE%E5%B0%86%E6%9D%A5%E3%81%AE%E5%B9%B4%E5%8F%8E%E3%81%AB%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%82%8B%E5%BD%B1%E9%9F%BF%E2%81%BB%E7%BF%92%E6%85%A3%E3%82%84%E8%A1%8C%E5%8B%95%E3%81%AE%E8%A6%B3%E7%82%B9%E3%81%8B%E3%82%89-).pdf

自民党政権がどれだけ影響を及ぼしたのかというファクトの検証は難しい。

陰謀論かファクトか、その線引きも個々人で異なる。
線引きは「勘違い」で行われる場合もある。

togetter.com根拠薄弱で陰謀論でしかない場合もあるし、説得力のあるエビデンスがあり事実と認められる場合もある。


お笑いもそうだ。
決めつけ、偏見、思い込み…いわゆる一種の「勘違い」で笑いを取る場合もある。

bunshun.jp自分が好きなコメディアン、西麻布ヒルズは紹介されてないようだ。
西麻布ヒルズ 黒人差●漫才」で検索してみてくれ。

 勘違いの機制というのは、あらゆる失錯行為のうちでも、どうやら最も緩いものであるらしい。つまり、勘違いが発生するとき、そこでは当該の心の活動がそれを妨害する何らかの影響と闘っていると見て間違いないが、妨害的に作用するこの正体不明の観念の性質の如何によって勘違いの種類まで決まってくるということはない。ここであらためて補足しておくが、言い違いや書き違いなどの多くの単純な例においても事情は同じであろうと推定される。つまり、私たちは、自分が言い違えたり書き違えたりする際、そこに常に意図以外の心的な働きによる妨害があると推定してもよいだろう。ただし、言い違いや書き違いは、似ているから、そのほうが楽だから、あるいは手早く済ませたいから、といった原則に従いはするものの、妨害的な要因が、言い違いや書き違いとして結実する錯誤の中に、固有の性格を首尾よく定着させることが往々全くできないでいることも確かである。言語的な素材(10)が迎え出てくることによって初めて、どのような錯誤となるかが決まりまたその決定の幅も狭まってくるのである。

 自分の勘違いを挙げるだけで済ますのも何だから、なおいくつかの事例を紹介しておこう。もっともこれらの例は、言い違いや取りそこないの項で挙げてもよかったものばかりである。ただ、これら失錯行為の各様態は、その価値についてはいずれも変わらず、何かが別のものに比べて特に高いというのでもないから、どこに挙げるかは特に意味はないと言わねばならない。

(10)本書四六九頁参照フロイトは言語のこの特性についていくつかのところで言及している。『夢解釈』では、「縮合」に関連して「単語は様々な表象の結節点として言わばあらかじめ曖昧であることを運命づけられている」〔日本語版全集五巻、八一頁〕と述べている。また『機知』では、駄洒落に関連して『単語は柔軟な素材であって、どうとでもなる』とも言われている〔同第八巻、三十六頁〕。さらに『グラディーヴァ』論(千九百七年)で、フロイトは、両義性が「語りの素材の可塑性ゆえに」可能となると指摘している〔同第九巻、九十六頁〕。

(「日常生活の精神病理 (岩波文庫 青642-1) [ フロイト ]」p386-387)

さて、では今回、自分が起こした「堺 アルフォンス・ミュシャ館」(堺市立文化館)と「堺市博物館」の勘違いは、なぜ起きたのだろうか。

抑圧されている無意識の欲望や偏見が妨害したことによる勘違いか?
それとも、単なる無知による勘違いか?
おそらくその両方だと思われる。

正直、堺市については詳しくないし、ミュシャ展があるから行こうと思っただけで、愛着もない。
むしろ恐怖というか、ネガティブなイメージがあった。
大阪はキタが上品なエリアで。
南はいわゆる「ミナミの帝王」や「ナニワ金融道」の舞台のイメージ。
まあそのドラマが指すミナミは、難波とか天王寺とか辺りだろうけど。

しかし大阪の南、岸和田だんじり祭りだとか、堺市のヤンキーのドキュメントみたいなのをテレビで見た記憶が、自分にはあった。
だから堺市=ヤンキーが多いというイメージが形成されたし。
実際、そのイメージと事実のギャップは、そこまで大きくないと思われる。

daiwaryu1121.comいわゆる大阪のサウスサイドに対する偏見だ。

そもそも「サウスサイド」、南というエリアは「治安が悪い」という偏見が、自分にはある。
横浜市よりも川崎市の方が、そして南部の方が怖いイメージがある。
北部はオザケンで、南部はBAD HOPだからな。

badhoppress.comアメリカのシカゴも、サウスサイドは危険だと言われているし。

www.famitsu.com名古屋も南区については、こういう動画があったりするからな。

www.youtube.comだから大阪の南の堺市も、兵庫県姫路市で俺をカツアゲしようとしてきた、ウシジマくんに出てくるようなヤンキーDQNみたいなのが多くいるんじゃないかってね。

(「闇金ウシジマくん(9)[ 真鍋昌平 ]

そんな町に、博物館といった文化施設が2つも3つもあるか~!?

という偏見、無意識に抱いている、大阪サウスサイドへのネガティブな印象。
その無意識が、単なる情報の不足とは別に、「勘違い」を起こした原因にもなっているかもしれない。
堺市博物館だろう、たぶん。何個も美術館とかねえだろ」といった抑圧されていた思い込み、見通しの甘さ、堺市に抱いていたネガティブなイメージが、正しい認知を妨害した。

だから「勘違い」が起きた時、それは1つのチャンスでもある。
自分の無知だけでなく、無意識に抱いている偏見や欲望や感情にも気づくことができるかもしれない。

さて、堺市ミュシャ展は逃してしまったけど。
八王子市夢美術館でやるみたいだから、こっちに行こうかな。

www.artagenda.jp
ちなみに、昼はジョリーパスタというチェーン店に行ってしまい、勘違いも起こしてしまったが。
夜は西成の「ホテル中央Bridge」という、3000円台の激安ホテルに泊まって。

iine-y.com芸人のギャロップ林がおすすめしてたホタテチャーハンも食べることが出来たので。

solomeshi.net概ねその日の夜に、大阪旅行の失敗は挽回できたかな。