逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「たった1件」というファクトを削ぎ落として日常的に「Colaboが一食1人8300円の食事をしている」と誤解釈されるように情報を改変したくなる理由をスラヴォイ・ジジェクによる「クレーヴの奥方」の分析とともに解説

先日、横瀬町で観音信仰のルーツを知り、そしてその霊場がコンビニみたいに増えている件から、宗教法人という存在自体に公金を投入したり税金を優遇するメリットあるのかな?と、考えたりしてその話を書いた。
「じゃあ調べたらどう?」と、ブコメで言われたりもしたけどな。

gyakutorajiro.comまあその件はさておき、Colaboの件で別の、人間の醜い欲望を垣間見てしまったっていうのかな。
無意識を研究するこのブログに相応しい事態が起きたので、紹介する。


住民監査請求の結果に対して、「Colaboが都民の税金で一食1人8300円の食事」みたいな話が、チラホラ見受けられた。

getnews.jpマジか?それはよくないなと思って俺も調べてみたらよ。
なんだよ、たった1回じゃねえかよ。

ひろゆき on Twitter: "税金を払う多くの庶民は、一食1000円以下で暮らして納税します。 一方、一般社団法人Colaboが、都民の税金で一食1人当たり8300円の食事をしても問題ないという事になりました。 まともに働いて納税するより、公金チューチューした… https://t.co/itkndTMHhv"

ファクトチェック <a href="https://www.kansa.metro.tokyo.lg.jp/PDF/08jumin/4jumin/4jumin5_sochi2.pdf" target="_blank" rel="noopener nofollow">https://www.kansa.metro.tokyo.lg.jp/PDF/08jumin/4jumin/4jumin5_sochi2.pdf すれば1人当たり8300円はたった1回。それを頻繁に行っているかのように印象操作する。自分の幻想(Colaboは悪)を信仰するためファクトを捻じ曲げる

2023/03/06 12:20

b.hatena.ne.jpひろゆき、残念だな。

この動画とか観たら、ファクトによって物事の真偽を検証していく弁舌が痛快だなと思ったりもしたのによ。

www.youtube.com別にこの人は、ファクトに誠実なんかじゃなくて。
皆が興味・関心を持ってくれる盛り上がりそうなネタを、一番リツイートされて共感を生むような意見に仕立てて流し、共感やファンを得ていてるだけの風見鶏な気がしてきた。

なんでこんな、いつも高いメシ食ってるみたいに誤解されるような情報の流し方をするのか?そしてその、Colaboへの捻じ曲がった糾弾をリツイートしたり、共感したり、信じてしまうのか?

その行動の謎を解き明かすヒントを見つけた。
それはラファイエット夫人クレーヴの奥方」という小説にある。



この小説の、スラヴァイ・ジジェクによるジャック・ラカン精神分析を用いた分析だ。
以下、引用とともに解説していく。

ラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』では、「夫の死後、奥方が熱く愛しあい、もはや法的・道徳的障害もないのに、ヌムール公と結婚しないのはなぜか」という謎への答えは、二重になっている。

まず、自分が公爵を愛したがために亡くなった、すなわち、自分の妻が公爵とともに二晩を過ごしたと考えた嫉妬の苦しみに耐えられなかった、優しい愛する夫の記憶。

彼女にとっては、夫の記憶を裏切らない唯一の方法は、公爵との関係を避けることである。


ところが、小説の結末となる、長い衝撃的(トラウマティック)な会話で、公爵に対してあからさまに認めるように、この理由だけでは足りないとし、十分な強さがない。別の不安と懸念によって、つまり男の愛が一時的であるということの自覚によって、維持されなければならないのだ。

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p78-79)

小説の全景は、この一節だけではわからないが。
どうやら奥方は未亡人であり、結婚しようと思えば公爵と結婚することができる。

ド・クレーヴの思い出のおかげだと思っていることは、私自身の心の平安という理由によって支えられていなかったら、弱かったことでしょうし、そう思える根拠は、義務という根拠によって維持されなければならないのです。(19)

(19)Madame de Lafayette,The Princesse de Cleves,Harmondsworth : Penguin Books 1978, p170.〔生島遼一訳『クレーヴの奥方岩波文庫など〕

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p79)

ド・クレーヴは亡き別れた夫のことだろう。

しかし、公爵と結婚しない理由は、旦那との思い出、記憶を裏切らないためだけではない。私自身の心の平安、だけでは弱い。
義務という根拠、が必要だった。

「公爵との結婚拒否」が維持されなければならない理由について、ジジェクはさらに以下のように分析する。

奥方は、公爵の自分への愛がすぐに満たされないからこそ、すなわち、そこへの障害が乗り越えがたいからこそ長続きし、確かなのだということをよく知っている。二人が結婚したりすれば、公爵の愛はたぶん冷め、別の女に見とれ、そうした未来の苦しみを考えることは、奥方には耐えがたい。

そこで、まさに二人の愛情を絶対で永遠のものに維持するために、二人は別々にいて、「肉の様式」、時間とともにやってくる価値の下落を避けなければならないのだ。「なぜ運命は、私たちの間にこのような乗り越えられない障害を置いたのでしょう」という奥方の嘆きの後、公爵は非難めいて答える。「障害などないのです。私の幸せに立ちふさがるのはあなただけです。あなただけが自分を何かの法に従わせている。道徳も理性も、そんなことをせよとは言っていないのに」。それに奥方が答える。「私の頭だけに存在する義務の観念に、多くものをささげているのは確かです」

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p79)

別々に住むという肉の様式、「公爵と結婚しない」という法は、なぜ必要か。

われわれの欲望を妨害する単純な外部の障害と、欲望そのものの根幹をなす、内側の、内在的障害とが対置される。あるいはラカン的に言えば、われわれの必要を外部から規制するものたる法と、内在的裏面、欲望の構成要素であり、結局はそれと同一である〈法〉との対置だ。

ここで重大なのは、「過剰決定」という基本構造である。すなわち、奥方は愛する人と結婚しないと決断する際、二つの理由に従っている点だ。

第一の(道徳的理由)が有効たりうるのは、第二の理由(「内面の平穏」、この先ある苦しみを避ける)によって支持されるかぎりでのことだ。
享楽(ジュイサンス)と快楽(プレジャー)の間の対抗的緊張の中で、象徴の〈法〉は、快楽原則の側にあり、快楽の当てにならない均衡を乱すような、〈現実〉とのトラウマを残す遭遇に対し、障壁として機能する。

まさにその意味でラカンは、象徴の〈法〉だけが、欲望を満たしきることに対する準・自然的障害を、禁止にまで高めると唱えている。

・・・主体の享楽への接近を担うのは〈法〉ではない――むしろそれは、ほとんど自然の障害から、取消線を引かれた主体を創造する。享楽に限界を立てるのは快楽、つじつまの合わない生活をまとめるものとしての快楽だからだ。(21)

不運なクレーブの奥方の場合、この快楽原則が優勢であることは、公爵と結婚しない本当の理由として「内面の平穏」への配慮を言うところに、明らかにうかがえる。奥方は「内面の平穏」すなわち均衡のとれた、恒常性(ホメオスタシス)による生活の方が、情熱的恋愛の苦しみに満ちた不安よりもいいのだ。

亡くなった夫の思い出のために公爵と結婚するのを妨げる禁止は、この快楽原理という「自然の障害」を道徳的禁止にまで高めた。このクレーヴの奥方の境遇から、「欲望は防御であり、享楽で一定の限界を超えてしまうことに対する禁止である」(22)という、ラカンの命題も把握できるようになる。

奥方の公爵に対する欲望を維持し、それを恒久化し、それを絶対なものに高める(公爵との結婚の)禁止は、公爵との関係を完成するという、過剰な享楽の苦しみに満ちた混乱に対する防御なのだ。真の〈法〉/〈禁止〉は、「徳と理性によって」、すなわちそれ自身の外にある代理者によって課せられるのではなく、欲望そのものに課せられる――欲望こそが〈法〉なのだ。

(21)Jacques Lacan,Ecrits : A Selection,New York : Norton 1977.p319.
(22)Ibid.,p332

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p79-81)

元夫を裏切らないという道徳的理由は、第二の理由「内面の平穏」を実現するためでもあった。
内在的障害と外部の法は表裏一体。
クレーブの奥方は、平穏な日々という欲望を充足させるため自身に内在的障害を課し、そして外部においては「結婚しない」という法を設けた。それは、精神的安定を保つ秩序として必要だった。


そう、ここでColaboの話と繋がる。
このクレーヴの奥方のメンタリティは、非常に、Colaboを叩いてる人達と似ている気がする。

クレーヴの奥方の「公爵と結婚しない」という欲望が、「Colabo叩き」に相当する。

そして享楽、ラカン的にいえばそれは現実界に相当するものだが、それはヘイトスピーチミソジニーの発露のような、非常に共感し難い、個人的な感情に基づいた欲動に相当する。

しかし、奥方が愛する人と結婚しないのは、これら二つの理由によるというのでは、話はすまない。奥方がそれらを上げるのは、第三の、もしかしたら決定的な、ある理由を隠すためだと言いたい。

それは享楽、すなわち、慎むという行為そのもの、愛する対象への距離を維持するという行為そのものによってもたらされる満足である。
この逆説的享楽は、対象のまわりを回り、何度もそれを外すことに満足を見出すものという、欲動の動きの特徴である。

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p82)

女性支援団体や、女性それ自身を、叩いて、叩いて、叩き続ける欲動の反復運動に快楽を覚えている。
「Colaboの会計に不正と認められる十分な証拠は無かった」というファクトが出ようが出まいが、「叩く」という行為それ自体に快楽を見出し、その享楽に没頭する。

それはつい最近、たぬかなが指摘したように。

gyakutorajiro.comそして最近、新たに、身長170cm以下人権なし発言で一世を風靡した「たぬかな」という女性が、こんなことを言っていた。

lgbtch.blog.jpこう一年もさ、ネットで私に付きまとう男って可哀想やなとつくづく思うねん

虚勢やなくて、ガチでその立場を案じた時に可哀想と思うねん。

やってさ弱者男性ってホンマに社会的な人権ないからね

男の弱者男性ってほんまの弱者やから生きてるだけでキツイやろ?

やってさ、他に勝てる競技がないねんもん 金すら稼げてない弱者男性の人生ってホンマに。キツいで

そら自分より金もルックスもある、周りからチヤホヤされてる女がたまたま問題起こしたらさ、

おうワイらの出番や!いうて我先にちっちゃい洞穴からわらわらと出てきてさ、徒党組んで生き生きと悪口並べ立てるよな

弱者男性が唯一輝けるのがネットで女をこきおろして叩く、それだけなんですよ

ネットで女をこきおろして叩く、その享楽に浸っていることを、明らかにされてしまった。

だが、そんな醜いヘイト運動を行っていると、そっぽを向かれるかもしれない。
馬鹿にされ、ネトウヨだのミソジニーだのと思われるかもしれない。世間体もよくないだろう。

だからそのヘイト感情を正当化するために、欲望の〈法〉を用意する。

つまり、(クレーヴの奥方の)三つの理由が〈想像界〉、〈現実界〉、〈象徴界〉の三項を指している。象徴界の道徳的禁止、快楽の均衡を求める想像界の配慮、欲動の現実界である。

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p82)

その法、道徳的禁止とは、いわゆる自分のヘイト感情を隠し「公金不正利用疑惑の追求」という大義名分、正義の仮面を用意して人前に出て、称賛され、応援されるための〈法〉だ。

gyakutorajiro.comColabo叩きをしている人の中には、バーハウやフロイトがいう転移感情によってミソジニーが醸成されている可能性があるということ。
醸成されたミソジニーと私怨によって、糾弾する対象が無意識的かつ恣意的に選ばれている可能性が高いって話だ。
普通にファクトを優先すれば、五輪談合の方が重大なのに。
なぜ、Colaboなのか。
すなわちそこには、自分の記憶の中にある、女性からの屈辱的な経験や記憶が転移した「転移性ミソジニー」がある。

自分の性的に恵まれない不遇な境遇、過去の欲望の未達によって、ネガティブな感情が醸成され、その嫉妬・怒り・恨み・辛みが、関係のない女性へと転移する。
しかし、その感情を正当化するルサンチマンに一定の品性を纏わせるために「公金不正利用疑惑」という正義の仮面を被る。
だが、その仮面の下には「お前ら女達は俺を愛さなかったからお前らに金をびた一文も出したくない」という、醜い私怨に満ちた感情が蠢いている。俺を苦しめた女性が苦しむ姿に喜びを見出してしまうというシャーデンフロイデだ。

理性的で、公金不正利用疑惑を追及している、正義感に満ち溢れ、弁が立つヒーローのように思われたい。

それによって、ミソジニー感情が根底にあるのではないのか?」「ヘイトスピーチではないのか?」といった、自分に非難が向けられるという、現実界のトラウマ的事態を避けることができる。

まとめると、ジジェクがいう象徴界の道徳的禁止が「Colaboへの公金不正利用疑惑の追求」であり、欲動の現実界「仁藤夢乃…女…腹立つ…叩いてやろう」というヘイト感情とバッシングの反復だ。
そして、想像界の理性的配慮によって、私的な快楽の充足(現実界)と、公益に寄与する正義(象徴界)のバランスを取ろうとする。

もし、公金不正利用疑惑という〈法〉(大義)もなく女性支援団体を叩いていたら、単にヘイトスピーチを流しているヤバい人だと思われて誰も相手にしてくれない。
そのために理性(想像界)を働かせ、法(象徴界)という制限の中で、誰にも共感されない欲動の享楽(現実界)に至ることがないよう、象徴界の中で、快楽の充足(Colabo叩き)を行う。

だが、その3つの均衡が狂った。

どこが狂ったかというと、象徴界(法)だ。

自分の中の正義、見立てでは「Colaboは公金チューチューをしている団体、私たちの税金を無駄遣いしている」と、考えていた。
だがそれは「厳然たる現実」ではなく「自分がそう欲望する秩序」に過ぎなかった。
現実は、たった192万の会計不備が明らかになっただけだった。

mainichi.jpそんなわけあるか?
Colaboは悪い団体だろ?そうだろう?そうに決まってる!なんでだ!?
ちゃんと監査したのか?
おーい!!


と、納得できない現実。

なんでだよ…うーん、待てよ。
この資料に、1食8300円だと・・・これだ!


そう、資料の中で、自分が欲望する〈法〉、「コラボは悪い団体」という秩序を証明するために、最も都合のいい情報を取捨選択する。

東京都監査事務局の監査結果において、「Colaboは悪い」ということを示す、最もインパクトのある情報を拾い上げる。
すなわち、以下の⑤番だ。

① 20,990円 食事代 12名(1人当たり1,749円)
② 29,710円 食事代 6名(1人当たり4,952円)
③ 21,330円 食事代 8名(1人あたり2,666円)
④ 54,340円 食事代 16名(1人当たり3,396円)
⑤ 66,396円 食事代 8名(1人当たり8,300円)
⑥ 41,699円 食事代 6名(1人当たり6,950円)
⑦ 27,587円 食事代 10名(1人当たり2,759円)
⑧ 21,750円 食事代 10名(1人当たり2,175円)

https://www.kansa.metro.tokyo.lg.jp/PDF/08jumin/4jumin/4jumin5_sochi2.pdf

だが意識的にも無意識的にも、自分が欲望する象徴界の〈法〉を十全に機能させるために、「都合の悪い情報」は消す。

東京都監査事務局の調査において、この食事代はたった1件であったという事実。
弁護団声明による反論という事実。

colabo-official.net まず、「一回当たりの支出が比較的高額なレストランでの食事代」は、2万円以上のレストランの領収証のことを指すと思われます。高額にみえるかもしれませんが、これは大人数での食事代(ひとりあたり1750円~3400円程度で令和3年度の1年間で5回程度)でした。

 また、一人当たりの食費がそれ以上になることが3回程度ありましたが、Colaboの支援対象の女性のお祝い事をするためでした。支援事業において女性との面談等において飲食店を使う際にはファミリーレストラン等の単価の低いレストランばかりですが、この時はお祝い事のため、比較的高額となったにすぎません。たまに行うお祝い事の値段としては特段問題になるほどの金額ではないと思料しておりますし、Colaboに関わる女性たちの多くは生育環境に複雑な問題を抱えており、誕生日や進学、就職などを祝われるという経験がこれまでなかった若年女性もいます。そのようなことも踏まえると、時に、親しい人とお祝いの気持を分かち合う食事の席を経験する機会をもうけることも、重要な若年女性支援事業の一環であるとColaboは考えています。

これらのファクトを無視して、「Colaboが(日常的に)一食1人8300円の食事をしている」という、自らが欲望する〈法〉=幻想を作り上げる。


風見鶏のひろゆきが援護してくれたのもラッキーだった。

getnews.jpひろゆき氏「Colaboが都民の税金で一食1人8300円の食事しても問題ない事になりました」「まともに働いて納税するより公金チューチューした方が豊かに暮らせますね」

ひろゆきも言ってるぞ!
権威付けがされ、情報がまるで正確であるかのように、自分の欲望に合致するように都合よく解釈する。

「8300円が1回だった」というファクト、そんなのは関係ない。
そう、都合の悪い情報は削ぎ落す。

自分の欲望を満たすため、自分の欲望の秩序に不適切な情報は、ファクトだろうが関係なく排除し、それを隠蔽したり、元の情報を捻じ曲げる。


なんでそこまでして、叩きたいのか?

それについては、自分自身に問いかけるしかない。
自分がColaboを悪とする社会を望んでいるのはなぜか、そういった欲望が自身に存在するのはなぜか。

それは例えば、以前も述べたように性的不遇や経済的コンプレックス、女性からの仕打ち等が影響している可能性もある。
快楽(現実界)が満たされることなく、抑圧の日々の中で乱れていく自我、瓦解寸前の自尊心、どうすればいい…そこで、寄りすがったのではないだろうか。

「Colaboは悪い」「仁藤夢乃氏も、女性支援団体も、公金で支援される女性も悪い」という物語を。

その物語(幻想)を内面化すること、そして快楽の充足を、パートナー獲得から女叩きに置き換えることで、今までの人生で遭遇した自分自身の性的不遇を、無意識的に解消しようとしているのではないだろうか?

天童荒太が言ったことは正しいかもしれない。

gyakutorajiro.com天童荒太は、人間には物語が必要だといった。

人間は映画に出てくる森田のような、厳しい現実を突き付ける存在には耐えられない。

だが事実ではなく、削ぎ落したり捻じ曲げた事実、ファクトを無視して、人を叩いていいものだろうか?
それが理性のある、節度のある人間が、することなのかよ!?

だから全く応援できない。
Colabo叩いてる連中は。
正義を振りかざしたいなら、自分の欲望ではなくて、ファクトに忠実になるんだな。

もしファクトではなく自分の欲望で誰かを糾弾しているのに気づいたなら、「Colaboを叩かなきゃ」という感情は今すぐ捨てた方がいい。
このお題にもピッタリだな。

ミソジニーやヘイト感情といった個人的な欲望で誰かを糾弾する行為なんかやったところで、生活水準やQOLが向上することなんてない。

自分の生活、人生を向上させることに向き合った方がいいと思うけどな。

Colaboという小さい団体の金の流れよりも異様に多い観音信仰の霊場等を管理する宗教法人の会計や公金投入有無が気になる

Colaboの件、以前から節目節目に話題にしてるけど。

gyakutorajiro.com住民監査請求による結果が出たみたいだね。

togetter.comそんで結果に不満なのか、また宇佐美典也氏が何か文句言ってるな。

b.hatena.ne.jpほんとこの人、Colaboとか仁藤夢乃氏に何かされたのかな?


放漫財政とか言うんだったら、もっと調べ甲斐のある団体を見つけたぞ。
それが「宗教法人」だよ。

なぜ宗教法人か…それに気付いた出来事が、2月にあったんだよ。

一旦、Colaboの話から逸れるが、その体験談を以下に記す。

先月の2月、西武池袋線芦ヶ久保駅から下車、氷柱を観に行った。

iine-y.com道の駅でメシも食ってさ。

solomeshi.net大体、氷柱の鑑賞が終わったのは14時前後だったかな。
「せっかく遠出してきたんだ、ついでにどっか行こうかなぁ」と思って。
検索すると「横瀬歴史民俗資料館」というのを発見。

どうやら、芦ヶ久保駅から1駅の、横瀬駅から歩いた方が近いようなので。
芦ヶ久保駅に戻り、横瀬駅に向かう。

横瀬駅から徒歩で数分、到着。

さっそく中を観覧することに。
なになに、秩父の歴史が掲示されてるな。

まあ横瀬駅から1駅進めば、西武秩父駅だからね。
西武秩父の方が観光には向いてそうだけど。
「9世紀後半 坂東に群盗が出没し始める」だってさ、怖いね。

とか思って、進んでいったら。
全然、歴史とか民族じゃないぞ、展示が!

どうやら自然博物館的な一面もあるみたいだ。

以下、魚や爬虫類とか虫の標本の画像、ちょっとグロいので注意。

エンマコオロギ、やっぱこの標本とか見ると、コオロギ食とか抵抗あるな~。


ホンドハタネズミとかカゲネズミ、ペラペラにされてるやん。

ヒキガエル、泣いてる?かわいそーだろーがー!
役目を終えたなら土に還してやれよ。

生まれたばかりのマムシ

なお、これらの展示は「標本」として、DNAから過去を調べる貴重な手がかりとして意義があるんだと。



ふぅ、なんか疲れたな。

さて、奥に進むと。
やっと民俗博物館っぽくなってきた。

なになに、観音思想?観音信仰か。

観音信仰

 御仏の教えによれば、印度の南の海上にある補陀洛山に住む観世音菩薩は、「生きとし生ける者を救うことを悲願とし、救いを求める者には手を差しのべる」と説かれている。御姿は通常、聖・十一面・千手・馬頭・如意輪・不空羂索(ふくうけんさく)あるいは准胝(じゅんでい)の六観音に代表される。
 仏教の伝来と同時に伝えられたこの信仰は、死者の追善供養を目的としたが、国家安全祈願を主とする奈良仏教とともに、本来の除災招福の守護者として信仰されるようになった。補陀洛信仰により風光明媚の高山が観音降臨の聖地に選ばれると、山岳信仰にも取り入れられ、平安仏教である天台・真言密教の普及により、日本各地に広まった。

横瀬町歴史民俗資料館)

なるほどね。
補陀洛(ふだらく)というのは、知ってる。

稗田一穂という画家の絵で「補陀洛那智」というのがあったので、最近知った。

稗田一穂「補陀洛那智」(ふだらくなち)に描かれている潮風に耐えて斜めに生えている磯馴木(そなれぎ)を見てみたい | 逆寅次郎はタナトスを抑えられるか?

補陀落とは「観世音菩薩の住む西方の浄土」のこと。那智はその船出の地としての異様さと荘厳さがあるんだろう。神武天皇を大和に導いた八咫烏も描かれているように。磯馴木は那智にあったかな…確認できてない。

2023/03/04 14:08

b.hatena.ne.jpそして「札所」とは、観世音菩薩を安置する霊場に、巡礼者がその霊場の堂舎に木札を打ちつける習わしが由来みたいだ。

札所
 名山景勝の地に観世音菩薩を安置する堂舎が建てられ、聖地巡礼として観音霊場巡りが始められた。やがて霊場巡りは、次第に人々の間に定着し、巡礼者が参拝の印として札を納めることからはじまり、の地には、堂舎に木札を打ちつけるという習しから札所と呼ばれるようになった。
平安時代後半には西国札所三十三番、鎌倉時代中頃には坂東札所三十三番、室町時代中頃までには秩父札所三十三番が成立した。仏教では三の数を重視し、霊場の数は観音経による観世音菩薩の三十三変化身に由来するという。札所も三ヶ所の巡礼が一番ご利益があると考えられ、さらに一番を加え日本百観音霊場が成り立った。

横瀬町歴史民俗資料館)

日本百観音霊場?ってのがあるみたいで。
それについても、横瀬町歴史民俗資料館においてあった資料に書かれてる。

 日本の代表的な観音霊場(札所)は、西国三十三、坂東三十三、秩父三十四の合わせて百ヶ所(番)である。横瀬には秩父三十四ヶ所のうち第五・六・七・九・十番の6堂(寺)がある。
 西国霊場は最も早く、平安時代に貴族階級の信仰を、次いで坂東霊場鎌倉時代の武士階級の信仰を得て成立した。
 秩父霊場は、文暦元年甲午(1234)3月18日、播磨国書写山円教寺性空上人ら13人の権者が巡歴して観音の地と定めたとする縁起譚を持っているが、歴史的には、室町時代頃成立したとするのが定説である。
 西国・坂東に遅れて成った秩父霊場には、戦国時代の地方武士たちが心のよりどころとした資料もあるが、江戸時代に入って、民衆層による観音堂巡拝の信仰習慣が盛んになったことによって、霊場たる地位と信仰とを確立し、もとの33堂に1堂を加え、日本百番霊場のうちに数えられるようになった。
 教義によると、観音は三十三身に変現して衆生を救済するとされ、仏教の故郷インドには、南方の海上の彼方に、観音が常在する補陀洛山(ふだらくやま)という聖地があると信じられているという。これが観音に海と山とが深くかかわる由縁である。
 秩父霊場の場合、補陀洛山に匹敵する聖なる山が武甲山である。この山への信仰が前提となって秩父山地=観音霊場と仰がれることになったにちがいない。

横瀬町歴史民俗資料館)

なぜ33堂に1堂を加えたのか?については、ふわっとした説明しか書かれてない。

秩父三十四ヶ所
 秩父札所は長享2年には西国・坂東と同じ三十三ヶ所であった。百観音成立期、すでに秩父札所三十四ヶ所をうかがわせる資料もみられるが、大正7年(1579)の両神村薬師堂の納札には三十三ヶ所と記されており、一般的には江戸時代の始めには三十四ヶ所が確立したといわれる。江戸の中頃になると、「秩父三十四ヶ所」の案内書や縁起類が多く作られた。

横瀬町歴史民俗資料館)

まだ明らかになってないのか?

chichibufudasyo.netこれは、いくつかの説がありますが、個人的に有力だと思う説は、西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父33ヶ所の合計が99ヶ所だとキリが悪いので、一寺増やしたのだという説です。
そして、なぜ、秩父を34ヶ所にしたのかと言うと、西国、坂東札所と比べて秩父札所が一番歴史が浅かったので、一寺を足して100ヶ所にしたという説です。

実際の所は、なぜ、一寺増やしたのかは、謎に包まれています。

まあその話はさておき、秩父札所のルーツだ。

『長享番付』と呼ばれる史料によれば、性空上人の伝説が、秩父札所三十三番観音霊場創立の契機になってるとされてる。

 秩父札所の最も古い史料は(略称『長享番付』)といわれる文書です。33か所の巡礼の順番と縁起が記されています。この縁起によれば、性空上人(しょうくうしょうにん)は冥途に呼ばれ、7日間の説法によって地獄の罪人たちを助けた。
上人は閻魔王の返礼によって、第1に秩父巡礼、第2に坂東、第3に西国を巡礼した。
その折、熊野権現をはじめ、とりわけ伊勢諸神がことごとく召されて、その巡礼行を擁護した。性空上人は阿弥陀仏の化身である。この霊場を拝する者は現世安穏、後世善処疑いなし。文治3年(1187)3月18日、と記されています。性空上人という僧は京都生まれで、九州の山岳で修行して、以後は寛弘4年(1007)に示寂するまで、播磨国書写山姫路市)にこもり観音信仰に没入し、円教寺(西国札所27番)を創建した高僧です。
 正徳4年(1714)の『秩父巡礼之縁起』によれば、書写山の開山・性空上人は閻魔王の宮殿に招かれ、愚痴の凡夫を救うため、日本百観音を安置するようにすすめられた。

性空上人は修行に励み、西国三十三所を巡り熊野三社に詣でると、東国に下り三十三身の観音を建立するように、と熊野権現の神勅があった。性空上人は花山法皇、恵心僧都白河法皇、医王上人、良忠僧都と同行し、信濃善光寺武州の慈光寺を経て、秩父にはいると、善光寺如来六観音が極楽浄土の光を放ち、熊野権現閻魔王、倶生神が来現し、観世音はこの郡内に留まるので自分と一緒に巡礼するように、と熊野権現がお告げになった。時に正暦5年(994)3月18日、秩父順札の初めである。

・・・
横瀬町歴史民俗資料館)

冥途に呼ばれたとか、霊場で拝めば現世安穏・後世善処とか、閻魔王の宮殿に呼ばれたとか、熊野権現の神勅があったとか、およそ信じ難い神話だけどな。

ちなみに一番早く創立された西国観音霊場の由来は、以下のサイトが詳しい。

jh-saikoku33.jp養老2年(718)、長谷寺の徳道上人は病で仮死状態となり、冥府で閻魔大王に出会います。
徳道上人は閻魔大王から、世の中の悩み苦しむ人々を救うために、
33の観音霊場を開くよう命じられ、33の宝印と、
これら33の霊場を巡礼した者は、その功徳によって地獄に堕ちないという起請文を授かりました。
現世に戻った徳道上人は、33の霊場を定め、観音信仰を広めようとしましたが、
当時の人々には受け入れられず、33の宝印を中山寺の石櫃に納めました。

約270年後、花山法皇によって観音巡礼が再興されます。
花山法皇は第65代天皇であり、退位後、法皇となり出家しました。
那智山青岸渡寺での修行中、枕元に現れた熊野大権現から、
徳道上人の定めた観音霊場を再興するようにとのお告げを受け、
中山寺に納められていた33の宝印を探し出しました。
そして、圓教寺性空上人、中山寺の弁光上人、石川寺の仏眼上人を伴い、
33の札所寺院を巡礼し、観音菩薩の功徳を世に広めました。

だってね。
『長享番付』には、性空上人が主人公になってるみたいだが。
徳道上人、弁光上人、仏眼上人にフォーカスされてる史料もありそうだな。


ふーん、と思って。
「暇だったら霊場巡りでもしようかなぁ」と、その時は帰ったけどよ。

その後、家に帰った後。
ちょっとその観音信仰の霊場について調べてたら。
驚きの発見をした。
「ニッポンの霊場」というサイトを見たんだ。

nippon-reijo.jimdofree.com

えっ?何、この数!?

霊場ありすぎ…優に1000は越えてる?
いや、それ以上だな。
全部足すと2000…もいくんじゃねえのか!?
nippon_reijoさんにいくつあるのか教えてほしいな。

twitter.comなんか、おかしいだろ。
だって、日本百観音霊場が揃って認知されるまで、奈良時代から室町時代、700~800年ぐらいかかってる。
100の霊場ができるのに、そんなに年月を要したのに。
なんで一気に、10倍にも20倍にも、観音霊場が増えてるのよ?
「どぉ~なっちゃってんだよ~」(岡村靖幸)ってね、ツッコミたくなる。
この不自然な増加、フランチャイズ化する観音霊場。

まるで、いきなりステーキが1年間に200店舗出すような、急拡大だ。

diamond.jp徳道上人、性空上人みたいな、修行をして閻魔大王に呼ばれたり、熊野権現とかからお告げを受けたりした僧侶が、何人もいるってのか?

本当に納得できる由緒は、あるのかよ?
怪しいな。

つまり「ブランドを利用する」感じだ。
観音菩薩という歴史のある神秘的な存在や、最初に成立した日本百観音霊場を利用して、その寺の威厳を高める。

そもそも、観音菩薩の正体もふわっとしてるけどな。

ja.wikipedia.org観音菩薩の起源や性別には定説がない。

友松圓諦は『般若心経講話』(1956年)の中で、「どこか、観自在菩薩の信仰のつよい地方、また、密教の呪文が珍重されていた地方」に起源を求めた。桐山靖雄も『般若心経瞑想法』(1994年)の中で、龍樹『大智度論』にある一節「観世音菩薩ら他方の仏土より来る」を援用して、この説を敷衍した。 

ここもええで~!ご利益あるで~!除災招福やで~!霊言あらたか~!札所にしてや~!

って感じで。
どこもかしこも、霊場を名乗り出たんじゃねえのか?
観音菩薩によって権威付けして、由緒とかご利益があるとかブランディングして。
そして誰が許可、認定してるんだ?
その地域の、観音霊場とかをよ。

そう、ここで本題につながる。
Colaboが責められるように、こういった観音霊場に指定されている寺の財政、それを管理する団体も、住民監査請求をする価値はないだろうか?

https://www.soumu.go.jp/main_content/000071219.pdf

総務省 住民監査請求・住民訴訟

例えば、東京都監査事務局によると。
音霊場ではなく、古い資料ではあるが、「宗教法人氷川神社など5団体」の監査がされた資料が掲載されていた。

宗教法人明治神宮
宗教法人淨眞寺
宗教法人氷川神社
宗教法人浅草寺
株式会社西武プロパティーズ

https://www.kansa.metro.tokyo.lg.jp/PDF/03zaien/28zaien/28zaien164.pdf

いわゆる重要文化財とか歴史的価値があるってことで、公金が投入されるケースもあるみたいだからよ。
資料の4ページ目(167p)を見ると。文化財の修復のためだろうか、平成25年には1620万円、平成26年度は1億1746万7000円、平成27年度には1億4667万6000円、の公金が投入されている。

明治神宮とか初詣すごいんだから、十分儲かってるんじゃない?」って思うけどな。
表4の方を見ると、平成27年度に7億円ぐらいが、何か国指定文化財とか都指定文化財に投入されてる。


もちろん、全部を否定するわけではない。
文化財を守ること、日本の伝統を次世代に引き継ぐことは、そこで暮らす住民の精神的支柱として大事な部分もあるだろうし。
観光客や参拝客が増えれば、公金を投入する経済的合理性もあるかもしれない。

しかしどうなんだ。もし、縁も霊験も大したことない寺とか神社に公金がもし、流れていたとしたら?

いや、そういた事態が起こり得る可能性は、しっかりと調べないと高いとは言い切れないけど。
だが、一切無いとも言い切れない。

佐々木総合法律事務所という弁護士事務所の方のサイトに、「宗教的建造物の修繕費用の補助と政教分離の原則について」という資料があった。

www.sasaki-law.jp弁護士 政教分離違反かどうかの判断にあたっては、外形的な側面だけでなく、一般人の宗教的評価、意図や目的、宗教的意義の有無、程度、一般人に与える効果、影響等の個別具体的な事情も考慮する必要があります。そこで確認したいのですが、C神社はどのような理由で町指定の文化財となったのでしょうか?

Bさん 当町に入植した開拓移民が地元の藩主を祭神として造営した神社で、100年近く経っても創建時から変わりない状態であったことから、当町の開拓の記念的建造物として文化財に指定しました。

https://www.sasaki-law.jp/pdf/practice_no35.pdf

なるほど、原則、政教分離の原則で修繕費用は公金から出せないが、文化財になっていれば、補助金を受けられる可能性がある。

つまり…

国や自治体が認定する文化財になれば、文化財保護の大義名分によって、政教分離に抵触することなく、その堂舎等を管理する法人に補助金を与えることができる

ってことだろう?
公金引っ張れるってことだ、建物に何かしらお墨付きが付いてくれたらよ。

だから観音菩薩とかも利用されるケースはあるんじゃねえのか?
あくまで推測だが。
観音菩薩が、霊験とかご利益ではなく、マネーのため、公金チューチューのために利用される。

補助金で寺とか神社の文化財の修繕とかするじゃん。
余った金はどうした?それとも、使い切ったのか?
明細は?

Colaboに追求したように、暇空茜氏にやってほしいよな。
金も時間もありそうだし。
自分みたいな明日の食い扶持を稼ぐのに必死の、金も時間も足りない労働者には、そんな調査とかしてる暇ないけどよ。

Colaoの次、開示請求セカンドシーズン。
観音信仰の霊場を管理しているであろう宗教法人。
もしくは、宗教法人全般よ。
そしたら俺も暇空茜氏のファンになるだろうな。
松方弘樹だって、大物のマグロを狙うからカッコいいんだろ。
大間の漁師は、巨大マグロを狙うから、年末年始にテレビ番組になるんだよ。

192万だの148万(1,481千円)だの、もういいだろ。

mainichi.jp

note.com小魚っていうとColaboに失礼だけど、細かい会計不備ぐらい許容してやれよ。
もっと公金を吸って社会という生態系を荒らしてるデカい魚、団体とか企業があるだろうよ。五輪談合に関わった広告代理店とか人材派遣会社とか。
まあその話は何度もしてきたけど。

newsdig.tbs.co.jp

なぜ五輪談合に関わった企業や個人よりもColaboや仁藤夢乃氏が叩かれるのかをスラヴォイ・ジジェクの精神分析で紐解く - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

オリンピックは東京地検特捜部が入っているけど、Colaboは東京都が黒塗り文書出してるからじゃない?

2022/12/14 07:33

b.hatena.ne.jp五輪は東京地検が動いてるってか、じゃあ宗教法人はどうなってんだ。
明治神宮とか浅草寺とか、参拝客めちゃくちゃ多いだろうし、儲かってんじゃないの?
そんなところに、上に紹介した資料に記載されてた、補助金とか与える必要性あるの?
詳しい収支を見ないと、何とも言えないけど。


もちろん廃物希釈とか、そういう過激な話ではないのよ。神社の会計だってブラックボックスな部分が多いんだから。
いわゆる「精査」だよな。
その宗教的意義とか、霊場としての説得力っていうの。

自分は基本的に無宗教だし、マルクスみたいな「宗教は人民のアヘンである」的な価値観、ニーチェみたいに宗教をルサンチマン(奴隷道徳)だとする価値観を持ってるけどよ。
かといって日本文化への敬意、カルト宗教以外の、歴史ある宗教への一定の敬意はある。
お参りもするし、パワースポット巡りも嫌いじゃないし、伊勢神宮は3回は行ったぐらいお気に入りだ。
だから全部の宗教的霊場を否定するつもりはない。

だけど、観音信仰の霊場は、おかしいぐらい、数がありすぎると思わないか?
コンビニみたいに数を増やして近場で観音菩薩のご利益を得ようとする。それこそ人間の怠惰、エゴ(煩悩)じゃねえのか?
だからその謎、成り立ちは、調べられるべきじゃないかって。

もし、大したことない由緒だったり。
もし、管理している団体が宗教法人だったり。
宗教法人格として相応しいか?を鑑みて、場合によってはそれを無くす。
建物が重要文化財とか登録有形文化財になってたら、それを外す。

それによって、霊場とか宗教法人に流れる公金が減って、減った分が福祉とかに回って、公益に寄与するんじゃないの?
住職は不愉快になるかもだけどな。

また、メスを入れようとしても、厚いベールに覆われてるみたいだな。

toyokeizai.net現在、18万を超す宗教法人のほとんどが毎年の収入すら公にしていない。宗教法人は税法上、「公益法人等」に含まれ、さまざまな税制優遇を受けている。

誰か宗教法人への金の流れを調べる政治家はいないのか。
カルト宗教には有田芳生氏とかいるけどよ。
まあそんなことしても、票にも金にもつながりそうにないからかな。

文化財とかの修繕ってのはよ、いわゆる「ハコモノ」だろ?
無機物の維持に、金を使うのかー!?
そのハコモノが、例えば観光の目玉で、県外とか海外から人を呼び込み、地域活性化などの税収に繋がりそうなら意義もあるかもしれない。

けどハコモノよりも、人の命、人の人生が、大事ではないだろうか?
教育格差の是正とか、エッセンシャルワーカーの給与向上とか、虐待の防止とか、子ども食堂とか、それこそColaboがやってる困難女性の支援とかな。


ハコモノに公金注入する余裕、あるのかー?ってね。

霊場」という場所、そこは本当に霊場として相応しいかどうか、チェックするべきじゃないのか。
特に数が多過ぎる観音霊場、こんな数多くの霊場を調査するのは自分には無理なので、問題提起だけしておく。

近所に霊場がある人は、その霊場の由緒だとか文化財の有無を調べたら面白いかもしれないね。

自分も今後、文化財等を見かけたら「これは本当に文化財としての価値があるのか?」「公金などによって修繕される価値はあるのか?」と、精査の目を向けていく。

 

続き

gyakutorajiro.com

藤井風「きらり」に秘められたサイババへの憧れと重力と時間からの解放

前回、藤井風の唄とサイババの思想の共通点を探った。

gyakutorajiro.com「Lonely Rhapsody」は、孤独は幻想であり、自分自身を愛することの重要性を。
「青春病」や「何なんw」は、外の世界にある欲望の対象への執着からの解放を。
「Grace」は、欲望に囚われた私自身を切り離して、内なる私に出会おうとする意志がある。

そしてそれらの特徴はサイババの思想や言葉と共通していることを示した。

補足すれば、人類愛や平等主義のような思想だ。

 ところで、この聖なる紐は、地方によってはバラモン(僧侶)階級の者だけが受けることができるとされている。その場合、ガヤトリ―・マントラは彼らのみのためのマントラとされた。それに対し、サイババは次のように語る。
 
『ガヤトリー・マントラは、マントラの中でも最も神聖なマントラである。そして、だれもがこれを唱える資格を有する』

 これは、サイババが常々語る次の言葉を思い出させる。
 
カーストは一つ、それは人類というカーストだ』

 また、伝統や風習によっては、女性は、この神聖なマントラを唱えるにふさわしくないという考え方もあったという。サイババはそれをも明快に否定し去る。
 
『もちろん女性も、ガヤトリー・マントラを唱えてよいのだ。ガヤトリーとは、母の姿、すなわち女神のことなのだから、なぜ女性がこれを唱えて悪いことがあろうか。
 女性はガヤトリー・マントラを唱えるにふさわしくないとしたのは、男性の狭量にすぎない。自分自身の母親を想いだすのを妨げる権利が、一体誰にあるだろうか。それは、単純に言って意味がない。
 だから、このマントラは、男子にも女子にも教えてよいのだ。ただし、教える前には両親の許可を得て、同意のもとに行うようにしなさい』
 
 インドでは、人は一生のうちに四回、誕生日を持つと言われる。

第一の誕生日は、肉体がこの世に生まれた日である。
第二は、聖なる紐を授けられ、正式にヴェーダの流れに身をおいた日。
第三は、聖典を正しくマスターした日。
第四は、神認識を果たした日、である。
 
 サイババは、このマントラを学生たちに教え、

『今日、わたしがこのガヤトリー・マントラをあなた方に授けることは、第二の誕生を授けることである。』

と言っている。それは、聖なる紐の儀式をするしないに関係がない。

『聖なる紐の儀式を行わなければ、ガヤトリー・マントラを与えてはならないという信仰もある。子供は、生まれたときにはシュードラ、つまり汚れた者と考えられている。聖なる紐の儀式と、ガヤトリー・マントラを教わることで、彼は第二の生に生まれ変わったとされる。こうして彼は、ヴェーダを学ぶ生活に入ることを許されるのだ。
 この学習を通じて、彼はヴェーダに記述されているブラフマ・タットヴァの概念を学ぶ。その知的理解を基にして、彼はブラフマン(創造主)の真実の直感的な理解、直接的な経験を深めるのだ。単に、聖なる紐を身につけることが、バラモンの資格を与えるということではない』

(「真実のサイババ / 青山 圭秀 / 三五館」」p176-178)

また「Lonely Rhapsody」「青春病」「Grace」だけでなく。
「きらり」も同じく、サイババ思想との共鳴、サイババへのリスペクトがある。

www.youtube.comこの曲は、藤井風の唄で一番、再生回数が多いのではないだろうか。
2022年の紅白歌合戦では「死ぬのがいいわ」を唄っていたが、2021年は「きらり」だった。
一見すると、サイババ要素は希薄な気もするが。

ただ、他の人の歌詞考察を読んだり。

media.framu.world歌詞を聞くと、青春病やGrace同様、「何もかも捨ててくよ」とあるように。
「執着からの解放」は、藤井風の楽曲の通奏低音にもなってる印象がある。

また新しい日々や拙い過去、全ての時間軸が等しく「きらり」とするというのは、どこかニーチェ永遠回帰の思想も彷彿とさせる。
ニーチェは「苦痛や困難も回帰するとしたらお前は耐えられるか?」と問うたように、永遠回帰は全てが「きらり」とするような理想郷のようなものではなく、その点でニーチェ永遠回帰とは異なる気もするが。

ただ「きらり」に時間概念を突破したい欲望、もしくは、時間への執着から解放されようとしている意思は、見受けられる。

人間は直線的時間に支配されているように。

「きらり」のように、時間概念が直線的な過去・未来・現在から、均質的な瞬間(きらり)になったり、時間概念から解放される世界への欲望が存在するのは、以前も語った。

gyakutorajiro.comそしてこの「時間概念からの解放」を実現したのが。
藤井風が信仰の対象としているとされるサイババだ。

サイババにはテレポーテーション能力、物質化能力があった。

 サティア・サイババ物質化現象によって物を作り出すときは、くるくるっと手を回すというイメージであるが、必ずしもそのアクションだけとは限らない。ほかのパターンでも行われる場合がある。
 そのインタビューのときには、余り手を回さずに物質化をされる場合が多かった。これは、わざわざ物質化現象を間近で良くわかるように見せて下さったのであろう。
 インドの学生が私たちといっしょにインタビューに招かれていた。彼はライトつきボールペンを物質化によりプレゼントされた。これが、私たちのインタビューの中では一番大きな物であった。
 そのとき、サティア・サイババは右手を少し上に掲げ、指は何かを握っているかのように親指と残りの四本の指を丸い輪のような形にされた。次の瞬間、なにやら細長くネズミ色っぽい「もや」のようなものが彼の指で形作られた丸い輪の中にたちこめたのだ。次に、その「もや」がギューと凝縮したかと思うと、そこにはライトつきボールペンが現れていた。長さは二〇センチメートルくらい直径ニセンチメートル弱くらいで、外はステンレスの様な材質でできている。
 サティア・サイババがスイッチを入れると、そのボールペンの先にある豆電球が光り始めた。彼はおもしろがられた様子で、茶目っ気たっぷりに微笑みながらそれを分解してみせた。すると、中から単三の乾電池が二本出て来るではないか。しかも、電池にはアメリカの有名メーカーの名前が書いてあり、市販品のそれとまったく同じものだ。よく見ると「MADE IN USA」と、小さく刻印されている、。まさに、市販されているものとまったく同じように、細かい細工が施されていたのだ。

(「奇蹟をこえて サティア・サイババとバラ・サイババ、ふたりのサイバ / 安部 賢司 / エスダブルオウ」p64-65)

時間概念を突破し、ボールペンをA地点からB地点に瞬間移動させたのか。
それとも、全くの「無」の状態から有機物を創造したのかは、わからない。

しかもこの能力は、証言者が複数いる。
全く別の著者、別の著作で、サイババのテレポーテーションや物質化現象についての記述がある。

距離と原始の変化



 奇妙な電話がかかってきてからわずかの間に、彼女はサイババについてかなりのことを知るようになった。名誉博士号を授与されたのはちょうどそんな折りだった。あの電話の声はなんと博士になることを予言していたのだ、あの声はほかにも何か予言しているのだろうか?と彼女は思った。サイババにできないことなどなにもないように思えた。しかし、ほんとうに来てもらいたいなら、サイババはその合図をきちんと送ってきてくれるに違いない。いやそれだけでなく、困難な障害も取り除いてしまうはずだ。
 ウィルマは指輪がとても好きで、いつも指に数個つけていた。この指輪のなかには安物のガラスでできたネイビーブルーの石つきの指輪があった。この指輪はいつもはめていたのでひっかき傷だらけになっていたが、里子がクリスマスのプレゼントに贈ってくれたものだったからとりわけ大事にしていたのである。
 彼女は家事をしているときには指輪をすべてはずしてハンドバッグの内ポケットに入れておくことにしていた。こうすれば慌てて出掛けても、ころあいを見て指にはめることができるからである。
 
 ある日の午後、ウィルマは友人といっしょに身障者介護をテーマにした映画を見に行った。ところが、あの傷だらけのネイビーブルーの石の指輪が見つからないのだ。ハンドバッグに入れ忘れたのか、それとも知らないうちにハンドバッグから落としてしまったのだろうか。
 彼女はその日一日のことをあれこれ思い出しながら、ぼんやり正面のスクリーンに目を向けていた。するとそのときである。脇においてあったハンドバッグから色のついた火花が上のほうに飛び散っているのが視界の隅に入った。同時に奇妙な風が映画館のなかを吹き抜けたように感じ、頭のなかで「お前は合図を欲しがっている」という声がはっきり聞こえたのだ。
 バッグをつかんで、中に手を入れ、そっと探ってみると、なくなったはずの指輪が指に触れていた。指輪はひどく熱くなっていて、場内の薄明りのなかでまばゆいほどの輝きを放っていた。それを見た友人は驚いて「まあ!いったいどこでそれを手に入れたの」と驚いて叫び声を上げた。

(「サイババ・愛の化身 その奇跡と教えを知るために (心霊科学名著シリーズ) [ ハワード・マーフェット ]」p60~63)

 そうしてまた待つこと一時間以上、急に甘いインド音楽がかかり、女性セクションの遠い向こうに、オレンジをまとったアフロヘア―のサイババがただ一人、ゆっくりとマンデールに歩いてくるのが見えた。その時、ため息とも歓声ともつかないざわめきが四〇〇〇人の弟子たちの間で起こり、全員がババに合唱した。そのとき、僕は自分の中の時間が止ったように感じサイババの周りにだけは違った時間が流れているように感じた。ババは信者たちからの手紙を受け取り、時には話しかけ、だんだんとこちらに向かってきた。それは、やはりうねりのような、ものすごいエネルギーの波だった。こういうのに感じやすい飛びたがりの僕は、すでにババの魔法の影響を受けて恍惚となっていた。僕はただこのエネルギーのシャワーだけを浴びにここへ来たのだから、手紙を渡そうとも指輪が欲しいとも思わなかった。そして、突然僕の目の前で、ババ得意のビブーティ(聖なる灰)の物質化の奇跡をやってのけた。今までテレビなどで見てトリックではないと確信していても、実際目の前でやられると、驚くほかはない。彼の右手が下を向き、クルックルッと二~三回まわる時、その手のまわりだけ宇宙がゆがんだような気がした。それは、まるで春のかげろうが彼の手のまわりだけでゆらいだようだった。そうしてばらまかれた聖なる灰。それは、僕のすわっているとこまで届いてはこなかったが、僕を祝福するには十分だった。これでやっとサイババに会ったのだという実感が湧いてきた。

アガスティアの葉の秘密 精神世界とインドの旅 [ パンタ笛吹、真弓香 ]p119)

複数の目撃者、証言があるという点では、サイババの起こした奇跡は、かなり信憑性が高いかもしれない。

また、このようなテレポーテーションもしくは物質を造り出す能力は、サティヤ・サイババに限った能力ではなく。
サイババ「自分はシルディ・サイ・ババの生まれ変わりで、神の化身である」と、シルディのサイババへの敬愛を表明したように、シルディにも備わっていたとされる。

 シルディのサイババの"人となり"を示す逸話は数多い。
 あるとき、金持ちの家から大量のものを盗んだ盗賊たちが、警察で、「イスラム教徒からもらった」と証言した。それによって、嫌疑はサイババにかけられた。警察は、常々、彼をうさんくさい坊主だと思っていたのである。以下は、そのときの警察とサイババの問答の様子である。
 
「父親の名は何か」(インドでは、家系的なものの全ては父親から来るとされる)
「ババです」
ババとは、"父"という意味である。つまり、「父の名は父です」と、彼は言ったことになる。
「宗教は何か」
「神の宗教です」
「どこから来たのか」
アートマン(真我)から」
カーストは何か」
「神のカーストです」

 一事が万事、こんな調子だったという。だが、おそらくこれは、奇をてらったものでもなんでもなく、単純、率直なサイババの受け答えだったに違いない。そして、シルディのサイババの本性は、さらに次のように表現される。

「行者よ。おまえはこの品物を、盗賊にやったのか」
「はい」
「では、それをどこから持ってきたのか」
「一切のものがそこから発生するところから」
「だれが、これらをおまえに与えたのか」
「わたし自身が(わたしに与えました)」

 もちろんサイババは、金持ちの家からこれらの品物を持ってきていたりはしない(だろうと私は想像する)。そうだとすれば、この答えは、一切のものは神から生まれ、神自身が与えるのだ、という意味にとれる。実際、サイババは、警察に対してさらにこう語ったとされる。

「わたしは一切を与える者である。何人も、わたしの許可なしには、何ものも得ることはできない」

 これは本質を衝いた、と言うよりも、本質のみを語った言葉である。人は誰もが、ものごとの本質のみに生きたいと思うが、さまざまなしがらみや束縛によりそれができない。しかし、啓発を得た聖者というのは、おそらくこうして生き、なおかつ他からの攻撃にひるむことがない。
 この受け答えの内容そのものは、現在のサティア・サイババをも彷彿とさせる。彼は、さまざまな品物を物質化する際、どこから持って来るのか問われることがある。それに対し、

サイババ・デパートから」

と答えたり、

「神の意思により、創りだすのだ」

と答えたりしてる。


(「真実のサイババ / 青山 圭秀 / 三五館」」p92-94)

「きらり」のPVを見ればわかるように、藤井風はバイクでテレポーテーションを行ってる。
砂漠のような場所から、高速道路に。(3分10秒~15秒)

Fujii Kaze - Kirari (Official Video) - YouTube より)

時間や重力等の自然法則を無視している。
「物理学における時間」というウィキによると、重力が強いほど時間は遅くなるそうだ。

ja.wikipedia.orgつまり、重力場が強ければ強いほど(従って、加速が大きくなるほど)、ゆっくりと時間が流れる。時間の遅れの予測は、粒子加速実験と宇宙線の証拠によって確認される。重力による時間の遅れは、太陽のような巨大な物体の近くで重力赤方偏移とシャピロ遅延の現象を引き起こす。GPSは、この効果を考慮して信号を調整する必要がある。 

どこでもドアのように全く関係ないA地点からB地点に移動できるということは、重力から解放されている存在であるということだ。

つまり「きらり」は、サイババの思想だけでなく、サイババが行った超能力への憧憬、重力および時間からの解放も、PVを観ると伺えるのではないだろうか。

もちろん、こういった重力への抵抗、無重力への欲望は、藤井風の曲だけじゃない。

前にも紹介したように、ありとあらゆる曲に存在する。

gyakutorajiro.comスタジオジブリの「風の谷のナウシカ」だってそうだ。

www.youtube.com雲間から光が射せば、身体ごと宙に浮かぶ…。
人間は幻想の世界に、重力からの解放を求めた。
擬似的に重力から解放される描写が多いのが、スタジオジブリ作品の魅力の1つでもある。

裏を返せば、それは人間が重力に支配されていることでもある。
弱い者や虐げられるものはより、重力に支配される。
それはかつてフランスの哲学者、シモーヌ・ヴェイユが洞察していたように。

 たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される。
 
 ものごとは重力にあい応じて起こってくるものだと、いつも予期していなければならぬ。超自然的なものの介入がないかぎりは。
 
 ふたつの力が宇宙に君臨している、――光と重力と。
 
 重力―― 一般的に言って、わたしたちが他人に期待するものは、わたしたちの中に働く重力の作用によって決められる。また、わたしたちが他人から受けるものは、他人の中に働く重力の作用によって決められる。ときには、これが(偶然に)一致することがあるが、多くの場合一致しない。
 
 ひとりの人間が、ほかのもうひとりの人間を多少とも必要としている様子を見せはじめると、このもうひとりの方がさっと遠ざかるのはなぜか。重力のため。
 
 『リア王』(1)、重力の悲劇。「低さ」と名づけられているものはすべて、重力による現象だ。何より、「低さ」という語がそれをよく示している。
 
(1)シモーヌ・ヴェイユは、晩年のロンドン滞在中、シェイクスピアの『リア王』を見て、深い省察をしている(『ロンドン論集とさいごの手紙』所収、一九四三年八月四日付の手紙参照)。

(「重力と恩寵 [ シモーヌ・ヴェイユ ]」)

現実は甘くない。


藤井風の曲やスタジオジブリ作品のように、重力から解放されると心も穏やかになるだろうよ。
ホタルのように、きらりと光り宙を漂うことができたら、もっと楽しいかもしれない。

だが人間には、そのような生き方をすることは出来ない。
火垂るの墓」もそれを描いてる。
空から重力に従って降ってくるのは、ホタルの光ではなく、B29の焼夷弾だった。

現実は今日も、日銭を稼いで、腹を満たすために。
宙空にただようことはなく、大地に足をつけ、電車や車に乗って会社や仕事現場に向かう。

闇金ウシジマくん(10)[ 真鍋昌平 ]


頭を下げ、土下座をし、時と場合によっては靴を舐めることもあるかもしれない。

よっしゃ ほんなら 手始めに ワシの靴 舐めてもらおか

ナニワ金融道11 [ 青木雄二 ]

 同じ苦痛を堪え忍ぶのにも、低い動機からそうするよりも、高い動機からそうする方がはるかにむずかしいということが真実ならば(一個の卵を手に入れるためとあらば、午前一時から八時までじっと動かず立ったままでいられた人たちも、ひとりの人命を救うためとなれば、なかなかそんなことはできなかったであろう)、さまざまな点からみて、おそらく低い徳の方が高い徳よりも、種々の困苦、誘惑、不幸の試練によく堪えることだろう。ナポレオンの兵士たちのこと。だから、兵士たちの士気を保ち、また昂揚するためには、残酷な行いもやってみなければならなかった。気力の衰えたときに、このことを忘れないこと。
 これは、一般に低いものの方に力がかかるという法則の、ひとつの特殊例である。重力は、いわばその象徴だ。
 
 食料を手に入れるための行列。同じひとつの行いでも、動機が高いときよりも、動機が低いときの方が、ずっとやりやすい。低い動機には、高い動機よりも多くのエネルギーが含まれている。問題はここだ。低い動機に属しているエネルギーを、どうやって高い動機に移しかえるか。

(「重力と恩寵 [ シモーヌ・ヴェイユ ]」)

生活のため、低い動機で生きざるを得ない人達が大勢いる。
金のために、徳を失い、残酷な行為に走る者もいる。

シモーヌ・ヴェイユが思索したように、その「重力への従属」が、人間が「生きる」ということでもあるんだよ。

それをわかってんのかー!?

と、藤井風と宮崎駿に言いたいね。