逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「No music No life」とは何か。それは重力に支配された人間が束の間それに抵抗するために生み出したルサンチマン

以前「音楽を聴く」という人間の文化の背後に潜む、時間から逃走しようとするルサンチマンを暴いたつもりだが。

gyakutorajiro.comこれは妄想ではなくて、ファクトだ。
直線的時間の圧力による疲弊からの永遠回帰の欲望、その欲望を満たすために、多くの音楽で直線的時間軸を破壊し、円環時間を作り出そうとする。

最近聴いたこの曲、宇宙ネコ子「Night Crusing Love」もそうだな。

www.youtube.com「夜から夜 無限のループ」という永遠回帰の世界、「Night Cruise Love 夏の夢の中」という、現実ではなく夢の世界、もしくは夢の世界のような現実を求めてる。

そして音楽にはまだまだ、ルサンチマンが潜んでいる。
直線的時間と同じく、人間が逃走したいと無意識に欲望し、それは音楽として形になっているものがある。
前回は「時間」だったがもう1つ、人間が逃走しようとしている対象がある。
それは「重力」だ。
つまり、

重力に逆らいたいルサンチマン

を、人間は抱いているし、数多の音楽にその要素は含まれてる。

これは妄想ではなく真実として確実に存在する。「反重力欲望」とも言っていい。
毎朝、決められた時間に起きて、満員電車に乗る。

闇金ウシジマくん(10)[ 真鍋昌平 ]

パーソナルスペースが皆無の空間で、見ず知らずの他人の圧力を受け続ける。
座ることは困難であり、足腰に重力の負担がのしかかる。

また、線路内の立ち入りや人身事故等によるトラブルによって、電車が急停車する場合がある。その場合はより、慣性の力によってより身体に負担を被る。
ドゥルーズガタリ的に言えばまさに、現代人の器官は器官機械として、電車という技術機械に接続させられている。

ホワイトカラーだけじゃない。
肉体労働はより、重力がのしかかる。
工事現場等では、重い土嚢や資材等を何個も運ぶ。

闇金ウシジマくん(9)[ 真鍋昌平 ]

 

引っ越しの作業では、大量の段ボール箱を、何個も運搬せねばならない。

闇金ウシジマくん(9)[ 真鍋昌平 ]

重力に荷物の重みが加わり、仕事している最中は常に重力に支配されている。
正しい姿勢で、注意して運ばないと、腰を痛めるリスクもある。

交通誘導員、イベントスタッフ、アパレルや飲食業など、何時間もずっと、立ち仕事をしなければならない。
休憩中の1時間程度は座ることが出来るかもしれないが、常に重力の負担を被る。

最強伝説 黒沢 2 [ 福本伸行 ]

このように人間はありとあらゆる場所で重力の負担を、特に働いているときはより一層、その負荷を受け続ける。
ガンツのZガンのようなものを、気付かないうちに撃たれている。

GANTZ 23 [ 奥浩哉 ]

逆に、既得権益で悠々自適な生活をしているBorn with a silver spoonや、FIRE等を達成してセミリタイアをした人間は、ハワイのビーチで寝そべったり、シンガポールのマリーナベイサンズで泳いだりと、重力の負担が少ない生活をしている。

しかし一般的な多くの人は、重力と共に働くことを強いられている。
それはピラミッドや古墳を建設していた太古の昔からだ。

だから生み出した。

「重力に逆らうルサンチマン」を、人間は意識的にも無意識的にも、作り出すことになったんだ。
これは重力に支配された人間の営みの必然的帰結だった。

以下、具体的に重力から逃れようとするルサンチマンの事例を紹介していこう。

(1)無重力空間に向かうルサンチマン

これは前回、紹介した「時間概念が異なる空間に向かうルサンチマン」と同じだ。
スペイシーな音楽は、直線的時間から逃走するために生まれた側面がある。

資本主義は直線的速度が求められる。
命を削り、短時間で最大の売り上げを計上する至上命題を多くの企業は課す。

闇金ウシジマくん(10)[ 真鍋昌平 ]

重力と同様の加速度に支配され、身体にGという負荷がかかっても、加速することを求められる。ウシジマくんに出てくるサラリーマンくんの小堀は、ノルマ達成のため、自分の身体にかかるGや周囲に及ぼす危険が高まっても、アクセルを踏んでGを上げてしまう。
ちなみにGとは、このサイトの説明がわかりやすい。

www.logi-q.com1Gとはいったいどのようなものかというと、「私たちが地球からうけている重力と同じだけの加速度がかかっている」と考えていいでしょう。それに対して、0Gは加速度が全くかかっていない状態です。

資本主義社会に生きる人間は、自動車や満員電車に乗ってわざわざ加速度を上げ、水平の方向に速く移動しようとする。
直線的時間の要求に応じるために。
資本主義社会の人間は直線的時間の奴隷であるがゆえに、直線的時間効率を最大化するための機械は価値があるものとして礼賛され利用される。

ちょっと意味合いが違うかもだが、これも1つの加速主義と言える。
本来の意味は、重力どうこうではなく、amaikahluaさんのこの記事にあるように、資本主義や技術革新の加速だろうけど。

amaikahlua.hatenablog.comその反動で、人間は疲弊し、0Gを求めるようになる。
直線的時間および重力に支配されてない地球の大地から離れた、宇宙を求める。

スペイシーな音楽を聴くことで、重力の無い空間に意識を向かわせ、現実の重力から逃れようと必死だ。
たくさんの、重力から逃れようとするスペイシーな音楽がある。

前回、紹介したサカナクションの「セントレイ」や、アルファの「宇宙ハワイ」、福耳の「星のかけらを探しに行こう」、yaknokamiの「気球に乗って」だけじゃない。

古いがBUMP OF CHICKENの「天体観測」もそうだ。

www.youtube.com望遠鏡を覗き込んだ。星のようになりたいと、重力に支配された人間はそれを求め続けてそれを音楽にまでした。

少し話が逸れるが音楽だけじゃない。すみっコぐらしの星空さんぽシリーズもだ。

www.san-x.co.jpすみっこぐらしはその造形、フォルムももちろん、人間の無意識的欲望を喚起しているが、その世界観として星空散歩を加え、「重力に抵抗したい人間の欲望」を利用した。

音楽に話を戻すと、greeenの「光」もだな。

www.youtube.com果てしなく飛べるはず 空の向こうまで

と唄っているが、実際には飛べないんだ。
飯を食うためには大地に足をつけて、重力に支配されながら汗を流さないといけない。交通誘導員のように。

gyakutorajiro.com

飛べないんだが、重力に抗いたい欲望から、このような唄が生まれる。
というか説教でもある。
翼をください」にもあるような。

www.youtube.comこの大空に 翼を広げ 飛んでいきたいよ

この唄は、学校などの教育の現場でよく流されているが、これは無重力になりたい欲望というよりは、「重力に抗って生きなさい」という資本主義社会の要求でもある。
ひきこもりやニート等、Gが身体にかからない生活ではなく。
走り回って、身体を動かし、汗水垂らして働き、税金を納め続けることを美徳とする価値観と非常に相性がいい。

だからGReeeeNの「光」や、赤い鳥の「翼をください」等は、無重力空間に向かいたいルサンチマンが具現化した生産物とは少し違う。
ルサンチマンではなく、「重力に逆らって汗をかけ」というイデオロギー的歌謡曲だった。

なので、無重力空間に向かうルサンチマンの性質を持つ音楽に戻ると。
星街すいせいという、売れているVtuberの曲があるらしい。

www.youtube.com「Stellar Stellar」が大勢の人間になぜ響いたか?
それはまさに、これこそが「人間の弱った精神を慰撫するルサンチマン(奴隷道徳)だから」だ。

星だから、ずっとずっと

という歌詞だが、人間は星なんかじゃない。人間は人間だ。
しかし人間は他の生物とちがって、ルサンチマンを作り出す。
星になることで重力から解放され、人間としての責任を放棄する意識を一時的に獲得しようとする。

星のように大きい存在でもなく、惑星からの引力に抵抗することも基本的にはできない人間。
か弱い存在だからこそ、「歌詞」という宗教めいた文字の羅列にそれに「音」を加え、リアリティを高める必要があった。
まさに音楽とはルサンチマンであるということ、「No music No life」はルサンチマンであるということが、この段階でも既に言い切れるのではないだろうか?


ジャンクフジヤマの「星屑のパイプライン」とかもそうだ。

nico.msスペース☆ダンディ、宇宙をサーフボードのようなもので波乗りするシーンが印象的だ。エウレカセブンとかでもやってたかな。
とにかく重力に逆らいたい。
それは、自分が重力に支配されていることの裏返しだ。

 

youtu.be大塚愛ロケットスニーカー

地球からステップ踏んで 軽くして浮いている ああ地球っこ

ってね。
浮いてねーんだな、これが。
重力に押しつぶされながら生きている。
だからこそ、ロケットスニーカーを欲する。重力から解放されたい。
いや、この曲は無重力空間に向かいたいルサンチマン謡曲ではなく、重力に抗って頑張れというイデオロギー的歌謡曲の側面もあるか。

(2)水中に漂い重力を希薄化させるルサンチマン

これは音楽だけでなく、映画のポスター等にも見受けられる。シェイプオブウォーターとかな。ポスターは素晴らしいが、本編はつまらない映画だった。



あと「いずれすべては海の中に」という本の装丁もそうだ。

huyukiitoichi.hatenadiary.jp人間は重力に支配されているがゆえに、このように水中に漂うような描写を知覚すると、反射的にその対象に好意的な評価をしたり、そこに描かれているシチュエーションを欲望する。常に重力に支配されているゆえ、重力から逃れたい欲望を無意識的に抱いているので、このような表象物に惹かれる。

mixiの「海から空を見る人。」というコミュニティがある。

mixi.jp1万人以上が参加しており、まあ今は稼働しているのか怪しいが…。

これが存在する理由とは?なぜ海から空を見たいのか?
それは、仕事や勉強等で、ガミガミガミガミ、重力とともに精神的プレッシャーを受け続ける大地から逃走したいからだ。
静かで、太陽が水面に乱反射して光り輝く光景により恍惚状態に至る陶酔モードによって日常を忘却したいからであり、まさに現実から逃走しようとする人間のルサンチマンが具現化した文化が「海から空を見る」だ。

音楽はどうだろう。
ミスチルMr.children)の「深海」のジャケットもそうだ。

ユーミンの深海の街。

www.youtube.com弧を描く 繰り返す 飛沫を奏でる 何ひとつ阻むものはない

と。重力に阻まれない深海に漂いたい。
いや水中にも重力はあるし、むしろ水中の方が重力は大きいって話はあるが。
水圧は四方八方から、あらゆる方向から受ける。

media.qikeru.meそのため水中では漂流することができる。大地とは違う。

中島愛のサブマリーン、「心にはサブマリーン」というように、水中に身を委ねたいという欲望が存在している。

www.youtube.com水中は静かだ。
日々、労働を強いられている大地とは大違いだ。


水中、それは苦しい」というバンドがいるが、苦しいのは実は水中じゃない。
この重力に溢れた「大地」が苦しいがゆえに、水中を欲したんだよ。
バンドに聞いたわけじゃないから知らないけどよ。

この曲もそうだ。

www.youtube.com「水の中で息は出来ないの」と否定的なことを言っているようで、その前に「あの頃の私たちは輝いてた」というフレーズ。

だから、水の中のように呼吸ができないぐらいに愛に溢れていたということ、すなわち、水の中ではない地上においては、規則正しい呼吸で輝きの無い日々を過ごさなくてはならないということだ。
水の中を礼賛している。

 

星野源の「不思議」もそうだ。

www.youtube.com「君と出会った この水の中で」というように、重力が希薄化され、雑音が遠のく水中を、二人の愛を育む相応しい空間として神聖化する。

大地で愛を育むのは難しい。
仕事に忙殺され、家庭のことも疎かになることもあるだろう。

だからこそ、人間は「水中神聖視」というルサンチマン(奴隷道徳)を生み出したし、これからも作り続ける。

(3)人間という固体としての意志を放棄して流体に向かうルサンチマン

そもそも流体とは?このページが詳しい。 

引用元:http://www.g-munu.t.u-tokyo.ac.jp/mio/note/dmm/renzokutai-1.pdf

固体:外力が無ければ一定の形を保っている.
液体・気体:自分自身が固有の形を持っているわけではなく,容器に入れればその容器を隙間無く満たす.
液体や気体は,極めて小さな力によって大きな変形が生じることを意味しており,流体と呼ばれる。

固体の場合は,外力を加えると変形するが,変形が小さい時は,力を加えるのを止めると変形がなくなり,元に戻る.このような性質を弾性という

そう、液体や気体が流体だと。
人間は流体じゃないんだが、例えばターミネーター2シュワちゃんのように溶鉱炉に入ってしまうと、溶けて液体になったり気体になることもあるだろう。

そして流体は、固体と違って弾性がなく、力を加えられたらすぐに変形する。つまり外圧を受け容れるということであり、抵抗する意志がない存在とも言える。


資本主義社会に生きる人間、重力に支配されている人間は、常に固体として主体性を持ち、意志を持って勉強や仕事をして生きることを要求される。
それがしんどくなる。
だから流体になることが、救済であり、魂のルフランだった。
エヴァンゲリオンの旧劇場版はまさに、人類補完計画によって人間は固体から流体になっていった。重力の支配から解放された。

音楽にも、そのような固体から流体になりたい人間の欲望が顕在化した楽曲がたくさんある。

www.youtube.com冨田ラボ feat.坂本真綾の「荒川小景」、いい曲だよな。
荒川の土手だろうか、ゆるやかな川べりの光景が歌詞で綴られているが。
「緩やかに 流れてゆく」というように、川の水のように緩やかに漂う存在になりたい欲望が垣間見れる。

そう考えると美空ひばりの「川の流れのように」もそうかもしれないな。

www.youtube.com
去年、個人的に一番聴いた邦楽、Kroiの「熱海」という曲がある。

www.youtube.comこの曲に惹かれた。
やはり自分も固体として生きることに疲弊しているからかもしれない。
「熱海」で唄われている「ゆるり ゆらぐ この水際」のような流体的な存在となり重力から解放されたい、熱海のように昭和の時間が残っているような場所で直線的時間の圧力から解放されたい欲望を、「熱海」という音楽で満たしていた。

固体であるがゆえの疲弊、艱難辛苦から逃れるため、これからも人間は音楽などの文化を通して、擬似的に流体になろうとし続ける。

(4)跳躍により重力に抵抗しようとするルサンチマン

岡村靖幸の名曲、「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」。

www.youtube.com「青春って 1 2 3 ジャンプ 暴れまくってる情熱」と。

そしてミラクルジャンプ

www.youtube.comこれもルサンチマンだ。
一見すると、ポジティブな楽曲で、ルサンチマンとは無縁のように思うだろう。

だがルサンチマンに成り得る。なぜか。

それは「現実ではジャンプすることができないがゆえに、音楽という空想の世界にそれを委託しているから」だ。


グッドモーニングアメリカの「イチ、ニッ、サンでジャンプ」もだ。

www.youtube.comジャンプできるか?
実際に仕事中に、ジャンプしているサラリーマンがどこにいるよ!?
ああ哀しい哉、重力に支配された人間は、所かまわずジャンプすることが出来ない。

「わたくし、柴又商事、営業第2部の逆寅次郎と申します(と頭を下げた後、ジャンプ!)」してみろよ。

ジャンプした瞬間、「お帰りください」と、応接室ではなくエレベーターホールに案内されるのが関の山よ。帰り道で上司に叱責されて、総務に報告されて仕事を失う可能性も出てくる。

電車の中で、ジャンプし続けたらどうなるよ?
ワンマン運転ではない場合は駅員が来るだろうよ。次の駅で急停車し、鉄道警ら隊に尋問され、電車遅延等の損害買収請求をされる可能性だってあり得る。

こんな風に重力に支配された人間は、ジャンプする機会を失った。
だからせめて、音楽の世界の中だけではジャンプしよう。
それでダンスミュージックが生まれた。かもしれない。

また舞踏や民族舞踊、それも、重力へ抵抗したい欲望が反映した可能性がある。
被支配階級は支配者によって拘束的にドレスコードを押し付けられた。スーツを着ろ、礼儀正しくふるまえ、金髪禁止ピアス禁止、仕事中にジャンプするな…などなど。ジャンプを制限された人間は、「ジャンプする」というルサンチマンで抵抗したんだ。


ここで疑問に思うだろう。
いや、それはルサンチマンじゃねえだろ?
だってジャンプしている、実際に重力に抗い、あくせくしてる。行動に移してる。
奴隷道徳じゃないよ。

否!

奴隷道徳だよ。なぜか。
それは「そのジャンプに継続性がなく、一時的で、ケースバイケースに縛られてるから」よ。
結局は重力に縛られている。ドリカムのジェットは、真に重力に抵抗しているわけではない。

www.youtube.com
頭の中JET 心の中JET


心の中、すなわち、己の意識下にある願望に過ぎない。


ミキティ藤本美貴)のロマンチック浮かれモードで狂喜乱舞するヲタ達のジャンプは、一時的狂喜乱舞に過ぎない。

www.youtube.comそれに永続性はもちろん、任意の時間に実行できる融通性すらなく、束縛が生じている。
コミケが終われば重力にあふれた競争の世界に戻され、そこの熾烈な争いによって病むこともあるだろう。

ニーチェが、ツァラトゥストゥラが求めている重力抵抗というのは、そういう観念的なものでも、時限的なものでもねえんだよ。

 わたしはまた、つねに待たねばならぬ者たちをも、呪われた者と呼ぶ、――彼らは、わたしの趣味に反する。税取り、小商人、王、そのほか、国と店の番人たちは、すべてこれである。
 まことに、わたしも待つことを学んだ、立ち、歩み、走り、跳ね、よじ、踊ることを。
 しかし、わたしの教えはこうだ、いつの日か飛ぶことを学ぼうと欲する者は、まず立ち、歩み、走り、よじ、踊ることを学ばねばならぬ。――飛んで飛翔に達することはできぬ!

(引用元:フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラはかく語りき」)

待たねばならないもの、重力に逆らわず、怠惰に横になり、0Gに留まる人間、0Gを求めようとする人間。負荷を恐れてる。

音楽という、主に脳内でリフレインさせる行動に留まっている限り、それはルサンチマンだ。ツァラトゥストラは実際に、踊った。
それでも飛翔にまで至ること出来ないが。
ツァラトゥストラは、飛翔を求め続けた。

そしてこんなことまで行ったようだ。

 わたしは、縄梯子(なわばしご)によってあまたの窓によじ登ることを学んだ。素早い足で、高いマストによじ登った。認識の高いマストの上に坐ることは、わたしには、少なからぬ至福と思われた。――
 ――高いマストの上で、小さな焔のように、ちらちらするのは、少なからぬ至福と思われた。なるほど、小さな光ではある。それでも、漂流する船人と難船者たちにとっては、大きな慰めなのだ!――
 わたしは、さまざまな道とやり方によって、わたしの真理にいたった。わたしの目のがわたしの遠みにさまよう、この高みに、わたしは、一本の梯子によっていたったのではない。
 そして、わたしが道のことを問うたのは、いつも、いやいやしたにすぎない、――それはいつも、わたしの趣味に反したのだ!むしろわたしは、道そのものに問い、道そのものを試みることを好んだ。
 わたしの歩みは、すべて一つの試みと問いであった。――そしてまことに、かかる問いに対しては、ひとはまた、答えることを学ばねばならぬ!しかし、これが――わたしの趣味だ。
 ――良い趣味でも、悪い趣味でもなく、ただわたしの趣味なのだ。それをわたしは、もはや恥じも隠しもしない。「これは――わたしの道だ、――お前の道はどこにあるか?」とわたしは、かつてわたしに道のことを問うた者たちに答えた。すなわち、道なるものは――存在しないのだ!(14)
 ツァラトゥストラはかく語った。
 
(14)わたしの歩んだ、また歩む道は存在するが、一般に誰でもの歩む、歩むべき道というものは存在しない。

こんなこと出来るだろうか。船のマストに登る、並大抵の度胸ではできないだろう。
もちろんこれは比喩的な意味もある。
重力に逆らい、マストを登り、自分の道を作るということ。

その行動力と実践こそが、力への意志であり、単に音楽聞いて踊ったりノリに乗ったりして自分を慰めている限り、それは仮初の重力抵抗であり、例えるならカニカマで満足して、本物のタラバカニを、花咲ガニを、タカアシガニを取りにいこうと奮闘しないラストマン(末人)と言えよう。

蟹を取るために水中に潜るのではなく、地上の日々に嫌気がさして現実逃避したいから水中に潜ってんだよ。ああ情けない。


重力に逆らい、マストに登り、銛を白鯨に向かって突き刺してこそ人生だろーが!

なんてね。

そんな偉そうなこと言える生き方、自分もしてないんだけど。

村上龍と中田英寿によると「頑張る」のは当たり前なので客観的な定量化が難しく個々人の頑張りと結びついた「労力」も評価基準にはならない

年も明けてもう仕事始めてる人も多いのかな。
というわけで、仕事に関する話でもするか。

去年の末、「そもそも男女で同じ賃金がおかしいのではないかという話」って記事が話題になってたよね。

anond.hatelabo.jp「労働はかけた労力に応じて報酬を受け取るべきだと思っている」というのは、まあ気持ちはわかる。
けどその労働に成果が伴わないとただの自己満足、だからな。
なんて当たり前すぎる話だから、ブコメは「釣り」だの「何言ってんの」的な反応が大半だった。


しかし、頑張ったんだよ?
労力をかけて仕事してんだな、こっちは。
「ガンバッテるんだ!これで精一杯さ~♪」ってね、嶋大輔の唄にもある。

それでも評価しない。

まあ当然よ。そんな甘くない。
「頑張ってる」ってのは自分の行動の美化であり、他人や社会にとっては関心がない。
関心があるのは自分が生み出したアウトプットだ。
結果が出ないと上司に叱られるし。

闇金ウシジマくん(10)[ 真鍋昌平 ]

結果が出ないことを誤魔化すために、プロセスを必死に語るが、それは延命措置であり、最終的に結果が出てないことが判明すると断罪される。

youtu.be村上龍中田英寿も対談で言ってる。

村上 ホームでのカザフスタン戦のとき、テレビが選手一人ひとりにカメラ目線で「今日は死ぬ気で頑張ります」とか言わせてたでしょ?言わせるほうもいけないけど、あれは気持ち悪かった。ああいうこと、ほかの国では絶対やらない。ああいうのを嫌だと言うのも勇気いるでしょ?

中田 もう慣れましたけどね。「頑張ります」とかって、頑張るの当たり前なんだから、ああいうの、すごく嫌ですね。もともと写真撮られるのも照れちゃうから、すごく嫌だし。

村上 サインもしないんだよね?

中田 日本人って有名人がいるから、とりあえずもらっとけって感じでしょ?本当にファンでもないのに。こっちが食事してようが、おかまいなしだし。一度、銀行に行ったときに、並んでると銀行員の人が「サインしてください」って振り込み用紙出すんですよ。そんなのにサインしてとっておくと思います?そういう失礼な人には、ちゃんとわからせてあげないと。

 

文体とパスの精度/村上龍/中田英寿)p19

「頑張る」のは当然、それはプロならいちいち口に出すもんではない。
頑張ったんだ。ふーん。で、成果は?

という価値観。
村上龍中田英寿が上司だったら、ドライに成果を評価されるかもしれない。

MAJOR31巻でもある。

next.rikunabi.com本当の努力なんて他人には知るよしもない。だから努力ってのは人にアピールするもんでもないし、当然やるべきことだと。

これは合理的といえば合理的なんだよな。
労力に関わらず、成果を生み出す人を評価する。


けどそれだとあまりも残酷で世知辛いから、その不都合な真実を隠蔽するために、プロセスも評価するような仕組みを作った。

桑田真澄が言うように、すぐに結果に結びつかなくても。
日々、努力を続けるプロセスや、そのプロセスは結果のために適正かを考えるために、プロセスを重要視する考え方も一部ある。

www.speakers.jp頑張ったけどダメだった…その苦しみ抜き、あがきもがく姿に人は感動し、評価する。
ワールドカップクロアチア戦もそうだったように。

栗城史多が何度も登山して失敗しているが、「エベレスト登頂」という成果が無くても。
その道中のプロセス、「標高7000mまでは行った」等の労力を評価する。

www.youtube.comだから失敗したとしても、1000mや2000mの地点で敗走するようなことはしない。

あと24時間テレビでよくあるようなコンテンツ。
「感動ポルノ」と言われるケースもあるけどな。

コラム6 感動ポルノ

 障害者が健気に生きているそのさまを感動的な実話として健常者が消費することを批判するために、オーストラリアの障害者社会運動家、ステラ・ヤングによって生み出された言葉が、「感動ポルノ(inspiration porn)」です。性欲を満たすためにポルノグラフィが利用されるのと同じように、健常者が感動するために障害者が利用されている、と彼女は告発したわけです。障害者だけでなく、いまやセクシャルマイノリティ、外国人など、マイノリティであるがゆえに苦労する人の「がんばる姿」が、マジョリティの満足のためにくり返し利用されています。ですので、彼女の告発の意義はきわめて大きいと言えるでしょう。
 ただし、「感動ポルノ」の批判にはひとつ気をつけるべき点があります。障害者の人権や幸福に興味がないどころか、障害者に偏見を持っていたり日ごろ差別していたりする人が、障害者に対して温かい目を向けている(ように見える)人をきらう自分を正当化するために「感動ポルノ」批判に同調することがある、ということです。差別しない、他人を尊重する、というよいおこないを毛ぎらいする人は、「偽善」を批判することでよくない自分のまま「正しさ」を手に入れることができます。その卑怯さを私たちは警戒すべきでしょう。
 ですので、「感動ポルノ」批判は、それ単独で意義を持つというよりも、それが「障害者のよりよい生をサポートすることになってる、少なくともサポートするつもりがある」場合にのみ有意義である、と私は考えています。

(「あなたを閉じこめる「ずるい言葉」 [ 森山至貴 ]」p160)

感動ポルノという批判が生じる場合はあるものの、マイノリティが励む姿はそのプロセスに感動するケースがあり、労力が評価されるケースもある。

ピアノを弾けないからといって、労力をかけずに最初から「そりゃまあそもそも好きでやってないんで」とやる気ない発言をすれば、非難される。

anond.hatelabo.jpまた、失敗しても、そのプロセスで汗をかき、労力をかけていれば。
本来求めていた成果に至らなくても、失敗したプロセスから何かしらの成果が抽出される場合もある。

しかし残酷だが、そこまで余裕があるとは限らない。
多くの組織や上司は金儲けという至上命題のために「プロセスや労力を評価する余裕が無い」状況であり、成果主義がほとんどだ。
そんな評価者がいる組織、評価基準が成果だけというように画一的な組織は、危険だ。

自分が勤めていた会社もそうだった。
天下り上司は、人様の仕事の評価や命令ばかり。
自分で仕事を取ってきて、金を落としてるわけでもないのによ。
まあけど、天下り元は取引先だった。
その取引先の御用聞きのために、働かないおじさん(妖精さん)を受け入れろという取引だから、仕方ねえけどな。

そして酷いのは「成果すらも評価されない」というケースもある。
組織が腐ってる場合、年功序列等で給与を画一的に決められ、会社に利益をもたらしているのに評価されない。

例えば中抜きSES企業に勤めている場合、中抜き人事や労務や事務仕事をやっている社員と、派遣先の企業でプログラミング等で専門性を使って仕事をしている社員の給与が、変わらない場合もある。
下手したら、SES企業本体で事務仕事してる社員や役員の方が貰ってたりする。
そういう雰囲気の組織にも遭遇したから自分はサラリーマンを辞めたってのもあるな。

若手を「シュガー社員」と馬鹿にするが、実務から免れた管理職で甘い蜜吸ってるのはどっちだよって話だわ。

「そもそも男女で同じ賃金がおかしいのではないかという話」を記事を書いた増田も、自分が所属する組織に不満があったのではないだろうか?

少し突飛な話になるが、例えば北条氏康みたいな上司がいたら、正当に評価してくれたかもしれない。
その人柄を示すエピソードがこの本にあったので紹介したい。

 氏康は、四十五歳で息子氏政に家督をゆずって引退。その後は一歩退いたところから、外交や政務全般に目を光らせた。

 ある日、氏康は息子に、
 
「国主となったいま、そなたは何を楽しみとしているか」とたずねた。
「家臣たちの能力があるか否かを見分けることが、もっとも楽しゅうございます」
氏政が答えると、氏康はそれでよいとうなずきながら、
「大将が有能な家臣を選ぶのは、世の常のことだ。しかし、家臣のほうが大将を選ぶこともある」
と、釘をさした。
「日ごろから、家臣を愛さず、民に恵みを与えないでいると、良主をもとめて他国へ去ってしまう者が出る。そうならぬため、家臣を愛し、民に恵みを与えることは、けっして人まかせにしてはならない。富貴の家に生まれてぬくぬく育ち、下情に達せず、家臣が功を積んでも引き立ててやらず、労を尽くしても賞してもやらない。これでは、人心が離れてしまい、いざ事が起こったときだけ甘い言葉をささやいても、家臣たちはついてこない。ゆえに、小さな功をも見逃さず、働きに見合った褒美を与え、十分にねぎらって励ますことを、大事な心得とせよ。これを家臣への調義(策略)だと言う者もあるだろうが、それこそ、とんだ考え違いよ」

 氏康は息子に、諄々(じゅんじゅん)と説いて聞かせた。
 
そして、そのあとにつづく最後のひとことが、
「下の功労を偸まざれ」(ぬすまざれ)
の至言である。

 まさしく、まつりごとを人まかせにせず、民や家臣の声にみずから耳を傾けていた北条氏康ならではの言葉といえよう。
 人には誰でも誇りがある。それがどんなにちっぽけなものだとしても、いや、ちっぽけであるからこそ、他人にみとめられれば喜びは大きい。逆に、自分をささえる誇りを傷つけられたら、その恨みは深くなる。もし、北条氏康のような上司がいれば、私の若き友人も不満を口にするどころか、ますますやる気に燃えて、仕事に精を出していただろう。

『本阿弥行状記』(ほんあみぎょうじょうき)には、氏康が息子氏政と昼食を共にしたときの、こんなエピソードが載っている。

氏康は、氏政が飯に汁を二度かけて食べたのを眺め、
関八州の北条家の所領も、氏政の代になって失われるであろう。わずか、飯椀のなかに入れる汁を加減できぬ程度の器量で、どうして関八州の人々の善意を見きわめることができようか」
と、落涙した。


 当時は、飯に汁をかける食べ方が普通であった。その分量を一度で決められず、二度に分けて加減するところに、息子氏政の器量のなさがあらわれているというのである。これなどは、いささか厳しすぎる評価だとは思うが、氏康は日常の一挙一動に、人間の本質がおのずと滲み出るのを見ていたのであろう。
 
 この氏康の予言は、不幸にして当たった。天下統一をおしすすめる豊臣秀吉の軍勢が小田原へと押し寄せたとき、五代当主氏直の背後にいて、決戦の断を下したのは、すでに隠居の身となっていた氏政であった。
 
 ――関東の王
 
としての北条氏の誇りが、氏政に判断をあやまらせた。
 生きるか死ぬかの戦国では、ささいな判断のずれが命取りになる。厳しい時代だ、とつくづく思う。
 
北条氏康(ほうじょう・うじやす)一五一五 ~ 一五七一
相模の戦国武将で、北条氏三代当主。天文十四(一五四五)年に始まる河越城の戦いでは、劣勢に立たされながら、巧みな戦略で関東管領山内上杉憲政らを破った。隠居後も、小田原城で息子・氏政の政務を補助して後見役を務めた。

(「武士の一言 朝日文庫/火坂雅志【著】」p107-110)

ちなみに北条氏康は、「鎌倉殿の13人」で扱われた北条義時とか北条一族とは、生きた時代が違う。
鎌倉時代から300年後の戦国時代の人みたいだ。

rekishiru.site成果も評価してくれない、労力も評価してくれない、そんな組織は病んでいる。
転職を考えた方がいいかも。

労力以前に成果すらも無視されることがある、秩序なき現代社会。

ああやだね。
秩序のない現代にドロップキック、ミスチルの曲にもあるよな。

www.youtube.comeverything it's you 、何を犠牲にしても守るべきものがある、愛を貫き通すことが称賛される。

www.youtube.com相思相愛である相手を持つことが称賛される。

人生における成功者の定義と条件
アンケート20代以下

26歳♀(東京都)主婦
人生の成功者とは……
相思相愛のパートナーがいる
質の高い(=本人が満足な程度の)衣食住が得られている、必要なときに必要な助けが得られるネットワークを持っている(医療・介護など公的サービスから友人知人などまで)。

(「人生における成功者の定義と条件 村上 龍」p79)

53歳♀(大阪府)自営業
【定義】
人を愛し、その人から愛されている人のこと。
【条件】
愛の対象が具体的な人間であって、相互に相手の愛を認識していること。なぜなら、健康も不健康も、貧乏も財産も愛する人の存在で価値をもつから。

(「人生における成功者の定義と条件 村上 龍」p224)

しかしその一方で、愛は貫き通されることなく、惑うこともある。

dot.asahi.com とはいえ、このスキャンダルによって好感度はガタ落ちした。たとえば、雑誌「JUNON」の人気ランキングで、彼は木村拓哉福山雅治がトップを争う男性部門のベスト10に入るほどだったが、そういう存在ではなくなっていく。不倫への風当たりは、近年ほどではないにせよ、当時も厳しかったのだ。

 にもかかわらず、彼はなぜ、この危機を乗り越え、盛り返すことができたのか。ひとつの理由としては、とにかく大真面目にみそぎをしたということが挙げられる。こうしたときの対処法としては「マスコミを通して謝罪する」「一定の謹慎期間を置く」「作品で表現する」「田舎に引きこもる」「頭を丸める」といったものがあるが、彼はそのすべてを実践したのである。

 もっとも「田舎に引きこもる」べく、母方の地元でもある山形県に建てた新居は時価5億円の豪邸。「頭を丸める」にしても、「週刊女性」によると、最初の妻の母親からは「なんで坊主にしたのか……。その意味がわからない」と皮肉られたりしたという。それでも、反省めいたものを何も示さないよりはまだ効果的なのだろう。

Everything its you がリリースされた1997年に、不倫が発覚したらしい。
Everything its you and another ladyだった。

この記事も最近、話題になってたけどな。

anond.hatelabo.jpミスチル桜井和寿は大真面目にみそぎをしたから今がある。
だから「炎上しても謝罪しないほうがいい」と決めつけるのは、早計な気もするな。

一途な愛の完遂は簡単じゃない。
「心は惑うもの」ということを示す好例よ。

心こそ 心惑わす心なれ 心に心 心ゆるすな
(心ほど心を迷わすものはない。心というものにけっして心を許してはならない)

伝承歌[沢庵禅師の『不動智神妙録』、鈴木正三の『万民徳用』などに引用されている道歌]

 この冒頭の言葉は沢庵禅師の、心のあり方について具体的に説いている『不動智神妙録』の結びに引用されている、有名な道歌です。禅の心を説く伝承歌として、当時よく知られていたものです。鈴木正三の『万民徳用』にも引かれています。後述する、石門心学者の柴田鳩翁の『鳩翁道話』にも、次のように「ある人の道歌」として引用され、人の心の恐ろしさを説いています。

(「名言名句で読む日本人の歴史[ 名言名句探究会 ]」125日目)

鴨長明は人間の心が作り出している世界の無常さを暴いた。

夫(それ)、三界(さんがい)はただ心一つなり
(そもそも、欲界・色界・無色界から成るこの世界は、ひとえに心が作り出しているのである)


鴨長明[久寿二(1155)年―建保四(1216)年]
歌人、随筆家。『方丈記』著者。仏教説話集『発心集』編著者。神職を辞め出家して閑居生活を送った。同字だが俗名は「ながあきら」と称される。


「日本最大随筆の一つ」ともされる『方丈記』は、無常という心のあり方を説いていることで知られます。

また不知(しらず)、仮の宿り(かりのやどり)、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる
(また私は知らない。人々はなぜ、仮の住まいに過ぎぬ家を、誰のために苦心して作ろうとし、そしてなんのために自分の住まいを見て喜ぶのか、ということを)

予、ものの心を知れりしより、四十(よそぢ)あまりの春秋(はるあき)をおくれるあひだに、世の不思議を見る事、ややたびたびになりぬ
(私はものの心を知ってから、四十年余りの歳月を送るあいだに、世の中の不思議を見ることが、次第にたびたび起きるようになった)

「夫、三界はただ心一つなり。心もしやすからずは、象馬(ぞうめ)、七珍(しつちん)もよしなく、宮殿・楼閣も望みなし」
(そもそも、欲界・色界・無色界から成るこの世界は、ひとえに心が作り出している世界なのである。心が安らかでなければ、貴重な象や馬や、宝物も無益であり、宮殿も楼閣も不要である)

 

(「名言名句で読む日本人の歴史[ 名言名句探究会 ]」49日目)

ドゥルーズも、意識(心)が身体をコントロールしているのではなく、身体(色欲)が意識を支配していると語っていたらしい。
この動画の中盤で言及されてた。

www.youtube.comだから「心」同様、「労力」とかいう個々人の内面や精神性の高いものに依存する評価基準は疑わしい。

労力を評価してくれるのは、有難い場合はあるが。
「労力」は「心」のように掴みどころがなく、定量化も可視化も難しく、曖昧で不安定な概念だ。
そのため、あくまで成果で評価してくれる土壌があるのが前提。

もし労力を無理矢理、定量化し、労力だけが評価される世界になった場合、有能な人間がモチベーションを失い、生産性は下がり、残酷で無秩序な世界になるだろうな。

「すずめの戸締まり」の民俗学的考察によって明らかになったシン・エヴァとの類似点

新海誠監督の「すずめの戸締り」を観に行った。

既に色々な人がレビューしているようだ。

blog.hatenablog.comただ、民族学の切り口はまだ少ないかな?と。

映画の中でも、民俗学的エッセンスが随所に見受けられたからな。
物語とか考察の幅を広げるための権威付け感はあるけど。
ではその流れに乗って、「すずめの戸締まり」における民族学的要素を考えてみるか。


1.常世について
2.後戸ついて
3.宗像一族について
4.祝詞について
5.ダイジンとサダイジンについて
6.「すずめの戸締まり」で氷河期世代は救われない(まとめ)


で、話を進めていこう。

※以下、ネタバレあり。まだ「すずめの戸締り」観てない人は観てからの方がいいかも。

1.常世について

まず地震の発生源、ミミズが出てくる常世について。
宗像草太(松村北斗)の台詞に「常夜では全ての時間が同時に存在する」とのこと。

mofumuchi.comウィキペディアの説明。

ja.wikipedia.org「常に夜の世界」「死者の国」「黄泉の国」という意味もあるけど。
「理想郷」「来訪神の故郷」という意味合いもあるらしい。

常世
 古代日本人の他界観をあらわす代表的な語。「常世」という語は『古事記』や『日本書紀』にみられる。これらの文献から民俗学者柳田國男折口信夫は「常世」を他界観や異教意識の問題として掘り起こした。
 折口信夫は「常世」の原像は「常夜」すなわち「闇の国」、「死の国」であったことを強調する。
 今日では、「常世」と「常夜」は上代の特殊仮名遣いの違いから別語と考えられているが、折口はこの「常夜」から「マレビト」と呼ばれる来訪神が訪れると考えた。そして「常世」を日本人の他界観や異教意識の根本に関わる問題として捉えた。折口がこのように「常世」を来訪神の故郷と考えるようになった背景には、沖縄の「ニライ・カナイ」信仰があったといわれている。

(「来訪神事典 [ 平 辰彦 ]」p127)

常世をニライ・カナイと捉える文化もあると。
そのニライ・カナイ信仰について。

 奄美から八重山に至る琉球列島の村落祭祀の儀礼で表現される世界のなかで、人間の住む世界と対比される他界、別の世界。

ニライ・カナイは対語であり、ニルヤ・カナヤ、ギライ・カナイ、ミルヤ・カナヤなどの異なる表現もある。
ニライの大主のように対語表現でなく、地域によって単にニライ、ニレー、ニーラン、ニッラ、ニローなどと表現されることもある。

稲やアワなど主要な穀物の収穫を終え、新たなる農耕のサイクルへのはじまりすなち年の変わり目に、ニライカナイから人間の世界・村落に神がやってきて、ユー(幸福・豊穣)をもたらしてくれるという信仰が、琉球各地の祭祀、農耕儀礼の際の神歌や儀礼に見られるが、その信仰の表出は地域によって異なる。

八重山諸島石垣島川平のマユンガナシ、西表島古見などのアカマタ・クロマタの祭祀のように、仮面や草木をまとった異装の神が出現し村落内の家々を訪れ、呪術的所作を行い呪言を残していく形態もあり、また、竹富島のユークイや、沖縄本島北部の一地域のウンジャミ(海神)祭祀のように、具象的な神の出現はなく、神の去来は村人や神役たちの儀礼的所作や神歌などによって象徴的に表現される場合もある。

ニライカナイがどの方向にあるかについても、地域によって差異があり、琉球王国編纂による祭祀歌謡集『おもろさうし』のなかには、ニライカナイが東方の海のかなたにあるという観念とむすびつくものがみられる。

しかし、ニライカナイの方位は村落の地理的条件によって左右されるものであり、沖縄本島の西海岸にある村落では西の海に向かってニライカナイの神を送る儀礼を行っている。

また、宮古諸島多良間島では、人は死後、ニッラ(ニライ)の神の座に就くという観念があるが、根の深い草の表現として、根がニッラまで届いているという。
そのことはニッラが地底にあるという観念を示すものである。

また、海底と思わせるような伝承もあり、ニライカナイの方位、ありかについては、かなりの振幅性がみられる。

ニライカナイが神の在所であり、そこからさまざまな豊穣がもたらされるという観念、理想郷としての観念ではなく、ときには悪しきもの、災いをもたらすものの住むところという伝承もあり、その両義的な意味は琉球列島の来訪神信仰の解釈に重要な鍵となる。

なお、ニライカナイ信仰が海のかなた、海底・地底にむすびつく神観念・世界観を示すものであるならば、それに対比されるものとして、オボツ・カグラという天上世界を志向する神観念・世界観を示す語彙が『おもろさうし』など祭祀歌謡の中にみられることも忘れてはならない。

【参考文献】
植松明石編『神々の祭祀』(「環中国海の民族と文化」二、一九九一)(比嘉政夫)

(「神事と芸能 民俗小事典 [ 神田より子 ]」p79)

「悪しきもの、災いをもたらすものの住むところ」とあるように。
常世ニライカナイに、人間が住む現世(うつしよ)に、何らかの災厄をもたらすものが住んでいるという伝承も、もしかするとあるかもしれないね。

ただ地震を起こすミミズ的な存在がいるのかどうかは、疑わしい。
ミミズは常世ニライカナイにいる存在というよりは、別の信憑性が高い説がある。

茨城県鹿島神宮と千葉県・香取神宮の要石、宮崎県・高千穂神社の鎮石が元ネタという説。

inthadoor.com


2.後戸について
「後戸」というのも、物語では頻出する。
人のいなくなった寂しい廃墟に現れる。
これの元ネタは何だろうか。
民俗学とかに詳しい幣束(@goshuinchou)さんが呟いていた。

後戸と言えば摩多羅神らしい。
摩多羅神とは何か。

 慈覚大師円仁が中国大陸より請来したと伝承され、天台系寺院の念仏の道場である常行堂常行三昧堂)にまつられる神で、観想念仏をする僧侶を守護するとともに極楽往生の願いを成就するとされた。
 
次第に密教色を強め、天台の灌頂儀礼(かんじょうぎれい)である玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)の本尊とされ、秘儀性を帯び男女和合の性的な儀礼へ展開した。

神像は上部に北斗七星を描き、星曼荼羅供の妙見信仰と繋がる。形姿は、唐風の鳥帽子を被り和風の狩衣を着て、左手に笹葉、右手に茗荷を持つ。
左脇侍の丁礼多童子(ちょうれいたどうし)は小鼓を打ち、右脇侍の爾子多童子(にしたどうし)が舞う姿で描かれ、歌舞音曲を好むとされる。

中世の多武峰(とうのみね)や日光では、修正会の延年で常行堂摩多羅神祭祀が行われ、猿楽や翁の発生との関連もあるとされる。

歌舞に関わる芸能神、常行堂の道場神、玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)の本尊の三種の性格があり、おのおのの修正会、引声念仏(いんじょうねんぶつ)、灌頂儀礼(かんじょうぎれい)に関わる。

法会の守護神であると同時に障礙神(しょうげしん)で、禍々しい荒ぶる霊を鎮めまつって守護神に変え、邪悪なものを排除する。毛越寺では正月二十日に常行堂の本尊阿弥陀の後方の奥殿にまつる摩多羅神に御本地供を執行し、延年の歌舞を奉納する。

最も重要視される祝詞は、鼻高面をつけ反閇(へんばい)をして秘密の文言をと耐え、神が化現し加護を願う。

京都太秦広隆寺では九月に七日間続く引声念仏(いんじょうねんぶつ)の中日に摩多羅神祭、俗に牛祭を行っていた。現在は十月十日前後に不定期に開催され、白い神の面を付けた神が牛に乗って出現し、祭文を滑稽に読み上げる。

服部幸雄は後戸(うしろど)と呼ばれる霊性に満ちた空間に芸能始原の神として摩多羅神がまつられ、宿神や翁の性格を帯びて展開したとする仮説を提示し、芸能史研究に新たな視野を切り開いた。

【参考文献】
福原敏男『祭礼文化史の研究』、一九九五
山本ひろ子『異神』、一九九八
鈴木正崇『神と仏の民族』、二〇〇一
服部幸雄『宿神論』、二〇〇九  (鈴木正崇)


(「神事と芸能 民俗小事典 [ 神田より子 ]」p88-89)

この本の表紙にいるのが摩多羅神

芸能始原の神、という説もあるみたいだけど。
謎が深いのでもう少し調べてみた。

www.pref.nara.jp摩多羅神について、18C天台僧・覚深は、「天竺・支那・扶桑の神なりや、その義知りがたし。支那の神にあらず、また日本の神にもあらざれば、知らざる人疑いを起こす輩もあるべきことなり。」(『摩多羅神私考』)と述べていることから、すでに近世にはその由来が分からなくなっていたようです。

 

oujou.seesaa.netその一方、摩多羅神は、いろいろな神や信仰と結びついていきます。大黒天、ダキニ天をはじめ、夜叉神、秦氏秦河勝ゾロアスター教のミトラ神、玄旨帰命壇の本尊、猿楽の翁、天台本覚思想などとの関係が指摘されています。本当に謎につつまれた神様ですね。その神秘さゆえに、様々な信仰に取り入れられたのかもしれません。

 

db2.the-noh.com詳しいことが分からない謎の神であるが、左手には鼓を持ち、猿楽者は自らの守護神として尊崇するなど、芸能と密接な関係が窺われる。

結構、謎に包まれてる神様のようだ。
島根県出雲市別所町、「鰐淵寺」本殿横に、摩多羅神を祀った社があるようだ。

 

ameblo.jpこの神を祀る寺社は数多く、広隆寺の牛祭り、毛越寺の二十日夜祭なども知られるが、その来歴や正体に一貫性はなく、これほど不可解な神もいない。ご関心のある方は、前掲書や山本ヒロ子氏の「異神」を読まれるとよい。性の秘儀で知られる邪教真言立川流との共通点など、めくるめく物語が待っている。

性の秘儀、邪教とも繋がってる?

www.izm.ed.jp伝説では比叡山の円仁(第3代天台座主、慈覚大師)が中国より帰国の途次に感得し、叡山に常行堂を設け勧請したのがはじまりという。
古くは摩多羅神に祈念しなければ往生できないと言われたほど霊威ある神とされ、後には芸能の神としても信仰を集めたが、江戸時代に急速に廃れた。様々に謎を秘めた、中世の神である。
岩手県平泉の毛越寺、栃木県日光輪王寺等に祀られていることが知られているが、「秘神」とされ、像が公開されているものは極めて少ない。 

天台宗が信仰している神なのか、うーん。何かはっきりしないね。

japanmystery.comさらにこの神社の祭りとして有名なのが“牛祭り”である。“摩多羅神”なる神様が牛に乗って練り歩き、広隆寺敷地内で珍妙な祭文を読み上げて走り去ってしまうという、摩訶不思議な祭りである。秦氏のルーツと目される中央アジア周辺には【ミトラ教】なる教えがあり、その最高神であるミトラ神が実は牛の頭を持つ神として伝えられている。そのため、多くの研究家はこの祭りをミトラ教信仰の名残と推察している。

ミトラ教とも関わりがあるという話も。

tamtom.blog44.fc2.com京都右京区太秦(うずまさ)蜂岡町にある大酒神社(おおさけ)の牛祭は京都三奇祭の一つ。かつては神社祭であったが、現在は、広隆寺が行っている。そのため、広隆寺の「牛祭」と広く言われるようになってきている。十月十日(夜8:00頃)に奇妙なお面をつけて牛に乗った摩多羅神がお出ましになる。赤鬼、青鬼、二人づつ先導にして、広隆寺西門から出て行列をする。やがて、山門の前を通り、東門より境内に戻る。薬師堂の前の祭壇を牛に乗ったまま三周したあと、祭壇に登り、赤鬼・青鬼とともに祭文を読みはじめる。独特の節回しで長々と厄災退散を祈願する。

結構、調べたが、摩多羅神が災いや祟りをもたらす記述はなかったな。
だからすずめの戸締りにおいて、後戸から出てくる存在=ミミズ=摩多羅神、とかではない。

謎めいてる存在っていうのはあるが。
「すずめの戸締まり」の謎より面白いかもな、摩多羅神の謎は。
興味のある人は円仁を追ってみてくれ。

www.ensenji.or.jpロ、円仁(794-864)が唐から帰朝(847年)する時、船中に現れた神と伝えられる。記録に表れるのは十一世紀。

 

www.st.rim.or.jp円仁は、都が京都に遷された年の延暦13年(794年)に下野(しもつけ:現在の栃木県)の国で生まれた。15才で比叡山に入門し、最澄の薫陶を受け、21才で得度し、最澄に従い故郷の下野をはじめとする東国を巡った。その後は、戦乱に傷くエミシの地東北を歩いて人心の混乱を鎮めようと自らが信じる天台宗の布教に専念したのであった。

円仁44才の頃、天台の教義の勉学のために当時の中国の唐に入る。以後9年間、一心に学んだのであったが、この円仁の入唐の理由は、空海(774?835)がもたらした密教の教義が日本国内で急速に広まる機運を見せるなかで、日本に天台宗の教義の深化をするための命がけの旅であったと推測される。

周知のように、空海は日本宗教史上でも屈指の人物である。円仁の師匠にあたる最澄(767-822)は、彼の先輩であり、ライバルであったが、密教の部分に関しては、言葉は悪いがかなりのコンプレックスを持っていて、再三後輩であった空海に中国から持ち帰った文献を借りたりしている。これに対して、空海は「書物をどんなに読んでも密教の秘法を理解することは難しい」と強い言葉で拒否したこともある。

 

3.宗像一族について

摩多羅神が宗像草太?と一瞬思ったが、全然違うようだ。

神社チャンネルの考察にあるように、宗像草太の元ネタは宗像一族。

www.youtube.com

zinja-omairi.comその昔、宗像一族は海洋一族で、中国や朝鮮半島からやってくる人たちの防波堤にも橋渡し役にもなっていた、言わば扉の役割だったのです。

中津島、沖津島がありますけど、朝鮮半島とか中国から来るときはあの島を通ってきていましたので、いわば、異分子や余計な勢力から守っているのもまた、宗像一族であったということです。

まさにこの日本で、海外の余計な勢力から入ってくるのを守る、戸締まりする力を持っているのは宗像一族なので、その辺が今回のテーマ「戸締り」というところにも非常に合っていると思います。

星野之宣氏の漫画『宗像教授伝奇考』では、宗像一族は大和朝廷とも繋がりがあったみたいね。

mobile.twitter.com

4.祝詞について

そもそも祝詞(のっと、のりと)とは?

miyazakijingu.or.jp祝詞とは古語、万葉仮名を用い、一般の祈願では、その人の思い等を
神様に奉告するものです。
表現方法や読み方は神主により様々ですが、基本的な所は同じだと思います。

映画でも草太が、戸締りの前に以下のような祝詞を述べていたよな。

かけまくしもかしこき日不見(ひみず)の神よ。
遠つ御祖の産土(うぶすな)よ。
久しく拝領(はいりょう)つかまつったこの山河。
かしこみかしこみ謹んで、お返し申す。

かけましくもかしこき、は、掛けまくも畏き、祓詞(はらいことば)らしい。
白山姫神社のサイトで紹介されてる祓詞。

shirayamahime.jimdofree.com映画に出てきた「かけまくしもかしこき」「かしこみかしこみ」の両方が入ってる。

先に引用した宮崎神宮のサイトにも「掛介麻久母畏伎・・・」(かけましくもかしこき)、「恐美恐美母白須」(かしこみかしこみももうす)が紹介されてる。
しかも2012年の記事なので、祝詞では一般的な言い回しなのだろう。

「かしこみかしこみ」は、「言葉にするのも畏れ多い、神様への敬意」らしいね。

allmamamakehappy.com
ちなみに祓詞と祝詞は、違いがあるというよりは、祝詞の種類の1つが祓詞だということらしい。

shinto-bukkyo.net

「かしこみかしこみ」は、接触呪術の時の口上にも使われているようね。

それから2分野の他方、図でみると右のほうは感染呪術接触の法則)。Contact です。
触る、触れるわけです。そうすると効果があるというのです。これを楽しいほうの例で説明すると、大好きな恋人のハンカチや、その人が身に着けていた何かを、何らかの方法で手に入れて、それを大事に持っていると愛が成就するのです。相思相愛であっても彼は鹿児島に転勤、彼女は札幌に転勤になったとすると、お互いに大切なものを交換しあい、それを大切にしていれば愛は続くというわけです。これは接触呪術です。有名人にサインしてもらって、それを大切に持っているといいことがあるなど。それを多少とも共感できるなら、ここにいらっしゃる方はみなさん呪術のファンというか、呪術の実践家といったところです。神社のお守りはいわずもがな、地鎮祭のときの儀礼で「かしこみかしこみ」とやって地面に鍬を入れたり、土地の神に工事の無事を祈願する、などはそうです。鍬入れは真似事ですので類感・模倣といえますが、鍬入れした土地に建造物が建つのですから感染・接触ともいえましょう。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kfa/2019/51/2019_1/_pdf

〔フォーラム〕フレイザー金枝篇』を読む―ビブリオ・ライブ連続講座(1)
石塚正英 (2019 年 8 月 9 日公開)
『頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』Forum51 2019 SSN 2432-1087

 

日不見は、ヒミズモグラの神説、火水の神説、ひふみ祝詞説と、3つの説をこのサイトで紹介してくれている。

shindailog.com
御祖は「母親」という意味らしい。

kojiki.ys-ray.comこの「御祖」(みおや)という言葉は、古事記に十六回(同一場面の重複を除けば十一回)出てきますが、すべて「母親」という意味で出てきています。

一方、単に「祖」(おや)と言った場合には、「建比良鳥命は、出雲国造・・・遠江国造等の祖」「天児屋命は中臣連等の祖」という具合に、もっぱら「祖先神」という意味で使われます。

このように古事記においては、「御祖」「祖」という言葉が厳密に使い分けられており、したがってカミムスビも母神とされていることが分かります。ここでは記注釈のように、オオゲツヒメの母神として登場したものとするのが自然な見方になります。

産土は「土地の神」みたいな意味だ。


後戸がある場所は廃墟だから、氏神様ではなく、産土の神様とのこと。

happymackeyblog.com以上の点を踏まえると、すずめの戸締りの祝詞は以下のような意味だろう。

畏れ多い森羅万象の神よ!
遥か彼方の母なる大地の神よ!
長らくいただいてた山や川
慎んでお返しします。


ってことかな。
人間はその土地が廃墟になるまで自然を利用し尽くした。
それゆえ、畏れ多いがその土地をお返ししますので、どうか災いを防いでください、後戸を閉じさせてください、と。

5.ダイジンとサダイジンについていて

この人の動画で説明されている。

www.youtube.comタケミカヅチ鹿島神宮の要石、フツヌシが香取神宮の要石。
「なぜ猫なのか?」というのは、単に猫が可愛いからってのもあるかもだけど。

幣束(@goshuinchou)さんによれば、沖縄では常世ニライカナイ)を「まやのくに」と呼び、猫のこともマヤと呼ぶとのこと。

そのため、常世の要石となってミミズを抑える存在として、ネコというモチーフを利用したのかもね。

猫が魚(ナマズ)の天敵だから、新海誠監督がネコ好き、という説もあるみたい。

ciatr.jp

6.すずめの戸締まりで氷河期世代は救われない(まとめ)

そんで、こっからは個人的な感想だけどね。
民俗学とか神道とか、物語に神秘性やある種の権威付けのようなことをしているけど。

結局、常世の扉を閉めるんだよな。
なぜ?
別に常世の中に留まってもよかった。

岩戸鈴芽(原菜乃華 / 三浦あかり)は、愛する草太が常世の中にいたんだから、その中で一緒に生き続けるという展開もあったはずだ。

神戸で、すずめが後戸の中に入るシーンもあったように。
草太が「常夜では全ての時間が同時に存在する」と言っていたように、常世は時間に捉われない、理想郷としての側面もあったはず。だからすずめは入ろうとした。

そのような常世の肯定的なシーンも見受けられるけど、結局、否定的に描かれた。

災厄をもたらす、地震を引き起こすミミズが蠢く場所として、おどろおどろしい場所として、クライマックスシーンでは常世の中で、ミミズを封印する。

そしてハッピーエンドで日常生活、現世の生活に戻る。

因果さんという方のレビューにあるように。

eiga.comセカイ系のような、「ぼく」と「君」が閉じられた世界の中での己の自意識に終始した結末ではなく。
他者世界と積極的に関わる世界を肯定すると。

つまり美化されていること、肯定されていることは「常世(とこよ)で生きること」ではなく、「現世(うつしよ)で生きること」だ。

この世界は素晴らしい、現実はすばらしい、未来が開けている、精一杯生きよう。まあそういう肯定的なハッピーエンドの方が、万人受けするわな。


だが常世的な世界を肯定する思想もある。
「同じことを永遠に繰り返す」永遠回帰を受け容れること、それをニーチェは肯定した。

 永遠には、「二つの永遠」がある。ひとつは、無限の直線でどこまでも続く。もうひとつは円環である。円環しているとグルグルといつまでも回る。キリスト教天地創造から世界の週末までを直線(リニア)だとする。このとき「永遠」(エーヴィヒカイト)とは、直線の始まりと終わりとする。この動きの繰り返しだ。


それに対してニーチェが尊敬するギリシア人たちは円環だった、と思いついた。ニーチェはこの後者の思考こそは素晴らしいものだ、と考えた。これはギリシア人の考えを再び受容することではなくて、同じことの永劫回帰(永遠の繰り返し リターン・トゥ・フォーエヴァ)が突然彼に見えたのだ。この「同じことの永遠の回帰」は、そこから逃れることができない苦痛のニヒリズムとして本当に恐ろしいものである。自分の病気がまさしくこれだ。しかし、同時に、あるがままの自分の生を英雄的に受け容れ肯定することが崇高なのである。能動的ニヒリズムと、生きることの絶対的肯定は、ニーチェの場合、反ローマ教会の思想と常に対をなしている。

(「ニーチェに学ぶ「奴隷をやめて反逆せよ!」 ーまず知識・思想から [ 副島 隆彦 ]」p254)

要石となって、常世として円環時間を生き続ける草太も、ニーチェ的には肯定されてもいいはず。
それによって、現世で生きる人々を守り続けることができるんだから。

しかし「そうはさせるか」という感じで、鈴芽がやってくる。

何だかよくわからないクライマックスで、ダイジンとサダイジンが要石になってくれるというご都合主義によって、二人は常世から抜け出して現世で生き続けるという展開で終わった。

二人の今後の恋物語の発展を予感させるようなハッピーエンド。
そうじゃねえだろ。
もう飽き飽きだよ、そういう現世礼賛はよ。

現世の綺麗な側面だけを、ルッキズム的に美男美女の世界だけを切り取って描いているけど。
もっと現世は残酷だろ、常世よりも。

コロナ渦でリモートワークが浸透しても、相変わらず満員電車に揺られて通勤しないといけない。

闇金ウシジマくん(10)[ 真鍋昌平 ]

酒とメシの力によって現世で起きた嫌なことを忘却する。

荒野のグルメ 1 [ 久住昌之 ]

現世の直線的時間の圧力によって膨大なタスクに晒され続け、精神は疲弊する。

ヒナまつり 6 [ 大武 政夫 ]

常に直線的時間軸が支配する資本主義社会で、成長が求められ続ける、責任が発生し続ける。

どっちが息苦しいよ?円環時間の常世と、直線的時間の現世を比較して。

現代社会では、同じ場所に留まること、永遠回帰に留まることはルサンチマンであり、時間の経過と共に成長なるものを求められる。

それに疲弊した人間は、音楽などによって、永遠回帰の欲望を一時的に満たしてはいるが。

gyakutorajiro.comこれらの曲は全て、「幸せな時間が永遠につづいてほしい」という願いが唄われている点で永遠回帰ルサンチマンでもあるが、もっと特徴的な点がある。それは「本来、直線的時間の流れで生じ得るトラブルが希薄化されている」という事実だ。
差異や変化のダイナミズムを排除する。

家族をテーマにした曲の場合、妻や夫の不倫などの夫婦仲の脅威、子どもの反抗期や非行、学費が払えない、リストラによって住宅ローンが払えなくなる危機、老後の蓄えが足りないなど、諸々あらゆる懸念事項が、全て排除ないし、希薄化されている。

結局は直線的時間、現世での日々が待っている。


現世では、氷河期世代は就職できず、薄給で食い扶持をつなぎ、結婚も出来ず、その生涯を終える。
それでも現世で生きることを肯定するという点で、結末は「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」と同じなんだよな、結局は。

b.hatena.ne.jpシンジが就職したとされる宇部興産珪藻土バスマットは確かにいい。
ものすごい吸水性で、他の珪藻土バスマットより群を抜いてる。

だけどそんな逸品を作れるメーカーに、何人が就職できるよ?
派遣帝国となった日本で、現世で自己実現できる可能性は、どれだけあるんだよ!?


新海誠の映画は、作画が綺麗だ。
東京も地方も、現世はかなり美化され、美しく描かれている。
そのため「現世は素晴らしい」と錯覚させ、岩戸鈴芽も宗像草太も、美しい世界である現世に戻れたという点で、ハッピーエンドと誤解するけどよ。

「現世は素晴らしい」という前提がそもそも、リアリティを失ってるんだよ。

そしてルッキズム全開の鈴芽。
冒頭、すずめが故郷の宮崎を自転車で走っている時に、草太とすれ違う。
思わずその容姿に魅了され、少し話をして一度はすれ違うも、気になって学校に行かず、後戸がある廃墟まで行ってしまう。


「イケメンと出会って、ハッピー、恋の始まり!」的な要素入れときゃあ、間口が広がるってか?まあそうだよな。

やっぱりとりあえず美男美女にしとけっつーのはあるよな。

芹澤朋也(神木隆之介)だってそうじゃん。
草太が閉じ師のロン毛スピリチュアル系イケメンだとしたら、芹澤はチャラ男パリピ系イケメンじゃん。

東京の大学に通って、アルファロメオになんて乗ってんだからよ。
ドクロの指輪してるやつが、教員になんてなるかよ。

耳をすませば」でも結局、杉村は月島雫にフラれたよな。
ヴァイオリン弾いてるのが天沢聖司じゃなくて杉村だったら、雫は惚れるのかー?ってね。

「地方の女の子が都会のイケメンを手に入れる」という物語を供給し、女性のリビドーを疑似体験的に満たしてあげる。
まさに男性の性的消費が含まれている映画だと言えよう。

そしてやたら、昭和歌謡を流す。
すずめと環おばさん、芹澤、ダイジン&サダイジンで、東北の故郷にある後戸に向かって車を走らせるシーンだよ。
こんなチャラいやつが昭和歌謡なんて聞いてるのか?ほんと。
日本人のノスタルジー、琴線に触れさせよう、という演出上の設定か?
だから芹澤のキャラにハリボテ感がある。
リアリティがない、芹澤の存在に。

まあそれは些末な話だが、結局はシン・エヴァの結末同様、直線的時間の現世礼讃、永遠回帰常世否定。
すなわち、資本主義社会礼賛のプロパガンダ映画の側面を持つ。

いいかげん「現世は素晴らしい」という前提は捨てたらどうだ。
描くなら最後まで描けよ、現世を。

教員試験をさぼった草太は、就職する機会を失い、派遣やバイトで食いつなぐ日々。
面接で「閉じ師」ですと言っても「何言ってんのコイツ」と一笑され、どこも雇ってもらえない。
民俗学や宗教学で、大学の講師の仕事を求めているが、文系でポストは少なく、ありつけても非常勤。
高学歴ワーキングプアとして、日に日に荒れていく草太。

宮崎から上京した鈴芽は、閉じ師として現世では全くメシが食えない現状に苛立つ草太を献身的に支えるが、日に日に荒れていく草太はDV彼氏と化す。

痣だらけとなって嫌になったすずめは、常世の世界に逃げようと、故郷の東北にある後戸を探す。
しかし復興工事により既に後戸は撤去され、鈴芽は一人、途方に暮れる。

それがリアルだろうが、現世の!

次回作はぜひ期待したい。
「現世はすばらしい、現世で精一杯、生きていこう」みたいな説教臭いオチはもういいよ。