逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「月曜日のたわわ」を「キモい」と抽象化することで自らのネガティブな感情を抑圧している

この過疎ブログに初めてコメント付きブクマしてくれた人がいた、感謝だね。
今まで自演ブクマしかしてなかったんだけどね。
コメントの内容を読んだ。

もしやと思うが、女性の多くが巨乳になって男性に選ばれたい選ばれないなら嫉妬するという前提に立ってらっしゃる?ハトクロスペースで涙ぐんでいた当事者が目に入っていらっしゃらない???どこに目ついてんの?

なんか、叩かれてるっぽい感じだなw
でも該当記事(たわわ広告に抱く嫌悪感の中には女性達の身体に刻み込まれたイデオロギーに対抗するルサンチマンも同居している)は少し言葉足らずだったかもしれない。

「巨乳になって男性に選ばれたい、選ばれないなら嫉妬する」って誤解されてもおかしくない内容だったかもしれない。

ただ、嫉妬心はあると思う。といっても全部ではない。
例えば、たわわを「キモい」とする感情を、カレーだとする。
そのカレーを構成している素材である玉ねぎ、ニンジン、ピーマン、カレー粉、隠し味のスパイス等、様々なものがあるが。
嫉妬心はその中の玉ねぎだったり、ニンジンだったり、コリアンダーだのナツメグだったりって話だ。

そして、そのイデオロギー的まなざしと、自分を意識的にも無意識転にも比較・相対化することにより、たわわとの差異を認識し、「自分はこんなたわわな胸はないな」と、嫉妬したりするのではないかと。
ただ"嫉妬"と認めてしまうと、自尊心が引き裂かれてしまう恐れがあるため、「キモい」という漠然とした抽象的表現で話を終えて、対象を深く認識しないようにする。
カレーにしてしまって、不快感の原因である素材をわからなくする。
一種の防衛機制みたいなもんだな。

「キモい」という発言は、必ずしも目の前の対象に対してのみ発せられているわけではなく、自己暗示として自らの主体を構築するための養分として、自分にも向けられている。

もちろん、感情を構成する要素の一つだということで、嫉妬心とは少し性質が異なる感情もあり得る。
「女性はこうあるべきだ」という無言の圧力に対する対抗、も含まれているかもしれない。
過去の男性からの性的被害から、男性の性欲を喚起する表現物には注意をするべきだ、という意見もあった。確かに実際に被害に遭ったら、たわわ広告みたいなものが日常に平然と陳列されると、恐怖感を覚えるかもしれないね。

b.hatena.ne.jp男性からのまなざしの嫌悪感や恐怖感だけなく。
「たわわな胸でアピールしちゃって、いいわね」といった、同性からの羨望や嫉妬等の「女性からのまなざし」に対する恐怖感、もあるかもしれない。

ただ、個々人で受け取る印象は違うにせよ。
月曜日のたわわを認識し、反射的に「キモい」と思ってしまうケース、今回はそこに焦点を当てたい。

「キモい」という感情の中には、上記で挙げたような嫉妬心、対抗心、恐怖感などが含まれている。
それらのネガティブな感情を喚起する対象を、「キモい」という抽象化で曖昧にして、話を終える。
本当に自分が抱いた感情の深淵に迫ろうとしない。疲れるからな。
そう、精神が疲れないようにするために、ルサンチマンが機能している。

このルサンチマンを名付けるなら、「抽象化による隠蔽」だな。

実際、多くの人はこのルサンチマンの呼吸を無意識に使っている。この抽象化による隠蔽に説得力を持たせるため、もう一つ事例を挙げるか。


このAdoの「うっせぇわ」という曲だ。

この曲は、以前紹介した川崎鷹也の「魔法の絨毯」と同様に、2億回以上という莫大な再生回数が行われ、多くの人の共感と支持を得ている曲であることが伺える。

自分もつい「うっせえ、うっせえ、うっせえわ~♪」と口ずさんで、歩いたことがある。
だがこれはまさに、抽象化による隠蔽だ。

「うっせぇわ」で、話を終わらせる。
「純情な精神で入社しワーク」「皆がつまみ易いように串外しなさい」というように、大多数のサラリーマンが共感できる歌詞内容が含まれている。それを乱暴に、一番盛り上がるサビで「うっせえわ」と結論付ける。
確かにそうなんだよ。
「うっせえわ」なんだよ。
だけどこれは、たわわを見て反射的に「キモい」と断罪する行為と同じだ。

「うっせえわ」の根源にあるもの、自分がサラリーマンになってしまった現実、上司からの理不尽を受け続ける生活、なぜこうなってしまったのかを詳細に見ようとしない。
それを直視しようとすると、疲れる。
最終面接であの会社に落ちたから、今のブラック気味な会社にいるしかなくなったるんだよなぁ」みたいな、冷静な自己分析をすれするほど、「何で失敗したんだ」という後悔や、今の現状に対する自己嫌悪等、ネガティブな感情に襲われ、自尊心が引き裂かれる可能性が大いにある。

それゆえ、「うっせえわ」による外罰的な抽象化によって、自分自身の感情への直視を避ける。解像度を下げる。
これはたわわ広告を見た際、目の前の対象を「キモい」と抽象化してシャットアウトし、「自分とは関係ない不愉快なもの」として寄せ付けない防衛機制と同じだ。

だから俺の妄想ではなくて、このルサンチマンは皆、行っていると主張したい。

呪術廻戦で領域展開したり、帳が降りたり、してるだろ。
領域展開は、皆も行っている。
ただ、現実の領域展開は、漫画とは違うかもな。

帳を降ろして周りからの影響を受けなくするというよりは、ルサンチマンの領域展開によって、帳が降りて、自分にとって居心地のいい空間を作るイメージよ。
たわわのような性的オブジェを見かけた際、「キモい」という抽象化の領域展開によって、帳を降ろす。
帳を降ろして、その対象による影響が自分に及ばないようにする。

抽象化という領域展開をやめて、帳を降ろすのをやめて、たわわ広告に「なぜ不快感を感じるのか?」を、凝視してみてくれ。
Adoの「うっせえわ」に「なぜ癒されるのか?」を、考えてみてくれ。
自らのネガティブな感情が浮き彫りになる。
正直、それは耐えられない場合もあるし、疲れる。
だから抽象化による感情の隠蔽が行われてるって話は、納得してくれただろうか。

さて、ハートクローゼットの件はちらっとしか読んでなかったので、一連の騒動を追ってみるか。

b.hatena.ne.jp

togetter.comなるほど、ハートクローゼットの黒澤氏が、たわわ広告を「問題ない」としてしまったがゆえに、なんか「女性を性的に消費するコンテンツに対し、胸が大きい人のためのブランドをプロデュースする人が、お墨付きを与えていいのか!」みたいに粘着する人が出てきたってわけか。

黒澤氏は「未成年を性的に見てはいけないんですか?」って言ったのか?知らないけど。(あくまで、「他人の内心の話なんだから咎めるのは無理筋じゃない?」という文脈の中で言ったらしいので、別に性的な眼差しを肯定しているわけではないみたい)

これは難しい問いだな。
ここで「いけないに、決まってるだろ!」というのは、何か説得力に欠ける。
「いけない」というのは、生物学的にペドフィリアを忌避する本能が人間に存在しているのか、それとも、イデオロギーによる法規範の内面化により未成年を性的対象にすることに嫌悪感を催すようになったのか、判りかねる。両方の気もするけど。

この問いは何か、イデオロギーに染まらず、それに抵抗する主体的な意志がある感じでいいよね。
まあもういいや、ペドフィリアの話、別に黒澤氏はしてないよな。
今度にしよう。