逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「青春の追体験」というルサンチマンに入り浸り現実の結婚等の性的充足や経済的成功を実現できない人間が世間から弱者男性等と馬鹿にされ緩やかに自尊心が摩耗していく

先日の、弱者男性がルサンチマンミソジニーマゾヒズム自傷的自己愛)を内面化して精神を安定させているという話、少しは共感してくれただろうか。

gyakutorajiro.comブコメ貰ったので、一部返そうかな。

弱者男性は自分への罵倒すらミソジニーやマゾヒズムや自傷的自己愛に置き換えて幻想に同一化して自分を守ってる - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

挙げた五輪汚職問題とcolabo問題。弱者男性は電通含めた五輪関係者は叩かないで、colabo関係者を叩くという証拠はあるのか?この人物こそが自身の劣等感故の攻撃性で他者にレッテルを貼り罵倒をしている姿が鏡に映るだけ

2023/02/18 15:05

b.hatena.ne.jpそうは言ってないよ。
自分自身が借金持ちの弱者男性だが、そんな叩きとかしてない。

奨学金を計画的に破産した

俺も借金あるからわかる、その感じ。頭の片隅いや半分以上だ、借金のプレッシャーに侵され意識は常に不安と焦燥感と憂鬱さが伴い意欲や行動力が著しく減退する。身体が不整脈を起こしてるのか変な脂汗が不規則に出る

2023/02/19 11:16

b.hatena.ne.jp今は大部分を返済して少しは楽になったが、そんなことしてる余裕ないのよ。
五輪関係者の広告代理店や人材派遣会社はけしからん、的な話はしたけどね。

gyakutorajiro.com皆は腹が、立たないのか?
Colaboで支援されている女性は、恵まれない女性だし貧しい。
そんな女性よりも、五輪談合に群がる広告代理店とか人材派遣会社の社員の方が金を持ってる。
俺たちがオリンピックの会場で資材を運び、設営業務で汗を流している時に。
クーラーの効いた部屋で仕事をし、夏や冬にはたっぷり中抜きした公金も原資としてるであろうボーナスを、何百万も得ているんだぞ。

何百億円規模の中抜きよりも、colaboという1億数千万の団体規模の中の、一部の金の使い道を執拗に追求したくなるのはなぜだろう?って話だ。今日はそれは本題じゃないので割愛。

弱者男性は自分への罵倒すらミソジニーやマゾヒズムや自傷的自己愛に置き換えて幻想に同一化して自分を守ってる - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

確かに自分は空想の片手間に生活をしている中年男性ですが…弱者なのかな( ´△`)

2023/02/18 15:33

b.hatena.ne.jp

弱者男性は自分への罵倒すらミソジニーやマゾヒズムや自傷的自己愛に置き換えて幻想に同一化して自分を守ってる - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

面白そうだなと読み始めたが、他人に自問自答を求めたり、承前でもない「大渕名誉教授」が突然現れたり、自分の脳内に他人が寄り添うことを期待し過ぎと思った。検索したけど大渕憲一氏のことか?

2023/02/18 14:55

b.hatena.ne.jp

弱者男性は自分への罵倒すらミソジニーやマゾヒズムや自傷的自己愛に置き換えて幻想に同一化して自分を守ってる - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

果たしてこれは分析か角度を変えた罵倒か。

2023/02/18 18:23

b.hatena.ne.jp

弱者男性は自分への罵倒すらミソジニーやマゾヒズムや自傷的自己愛に置き換えて幻想に同一化して自分を守ってる - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

必ずしも罵倒じゃないと思うんだけど、罵倒としか受け取れない人に向けて書かれる様に思えるので、結果的には罵倒なのかもなあ。

2023/02/18 21:41

b.hatena.ne.jp大渕名誉教授というのは、以下の本に書かれてたから、そのまま引用しただけよ。名前は合ってるよ。

『人を傷つける心――攻撃性の社会心理学』(サイエンス社)などの著作がある大渕憲一・東北大学名誉教授(社会心理学、現・放送大学宮城学習センター所長)によると、災害や犯罪などによって社会不安が高まると、それに伴い、人々の間で生じる不快感情が攻撃性に転化されやすくなるという。他の集団や民族に対して敵対的な、あるいはマイノリティに対して差別的な態度をもともと持っている人でも、冷静な時は、それを不合理なものとして自制することができる。だが不安や恐怖が高まっている時には認知資源の不足などからこうした抑制力が低下し、内心の敵意や差別感情が噴き出しやすくなるという。社会が不安定な時には、自分の敵意や差別感情を「正当化」する理由を見つけることが容易になり、また周囲の人々からの支持が得やすいと感じて、抑制力はいっそう低下しやすくなる。今回のコロナ禍に伴う社会的状況においてもさまざまな攻撃性が見られたが、大渕名誉教授は特に3つのタイプが顕著だろうとしている。

(「歪んだ正義 [ 大治朋子 ]」p251

また、罵倒する気はなかった、もし傷つけたならすまない。
責任転嫁するわけではないが、前回の記事は、中星一番やたぬかなによる、非モテや弱者男性に対する苦言(罵倒)を受け、弱者男性はどう感じるのか?を探るのが主な目的だった。

本来、たぬかなの弱者男性ディスみたいなのがネットで話題になっていれば、1~2年前ぐらい前にシロクマさんやdavitriceさん等が弱者男性や非モテの話題をしていたように、はてなでまたホットな話題に上がる気もしたが。
もう飽きられているのかな、こういったネタは。
普遍性のあるテーマでもあるとは思うが。

いや、飽きられているのではなくて、そんな話は誰も聞きたくないのかもしれない。
恐怖もあるんじゃないかってね。
弱者男性自身が、自分が弱者男性だと自己認識して自尊心が瓦解する危険から逃れるため、そのような話題を見聞きするのを無意識的に避けているのかもしれない。

現実を誤魔化し続けながら生きる。
その方が幸せかもしれないね。

が、先日の記事の結果的な結論として、その行為はルサンチマンミソジニーマゾヒズム自傷的自己愛等)による抑圧、的な内容を自分は書いてしまったため、弱者男性を悪く言うようになったかもしれないが。

このサイトは「人間の無意識にあるもの全てを顕在化する」というテーマがあるように、無意識に迫るのがコンセプトだ。
そのため以前も述べたように、こちらの意図は無くても、自尊心が傷つく不愉快な結論になるケースも多い。

gyakutorajiro.com正直、このサイトの記事には不快感を催す内容が含まれている。
それはエロや、グロや、ナンセンスとかではなく「無意識が暴かれるから」だ。
自分の無意識を知ってしまうと、不快感が湧く。
書いてる自分自身も不快感を覚えることがあった。
「無意識を顕在化する」という当サイトのコンセプトは残酷ではある。
たまにグルメネタやライフハックやソロ活ネタも書くので、そっち方向にシフトしようかな。

だからこの方が指摘していることは正しい。

ワールドカップで日本がドイツに勝利したことを歓喜しなければ人格を疑われたり非国民扱いされるので人前では仕方なく喜ぶが内心どうでもいいと思ってる - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

巨人・大鵬・卵焼きと言ってだな。大衆は昔からそういうのに熱狂するし、乗っかる方が人生楽なんだな。その虚構に気づいてしまうと世界はとたんに鮮やかさをなくし現実が現れる。まさに映画マトリクスそのものだ。

2022/11/26 20:56

b.hatena.ne.jpしかし毒を食らわば皿までという言葉もあるからな、無意識を暴き続けるのもこのサイトの宿命。

無意識を暴こうとしたことにより、残酷な結論になってしまった感はある。

弱者男性は自分への罵倒すらミソジニーやマゾヒズムや自傷的自己愛に置き換えて幻想に同一化して自分を守ってる - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

なんか定性的な話ばっかりなのでもっとこう定量的な評価がほしい。客観性のあるスコアがあれば我は弱者男性なのだと安心できることもあろう

2023/02/18 23:06

b.hatena.ne.jp弱者男性の客観性のあるスコア、そうだなー。
年齢にもよるけどアラフォー、年収400万以下と考えてもらったらいい。

stkn-job.netまたその経済的不遇により、同時に何かしらの性的不遇(童貞、セカンド童貞、素人童貞、KIRIN=彼女いない歴イコール年齢、適齢期を過ぎても結婚できない)を抱えている者とかね。

にったじゅん

その条件は、fuyuさんって人がまとめていた弱者男性の客観的要件にも当てはまるだろう。

fuyu.hatenablog.com
    経済的弱者であること
    (経済的弱者であることと関連して)家庭を持てないこと
    そのような状態を一定以上不幸に感じていること

星一番やたぬかなの罵倒にも、この経済的条件は見受けられる。
金がなさすぎて結婚できない。

ただ金があっても性的不遇により、劣等感や孤独感を抱えた場合は「弱者男性」とも言えるかもしれない。

これが現実なんだよ。
オレは自由と一緒に寂しさも手に入れた

正直…支店長代理みたいに……
結婚して子供がいるっていう暮らしをうらやましいと思う時もあるよ…

(「リーマン戦記 独身3 2 [ ロドリゲス井之介 ]」)

この漫画にあるように、自分の知り合いにも、高所得でいい仕事についているが、明らかにメンタルが弱ってる人がいる。

以前、増田の記事で、収入が高くても結婚しない選択をした人の話があったように。

anond.hatelabo.jpしかしこういったケースは、多数派ではない気もする。
収入の増加とともに既婚率は上がるデータも見かけたことがある。

だから一般的な大多数の弱者男性の話をすれば。
性的不遇と経済的不遇の両方を兼ね備えていることを弱者男性の定義として話を進めると。

前回の記事でも話をしたが、弱者男性は、自己肯定ができるルサンチマンを求め、その幻想に同一化する。
いや、もちろん弱者や強者にかかわらず、人はルサンチマンを求めるんだろうけど。
ただ、その幻想への依存度が弱者男性の方が大きい気がするんだよ。

ミソジニーマゾヒズム自傷的自己愛以外のルサンチマンもある。

弱者男性は自分への罵倒すらミソジニーやマゾヒズムや自傷的自己愛に置き換えて幻想に同一化して自分を守ってる - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

オタクから左派に傾倒した人にもこういうタイプ多いね。「自分は弁えたオタク男性だ、あいつらとは違う」ってね。

2023/02/18 17:44

b.hatena.ne.jp

弱者男性は自分への罵倒すらミソジニーやマゾヒズムや自傷的自己愛に置き換えて幻想に同一化して自分を守ってる - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

上から目線で分析して自分とは違うってカテゴライズしていることだけは分かった

2023/02/18 16:52

b.hatena.ne.jpGragraさん、princo_matsuriさんが、自分に指摘している上から目線の分析、これは「ペダンチシズム」というルサンチマンとも言える。

diamond.jp「会社で隣の席の男性社員が典型的な自称・博学タイプの人なんです。一度話し出すと止まらなくて、私にしゃべるタイミングを与えないほどの早口でまくしたててきます。私が適当に『へえ、知りませんでした』とか『そうなんですね』と相づちを打っていると、さらに気分がよくなって無駄な知識を披露し続けるんですよ。とにかくキモいです…」(人材派遣会社勤務の女性)

ルサンチマン(ペダンチシズム、博学自慢)によって、自らの性的不遇や経済的困窮という下部構造のコンプレックスを抑圧する。

だが自分は、その行為の虚しさに気づいている部分はある。

そのため、知識をひけらかしているというよりは、人間の無意識やルサンチマンを探る上で読んだ本や参考になった資料を、ベタベタと貼っていき、サイトに来てくれた人には「そういう本があるんだ?ふーん読んでみようか」と、参考になればいいかなと。

もちろんその行為には、metalmaxさんが言うような営利目的もある。

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この人が毎回貼ってる漫画の画像、それぞれフォーマットがバラバラなんだけどどこから調達してるんだろう。(もしかしてただのアフィリエイト目的のサイトなの?)

2023/02/18 18:02

b.hatena.ne.jpadsenseも貼ってるんだから。
だけどこんな、長文で読者のことをあまり考えてないサイト、稼げるサイトに育つわけないよな…。
何度かバズったこともある。

b.hatena.ne.jpワールドカップの話とか、自分が勤めてる会社のスゴさ自慢のためにビル写真アップするのどうなんや、みたいな話とかね。

でも1回バズっても、別に対して稼げない。
ワールドカップの話とか、1日で8000アクセスあったけど、それでも、いきなりステーキでリブロース300gは注文できないぐらいの金額よ。
筋が多いワイルドステーキとか、やよい軒の特ビーフカットステーキ定食ぐらいはあったけどさ。
普段は100アクセスもない日もあるんだから、アフィリエイトはついでよ。

漫画の画像も、楽天koboとか色々な電子書籍サイトで読んで画像引用する作品はアフィリンクを貼るが、大した収入になっていない。
月間でココイチのカレー、トッピング無しぐらいだ。しかもこのブログ以外のサイト全部、合わせてだからな。

もちろん、アフィリエイト目的のサイトも作ったことある。
自分が20代の時、脱サラFIRE目指してアフィリエイト8年やって、情報商材とかツールとか塾とか色々カモになって何百万以上費やしてただのノウハウコレクターで終わった話、聞きたい?
コメントしてくれたらしてもいいけどな。

そして、myogabさんのコメントだよ。

弱者男性は自分への罵倒すらミソジニーやマゾヒズムや自傷的自己愛に置き換えて幻想に同一化して自分を守ってる - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

ツンデレ」と称して単なる罵倒台詞に勝手な愛情を読み取るライフハックが流行り始めたのも、もうどれくらいたったろう…。

2023/02/18 19:59

b.hatena.ne.jpこのブコメでふと、気付いてしまったんだよ。

(引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

これが今回の記事の本題。
ようやく本題だが、つまり「青春の追体験」だ。
新たにこのルサンチマンの存在に気付いてしまった。

自分は25歳ぐらいまで、ジャンプを毎週買っていた。
そして中学か高校ぐらいだったか、桂正和の「I''s」とか河下水希いちご100%」とか、そういうラブコメにハマった時期がある。
いやラブコメじゃないか、王道恋愛漫画だな。



 

その後、あだち充「タッチ」や「H2」。

 

赤松健ラブひな」も読んだ。



面白かった。漫画に出てくる架空の女性にもドキドキしていただろう。

だが、年を重ねるごとに、そういったラブコメや青春ロマンスに、いまいち感情移入できなくなった。
去年その話もしたが、自分と同様の感覚になっている人もいるようだ。

gyakutorajiro.comこんな漫画を見かけた。

【続編あり】生涯オタクのつもりが… 漫画『36歳で突然漫画やアニメにはまれなくなった話』が刺さりすぎると話題に 

togetter.com

一秒さん(ichibyo3)って人が書いた漫画だ。

twitter.comこの漫画の中に、オタ活女子に対し、リアルな現実を通告する残酷なシーンがある。
先に結婚して2児の母になった妹は、こう告げるんだ。

ほとんどの漫画やアニメは10代・・・せいぜい20代が主人公でしょ 年をとれば色々あるし・・・共感出来なくなって当然じゃん?

そのため、そういった恋愛コンテンツを消費すればするほど、現実に何もない空虚が、より際立つような感じがした。
空虚を幻想で穴埋めしているような虚しさ。

最後に読んだ恋愛漫画は「赤灯えれじい」だったか。


これは主人公がいまいちパッとしない弱者男性風だったので、まだ感情移入できた。
また、漫画の舞台が煌びやかではない大阪で、「じゃんり子チエ」ほどではないにせよ、「金がなくても、生活がパッとしなくても、ありふれた日常の中に得られる幸せはある」と、思わせてくれるようなリアリティがあった。

とはいえ「ALWAYS 三丁目の夕日」みたいな映画は俺は嫌いだ。
あの狙ったような幸せのロールモデルの強制、あの頃は貧しくてもみんな幸せだったんですよ的な懐古主義、記憶の美化、ムズムズしてくる。
「お金がなくても、家族の温もり、希望があれば幸せなんだ。」という、ルサンチマン(上部構造)によって、経済的貧窮(下部構造)を抑圧する。
醜いルサンチマンの臭気がする。
じゃりん子チエとは違う。

家族主義的な価値観の礼賛、細田守の「未来のミライ」もそうだった。
サマーウォーズはよかった。
家族同士の軋轢とか、受難もあり、派手なアクションも見ごたえあったし。
でも「未来のミライ」には完全にそれが欠けてる。

よかったのは山下達郎の主題歌「ミライのテーマ」だけだ。

www.youtube.com話を一旦まとめると、すなわち恋愛漫画も、ラブコメも、人情劇も、そういう下部構造の欠如(性的不遇、経済的困窮など)を埋めるための追体験みたいな作用がある。

中@通知OFF on Twitter: "オタクくん意外と漫画読まないんだな。 https://t.co/XCvRIhbSpn"

「漫画には無限の可能性がある」か。確かに最近気付いた。漫画を読み「青春の追体験」をしていることに。現実の生活で性的充足を得られないので漫画の美女キャラクターとの恋愛という幻想で性的不遇の穴埋めをしてる

2023/02/20 14:35

b.hatena.ne.jpツンデレ」だってそうだ。
ツンツン、罵倒してくる女性がいるが、実はデレ~っと、愛情表現してくる。
山手線に乗ってる時にみかけた。

漫画「黒岩メダカに私の可愛いが通じない」、「生徒会にも穴がある」、「チョロかわ悪魔は好きですか」、「解雇された暗黒兵士30代のスローなセカンドライフ」、の看板広告。相も変わらず美女が描かれている。

これらの漫画の中身は知らない。

だが要するに女がかわいい、ってだけの作品と捉える人もいる気がする。

anond.hatelabo.jp読まずにそう判断するのは失礼だけどよ。
だけどそういう漫画って多いんじゃねえのか?って。

ツンデレ系はまさにそうだ。
大した努力もせず、スペックも高くない男に言い寄ってくれる、迫ってくれるというご都合主義。

はてなでよくホットエントリーになってる「僕の心のヤバいやつ」だってそう。

mangacross.jp陰キャ中二病少年・市川京太郎と、陽キャの美少女・山田杏奈のラブロマンス。
これの主人公は、たぬかなが言うホビット、170cm以下だろう。

弱者男性的な要素を持つ主人公が、美少女と少しずつ距離を縮めていくドキドキ感…まあ面白いよ。
読んだことあるけどよ。

けどいつまで、いつまで、こんなことを繰り返してるんだ。

いつまで続けるつもりなんだ・・・?
こんな事を・・・!

 

(「最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]」)

そうやってフィクションの青春コンテンツに耽溺し、感情移入してる。
「二次元は裏切らない」からな。
スラヴォイ・ジジェクは、こういった象徴的事物に拘束された欲望を形而上学的な情欲」と表現する。

 ここで重要なのは、人間は動物よりもはるかに洗練された形で(もちろん、比較できないくらい残酷な形でも)セックスを行うということだけではなく、人間はセクシュアリティについて、自分の人生すべてを捧げても構わない絶対的な〈目的〉へと高めてしまうことも可能なのだという点である――ヘーゲルは、生物種としての交接の必要性から形而上学的な情欲」と表現するにふさわしい性衝動への変容を無視してしまっているようである。
 
トリスタンとイゾルデ』を考えてみれば良い。いったいヘーゲル哲学の大系において、この死を招くような情欲、象徴によって拘束された日常の宇宙を放り出すため、この「享楽」の闇夜にわが身を沈める意思――〈文化〉でも〈自然〉でもない、何の条件も必要としない衝動が占める位置とは何処にあるのであろうか。

この情欲は、〈文化〉の(象徴という責務/拘束など)領域を一時的に消失させようという方向に働くのにもかかわらず、本能的な〈自然〉への回帰とまったく関わりを持ってはいないことをはっきりと読み取れる――むしろそれは、自然という本能を最根底から倒錯したものを伴うのであり、ゆえに逆説的に聞こえるが、〈文化〉の秩序こそ、この「自然を越えた」情念の激しい渦から逃れ、象徴に置き換えられた形式で、再び本能的な欲求の穏やかで自然な均衡を取り戻すことを可能にする頼みの綱に他ならない。9

 

9 さらに、ヘーゲルが誤謬をおかしていることをはっきりと浮び上がらせるもうひとつの指標となっているように思えるのが、「人類学」を論ずるなかで彼が狂気をどのようなものとして扱っているのかという問題である。ヘーゲルは、狂気に陥るということを「動物的な存在」への退行であると特徴としてレッテルを貼り付けることで、開かれた社会という世界から後退してしまっており、精神病に陥ったさいにわれわれが立ち戻る「世界の闇夜」とは、動物王国なのではなく、生ける生存が、みずから取り囲む日常の環境のなかに没入してしまっている状態を、根源から徹底して否定し、棚上げすることなのだ、という議論の余地のないポイントを見落としてしまっているのである。この点に関しては、ヘーゲルの『エンチュクロペディー』第四〇八段落を参照のこと。

(「厄介なる主体(1) 政治的存在論の空虚な中心 [ スラヴォイ・ジジェク ]」p143,212)

トリスタンとイゾルデ』は知らないが。
自然という本能、生殖活動への希求に回帰しない、いわゆる非婚主義。

私は夫も子もいないので時間と金は自由。毎月美容室もネイルもエステも行き外食で値段を気にしない→「結婚し子を産み育てる幸福を全て捨てた対価」

月曜から夜ふかしで、独身女性が孤食の寂しさに気づいて涙する回があった。 <a href="https://gyakutorajiro.com/entry/2022/04/22/104011" target="_blank" rel="noopener nofollow">https://gyakutorajiro.com/entry/2022/04/22/104011 時折襲われないのか…自分もお一人様だけど、孤独感や劣等感のようなものがやはり拭い去り切れない…

2023/02/18 18:31

b.hatena.ne.jp〈文化〉の秩序によって、ヘーゲルがいう動物的な存在への退行が起こることなく、非婚でもよしとする男性や女性がこの社会に出現している現実がある。
そういった選択をよしとせず、相変わらず資本主義の経済的合理性による象徴化を推進する〈文化〉の秩序もある。
異性愛を礼賛・奨励し、LGBTQの権利尊重に逡巡する現実がある。

さらに言い換えてみるならば、「生殖活動のための性的関係など、始めから存在しない」というポイントこそ、ヘーゲルがその考察から除外してしまったことなのだ。文化とは、セクシュアリティに洗練されたスタイルを授けるばかりでなく、完全にそれを逸脱させるのである。ゆえに人間にとって「エッチなことを実際にヤって」、それを楽しむことができる唯一の方法とは、一人ひとりの個人が心奥に秘めている「倒錯」し、幻想に満ちたシナリオにしがみつくことにある――人間の本源的な倒錯とは、いわゆる「自然」で本能から沸き起こる性的な欲求を充足させ、その機能を維持するためには、何らかの文化的な補填、ある種の象徴なるものが松葉杖のように脇を支えてやる必要がある、という点に集約されていく。性的衝動それ自体が、「倒錯した」文化の影響下に置かれている状態、この次元でのみ、われわれは〈自然〉と〈文化〉との「和解」を現実に獲得しうるのだ。


10 カトリック教会による避妊行為に向けられたお決まりの非難(それによれば、子供を得るという高尚な目的を奪われているセックスは、動物的な姦淫であるという)とは、あからさまに的をはずれたものだ。すなわち、セックスすること、まさにこの行為そのものが、動物としての生殖活動――つまり、生物として再生産されること――の一環に供しているものにほかならないのではないだろうか。

人間という種のみが、セックスをするという行為それ自体を、その「本来定められた」目的から離向させ、セックスとは「すること」それだけで完結してしまうように方向転換させているのではないのか。「男汁」大放出の汗くさい言葉遣いで言い換えてみれば、動物王国においては、ハメる相手を考えて、こいつは「売女」だからOKこっちは「お袋」だからNGなどと区別することなど想像できるのであろうか。自然である状態という観点からしてみれば、大文字の「精神」とは、意味のない消費のこと、「目的の達成を疎外された」(zielgehemmt)本能のことを表しているのである――つまり、その本能は、「本来あるべき自然の」目的について挫折させられているのだ。

それゆえ、それは際限のない衝動の反復運動のなかに囚われるはめになる。たとえば――カントがくどいくらいに強調しているように――象徴的な身ぶりというものとは、きわだって空っぽで、そのうえ(ないしは)途中でとぎれてしまっている身ぶり、つまり決して完遂できないということになっている身ぶりであるのだとしたら、セクシュアリティとは、みずからが持っている生殖という自然の運動へのつながりを断ち切ることで、みずからを「人間らしい」ものへと変ずるのである。


(「厄介なる主体(1) 政治的存在論の空虚な中心 [ スラヴォイ・ジジェク ]」p144,213)

幻想にしがみついて、自分は性的不遇者じゃない、経済的弱者じゃない、弱者男性ではないと、自尊心の崩落から逃げ続ける。

ジジェクのこの箇所は、plagmaticjamさんがしていた話と少し似ている気がしたな。

plagmaticjam.hatenablog.com自分にとって不愉快な出来事を「狂気」という理性の眼差しで批判する。
だが、その自分の眼差しは、自分にとって都合がいい幻想じゃないかってね。

「青春の追体験」もそうよ。
そのルサンチマンにより、力への意志を放棄することは、現実のパートナーや金銭の獲得を諦めるということ。

ツンデレ」や「感傷マゾ」等の倒錯文化もそうだ。
それによって性的欲求や衝動が逸脱する。

ジジェクが言うように、「みずからが持っている生殖という自然の運動へのつながりを断ち切ることで、みずからを「人間らしい」ものへと変ずる」行為を、無意識的にも意識的にも行ってる。

幻想のシナリオにしがみつき、文化が供給するルサンチマンによって「人間らしい」自分になれた気がする。
だがその倒錯が進めば進むほど、現実の資本主義文化における実存は消失へと向かっていく。

回想してみるとどうよ。
からかい上手の高木さん、みたいな子が、クラスに本当にいたのか?


高木さんみたいなかわいい子が、相手をしたのか?

高木さんの相手の男、西方は成績も普通、運動もそこそこ、というキャラクター設定だ。
弱者男性が感情移入しやすいように、能力のパラメーターを下げてくれてるんだよ。

本当のからかい、現実のからかいは、こっちだろうよ。

高校生の時にさ、好きだった娘がコンビニでバイトしていて、家から遠いのにチャリンコでその店に毎日通ってたんだ。そしたらある日、その娘の友達が俺に……

宇津井ン家全然遠いのになんであの店来てるの?
なんで?

理由は、わかっていたハズだ。
あの女の、人をからかった態度は一生忘れられない。


(「闇金ウシジマくん(8)[ 真鍋昌平 ]

翻って「僕の心のヤバイやつ」だ。
そんな世界は、現実に、あっただろうか?
現実に、クラスにいた身長の小さい市川京太郎みたいな男が、山田杏奈のようなスクールカーストでいうクイーンビーとつきあうなんてこと、あっただろうか?
否!
残念ながら、ほとんど無いだろうよ…現実は。
バスケ部やサッカー部や野球部のエースじゃなかったか?山田杏奈と付き合ってたのはよ。

幻想を松葉杖にして寄りかかって生きている。
現実をルサンチマンで誤魔化し続けている現状がある。

だから、資本主義文化で成功を収めている中星一番やたぬかなに罵倒される。
そしてそれは誤魔化しきれない現実であり、自尊心が傷つく。

傷ついた自尊心を癒すため、幻想を追い続け、現実と虚構の境目を曖昧にし、自分を慰めてる。
自分の意識を、能動的にも受動的にも、混濁状態にして、孤独感や劣等感が顕在化しないようにする。

外の世界にある「青春の追体験」が出来る物質等の影響を被りすぎて、自分という存在が希薄になる。
いや、希薄にしたのかもしれない。

シオランの本で、自分が物質とひとつになる感覚についての描写があった。

一月三一日 午後、昨夜よく眠れなかったので、午睡をとる。一時間以上も眠ったが、ひどく重い眠りで、あまりの重さに、目を覚ましたとき、私は自分が、数百年、数千年のあいだ、自然のままの物質と完全にひとつであったとはっきり感じたほどだ。死への郷愁も、この合致の、無意識と無思慮の状態への決定的回帰の欲望と、たぶん別のものではあるまい。
 眠りのなかの瓦解、眠りに飲み込まれる感覚、私はこれが好きだが、あたかも眠りが母親の底知れぬ深み、生誕以前の、包み込む宇宙ででもあるかのようだ。

(「カイエ 1957‐1972 / シオラン」p466)

この感覚は現代人にもあるのではないのだろうか?

求めてる…現実ではない幻想空間への没入、二次元世界のキャラクターとの時間。
虚構のキャラクターでさえも"推し"となり、リビドーを備給する対象となる。
精神的推進力は、現実の対象から幻想の対象に置き換わり、ゾウリムシの走性のように幻想の方にばかりに向かっていく。
現実社会の住人であることから離脱していく。
自分が過ごしている過酷な自然から逃れ、文化によって、幻想の方が自然だと錯誤し、幻想の世界に出てくる対象とひとつになろうとし、無意識と無思慮の状態へと向かおうとする。

自分の下部構造のコンプレックス(性的不遇、経済的困窮)が顕在化しないために。
ハイパーリアル(現実社会)から供給され続ける物質を、ルサンチマン(虚構物語)を、消費し尽くし、内面化し、上書きすることで、抑圧し続ける。
それを何十年も、延々に繰り返し続けてる。
同じところをグルグル走り回るゴキブリみたいに。

そうだ虫だ・・・
毎日同じ所を這い回り・・・・・・
同じようなことをし・・・・・・
やがて衰え・・・・
朽ちていくだけの虫・・・・・・


(「無頼伝 涯 1 [ 福本伸行 ]」)

結果、「弱者男性」という侮辱的な呼称で馬鹿にされることになった。

今一度、ルサンチマン(上部構造によるコンプレックスの上書き行為)を捨て、奮起するべきじゃねえのか?

闘う意志を捨てたラストマン(末人)でいいのか?

ニーチェは痛烈に、この世界を厭世的な態度で馬鹿にしながら、かといってその世界から脱出しようともしない、その怠慢な態度を「倦きた者」として非難した。

 ここに小舟がある。――おそらく、それは大いなる無のなかへ運んで行ってくれるだろう。――しかし、だれがこの「おそらく」のなかへ乗りこもうとするだろう?
 あなたがたのなかの誰ひとりとして、この死の小舟に乗りこもうと欲する者はいない!してみれば、どうしてあなたがたがこの世に倦きた(あきた)者だなどと言えるだろう!
 この世に倦きた者!そのくせあなたがたはこの世から遠ざかりもしなかった!わたしはあなたがたがあいもかわらず地上に恋々(れんれん)としているところを見た。おのれの地上への倦厭(けんえん)に、かえって惚れこんでいるところさえ見た!
 あなたがたの唇がたれさがっているのも、そのはずだ。小さな地上の願望がまだそのうえに乗っかっているからだ!そして目のなかには――忘れられない地上の快楽が、なごりの雲のようにただよっているではないか!
 地上には多くのみごとな産物がある。あるものは有用であり、また他のものは快適である。それらによって地上は愛すべきものとなっている。
 そこには実によくできた多くの産物がある。たとえば女の乳房といったぐあいに、有用であって、同時に快適だといったものもある。
 
 だが、あなたがた、この世に倦んじた(うんじた)者たちよ!地上のなまけものなのだ!あなたがたには鞭をくわせるよりほかあるまい!鞭でひっぱたいて、あなたがたをふたたび奮起させなければなるまい。
 なぜなら、あなたがたは、大地からあいそをつかされた病人が、おいぼれの生き残りでないとすれば、狡猾ななまけものが、忍び足であるく、意地のきたない快楽の猫だからだ。そして、あなたがたがふたたびよろこびに溢れて走りだす気になれないのなら、この世を――立ち去ってもらわなければならない!
 不治の病人にたいして、ひとは医者になろうと思ってはならない。これがツァラトゥストラの教えである、――だから、あなたがたのほうからおさらばしてもらわなければならない!
 しかし、けりをつけるには勇気がいるものだ。結びは、詩句を書きおこすよりもむずかしい。すべての医者と詩人は、このことを知っている。――

(「ツァラトゥストラはこう言った(下) (岩波文庫) [ フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ ]」p112-113)

現実の艱難辛苦をルサンチマンで誤魔化しながら、幻想の快楽で満足し、牙を失った猫として生き続けて、いいのかよ!?

と、思ったりもしてみたり。

弱者男性は自分への罵倒すらミソジニーやマゾヒズムや自傷的自己愛に置き換えて幻想に同一化して自分を守ってる

以前、ジル・ドゥルーズの著書「差異と反復」に、異次元の少子化対策がうまくいかない理由を見出したので、それを紹介したが。

gyakutorajiro.com「結婚をした後に、その人を好きになりたかったんではない」という感情の根底には。
結婚相談所や婚活アプリが紹介する機械的な現実的対象では満足できないということ。
自分の記憶に体内化されている、潜在的対象とのドラマチックな恋愛を経た上で結婚したいという欲望が、存在する。

だからこそ、ハイスペだろうか弱者男性だろうが、キャリアウーマンだろうが弱者女性だろうが、潜在的対象の影響を被る。

それは経済的要因とは違った精神的要因、記憶や自己意識といった精神に蓄積されている情報から生み出された潜在的対象による、現実的対象に対する、逃れることができない侵犯であり、両者が天秤にかけられてしまう無意識的な比較行為でもある。

その記事の中で、恋愛コンサルタント?なのかよく知らねえが「中星一番」という人も紹介した。

その人の苦言、というかもはや罵倒だが、結婚もせず子孫繁栄できない人間を、このように表現した。

はい。30にもなって子どももろくに産めない非モテの皆さんこんにちは。
あのね、我々のミッションというのは子孫繁栄なんですよ。
子どもを産んで、しっかり育てるということが、我々人類に課されたミッションなわけですね。
我々の脳味噌というのは、子孫を反映するために、プログラムされています。
かわいい彼女を作って、子どもを作って、育てていくと。
そのために俺らは「モテたい」という欲求があるし、ね、カッコよくなりたいといった欲求があったりするわけですよね。
そういう脳の、元々プログラムされていることに従えずにですね、いつまで経ってもAVでオ○ニーしているようなね、非モテがね、最近多すぎるんですよね。
だから日本、少子化になってるし、国力が弱くなってるわけでね。
で、国力が弱くなることによってどんどんどんどん、景気が悪化していって、自分らの首を絞めてるわけだよね。
お前らが、モテるための活動をしないことによってどんどん、国は弱くなっていく、景気は悪くなっていって、結局お前らの給料が下がる。
ね、そういう悪循環になってるわけね。
自分の身を守るためにも、お前らモテろ。
モテるための努力をしろ。
さっさと子どもを産め。
俺らはね子ども10人作る予定だけれども、そのぐらいの気概を持ってね、どんどんどんどん、我々のミッションである子孫繁栄をね、しっかりやっていけ。
お前30にもなって子ども産めないってね、お前、終わってるぞ。
子どもを育てていくだけの経済力もなければ、彼女を作ることもできない。そんな状態で30歳を迎えたそこのお前、終わってるから。
マジ、死ぬかモテるか、どっちか選べ。
そのレべルだからな、よろしく

これを聞いて「ズキューン!」ってなった未婚男性は多いだろうよ。
女性はどう思うのかはさておいて。
中身的には非モテ男性に向けた非難だからね。

そして最近、新たに、身長170cm以下人権なし発言で一世を風靡した「たぬかな」という女性が、こんなことを言っていた。

lgbtch.blog.jpこう一年もさ、ネットで私に付きまとう男って可哀想やなとつくづく思うねん

虚勢やなくて、ガチでその立場を案じた時に可哀想と思うねん。

やってさ弱者男性ってホンマに社会的な人権ないからね

男の弱者男性ってほんまの弱者やから生きてるだけでキツイやろ?

やってさ、他に勝てる競技がないねんもん 金すら稼げてない弱者男性の人生ってホンマに。キツいで

そら自分より金もルックスもある、周りからチヤホヤされてる女がたまたま問題起こしたらさ、

おうワイらの出番や!いうて我先にちっちゃい洞穴からわらわらと出てきてさ、徒党組んで生き生きと悪口並べ立てるよな

弱者男性が唯一輝けるのがネットで女をこきおろして叩く、それだけなんですよ

これもエグいよな…ちっちゃい洞穴…身長の低いホビット族の家に喩えてるんだな、また低身長の男性のことを揶揄してる。
しかも、しかもだよ。
こんなことも言ってる。

これ男やって。結婚してださい言うたらな、結婚してくれる女おらんやん?やろ?

そんだけ男の弱者って社会的信用も存在価値も皆無やから。
そこは「ま○こ割引」ってある、ま○この恩恵あるよなって感じるねん

やから、弱者男性がすぐムキになって女のこと叩くのもある意味理解できるねん

人生の中でそれしか楽しみないねんもん、それ取り上げたら可哀想や、さすがにね

女ってさ、基本的に自分が女であることでどんなけ恵まれてるか、自覚が足りひん気ぃすんねやんか

その上で私は女に生まれてさ、ま○こ割チケットで人生タダ乗り出来たことには感謝しとるから

弱男にはお疲れー、オカンにはありがとうーと言いたい。

なんだよま○こ割ってw
痛快ではあるが、関西人の悪い部分が出てる感もある。

こういうことかな?

瑠璃は美人とかじゃないけどすごく可愛いよ。
一緒にいるととても安心するんだ…


闇金ウシジマくん(29)[ 真鍋昌平 ]

女性は多少、容姿が優れていなくてもま○こ割で、男性を誘惑でき、それをカバーできるってこと?
昔のAVで、ゲオとかツタヤの暖簾くぐって、物色している際に顔面にモザイクかかった作品でも「まあいいや裸見れたら誰でもいいや」ってレンタルする感じ?

けど、このたぬかなの発言、弱者男性が女を叩くという話は、前に俺が転移性ミソジニーの話をしたのと、似たような内容でもある。

gyakutorajiro.com自分の性的に恵まれない不遇な境遇、過去の欲望の未達によって、ネガティブな感情が醸成され、その嫉妬・怒り・恨み・辛みが、関係のない女性へと転移する。
しかし、その感情を正当化するルサンチマンに一定の品性を纏わせるために「公金不正利用疑惑」という正義の仮面を被る。
だが、その仮面の下には「お前ら女達は俺を愛さなかったからお前らに金をびた一文も出したくない」という、醜い私怨に満ちた感情が蠢いている。俺を苦しめた女性が苦しむ姿に喜びを見出してしまうというシャーデンフロイデだ。

フロイトがいう「置き換え」という防衛機制でもある。
自分のクソ人生の責任を、他人に押し付ける。
嫉妬・恨み・辛み・怒りが、関係ない第三者に転移する。

 また、自分の所属する集団や自民族が他の集団や他民族よりも優れていると思い込みたいという気持ち(自民族中心主義)は、レベルの差こそあれ誰もが持つ普遍的心情でもある。先に述べたように、普段は抑制されているこうした不合理な心情も社会不安によって顕在化しやすくなる。そう考えるとコロナ禍で見られたさまざまな攻撃性は特殊なものというよりむしろ普遍性があり、「人ごと」ではないものだ。
 
 また、大渕名誉教授によると、感染症という天災を理由に誰かを攻撃する行為は基本的にすべて、心理学で言うところの「置き換え」に当たるという。自分の不快感情の元凶を攻撃できない場合に別の対象に向ける行為で、簡単に言えば八つ当たりだ。欲求不満から来る不快感を発散したいという思いをもともと持っている人は、ささいな刺激に誘発されて自分の不満とは関係のない対象を攻撃することがある。例えば米国では不況になると白人の黒人に対する差別的な暴力が増える傾向にあるが、大渕名誉教授によると、こうした攻撃は典型的な置き換えだという。その意味では、誰にでも起こりうる暴力のタイプといえる。

 また置き換えをする場合、攻撃者は社会を分断させるばかりでなく、政治指導者にも悪用されかねない。「人々の不快感情や不安に火をつけて、攻撃性を燃え上がらせるのは簡単で、実際、政治家の中には国民をたきつけるような発言を繰り返して人気取りをする者も少なくない」(大渕名誉教授)
 
 しかし八つ当たりをしなければ不快感情を解消できないのかといえばそんなことはない。「楽しい経験をすればネガティブな感情は消えてしまう。その意味では、負の情動への対処としては、個人レベルでは家族や友人など親しい人たちとの交流を図ったり、趣味に打ち込んだりすることが有効だ。社会レベルでは、人間に対する信頼や協力を促し、社会に希望を与えるようなメッセージの発信が政府にもメディアにも期待される」(大渕名誉教授)。「信頼」や「希望」を持つことは社会的な差別や排斥を食い止めることにもつながるのだ。

(「歪んだ正義 「普通の人」がなぜ過激化するのか [ 大治朋子 ]」p253-254)

それは物質に転移する場合もある。
西新井で、体がぶつかったイライラが、「非常用ドアコックの操作」に転移するように。

列車ドアコック勝手に操作 理由は花粉症「イライラが...」

西新井駅か。花粉症のイライラ、肩か胸だかがぶつかったイライラ、そのイライラを解消するために非常用ドアコックを操作してイライラ解消。これは転移だな。ウシジマくんで小堀とか板橋が大声で叫ぶシーンみたいな。

2023/02/15 21:33

b.hatena.ne.jp八潮で、牙狼で惨敗して「わしの金が消えて店長のフェラーリに変わっとるんや」と激昂し、パチンコ台を叩き割ったり(牙狼ハンマー事件)と。

www.youtube.comこのようにストレスは何らかの形を変えて発散されることになる。

それは誰かを傷つける場合もあるので、できれば法律に抵触しない形で、倫理的にも許される方法で解消するべきだ。

そう、だから人間は生み出した。

ルサンチマン(奴隷道徳)によって、そのストレスを宗教を信仰することで慰めたり、消費活動によって一時的に脱日常感を得たり等、だれかを傷つけない置き換え(ルサンチマン)もある。

しかしミソジニーやヘイトといった、誰かに危害が加わる「置き換え」は危険だ。
だからColaboの件もちょっと待てと。
ファクトではなく、自分の中のミソジニーに比重が偏って叩いていないか、ミソジニーでは本当にないと、言い切れるのか?と、自問自答を促した。

gyakutorajiro.comミソジニーで済ますな」「レッテル貼るな」ってコメントも違う。
誤読している。
ミソジニーが原因でColaboを叩いてる、なんて乱暴な話をしているわけではない。
これらも先述した藁人形論法、ストローマン論法だ。

「公金不正利用疑惑において、金額の大きい五輪談合よりもColabo叩きに走ってしまうのは、そこに個人的な私怨やミソジニーがあるんじゃないか?」という話だよ。

そんな中、たぬなかの「弱者男性が唯一輝けるのがネットで女をこきおろして叩く、それだけなんですよ」という発言。


これはColabo叩きだけでなくゲーム実況等の世界においても、ミソジニーが浸透していることを示す一つの事例だ。

Colaboの件が異常に燃える違和感において、自分以外にも、そこにミソジニーがあると考える人がいるように。

anond.hatelabo.jpb.hatena.ne.jpゲーマー、配信者の日常においても、弱者男性からのミソジニーを感じることがあるんだろう。

このようにミソジニーが、ヘイトが、どんどん膨らんでいる。
それは文明の発展、コンテンツカルチャーの伸長によって、仕方のないことなのかもしれない。
男性も女性も、ルッキズムに即して人間を判断するという価値基準が、無意識的かつ受動的に上がっていってまう。

「なんとなく良い人が現れればいいな」(略)を書いた者なのでもう1回だけマジレスさせてほしい

インドアオタク趣味で、漫画とかアニメとかBLに触れて、男に求める要求水準が上がっちゃったんだろうな…つまり日本のコンテンツカルチャーというハイパーリアルが、非婚や少子化を招いてる要因になってるね。

2023/02/02 13:01

もちろん日本だけでなく海外でも、弱者男性がミソジニーによって女をこきおろして叩く事例があるようだ。

…何が起きても心の準備はできている」と投稿したところ、ほかのユーザーは「成功を祈る。日の出を見て、好きなバンドの音楽を聴くといい」、「同胞よ、インセルハラで会おう」〔Incellhallaはインセルのヴァルハラ(Incel Valhalla)の意味する造語。ヴァルハラとは北欧神話オーディンの宮殿で、勇敢に戦って死んだ戦士たちが迎え入れられる場所〕、「あの世の友達と楽しくやってくれ」

 絶望に打ちひしがれた投稿のあいだには、ミソジニーも見え隠れしていた。強烈なミソジニーが脈打ち、そのあまりの激しさに、パソコンの画面を通しても目がひりひりした。女性に対する極度の憎しみを殺○によって表現し、その後に自らの命を絶ったエリオット・ロジャーを称賛するミームが数えきれないほど投稿されていた。ロジャーの写真をフォトショップで加工し、テレビドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ(Game of Thrones)』のタイトルにも含まれる「鉄の王座」(最終章シーズン8の第6話)に座らせ、これが番組の「もう一つの結末」だとほのめかすユーザーもいた。ロジャーが女性に生まれていたらもっと気楽な人生を生きただろうと言わんばかりに、スナップチャットのフィルターで彼の顔を女性に変えたユーザーもいた。
 
容姿の醜い女性やふしだらな女性を非難する投稿も多かった(「大勢の男とセックスした女が俺の子を産むなんてごめんだ」「俺の母親はとんでもないあ○ずれ女さ」、「よく覚えておけ。お前が惚れてるあの女は、チャドのペ○スを喜んでしゃぶってるんだぞ」といった具合だ)

太った女性への攻撃も激しかった。女性が犯罪や殺○を起こすと、女性は悪魔という説が証明されたかのように、掲示板で報告されていた。レイシストのブログや掲示板はマイノリティによる犯罪を伝える投稿であふれているため、それと同じと言えるだろう。「女ってのはみんな、だらしなくて薄情な売春婦だ」と誰かが書けば、「化けの皮を剥がせ。女は汚らわしいハグレイブンだ。たまたま性器がついているからって、すべて思い通りにしている」と別のユーザーが送信していた(Hagravensとはビデオゲーム『スカイリム(Skyrim)』に登場するモンスターで、老婆と鳥が融合したような姿をしている。魔力と爪で旅人を襲う)。

(「地獄への潜入 白人至上主義者たちのダーク・ウェブカルチャー [ タリア ラヴィン ]」p161-162)

叩くだけでは留まらない暴力、悲劇にまで至ることもある。

 私は、性に関する不満のみが聖戦やアメリカの銃乱射事件の原因だと言いたいわけではない。だが、殉教者に七二人の処女が約束され、クリストファー・ハーパー=マーサーがオレゴンで教授と八人の学生仲間を銃撃する前に、「ぼくは、友だちもガールフレンドもいないまま童貞で死ぬ」と嘆くメモを残したのには理由がある。このことは、六人を殺○し一三人を負傷させた、二十二歳のエリオット・ロジャー(3)にしても同じだ。事件前、彼はユーチューブにビデオをアップロードしていた。その中で、こう話している。拳銃を手にしたとき、「ぼくはこれまでになく力がみなぎるのを感じた。『今、誰がボスだと思う?クソ女どもめ』と思った。ずっとぼくを見下してきた女たちのことだ」

 まったくの偶然だが、ハーバー=マーサーがアンプクア・コミュニティ・カレッジで童貞のまま死んだとき、私はオレゴン州ローズバーグの現場付近を友人と車でドライブしていた。あらゆる方向から集まってきた何十台ものパトカーが私たちを追い越していったとき、車の中にはドアーズの曲が流れていた。「自分がはぐれ者のとき、人はよそよそしく見える。孤独なときには他人の顔が醜く見える。自分が望まれていないとき……女は意地悪にしか思えない」。ラジオをつけると、何が起きたのかわかった。銃乱射事件だったと知ったとき、一緒にいた友人のマーティンが「さすがアメリカだね」と言った。もちろん、悲惨な事件はオランダでも起きるが、こんな空恐ろしいことは起きない。こうした不条理な事件を避けるために、オランダでは十代の性衝動にどのように対処しているか、とマーティンに尋ねてみた。…

(3)2018年にトロントの人通りの多い舗道をワゴン車で走って10人殺○したアレック・ミナシアンは、エリオット・ロジャーに送ったメッセージで俗に言うインセル運動〔インセル(involuntary celibate)は本人の意志にもとづかない禁欲者。フェミニズムや近年のMeToo運動に対抗する形で過激な運動に発展しつつある〕に言及し、自分たち2人には不本意な禁欲を強いられているという共通点があると述べた。


(「文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源 [ クリストファー・ライアン ]」p167)

だからミソジニーは恐ろしい、頭を冷やせ、対処しろと。
じゃあどう対処しろってか?
手っ取り早い方法は「折り合いをつける」ってことだ。

最強伝説 黒沢 9 [ 福本伸行 ]

もう誰にも愛されないだろう、このまま孤独に朽ち果ててゆく。
その運命を受け入れて心臓が止まるまでとりあえず生きろよという話だ。

また、そのような意識的な折り合いをつけなくても、無意識的にミソジニー以外の形で、自らの性的不遇とそれに伴う嫉妬・怒り・恨み・辛みを、発散させる行為がある。

それが「マゾヒズム」だ。
たぬかなの発言の中に、自分を弱者だとする自虐があるように。
この人が賢いのは、いわゆる自分を弱者女性として、弱者男性と同じ目線に貶めることで、一種のSMプレイのような象徴的秩序を作っている点だ。

それを見抜いている人間もいる。
たぬかなのこの弱者男性批判に対して、このような書き込むがあったように。

私も弱者やけど~って予防線張って女割引を当てにしてる姿勢がダサすぎる
炎上芸に徹するならお前らと違って勝ち組なんですーって盛大に煽れよ 

この予防線が実は重要だ。

同様の「それがな、私がこれ男やって。結婚してださい言うたらな、結婚してくれる女おらんやん?やろ?」等の女王様の自己卑下。
それは、金にならないちっぽけなプライドを捨て、自分から弱者男性と同じ立場まで降りていくことで、男性側はより女王様とのプレイにリアリティや親近感やグルーヴ感を得ることができる。

それによってスラヴォイ・ジジャクが言うように、マゾヒストが欲望するもの、「女王様(たぬかな)からの罵倒」という、濃密なコミュニケーションを得られる喜びを供給することになる。

似たような話は以前もした。

gyakutorajiro.comマゾヒズムってのは、単に「肉体的・精神的苦痛や責め苦に快楽を見出す者」という単純な欲望ではないって話だ。
マゾヒズムにも多様なレベルがあるってか。
そのマゾヒズムのレベルの1つとして、ジジェクラカンを引用しながら「ナルシシズム」があると語る。

その理由は、主導権を握っているのが、マゾヒストの側だからだ。

 この否認の論理こそが、マゾヒスティックな態度における根本的な逆説を理解する手助けとなる。たとえば、典型的なマゾ行為の現場はどのようなものだろうか。男-家来が落ち着いた事務的な態度で、女-主人と契約の条件を取り決める。女が男にすること、どういうシーンを際限なく繰り返すのか、女はどんな衣装をつけるのか、実際にどこまで肉体的な痛みを与えるのか(鞭を打つ強さ、鎖でしばる方法、ハイヒールのかかとで踏む場所、等)について。

双方がマゾ行為のゲームの項目に目を通し終わっても、マゾヒストは常にある種の落ち着いた距離を保ってる。実際に感情に溺れたり、ゲームに没頭しきることは決してない。ゲームの最中に突如として、演出家の立場になって、細かい指示を出すこともある(そこをもっと強く、その動きを繰り返して……)。

それでいて「幻想をぶちこわす」ことは決してない。いったんゲームが終われば、マゾヒストの男はふたたび尊敬に値するブルジョワジーらしい態度に戻り、事務的な口調で「色々とありがとうございました。来週またこの時間でよろしいですか」などとご主人様と話をする。最も内奥にある欲望は、契約や冷静な交渉といったものの対象物とされる。よって、マゾヒズムの舞台の性質は完全に「非心理学的」である。超現実的で情熱的なマゾヒスティックなゲームは、社会的な現実を中断しながらも日常的な現実と簡単に合致するのだ。(9)

(9)これは『ツイン・ピークス』の「非心理学的」世界の論理と同じものである。『ツイン・ピークス』の登場人物は大きく二つのタイプに分けられる。「ノーマル」で平凡な人物(基本はソープオペラの典型的なキャラクター)と、「クレージー」でエキセントリックな人物(「丸太を抱く女」等)である。この二つのグループの人物たちが「ノーマル」なコミュニケーションのルールにのっとって関わり合っている点こそが、『ツイン・ピークス』の世界を不気味なものにしている。「ノーマル」な人物はエクセントリックな人物の奇妙な行動に対して驚いたり怒ったりはせず、日常的な出来事の一つとして受け入れている。

(引用元:スラヴォイ・ジジェク 著,松浦俊輔, 小野木明恵 訳「快楽の転移」p150-151,p385)

たぬかなから罵倒された弱者男性は、それをまるで恋人とのじゃれ合いやカップルの喧嘩のような、濃厚なコミュニケーションだと無意識的に罵倒を快楽に置き換え、錯覚し、その幻想の秩序に同一化して性的な満足や心理的な心地よさを得る。

女王様の言葉で、打線を組んでみたり。

inutomo11.com正常な性的関係、性的充足を満たすことができない弱者男性は、女性からの罵倒や嫌悪感の表明すら、愛情表現に変える欲望の回路を形成し、それによって自己愛を失うことなく自分自身の生存を長引かせることが可能となる。

すなわち、マゾヒズムとは生存政略であり、愛を得るための手段であり、ある種のルサンチマン(奴隷道徳)の内面化だ。相手の嫌悪感情を、無理矢理に愛情表現に置き換えている。

まあ、この件についてはドゥルーズの「ザッヘル=マゾッホ紹介」や、感傷マゾ研究会が発刊している会誌等を読んでからまた掘り下げるか。

kansyomazo.booth.pmだがこの幻想空間は、いつの日か終わりが来るだろう。
たぬかなが強者男性との交際や結婚が報じられた時、この高度なSM的コミュニケーションは虚構だったということ。
愛情表現に変換していたのは自分自身であって、たぬかなは冷静に男性の物理的スペックを無意識的にも意識的にも判断し、パートナーを選んだこと。


さながら、AKB48岡田奈々が、ライブに来るファン等の男性と一線を画す、魅力を備えた俳優(強者男性)と付き合った時のように。

gyakutorajiro.com岡田奈々は「事物の秩序」から外れた内奥性、神秘的魅力を備えていると。
それゆえに、自分を苦しめる「事物の秩序」を破壊し、解放に導いてくれる存在だと信じていたし、信じていたからこそ供犠を続けていた。


しかし内奥性は失われた。
岡田奈々も、オタク達や、普通の女性、普通の男性と同じ、事物(個体)だった。
俳優とのスキャンダルにより、事物のように見なさざるを得ない現実が現れた。

たぬかなとのそういうった擬似的SMプレイという象徴界の空間も、いずれ壊され、現実界が立ち現れる残酷な契機が訪れる。

すなわち、ミソジニーに勤しんでも、虚構のマゾヒズムに浸っても、幸せになれるとは思えない。
下部構造(性的不遇)を、上部構造(ミソジニーマゾヒズム)で隠蔽しているんだ。
その話は何度もした。


だから折り合いをつけて生きるか。
せめてKKOキモくて金のないオッサン)から、KKO(キモいが金はあるオッサン)に生まれ変わって、金や国籍等が目当ての女性と結ばれるか。
その選択ぐらいしか、弱者男性が救われる道はない気もする。

また「弱者男性」という概念、この概念に同一化し、セルフスティグマを強化すると、どうなるか。
斉藤環は、社会的に不利になると言ってるが、その通りだろうな。

 彼らを追いつめるのは「働かざるもの食うべからず」とか「権利を主張して義務を果たしていない」とか「親の資産を食い潰したら、今度は福祉財源にたかる寄生虫のような存在」といった価値観です。私はこうした価値観を一貫して否定してきましたが、それはこれらが世間的価値観として極めて強固であるからです。それぞれは一種の「正論」の一面を持っており、ある人たちにとってはまっとうな議論でもあるでしょう。この視点から見ると「ひきこもり」は恥ずべきスティグマになります。

 スティグマとはもともと「しるし」の意味ですが、ここでは社会的に個人に押し付けられたネガティブな烙印や負のレッテルを意味しています。精神疾患の診断名のほか、精神病院への通院歴、生活保護や障害者年金の受給歴といったこともスティグマとなって差別の原因となります。

 スティグマを内面化したものが「セルフスティグマ」です。自分自身に烙印やレッテルを貼って、自分の存在を恥ずかしく思い、自分で自分を貶めるような意識につながります。こうした意識が強すぎると、みずから社会的に不利な状況を予測してしまい、社会参加を望みながらも、それに向けて踏み出せない状況につながってしまいます。ひきこもりの当事者の多くも、同様です。彼らが自分自身を批判し、貶め、否定してみせるのは、まさにこのセルフスティグマゆえでしょう。言うまでもなくセルフスティグマは、自傷的自己愛自傷部分を強化してしまいます。

 「自分の人生はひきこもることでぜんぶ破壊された」「自分自身には何の価値もない」「生きる価値のない人間」「未来に何の希望も持てない」繰り返しこういった主張を聞いていく中で、気づいたことがあります。

 これらの発言のおおもとにあるのは「自分が無価値な人間であるということに関しては、自分がいちばんよく知っているのだから、何人にも否定されたくない」という信念ないし確信です。自分がダメであることについては誰よりも自信がある、という逆説的な確信。だからこそ周囲の励ましは本人の怒りを買うなどして、しばしば逆効果になるのです。

(「「自傷的自己愛」の精神分析 [ 斎藤 環 ]」- 人がひきこもるきっかけ)

「自分は弱者男性だから仕方ない」と。
"弱者男性"という1つの社会集団、そういった人間の特徴を示すスティグマ、概念(ルサンチマン)に同一化することで、仮初の安心感を得ている。

自分で自分自身を概念の檻に縛り付けて「仕方ないよ」と安心する。
いわゆる「折り合いをつける」ってことだが。
それが無意識的に行われている場合は、本当に「折り合いをつけられた」とは言い難い。
そのセルフスティグマに同一化していた幻想(象徴界)が、崩れ去る現実界が訪れる契機が、人生で生きている時に何度も、襲われる羽目になる。

スーパーやショッピングモールで、カップルや家族連れを見た瞬間や。

オレの人生がもし…平均的というか…
ごくまともに推移していたならば…
今頃は…

最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

居酒屋で呑んだ帰り道で一人、急に襲われる孤独感や劣等感。

最強伝説 黒沢 9 [ 福本伸行 ]

「弱者男性」なんていう幻想程度で、自分の自己愛や自尊心がキープできるほど甘くはないのが現実だ。

そのため、残酷な話だが。
賭博黙示録カイジ利根川が言うような厳しい言葉は、正論といえば正論だ。
ちなみに正論とは「現実として存在する事実」という意味だ。

翻って言おう
おまえたちは負け続けてきたから
今 誰からも愛されることなく
貧窮し……ウジウジと……人生の底辺を這って
這って這って這っているのだ……!
なぜか……?
それはおまえらが……
ただ負け続けてきたからだ

(「賭博黙示録カイジ 1 [ 福本伸行 ]

遠藤浩次が言うことも正論だ。

どうしておまえが今 そうなのかわかるか……?
教えてやる
金を掴んでないからだ……!
ああ……
金を掴んでないから毎日がリアルじゃねえんだよ
頭にカスミがかかってんだ

バスケットボールのゴールは適当な高さにあるから
みんなシュートの練習をするんだぜ
あれが百メートル上空にあってみろ
誰もボールを投げようともしねえ

今のおまえがそうだ……!
届かないゴールにうんざりしてるんだ
毎日……いろいろな物を「見」はするだろうが
全部ショーウインドーの向こう側だ
おまえには届かない……
その買えないストレスが
おまえから覇気を吸い取る
真っ直ぐな気持ちを殺していく

(「賭博黙示録カイジ 1 [ 福本伸行 ]

金がないから、自分の現実の生活の不満(下部構造)を、上部構造(ルサンチマン)によってカスミ(霞)をかける、誤魔化し続けてる。

星一番が言うことも正論だ。
死ぬかモテるか、そして後者のモテることを経て手に入れた、配偶者や家族との生活の方が恐らく、自己愛を維持する作用が、"弱者男性"みたいなスティグマ(幻想)に同一化するより、強靭なんだよ。

なぜならそれは、金や性的快楽といった身体性を備えている。
自己愛や自尊心は概念ではなくて、物質的なマネーを使った遊びや、パートナーからの言葉や性行為等によって得られる方が身体に作用する効果が大きい。

翻ってどうだ。

「弱者男性」というルサンチマン、「俺は弱者男性だから~」「私は弱者女性だから~」という、形而上的な概念に同一化したところで、その脆さはもう明らかだろう。

実は気付いているんじゃないのか。
ミソジニーで誰かを攻撃したり、マゾヒズムで一時的な享楽に浸ったり、弱者男性等のルサンチマンを内面化したところで、自分の人生は何も変わらず、QOLも向上していないという残酷な現実に。

アメリカンヒストリーX」という映画でもあった。

怒りは君を幸せにしたか?

という、デレク・ビンヤード(エドワードノートン)に語る、ボブ・スウィーニー(エイヴリー・ブルックス)の名言が。
少しネタバレだが古い映画だからいいだろう。

まあ怒りは、具体的な加害者がいる場合、発散しなければ甚大なストレスになる場合もあるにはあるが。

gyakutorajiro.com誰なのかわからない、女性や、男性や、ネトウヨや、パヨクや、そういった言葉や概念を使って憎悪を膨らませ、その対象を叩き続けることに、何の意味があるんだ。
金も儲からない、一時的にスッキリするのか?
快楽があったとしても持続性が著しく欠けた、質の悪いものだろうな。

いや、儲かるケースや個人もいるな。
そうやって騙されてる。
自ら燃料となり、そのヘイトを盛り上げるコンテンツの一部となって、ヘイトコンテンツの運営者に金が流れる。
養分となり、搾取され続けるだけの人生。

まるで解けない呪いさ
ずーっとそうなんだからな…

認められず
軽んじられ
疎まれ…
結局はそれに耐えられず落下……
落下に次ぐ落下……
学校でも社会でも……!

落ち続けてゆく落下人生……!
結果……こんな地の底まで堕ちてきて…
なのに……

なのになんだっ……!
ここでもまた負け組かいっ………!

こんな………
こんな地の果てでまた負けるんかいっ………!

なんでいつもこうなんだ……!
なんでオレたちはいつも誰かの「喰い物」なんだっ………!?


賭博破戒録カイジ 2 [ 福本伸行 ]

ミソジニーも、マゾヒズムも、ルサンチマンも全部、断捨離すべきかもしれない。

いや、ルサンチマンは必要悪でもあるから残るべきかもだが。
ルサンチマンという幻想無しに生きるのは、困難な場合もあるだろう。
また、ミソジニーマゾヒズムも、一種のルサンチマンでもある。

ロードランナー様の原罪、って人の指摘も正論、1つの現実だ。

b.hatena.ne.jp自分で何も成し遂げられない男たちは、「男はすごい」等のルサンチマンに寄りすがる。

解けない呪いのように、弱者男性は今日も、曖昧で形而上的な奴隷道徳を内面化し、自尊心の拠り所にしながら日々を生きていく。

 

続き

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藤井風「Lonely Rhapsody」「青春病」「Grace」におけるサイババの思想との共通点の考察から人間が「私」を切り離すのが困難な存在であることを知る

藤井風の音楽をよく聴いている。
俺は彼が紅白に出る前から、メジャーデビューする前から聴いていた。
惹きつけられていた。
「何なんw」は、50回は聴いただろう。

www.youtube.comと、こういったマウンティング、「インディーズの頃から応援してました」みたいな古参マウンティング、俺は嫌いだけどね。

てめーはただの消費者だろうが!

ってね。
一喝してやりたくなる。
既に一喝してたわ、過去の自分でもあるからな。

サブカルクソヤローがなぜむかつくのか-あるいはオタクとニャル子とディスタンクシオン - 技術教師ブログ

ヴィレバンにいる私の感性どや、美術館にいる一般的な娯楽に染まってない私どや、ってね。昔の自分はまさにサブカルクソ野郎。何も生み出せない、ただの消費者のくせにね。卓越性が手に入ってると勘違いしてたな。

2022/11/30 00:45

b.hatena.ne.jp

gyakutorajiro.comにも関わらず、文化的な闘争による自己の差別化(ディスタンクシオン)、消費活動でマウントを取ろうとする輩が多い。
「普通の人でいいのに!」の主人公の田中未日子(みこ)は、村上春樹だのノア・バームバックの映画だのお笑いだ下北だ奥渋だ神保町の古本だインディーズバンドだと、消費によってしか自己実現できない女性だ。
特に社会に影響を与えるようなものを生み出したわけじゃない。
コンシューマーであってクリエイターではないんだよね。
趣味を極めて、みうらじゅんや「マツコの知らない世界」の出演者みたいな、クリエイティブな存在にまでも至れてない。

カイジ利根川も言ってるだろうよ。

懸命に働いたわけでもない…………何も築かず……何も耐えず……何も乗り越えず……ただダラダラと過ごし… やったことと言えばほんの十数分の余興… なめるなっ…!

(引用元:賭博黙示録カイジ 7 [ 福本伸行 ]

と。クリエイターとして何かを築くことができないから、コンシューマーとして何かを消費するだけしか出来ない。

コンテンツを貪る、ただの消費活動で自分が崇高な存在になれるなんて甘いぜ。

togetter.com2016年に、既にその現実を突き付けた別の人もいたり。

anond.hatelabo.jpにも関わらず、そのチンケな消費活動によって自分を差異化し、ハリボテのディスクタンクシオンで自分が優位になった気になり、他人にマウンティングする哀れな人間。

そんなので風民(藤井風ファンを"かぜたみ"と呼ぶ)と言えるのか?
藤井風のソングに、人を罵倒したり、人にマウンティングするようなメッセージ性は、あるのか?
ないだろうよ。

HELP EVER HURT NEVER(常に助け決して傷つけない)、彼のアルバムのタイトルが、それを示してる。

note.comそう、だから「古参だ~」だの、「私の方が愛してる」等、無益な争いはやめよう。

「Artist on the Rise」という動画で、「I feel so blessed.」と。
自分の音楽を聴いてくれた人、祝福されたことを感謝する藤井風がいた。

www.youtube.comちなみにこの「bless」という言葉、ブラックミュージックのゴスペルでよく聴く。

Guy Robin Feat. Anthony MoriahのBless You Brother。

www.youtube.comThe Collective vs PeytonのPromised Land。

www.youtube.com「My Brother and Sisters~♪」「All Needs Love~♪」と、愛の讃歌だ。
これらのトラックは厳密なゴスペルではなくゴスペルハウスだが。

藤井風はブラックミュージックも敬愛しているように。
ゴスペル音楽における愛を強調すること、愛を重要視する考えは、藤井風の「死ぬのがいいわ」にも見受けられる。

www.youtube.com

takahiroarai.meそしてそれは、サイババの思想にもある。
アガスティアの葉の秘密」という、1995年に出された本がある。
こちらの著者の真弓香氏が、サイババの言葉を思い出し自省するシーン。

 タクシーがマドラスの街をぬけるころには雨も小降りになり、ヴァイティスワランゴヴィルまでこのまま無事いけそうである。と、思ってる矢先に車の調子が悪くなった。ファン・ベルトが切れたという。今日中にアガスティアの葉の疑いを白か黒かはっきりさせたいと思っていた私は、おもわず、いらいらとして、「長距離にでるのに、車の整備もしてこなかったの」ときつい棘のある言いかたで叱る。彼は黙って、車を治している。
 とっさにサイババの言葉(ドクターサミエル著『ザ・ホーリー・マン・アンド・ザ・サイキアトリスト』)
 Start the day with love,(一日を愛で始めなさい)
 fill the day with love,(一日を愛で満たしなさい)
 end the day with love,(一日を愛で終わらせなさい)
 this is the way to God(これが神の道である)
 を思いだし、反省する。この若い、タクシー・ドライバーはかぼそい体の、心の優しい青年である。私をマダムとよんで、丁寧な態度で接し、どんな行為も誠意にあふれている。その彼に怒鳴るのはよくない。自己嫌悪。

アガスティアの葉の秘密 精神世界とインドの旅 [ パンタ笛吹、真弓香 ]p182-183)

素晴らしい、サイババの言葉によって、他人に厳しく傲慢な態度を取ることを避けることができた。


そしてこの本には、「自分を愛すること」の重要性も記載されている。

 最後の日は、今日はもう泣かないだろう、大丈夫と思ったが、結局、サイババがゲートから現れて、そこに立っている姿を見たとき、今まで以上の感激が襲ってきて、涙がドーとでてきた。
 このときのサイババは私の心に彫刻のようにしっかりと刻みこまれ、翌日、マドラスのホテルに着いてから蘇ってきた。心理学者ドクター・サミエルが書いた本(『スピリット・アンド・ザ・マインド』)のなかで、サイババの言葉に触れたとき、サイババの姿とが重なった。

 See in Me yourself……,(私の中にあなた自身を見いだしなさい)
 for I see Myself in all of you……(なぜなら、私はあなた方すべてのなかに私を見いだすのだから
 You are My life,My breath,My soul……(あなたは私の命であり、息吹であり、魂である)
 You are all My forms.……(あなたは私のすべての姿である)
 When I love you,I love Myself……(私があなた方を愛するときは、私自身を愛するのであり)
 When you love yourself,you love Me……,(あなた方が自分自身を愛するときは、すなわち私を愛するのである)
 I separated Myself from Myself so that I may be Myself……(私は自分を自分自身から切り離し、それ故に、私は私自身でありえる)
 I separated Myself from Myself and became all of this so that I may be Myself.……(私は自分を自分自身から切り離し、そしてこのようになり、それ故に、私自身でありえる)

 かなりいい加減な人生をおくってきた私の中にもサイババが投影されるという愛の言葉に、涙があとからあとから涸れる(かれる)ことがないくらいでてきた。私の心にはそんな辛いことが蓄積されていたのだろうか。すべての悲しいことが封印されて、奥にしまいこんであったのだろうか。強がりを言って、傷つけられた心は見向きもされず、手当てもされないまま放置され、慢性化していたのだろうか。

 私は今まで、人を真剣に愛したことなど一度もないような気がする。恋愛は数多くしたが、愛などと呼べるものからは程遠い。昨日まで、愛してると確信しても、今日の裏切りで、すぐ憎しみに変わった。一生変わらない愛などが存在するとは思えない。人間は自分がかけているメガネでしか、世の中をみることができないから、したがって、私を一生愛してくれる人がこの世の中にいるということを信じたくてもそれは、無理な話である。そのことを信じるには、まず私が人を愛することを知らなければいけないが、それ以前にまず、自分を愛することを知らなければいけないのである。自分を愛することは簡単そうで、とても、とても、とてもむつかしいことだと喘いでいる私の心をサイババは知っていたに違いない。


アガスティアの葉の秘密 精神世界とインドの旅 [ パンタ笛吹、真弓香 ]p132-133)

自分を愛することができないと、人を愛すこともできない。
ではどうすれば自分を愛せるか?

藤井風は「Lonely Rhapsody」という曲で、その答えを出しているような気もする。

www.youtube.com孤独なんて幻想、気にしなきゃいい。
孤独なんてのは幻想だ、みんな同じだと。
つまり自分がそこに在る、それだけの、ありのままの存在を肯定すること。
その大切さを歌っているようだ。

藤井風のロンリーラプソディには「溶けてゆく」という歌詞が出てくる。
サイババも、あらゆる物は根源的には液体である、と述べている。

6|自然科学への見識
 地質学の知識

サイババ あらゆる物は、その根源において液体である。
――スワミが言っておられるのは、この世界のことですか。
サイババ そうだ。すべての物は液化している。温度はない。
――熱はないんですか、スワミ。
サイババ そのとおり。すべては液体なのだ。水のようにね。金、鉄、銀、宝石、みんな液体だ。次は固体だ。そして木々だ。
――木、ですか、スワミ。私たちのまわりに見られるような?
サイババ そう、木だ。それから人間の存在と動物。その究極の中核には、神が宿る。それがすべてを支えている。一番目は液体、化学。それから固体、物理学。そして木、植物学。その次に人間、生命の頂点。だが中核ですべてを支えているのは、神だ。神がなくて、なにが化学、物理学、植物学だ?このように大学でのすべての教科はあるものだ。学生たちは全体像を理解するだろう。ヒスロップ『我がババと私』一九七ページ)

「検証・サイババの「奇蹟」 / デイル バイヤーステイン, Dale Beyerstein / かもがわ出版」p75)

すなわち、根源的には人間は液体だ、みんな同じだという。
サイババ思想との共通点が、藤井風のロンリーラプソディの世界観にも見受けられる。

だから差はない、と。

しかし現実では、そんなことはあり得ない。
この資本主義社会に生まれた人間においては、人は容姿や学歴や年収等といった物理的、物質的条件によって差別される。

独身である人間、一人で生活している人間を「孤独」という概念の檻に閉じ込める。

オレの人生がもし…平均的というか…
ごくまともに推移していたならば…
今頃は…

(画像引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

 

今野さんあなたは今まで人から好かれたことがありますか?
たとえば一番身近にいるご家族はどうですか?

おそらく誰からも好かれていないでしょう 
あなた自身もそれはわかっているから遂にひらきなおって人に好かれる努力をしなかった……

これから年をとってゆくと孤独になるのがいちばんの敵です
人に好かれる努力をしないと本当に孤立した老後を迎え淋しいまま人生を終えることになりますよ

(画像引用元:部長 島耕作(12)[ 弘兼憲史 ]

その「孤独」という概念の檻が必要なのは、資本主義における経済的合理性に相応しくないからだ。
結婚して、子どもを産み、労働力を生産してくれた方が国家のGDP向上には都合がいいからな。

だから結婚もせず、孤独に過ごし、子孫繁栄できない者を「終わってる」と、罵倒する者もいる。

はい。30にもなって子どももろくに産めない非モテの皆さんこんにちは。
あのね、我々のミッションというのは子孫繁栄なんですよ。
子どもを産んで、しっかり育てるということが、我々人類に課されたミッションなわけですね。
我々の脳味噌というのは、子孫を反映するために、プログラムされています。
かわいい彼女を作って、子どもを作って、育てていくと。
そのために俺らは「モテたい」という欲求があるし、ね、カッコよくなりたいといった欲求があったりするわけですよね。
そういう脳の、元々プログラムされていることに従えずにですね、いつまで経ってもAVでオ○ニーしているようなね、非モテがね、最近多すぎるんですよね。
だから日本、少子化になってるし、国力が弱くなってるわけでね。
で、国力が弱くなることによってどんどんどんどん、景気が悪化していって、自分らの首を絞めてるわけだよね。
お前らが、モテるための活動をしないことによってどんどん、国は弱くなっていく、景気は悪くなっていって、結局お前らの給料が下がる。
ね、そういう悪循環になってるわけね。
自分の身を守るためにも、お前らモテろ。
モテるための努力をしろ。
さっさと子どもを産め。
俺らはね子ども10人作る予定だけれども、そのぐらいの気概を持ってね、どんどんどんどん、我々のミッションである子孫繁栄をね、しっかりやっていけ。
お前30にもなって子ども産めないってね、お前、終わってるぞ。
子どもを育てていくだけの経済力もなければ、彼女を作ることもできない。そんな状態で30歳を迎えたそこのお前、終わってるから。
マジ、死ぬかモテるか、どっちか選べ。
そのレべルだからな、よろしく

だから「孤独」は、現実に存在する。
この「概念の檻」によって社会不適合者として、惨めなレッテルを貼られることから逃れるために、人は追われるように勉強や仕事や婚活や子作り等に精を出す。


また、このロンリーラプソディにある「溶けてゆく」という描写は、以前、当サイトで語った「人間という固体としての意志を放棄して流体に向かうルサンチマンとしての一面もある。

gyakutorajiro.comそして流体は、固体と違って弾性がなく、力を加えられたらすぐに変形する。つまり外圧を受け容れるということであり、抵抗する意志がない存在とも言える。


資本主義社会に生きる人間、重力に支配されている人間は、常に固体として主体性を持ち、意志を持って勉強や仕事をして生きることを要求される。
それがしんどくなる。

現実の艱難辛苦から逃れるために、人間は重力から逃れ、固体としての生命から液体に戻りたいという欲望を備え持つ。

宇多田ヒカルFlavor Of Lifeで、ダイアモンドよりもやわらかくてあたたかな未来を望んだように。

www.youtube.com生命としての固体、ダイヤモンドのようなマネー等のあらゆる固体に交換できる物質的存在から、液体へとなろうとする。
その回帰願望は、フロイト的にはタナトス(自己破壊衝動)と呼ぶかもしれない。

エヴァンゲリオンの旧劇場版で「THANATOS -IF I CAN'T BE YOURS-」が流れたように。
人類補完計画により人類が液体化して一つになろうとしたように。

www.youtube.comしかしそれを全てルサンチマンとしてしまうのは、神や知覚できないものの存在を否定する、唯物論的な価値基準に囚われ過ぎているともいえる。

一方、藤井風やサイババには、このような多くの人間が囚われている唯物論的な解釈や価値観を、乗り越えているか。
もしくは、違った価値観によって生きているような雰囲気も漂う。

皆、液体だった。
すなわち「みんな同じ」なんだと。平等なんだと。

サイババ「for I see Myself in all of you……(なぜなら、私はあなた方すべてのなかに私を見いだすのだから)」と、語るように。

 聖アウグスティヌスは現在の人間でも気づいていない真実を突きとめ次のように述べる。
「奇跡は自然とは矛盾しない。矛盾しているのは現在人間がもっている自然法則にたいしてのみである」
 あなたが(クリシュナ、ブッタ、キリストなどの起こした)昔の奇跡を認めるかどうかは別にして、約五十年もの間、まだ生きている人がサイババの奇跡を実際に目にしてきた。これは否定することのできない事実であり、多くの国のたくさんの知識人や信頼できる男女が目撃し、体験し、証人となってきた。
 ちなみに、私が昔の奇跡を信じ、自然と呼ぶこの素晴らしい、常時変化してやまない現象を新たな目で見るようになったきっかけは、サイババの奇跡を体験し、これが否定できない事実であることを自ら確認したことにある。こうして、私は「奇跡の時代」が過去のものではないことを理解した。奇跡の時代は現在であり、過去であり、未来でもあるのだ。
 奇跡を自分に引きつけて見れば、奇跡が現実にあることを理解し、受け入れる助けにもなるかもしれない。わたしたちと奇跡との間には密接な関連があるからだ。ババのもつ奇跡の力、英知、純粋な愛を目撃し、体験するとき、わたしたちと彼の間に大きな違いがあるのに気づかれるかもしれない。そして実際ここには「無知」と呼ばれる隔たりがあるのだ。サイババは何度も自分とわたしたちは一体であり、同一のものであり、最高の神の分身である、と話し続けてきた。しかし、人間は相変わらずこの無知という広大な湾を渡ることができずにいる。この広い水域を横切る船を見つけ、湾のはるか向こう岸に光が見えるようになれば、人間は自分にとって大切なものに気づき、永遠の自由を手に入れられるだろう。

(「サイババ・愛の化身 その奇跡と教えを知るために (心霊科学名著シリーズ) [ ハワード・マーフェット ]」p11-12)

そうなのか、証人が多くいると。
サイババの奇蹟、映像が残ってるなら観たいな。

藤井風がロンリーラプソディで「みんな一人でみんな一つ」と唄うように。
これはジョン・レノンの「イマジン」のメッセージ、世界はひとつになるんだ、というメッセージとも似ている。

ameblo.jpすなわち藤井風も、サイババも、ジョン・レノンも、博愛主義的な考えの持ち主だ。

その根拠は、藤井風のPVを何本か観ればわかるが、色々な人種の人が登場し、楽しそうにふれあっているということや。
サイババが、ヒンドゥー教イスラム教の懸け橋になったことだ。

 過去何世紀にもわたって大きな二つの宗教が隣合せに生きてきたが、その歴史は相互不信と敵意、断続的な抗争の連続であった。そのふたつの宗教とはヒンドゥー教イスラム教である。両者を互いに寛容と理解に基づいて結びつけようとした者はごくわずかしかいない。その小数のなかから思い浮かぶ名前は、カビールマハトマ・ガンジーそしてサイババである。

 基本的に、ふたつの宗教はおなじ真理を教えている。つまり『神』はひとつであるということだ。その姿、名前、思い浮かぶ属性がなんであれ、ひとつなのである。ではふたつの宗教の主な相違点はどこにあるのだろう。ヒンドゥー教では神は自らをどのような形にすることもできると考えている。この宗教では、どのような姿の神を選んでも正しく神を崇めることができる。いっぽうイスラム教では神には姿などないといい、偶像を禁止している。

 ある姿を神と見ることを認めると、大勢の人間が偏在する神を勝手に自分で選んだ姿に限定し、ほかの姿をした神をいっさい否定してしまうことになりがちになる、とイスラムが考えていることは間違いない。こうなると、たえず危険につきまとわれることになるのは必至で、事実、組織化された宗教には世界中どれを見ても、多くの悲しい流血の歴史が存在する。

 しかし物事の核心を探る人間は、ふたつの宗教が互いの観点を尊重しあえるようになる点がたくさんあることに気づくだろう。この問題に尽力した一人に十五世紀の聖詩人カビールがいる。カビール自身はヒンドゥー教徒でありながら、多くのイスラム教信者を獲得した。実際、彼はイスラムの教えを深く理解し、イスラム神秘主義的宗派スーフィ教のグルの長にまでなった。スーフィ教徒はカビールの詩が霊性を向上するものとしてサダーナでも最も重要なものと考えた。彼の詩はスーフィ教の神髄でもあり、ヒンドゥー教の神髄でもある『神の愛』を暗示している。

 シルディで暮らしていたころ、サイババはよくカビールについて語り、彼の詩を詠み、自分は聖なる詩人の生まれ変わりであるとも言っている。ヒンドゥー教徒の両親のもとに生まれたシルディ・サイババには若いころ、ふたりの霊性の指導者がいた。ひとりはイスラム教の苦行僧であり、もうひとりは信仰の篤いヒンドゥー教徒であった。


(「サイババ・愛の化身 その奇跡と教えを知るために (心霊科学名著シリーズ) [ ハワード・マーフェット ]」p185-186)

シルディ・サイババ
サティヤ・サイババじゃないな。
しかし、サティヤ・サイ・ババも、シルディ・サイ・ババを敬愛していた。

www.choeisha.comサイババは本名をサティヤ・ナーラーヤナ・ラージュといい、1926 年11月23日に南インドにあるプッタパルティという村に生まれました。
サティヤは幼少の頃から優れた霊感を持っており、村の間では「グル(導師)」や「ブラフマグニャーニ(神を知るもの)」と呼ばれていたそうです。

そして14歳になると「自分はシルディ・サイ・ババの生まれ変わりで、神の化身である」と宣言しました。
サイ・ババとは「聖なる父」を意味し、その「サティヤ・サイババ」の名は世界各地に広まっていきました。
信奉者が数百万にまで膨らむと、サティヤの講話をつづった本が何カ国語にも翻訳され、「サティヤ・サイババ」の存在はさらに世界中に知られるようになったのです。

そのため、思想としては近しいはずだ。
サティヤ・サイ・ババも、文献から人種や宗派で人を差別するような存在ではなく、博愛主義的な思想を持っていたと想像できる。

もちろん、そういった博愛主義は、真心ブラザーズの「拝啓、ジョン・レノン」にもあるように。

www.youtube.com藤井風もサイババジョン・レノンも、平和主義や理想主義が強すぎて「現実見てない人」になるかもしれない。


が、藤井風の唄の中には決して、理想主義に終始しないものもある。
「青春病」という曲だ。

www.youtube.com青春はどどめ色(土留色)だと。
綺麗なブルーなんかじゃない。

この曲を聴くと過酷な現実を無視しているわけでもなさそうでもある。
単なる愛の讃歌ではない、残酷な現実のリアルを突き付けるような曲もある。
いつまで青春に溺れてる?
青春にサヨナラしろってかい…いい年こいてあだち充とか読んでちゃダメかよ…。

藤井風の曲には、青春病以外にも。
諦念(もうええわ)や、死(死ぬのがいいわ)、儚さ(いつの日か粉になって散るだけ)等、退廃的なワードが並ぶ。
それもサイババに繋がっている。

先のサイババの言葉に「I separated Myself from Myself so that I may be Myself……(私は自分を自分自身から切り離し、それ故に、私は私自身でありえる)」というのがある。
結局、多くの人間は、囚われてしまっている。
資本主義社会に生きているがゆえに、物質主義的な、マネー資本主義的な価値観に染まってる。
だからこそ、藤井風はそれを「もうええわ」と。
物質的快楽と結びついた青春と「サヨナラ」して、切り離せと。
「肥溜めへと、ダイブ~♪」(何なんw)してる場合かと。

科学技術が発達した現在においては、唯物論的な考えが優勢となる。
哲学の歴史においても、科学の発展やマルクス主義の影響もあるだろう、ニーチェドゥルーズデリダといった形而上的価値観やロゴス中心主義から脱出しようとする思想の方がリアリティを帯びてくる。

サイババの本を書いた安部賢司という人でさえ、科学的で唯物論的な考えこそが真実だとする考えを抱いていた。

 高校時代、私は放課後よく友人と議論を戦わせたものだった。「人類はなぜ存在しなければならないのか」という議題が選ばれることが多かった。そのころ、生物というのは単に蛋白質の集合体にすぎず、単なる自然現象の一部だ、また意識というものは高度に組織化された脳の物理的反応によって発生するものだと考えていた。だから、人類を含め全ての生物は、存在そのものに何ら意味はない、あるいは意味を見いだそうとする議論が非論理的な行為だ、という見解だった。いや、そのような見解を自分の心に植え付けようと努力していたのかもしれない。
 
 このような唯物論に基づいた考え方を徹底させようとしていたため、自分の純粋な恋心まで否定してしまうことになる。
 
 そんなある日、中学時代の初恋の相手であったk子とふたたび逢うことになった。今から考えれば二度とあのような純粋な気持ちには戻れないだろうと思えるくらいの純愛の相手であった。私は進学校に進んだが、両親のいない彼女は大学に行くことは難しいため商業高校に進んだ。違う高校で別れ分かれになってしまっていた私にとって、それは夢のようであった。約束の日が近づくにつれ、高ぶる感情を押さえきれなくなってくる。しかし、その当時の私は「感情は脳の反応にすぎず意味のないことだ」と決めていたため、理性でむりやり感情を捨てた。心から待ちわびた約束の日に、感情を無意味なものとして振る舞う私があった。結果は目に見えていた。しかし、私は感情を捨て去る方向こそ人類の進化だと考えていたのだ。その後、私は彼女にラブレターを書いた。しかし、彼女の何を愛しているのか悩んだ。いろいろ自己追及していった結果「彼女は結局は原子核と電子の集合体なのだから、私は原子核や電子を愛しているのか」という結論になってしまうような内容となってしまった。すなわちその当時は、ただ物質のみが真の存在であるという唯物論に基づいた考え方を徹底しようとしていたため、深く追求すればするほど本質を見失っていくのであった。

(「奇蹟をこえて サティア・サイババとバラ・サイババ、ふたりのサイバ / 安部 賢司 / エスダブルオウ」p89-91)

こういった唯物論や、資本主義、マネー中心主義に人間が捉われてしまうのは、金は快楽(脳や身体の反応)と互換性があるからだろう。
金があれば、快適な衣食住や、性的快楽を手に入れることができるのは、現実としてある。
つまり資本主義は、生物学的な欲求や生理的な快楽(ドーパミン等の脳内化学物質)とも密接に結びついている。
マルクス的に言えば資本主義は、下部構造(身体、快楽、労働)と結びつく価値観であるがゆえに、そこから逃れるのは容易な事ではない。
それは藤井風が青春病で唄っている「切れど切れど纏わりつく泥の渦」のように、永遠にまとわりつく。

だがその現実も、サイババは見透かしていたのかもしれない。
だから「I separated Myself from Myself so that I may be Myself……(私は自分を自分自身から切り離し、それ故に、私は私自身でありえる)」という言葉を残した。
「欲望の対象に執着している」とも述べた。

 
 ところが、いざ瞑想なり祈りなりを始めようと思うと、途端に、われわれは別のことを考え始めてしまう。座った途端、いつ瞑想が終わるのかを考えている。その次にする仕事のことを考える。あるいは、この忙しい世の中で、そもそもこんなことをしていてよいのだろうかと考える。
 なぜ、日常容易にできる集中が、瞑想をはじめとする霊性修行に生かされないのだろうか。
 
 『それは、心が外に向いていて、欲望の対象に執着しているからだ』
 とサイババは答えている。つまり、心は外側の対象へ集中するのは容易だが、終着を離れ内側へ向かうのは簡単ではないのである。
 『だが、心は内側に集中するよう訓練できるし、ハートは、神への愛を育むことができる。どのようにして?サーダナ(霊性修行)によってだ』
 
 最高の霊性修行とは、日常の行為の全てを神への礼拝として捧げることだという。そしてそれこそが、真の瞑想の状態に他ならない。ただし、そこに至る訓練の段階として、われわれはいわゆる普通にいう瞑想の実験を行なうのである。

(「真実のサイババ / 青山 圭秀 / 三五館」」p194)

人間は自らの身体から湧き上がる欲求や、社会生活を送る上で形成されていく欲望に囚われる。
社会の評価によって自らを相対化し、優越感や劣等感を覚える。
そのような営みに囚われるからこそ「私を私自身から切り離し、私は私自身でありえる」と、サイババは問うたのではないだろうか。

このサイババの言葉を受けたような曲が、藤井風にある。
それは「Grace」という曲だ。

www.youtube.com「助けて神様 私の中にいるなら」と唄うように。サイババ同様に心を、欲望を喚起する外の世界ではなく、内側に向けようとしている。


みずさわさんという人も考察しているように、外の世界に触れることで形成されてしまった煩悩、外の世界にある欲望を満たそうとする「私」だったが、それがうちの世界の「あたし」に出会う。

note.com暗闇にいた「私」は、「あたし」に会ったことで自由になり、神の恩寵のもとですべてを愛するようになる。

暗闇にいる私は、切り離されていない自分、外的な社会、外の世界によって自縄自縛となっている「私」だ。
そこから「あたし」に出会うことで、そこから逃れないか?と。

それは自分自身を愛するための讃歌であり、自分を自己肯定に導く契機だ。
だから藤井風の曲には、サイババ同様、資本主義社会で傷ついて疲弊した「私」を癒すパワーがあり、唯物論者に近い思想を持つ自分もつい、聴いてしまうのかもしれないね。


白魔法、と言われると、そんな気もする。

article.me藤井風自ら「この曲は誰しもの中に存在しているハイヤーセルフを探そうとする歌」と解説している。神や天使やヒーローのようなハイヤーセルフが一人一人の内に存在しているということ、それはエゴや利己心や嫉妬と無縁で愛に満ちた存在であるということ、曲の中で自分と自分のハイヤーセルフが対話しているということを語っていた。

いや、しかしこのハイヤーセルフの存在有無については、共感できない。
これについては一旦保留としておこう。

 

続き

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