逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

ワールドカップで日本がドイツに勝利したことを歓喜しなければ人格を疑われたり非国民扱いされるので人前では仕方なく喜ぶが内心どうでもいいと思ってる

そういう人もいるんじゃなかって。
俺はそうなんだよ。でもそういう人って、薄情で、最低なのかな?
と思ってしまうが、でも一定人数は、いるんじゃねえのか。

人力検索はてなでアンケートでもしてみるか。

q.hatena.ne.jpだって根本的には、別に日本が勝とうが負けようが、人生には何の関係もないだろ。
そりゃ家族とか友達とか知り合いが出場してたら関係あるけどよ。

でも宮本徹さんが言うように、民主社会なんだから「どうでもいいと思ってる」という意見も尊重してほしいところだけどね。

b.hatena.ne.jp宮本徹 on Twitter: "ドイツを応援する日本人がいても、日本チームを応援するドイツの方がいても、それを尊重するのが民主社会。 そして、一個人の見解を日本共産党の見解であるかのように、描くのはフェイクそのもの。"

「さも喜ぶのが当然」みたいな、歓喜を強制する感じ。
ワールドカップハラスメント、感動ハラスメント、ドーハの歓喜ハラスメントだ。
この大喜利の方が面白かったよ。

togetter.comニュースを回せば、どこもかしこも勝利を祝う、皆が喜んでいるという空気を作り出す。
そこに真実はあるのか?
それでもジャーナリズムかよ!

The Worlds of Journalism Study が実施したジャーナリストに対する68カ国横断アンケート、日本のジャーナリストは「事実をありのままに伝える」がトップではないんだと。

anond.hatelabo.jp「政治的アジェンダを設定する」が重要になってる、だから偏向報道になってんだ。

おーい、ここにマイノリティの声、あるぞ。
「どうでもいいと思ってる」声も拾って、報道しないんかい。
もしかすると、マイノリティじゃないかもしれないぞ。


だって、ゴール!って決めるじゃん。
「おおすげえな」って思ったけど、別に感動とか大げさだよ。
感動などないよ。

(引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

歓喜の中で、腹の底が、胸の奥が、どんどん冷えてく人だっているだろうよ。
どんなに大掛かりでも、所詮は他人事じゃねえか。

(引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

自分の、自分自身が成し遂げた歓喜じゃねえんだよ。

この漫画の黒沢がいいこと言ってるよ。
テレビの向こうで活躍するサッカー選手達に対して、
「俺が求めているのは……オレの鼓動……オレの歓喜。オレの咆哮。オレのオレによる、オレだけの……感動だったはずだ!」
「他人事じゃないか…!どんなに大がかりでも、あれは他人事だ…!」
ってね。その通りだって俺は思ったよ。

そういう現実が誰しもあるはずで、にも関わらず「どうでもいい」という人の声は拾わず、報道されるのは「嬉しい!」「やったー!」という声ばかり。
やったーっておめえよ、別に普段の生活にあんま関係なくねえか?

じゃあなんで、歓喜は強制されるのか?
マスコミやあらゆるメディアは、「感動をありがとう」的な、日本勝利をこぞって祝し、感動を強制するような偏向報道をしてしまうのか。

それは「国家の利益に寄与するから」というのも1つとしてある。

アルチュセールは、「国家のイデオロギー諸装置」という概念によって、いかにして国家がイデオロギー諸装置によって自国の支配や体制の維持を行っているかを暴こうとした。スポーツのような見世物も、国家のイデオロギー諸装置の1つだ。

われわれはただちにその核心へと進み、そして現代の資本主義社会において、国家の抑圧装置から国家のイデオロギー諸装置を区別するものとは、以下のような差異であると述べよう。

〈国家の抑圧装置〉は、定義上、間接的または直接的に物理的暴力を用いる〈抑圧装置〉である一方、〈国家のイデオロギー諸装置〉は「〈国家装置〉」という同じ意味においてのみ抑圧的であると言われうるにすぎない。というのもそれは定義上物理的暴力を用いないからである。〈教会〉も〈学校〉も諸政党も、新聞もラジオ - テレビも〈出版〉も、もろもろの見世物もスポーツも、それらの「お得意さんたち」のそばで機能するためには、少なくとも支配的で可視的なしかたでは、物理的暴力に訴えることはない。

教会に行くこと、学校――たとえ、それが「義務」……ではあれ、――に行くこと、ある政党に加盟しそれに従うこと、新聞を買うこと、テレビのチャンネルを回すこと、映画、競技場に行くこと、そしてレコード、絵画や「ポスター」、文学、歴史、政治、宗教、また科学の本を買い、「消費する」ことは、「自由」である。したがって以上のことは、〈国家のイデオロギー諸装置〉は、「暴力によって」ではなく「イデオロギーによって」機能するという点で、〈国家装置〉と区別されることを示している。

(引用元:再生産について(上) イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー) [ ルイ・アルチュセール ]p177-178)

このイデオロギー諸装置については以前の記事でも引用した。

gyakutorajiro.comまず「共同体への責任」という、どこか抽象的な理由を自殺をしてはならない理由として紹介しているが。
それをもっと深堀りすると、その「共同体への責任」の中に、国家のイデオロギーが多分に含まれてる。
そのイデオロギーとは、資本主義社会を発展させるための価値観であり、ありとあらゆる場所・形式で、流布されてもいる。
その現実を、ルイ・アルチュセールは「国家のイデオロギー装置」として明らかにした。

マルクス主義理論」における〈国家装置〉は、政府、行政機関、軍隊、警察、裁判所、刑務所を含んでいることを想起しよう。それらは、われわれが今後、〈国家の抑圧装置〉と呼ぶであろうものを構成している。抑圧的とは、正確かつ強い意味では、物理的暴力の行使(直接または間接、合法または「非合法」の)であると極限では理解しなければならない(なぜなら、それは非物理的な抑圧の数多くのきわめて多様で、さらには隠された諸形態が存在するからである)。

では〈国家のイデオロギー諸装置〉(AIE)とは何か。
それについての最初の概観をつかむために、ここに暫定的に列挙してみる。

1/〈学校装置〉
2/〈家族装置〉
3/〈宗教装置〉
4/政治〈装置〉
5/組合〈装置〉
6/〈情報装置〉
7/〈出版-放送装置〉
8/〈文化装置〉


これが暫定的なリストであるのは、一方では網羅的ではないからであり(第12章を参照されたい)、他方では7の〈装置〉と8の〈装置〉は一体をなすことがありうるからである。私がこのようにふんぎりをつけることができないことを容認していただけるのではないかと思うのだが、というのも私の「包囲陣」は、探求に値するこの点にはまだ敷かれていない(3)からである。

(引用元:再生産について(上) イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー) [ ルイ・アルチュセール ]p170-172)

(3)「私の包囲陣は敷かれた」は「ご意見無用」という意。歴史家ルネ・オペール・ドゥ・ヴェルトー神父(1655-1735)が、1726年、ステレマン二世によるロドス島攻囲戦の戦記を書き終えたとき、未開の資料を提供しようとした人に向かって答えた言葉。

もちろん「国家とは距離を保ってる、民間企業や私企業もある。SNSの普及で、個々人も意見を発信できるようになってる」と。
「何でも国家にコントロールされてるというのは乱暴な陰謀論だよ」という意見もあるだろう。


だが国家の関与の有無、公的か私的かは、問題ではないとアルチュセールは語る。

今度は、まったく異論の余地がないと思われる別の例をとりあげれば、法的にはプルーヴォ氏が所有するいくつかの新聞や、シルヴァン・フラワラト氏とその他の者が所有する〈ラジオ〉と〈テレビ〉の地方局は、それゆえ私的な部門に属するのであり(民法典)、自らの「自由」と独立を信じさせる空想の一部にあずかる「権利」を彼らがもっているとしても、そうすべきときには、というのはつまり頻繁に「白昼堂々」、実に露骨に、ブルジョア国家の政治に歩調を合わせ、視聴者や読者のそれぞれに適したもろもろのヴァリエーションを用いて、ブルジョア国家の果てしなく繰り返されるイデオロギー的ミサの偉大なる諸テーマ、〈国家のイデオロギー〉の諸テーマをまき散らすことが申し分なくできる、ということは誰もがよく知っている。

したがって、国家のイデオロギー諸装置にかんするわれわれの〈テーゼ〉に打撃を与えることができるのは、私的/公的の区別ではない。挙げられた私的な制度のすべては、国家の所有物であれ、これこれの私人の所有物であれ、いずれにしても、〈国家のイデオロギー〉のもとで決定された〈国家のイデオロギー諸装置〉の諸部分として、それらに固有の形態で、国家の政治や、支配階級にそれに奉仕することで機能するのである。

それらに固有な形態とは、つまり優越的なしかたでイデオロギーに機能する〈諸装置〉の形態である――〈国家の抑圧装置〉のように、抑圧によって機能するのではない。私がすでに言及したように、このイデオロギーは、〈国家のイデオロギー〉そのものである。

(引用元:再生産について(上) イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー) [ ルイ・アルチュセール ]p181-182)

一見、私的な団体や所有物、ラジオやテレビにおいても、国家の法は及んでいるがゆえに、国家のイデオロギーを完全に排除するのは困難だという話だ。

実際、サッカーで勝利した翌日を休みにしたことを「粋な計らい」と報じるマスメディア。

もしかしてサウジアラビアで生活する国民の中には、仕事が休みになって明日食べる取り分が減り困っている人もいるのではないかという可能性には目もくれず、国家の判断を肯定する。

だから公的だろうが私的だろうが、国家のイデオロギーが介入する余地はどこにでもある。

実際、喜んだだろう?
根本的には、自分の人生に何の関係がないにも関わらず!

カタールのドーハで行われるワールドカップで、堂安律が同点ゴールを決めて、浅野拓磨が逆転の2点目のゴールを決めた。日本が勝利した。
で、それで自分の人生に、好影響はあったのかよ?

推しがサッカー好きだから、自分も好きになったという話もあった。

anond.hatelabo.jp確かにそういう、推しや、周りの友人や、家族と、楽しみや歓びを共有できる好影響はあるかもしれない。

だが、周りの人とかじゃない。

新聞やメディアが垂れ流す情報、他人からの同調圧力…それらを一切、無視した状態で、自分の気持ちだけに正直になった時。
本当に自分の心の底から、日本がゴールを決めて、感動したと、言い切れるか?

俺は言い切れない。感動できないものは出来ない。
心の底から「よかったね」という程度の感情。

自分が同調圧力の影響を受けない理由は、まあほとんど人と接する生活をしているというのもある。
ニートじゃねえが仕事も人と接する仕事じゃないからな。
だから「よかったね」と言ったけど、むしろ本当の心の底は「どうでもいい」という感情だ。

日本が勝利した時に感じたこと。
「よかったね」という気持ちが2割で、残りの8割は「どうでもいい」だ。

ハッピーターンの粉が多い時の方が感動した。
初めて、ハッピーパウダー増量のハッピーターンを買った時だ。


「おおーさすが、ハッピーパウダー250%だな~!」っていう感動の方が大きい。
ワールドカップで日本がドイツに勝利した感動よりも。
まあ、そんな人間だから結婚できねえってのもあるかもしれないけどよ。

堂安選手のインタビューがあった。

times.abema.tv 日本国民のために、日本のために、このエンブレムを背負って戦っているわけなんで、そう言っていただけるとうれしいです。「明日からまた会社頑張ろうと思ったよ」とか、そういうひとことがSNSを通じて、いろいろな連絡ももらいますし、僕らはサッカー選手ですけど、エンターテイナーだと思っているので、そういう意味では昨日の試合ではそういう役割は日本国民のみなさんにはお見せできたかなと思います。

スポーツ選手のプレーとか観て「明日からまた会社頑張ろうと思ったよ」という感覚、俺には一度もない。
寂しい人間なのだろうか。
闇金ウシジマ君に出てくるニートの宇津井みたいな。

メジャーで活躍するのは、文化の違いや言葉のカベとか大変だけど、
目標に向かって障害を乗り越えていけたら人間的に成長出来るンで、
楽しいっス‼

チッ‼
将来有望な若いスポーツ選手の前向きな発言は、
正直、ヘコむ。
どう考えても俺の生活とはかけ離れていて、
どんな素晴らしい言葉も参考にならねェ。


(引用元:闇金ウシジマくん(8)[ 真鍋昌平 ]

もちろん宇津井のように、社会的に活躍しているスポーツマンや成功者への妬みの感情等から、テレビを消すとかはしない。

でもやはり「どうでもいい」と思ってしまった。
ルサンチマンとはちょっと違う。
ルサンチマンは嫉妬・怒り・恨み・辛みを抑圧するための奴隷道徳だが、そもそも嫉妬とか怒りではない。

芸人のだいたひかるがやっていた「どうでもいいですよ」というような感じだ。

www.youtube.comドラマとか漫画とか映画を観ている方が面白い。
先に引用したアルチュセールの本の方が面白い気がする。

もちろん、アルチュセールを引用したからといって、俺は左翼とかはてサとかではない。
思想的にはリベラルに近いかもだけど。

anond.hatelabo.jp社会自由主義(リベラル)

中道左派。いま日本で言われているところの「リベラル」。

古典的自由主義のように野放しにしていると、差別や格差が広がって個人の自由が制限されるから、むしろ国家権力が介入して積極的に差別や格差を是正すべきだ、という感じ。

政治的には中立、資本主義も共産主義も、ダメな部分は大いにあると思ってる。


宗教とかイデオロギーで扇動せず、経済的合理性や多くの市民の利益に立脚して政治をしてほしいとは思ってる。


だが本当にダメだと思うのは、こういうか細い声が無視され、どこもかしこも歓喜ムードになり、一つの意見を強制する全体主義的な空気になることだ。


共産党の人間はサッカーが国威発揚に利用されるのが嫌で反対しているって話もあったが。

anond.hatelabo.jpこれはそんなイデオロギー的な理由だろうか。別に野球や陸上競技イデオロギー装置として機能する可能性はある。
上部構造の話ではなく、下部構造、経済の問題だろうよ。
サッカーが好きか嫌いかでなく、金がもったいないって話じゃねえのか。
福祉とかもっと別に使うことあるんじゃないのっていう。

須藤玲司って人が言ってる話もわかる。

b.hatena.ne.jp人権問題も大事なんだけど、その政治的イデオロギーがスポーツ競技や、スポーツをプレイする選手に持ち込まれたら、純粋にスポーツを楽しめなくなる。
まあ別に楽しめなくてもいいんだけどね。
コンテンツとして面白くなければ衰退するのみだろうし。

例えば、日本勝利に俺のような「どうでもいい」というコメントと同じく「興味が無い」的なことを言ってる人もいたようだ。

anond.hatelabo.jp匿名だから言えるけど、歓喜に湧く群衆の前では言いにくいことだよな。

また、日本代表団とか日本人が、他国と違いサッカーのことばかり考えて。
カタールで起きている同性愛差別や外国人差別等に、何の問題意識も持たずにサッカーを愉しむのはどうなのよ?という問いもあった。

www.asahi.comそういった諸問題に関する問題提起をしている人もいた。

amamako.hateblo.jpスタジアム建設はデマだったらしいけどね。

www.jijitsu.net

日本共産党の羽鳥だいすけ氏のこの発言。

b.hatena.ne.jp人権意識が高いドイツを称賛する意味での発言だったけど、炎上してしまったな。

こういった日本勝利のニュースに対する否定的意見に対して「黙ってるのが礼儀」「脈絡0やん」というリプライがあったけど。

脈略0ではないんだよ。
国家のイデオロギー諸装置として、パンとサーカスとして、娯楽の提供は政治の安定につながるんだから。

www.y-history.net前1世紀の「内乱の一世紀」の時代には、カエサルなどの有力者が盛んに剣闘士競技や戦車競争を開催して市民の人気を集めた。また属州から多くの穀物がローマにもたらされるようになると、ローマ市民の特権として穀物(小麦)が配給されるようになった。ローマ帝国時代になると、アウグストゥス以降の皇帝たちは、市民に対する穀物の提供と見世物などの娯楽の提供が政治の安定につながるので、盛んにそれを実施した。しかし、それらは帝国の財政を苦しめることにもなるので、後には緊縮策を採る皇帝もあった。

まあでもそういう、政治的な話を抜きにしてだな、「よかったね。まあどうでもいいけど」ってのが俺の感想なんだよ。

でもこの感情を抱いた人は、自分だけではないと信じたい。

リオデジャネイロ五輪の時もそうだった。
オリンピック基本的にどうでもいいから、観てなかったけど。
会社の人が吉田沙保里、惜しかったよねーほんと!」って感動気味に言ってきたんだよ。
このニュースかな。

www.sponichi.co.jpそんで観てないし、逆に吉田沙保里は俺の中で守銭奴疑惑があったからさ。

www.dailyshincho.jp

matomame.jp

吉田沙保里って何か叩かれてましたよ。ギャラ高いとかで」みたいに言ったんだ。
そしたら会社の人から「もういい!」みたいな、少し不愉快な感じで言われたな。
「こいつに話しても無駄だ」的な表情してたよほんと。

でも何で応援してるのかわからない。
別に吉田沙保里の知り合いとかじゃないじゃん。
同じ日本人ってだけ。
それだけの共通点で人を応援できるもんなのかね?

何にせよ、スポーツイベントに対する俺みたいな人間の声も拾ってほしいものよ。

地上波は無理だろうが、アベマTVとかジャーナリストが、そういうワールドカップ無関心層・無感動層の人がどれぐらいいるか調査してほしいねほんと。

なぜアイドルグループは恋愛禁止なのかについてをジョルジュ・バタイユ「宗教の理論」で紐解く

前回、熱愛スキャンダルによって事物の秩序に堕落した神(アイドル)を否定し、破壊する行為によって、ファンが自らの内奥性を取り戻すことができるという話をした。

gyakutorajiro.com内奥性とは、ジョルジュ・バタイユの「宗教の理論」に出てくる言葉であり、端的に言うと、事物の秩序(現実社会)に服従する人間が、その秩序からの解放や忘却のために信仰する「希望」や「生き甲斐」といった観念的対象であり、現実に存在するアイドル等の外的な物理的対象でもある。

(引用元:アガペー [ 真鍋昌平 ]

信仰していた神、および神を象徴する物質(アイドルのプロマイド、うちわ、その他グッズ等)を破壊するという行為は、宗教や宗教めいたドルヲタ活動ではなく、事物の秩序に戻ることでもある。

恋愛・性欲に溺れ、アイドルが神ではなく事物(人間)に堕ちるという罪は、お相手の男性、すなわち事物(人間)という悪によってもたらされた。

悪による第一の形態の媒介作用は、いつでも可能なものであった。もし私の眼前で悪の現実的な力が私の友を殺すとなれば、激しい暴力性は内奥性をその最も活発な形で導入することになる。
暴力を被ったという事実によって私がそうなる開かれた状態の中で、また死者の内奥性が苦痛に充ちて啓示される中で、私は残酷な行為を非難し、断罪する善の神に同意しているのである。
だから私は罪がもたらした神聖な無秩序のうちで、壊された秩序を修復するような暴力性に訴えかけようとする。しかしながら私に神々しい内奥性を開示したのは、実のところ復讐ではなく、罪のほうなのである。


(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p106)

ファンが自分が集めたグッズを破壊するという暴力性によって、ドルヲタ活動とは別の内奥性を手に入れたのは、バタイユ的な解釈に基づくと罪(スキャンダル)であると。

確かに「裏切ったな・・・」という復讐心よりもまず、神がその神聖さを失う罪が、先行して存在する。
しかし復讐は履行されることなく、罪は閉じられ不問となる。

そして復讐は、罪がそうである非理性的な暴力性の延長になることはありえないが、まさにその範囲に応じて、罪が開いたものをすぐに閉じてしまうだろう。なぜなら神的な感情を与える復讐とは、暴力の奔騰への情熱や嗜好が命じるような復讐だけだからである。合法的な秩序を修復するということは、本質的に言えば俗なる現実に服従しているのである。


(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p106)

前回の記事で言うところの、グッズの破壊や闇夜の徘徊がそうだ。逮捕されるので、現実に罪を犯した神に対して復讐が行われることは滅多にない。合法的な秩序の修復に留まる。

また、バタイユによれば、ファンの中にある暴力性(善の神)は、神にもたらされた暴力性(スキャンダル)よりも神々しくはないと。

つまりその善の神とは、暴力性によって暴力性を排除する神性なのである(そしてその神は、排除される暴力ほどには神々しくない。すなわちその神性が生じるために必須の媒介作用であり、そのように排除される暴力に較べると、神的な度合は低いのである)。

だからその神が神的であるのは、それが善と理性に対立する範囲や程度にまさしく応じて、その限りにおいてのみそうなのである。それでもしその神が純粋に理性的なモラル性を体現しているとするならば、その神に残っている神性とは、ただ神としての名称と、外部から破壊されるものではないものが持つ持続に適した傾向とに由来する神性だけに過ぎないのである。

(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p107)

確かに「アイドルが恋愛禁止の暗黙ルールを破った場合、糾弾せねばならない」等の善の神は、どこか独善的で、共感を得にくい場合があるだろう。
その点で神々しくはないとも言える。

むしろ、神にもたらされた暴力性、恋愛禁止という見えない呪縛を被っている状態において、もたらされてしまった魅惑的な恋愛という感情の高ぶりの方が、神々しいとも言える。
神にとっては、恋愛禁止よりも、恋愛の快楽が勝った。それは恋愛禁止という価値観に対立するため、神性は喪失したかもしれない。

神にも葛藤はあった。信者たちが納得しないと。
神が恋愛という罪を犯してしまった。
恋愛とは、事物の秩序にいる人間が行っている通俗的な営みであり、別に神聖なものではない。

信者(ファン)から糾弾される。
別の神は悩む。どうすればいいのかと。

www.sponichi.co.jp「アイドルとして皆さんから頂いた愛や信用を裏切ることが起きてしまい、本当に申し訳ありませんでした。そして、今まで曖昧になっていた『恋愛禁止』というルールについて改めて考え直す時代が来たのだと思います」

外野から神を糾弾する暴力性がもたらされる。

媒介作用の第二の形態においては、暴力性は外部から神(ディヴィニテ)へとやって来る。神自身がその暴力を被るのである。復讐の神を位置づける場合と同じように、内奥次元が回帰するためには罪が必須のものとして求められる。

もしそこに事物たちの秩序に服した人間と、モラルに関わる神しかいなかったとしたら、その両者の間には深い交流はありえないであろう。事物たちの秩序のうちに包括された人間は、その秩序を解除し、かつ同時に保全することは、そうしたいと願ってもできないだろう。そういう秩序が一つの破壊行為によって解除されるためには、悪の暴力性が介入しなければならない。だが、ここでは捧げられる犠牲は、それ自身神なのである。


(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p107-108)

バタイユが言うように、神の国(アイドルグループ)が、その内奥次元を取り戻すには、罪(スキャンダル)を犯した神を裁く、暴力性を伴う罰が必要になってくる。

その与えられる罰とは、神の国からの追放であり、いわゆる「卒業」だ。

nlab.itmedia.co.jpAKB48岡田奈々さんが11月23日にTwitterを更新。岡田さんは一部で俳優の猪野広樹さんとの熱愛が報道されており、けじめとしてAKB48を卒業すると発表しました。

ファン達が抱いている感情、ファンが抱くモラル(善の神)によって、アイドルという神は断罪された。

神(アイドル)は、神の国(アイドルグループ)に残るという選択を取ることはできた。
しかしその選択を行わない。
それはある意味で、神自身が、内奥性を取り戻すために必要な犠牲ではある。

供犠に捧げられる神は、それが死に至るときに、現実秩序を転倒する力の奔騰という至高な真実を受け入れる、だが、この神は、それ自身の内部で、もはやこの現実秩序に服従せず、奉仕することもないのである。つまりこの神はこうして、事物たちがそれ自身現実秩序に服従しているのと同じようには、その秩序に隷従することを止めるのである。

このようなやり方で、その神は至高な善を、そして至高な理性を、事物たちの世界の保存という原則、またその操作という原則を超えた地点まで高め、引き上げる。というかむしろ、こうした知的理解による諸形態から、ちょうどかつて超越性の運動がそれから作り出したものを作り出すのである。すなわち存在の非可知的な彼岸を、つまりその神がそこに内奥性をすえるところの、あの知的理解を超えた彼岸を作り出すのである。

(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p109-110)

岡田奈々は、現実秩序(アイドルグループへの残留)に隷従することなく、現実秩序への奉仕を止め、非可知的な彼岸へと向かうことで、内奥性を獲得する。

その方が確かに、選択として正しいかもしれない。
上記の記事では「1番最悪の答え」とあるが、実はそうじゃない。

神がその内奥性を取り戻すためには、ファンが抱く善の神の裁き(恋愛禁止等)という現実秩序への従属から逃れることこそが、自らをもう1度、神としての存在に高めるために必要だ。
バタイユが「内奥次元が回帰するためには罪が必須のものとして求められる」と言うように、岡田奈々は卒業という楽園追放の罪を背負うからこそ、内奥性を取り戻せる可能性が生まれる。

しかしこの選択は、神自身に、自らの内奥性を信じる力がないと出来ない。
峯岸みなみ指原莉乃は、スキャンダルの時点では、自信がなかった。
だから「坊主になる」という罰を自身に課したり、望まない移籍や活動拠点の変更を受け入れても、罪を拒絶し、神の国に残った。

岡田奈々は自信があるということだ。
他の活動でも、人を魅了する内奥性を発揮できると。

もしくは、内奥性を発揮できなくても、事物の秩序で生きていくマネー等の生活の糧が潤沢にあると。

だから「卒業」という選択は、合理的とも言える。
内奥性を取り戻すためには「AKB48に残る」という、支配的な現実秩序から逃れなければならない。

しかしそもそもなぜ、アイドルグループには恋愛禁止という暗黙のルールめいたものがあるのだろうか。
アイドルにおけるこの性質は、バタイユがいう内奥性とも言える。

news.yahoo.co.jp AKB48ファンのコア層は、疑似恋愛的な(あるいはキャバクラ的な)要素を軸とする中高年男性だ。売上を考えると、DH社はその層を決して手放せない。シングルCD売上はコロナ前と比べて3分の1になったが、それでも40万枚程度も売れる。ここで「恋愛」を解禁すれば、コア層の中高年男性を見放すことになる。それは、経営的にリスキーだ。

と述べている人がいるように、疑似恋愛的な要素があるからと。
ただ「古いジェンダー観」とあるが、ジェンダーの問題ではなく、何をそのグループのコアに成り得る価値、内奥性とするかの問題だ。
そのため、向井地美音が主張するように、恋愛禁止のルールを考え直してもいいし、放棄してもいい。

ただし、その場合は「可愛いのに特定の相手との恋愛に溺れることなく、ファンに尽くしてくれる」というAKB48およびAKB48グループが持っているその内奥性を放棄し、記事で言及されているRed VelvetやTWICE等のように、音楽性やライブパフォーマンスやダンスパフォーマンス等、別の内奥性が要請される。
疑似恋愛を愉しめるという内奥性を放棄することは、別の神、別グループと同じ土俵、類似した内奥性で勝負する可能性が大きくなるため、パイを奪い合うことになるし、
不利になる可能性も出てくる。

そのため運営側は、建前としては「恋愛禁止のルールは無い」と人権を尊重し、恋愛禁止を人権問題として糾弾されないように振る舞うが。
現実として、恋愛スキャンダルによってファンが没入していた供犠や祝祭に含まれている疑似恋愛的な魅力等の内奥性を喪失するがゆえに、本音としては、恋愛はしてほしくないと考える。


統一教会でも、自由恋愛を禁止する教義がある。

news.ntv.co.jpこのように、アイドルグループや宗教団体には、明文化の有無に関わらず、恋愛を禁止する内奥性が求められるケースがある。
「事物の秩序で生きる人間達は、大抵、恋愛をしてしまうので、恋愛をしないことこそがすばらしい」という内奥性は、錯誤的で、非人道的に感じる人も多い。

しかし求める。
誰が求めているかというと、それは事物の秩序にいる人間であり、ファンだ。
つまり「事物の秩序の側が、それ(恋愛禁止など)を内奥性として要請している」と、バタイユは語る。

事実、内奥次元が現実世界を服従させることがあるとしても、それはまったく皮相なやり方でそうするにしか過ぎないのである。モラルが至高性として君臨する体制の下では、内奥性の回帰を保証すると自負するあらゆる操作は、実は現実世界が要請するような操作である。

つまり回帰の条件として設定される広範囲にわたった諸々の禁制は、本質的に見て、事物たちの世界を無秩序な混乱から保全しようとする狙いを持っているのである。

それで最終的には、救済を求める人間は、事物の秩序というこの生産的な秩序を、内奥次元がそうであるような破壊的な消尽に服従させるよりもずっとはるかに、事物の秩序の諸原則を、内奥次元の内部へと導入してしまったのである。


(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p111-112)

事物たちの世界を、無秩序な混乱から保全したい。
その欲望はすなわち、ルサンチマンだとも言える。

モテない男女、弱者男性や弱者女性達が、事物の秩序において自らの欲望を充足させることが出来ず、嫉妬・怒り・恨み・辛みの感情に駆られる。
その現実を否認するため、抑圧するために、生み出したんだ。
事物の秩序において「恋愛禁止」という倒錯的な原則を。

その原則、恋愛禁止という十字架を、恋愛がいつでも可能と思われる恋愛強者、容姿のいい男女の内奥性として設置し、ドルヲタ活動や推し活によって内奥性を持つ存在が創り出す内奥次元へと回帰することで、自らの直視し難い現実、例えば恋愛ができない現実、恋愛弱者であるという現実等を、隠蔽する。

「恋愛が出来ないのは自分だけじゃないんだよ」というルサンチマン(奴隷道徳)が充満した世界に安住する。

恋愛禁止の内奥性を備えたアイドルが創り出す祝祭空間に没入することで、事物の秩序という自分の人生の失敗から逃れようとする。

神が存在する内奥性の世界、すなわち内奥次元に回帰している時は幸福であり、自らの人生における諸々の不満の噴出を抑えることができる。
哀しいが、宗教や推し活が生み出している内奥性は、根本を辿ると、そのような現実秩序から発生しているという話だ。

現実から目を背けていいのか?
現実に襲い掛かる無秩序な混乱を受け入れず、ルサンチマン服従し、事物の秩序から逃れ続けて、満足か?

等と、宗教を信仰している方や推し活を頑張っている人に言ってしまうと、大抵嫌われる。

でも、そこに没入しすぎて事物の秩序から離れてしまう人がいたら、警告しなければならない。
神的な世界や祝祭空間にも、マネー等の事物の秩序の手は及んでいる。
自分が信仰している信仰の対象が、神聖化していた世界が、実は、自分が生きている世界と地続きの、事物の秩序であるという現実。

恋愛禁止の世界なんか、ないんだよ。
魅力的な相手がいれば寄り添う、その事物の秩序こそが現実であり、真実だ。

「アイドルグループは恋愛禁止」というのは、現実の秩序から生まれたルサンチマンであり、その内奥性は金儲け等に寄与するという点で神聖化されるが、その神性さは現実の秩序が要請しているという点で、何ら神性な教義でも価値観でもないんだよ。

アイドルはスキャンダルによって内奥性を失い推し活の対象から外れる、失意のファンは失われた内奥性を求めて夜の闇を徘徊する

最近、芸術的なツイートを見た!

素晴らしい。切り裂かれたアイドルの写真だろうか、コラージュアートのようだ。
これは情熱的なパッションが生じた時にこそ生まれる芸術作品だ。

どうやら、AKB48岡田奈々が、猪野広樹と付き合っているという文春砲によって露わになったスキャンダルにショックを受けたと思われるファンによるツイートらしい。

bunshun.jpしかも岡田奈々というのは、風紀委員的存在であったと。

anond.hatelabo.jp総監督の向井地が生徒会長ならば、岡田は風紀委員長

というのがファン間での共通認識、いや、ファンだけでなくメンバーも含めたAKB界隈でのパブリックイメージだった

そして、彼女にはずっと相思相愛的なコンビ的メンバーがいて、それが今回、もう1人文春にやられた村山彩希(ゆいりと読む)である

ファンから見たら、いわゆるシスターフッド的な関係性である

アイドル界隈でしばしみられる百合営業ですね

相当、ショックだっただろうな。
自分の推し、信仰の対象、神格化された存在が。
「普通の女性」である可能性が高いという現実が、明らかなった。

普通の女性、というのは、いわゆるマクドナルドやガスト等で「イケメンだよね~」と会話しているルッキズム全開の女性、オフィス街の居酒屋等のランチタイムに「社長と付き合いたいな~」「金も大事だよね~」といったマネーの獲得能力によって男を査定する女性等、それら俗物的、物理的価値観を迷うことなく受け入れている女性のことよ。

普通の男性、というのもそうだ。自らの生物学的価値基準に支配され、女性の容姿によって好き嫌いの感情をコントロールされ、そのような俗物的、物理的価値観を迷うことなく受け入れている男性。

なかなか抗うのは難しい。
例えアイドルだろうが俳優だろうが、やはりパートナーに容姿のいい存在が欲しくなるのは人間の本能的反応ともいえる。
オダギリジョーだって香椎由宇と結婚したじぇねえか。
前田敦子だって勝地涼と、大島優子だって林遣都と、新垣結衣星野源と結婚した。

確かに勝地涼林遣都星野源は、BTSのメンバーや速水もこみち城田優等と比べると、身長も高いわけではないし、圧倒的イケメンとは言い難い。

だが俳優として、アーティストとして、才能もある。マネー獲得能力も高い。
5段階評価のレーダーチャートでいうと、勝地涼林遣都星野源の容姿は3か4ぐらいではあるが、その他のパラメーターで高い数値を出しているだろう。

www.mag2.com文春オンラインは19日、岡田とお相手の2.5次元俳優・猪野広樹(30)との熱愛を報じた。岡田と猪野は、6月公演のミュージカル「マギ」で共演し、すぐに恋愛関係に発展したという。

猪野広樹、カッコいいじゃねえか。

natalie.mu舞台もやってるから、これからドラマとか映画とか活躍の幅を広げて、伸びるかもしれない。
容姿がカッコよく、マネー獲得能力が高い未来もある。
仮に金を稼げなくても、容姿が優れているという生物的魅力を備えている。

かたやどうだ。オタク達はよ。
醜くたるんだ腹を垂らしながら、金も無く、秋葉原ゴーゴーカレーでカツカレーをむさぼり食べている。

(引用元:アガペー [ 真鍋昌平 ]

そんなオタク達より、猪野広樹の方がいいに決まってる。

2000年代ぐらいのかなり前だが、藤田徳人という人の恋愛本を読んだことがある。
そこに、搾取されるオタクのことが書かれていた。

●小悪魔は残りの七割を悪用する
 では、なぜ上位一パーセントの男を虜にできるのか?それは、残りの七割の男たちを利用するからなのです。
 かつて、捨てるほどあった鯨ベーコンですら、希少価値になれば五〇〇倍の値段がつき、あこがれの食べ物になるのです。つまり、魅力アップとは、数多くの男性に言い寄られて、あなたが希少価値になることです。
 質ではなく、量です。モテない男たちとつきあうのではなく、全員をファンとして面倒をみて、あなたの心の動物園の中で飼育するのです。
 動物園の中にペットがたくさんいればいるほど、あなたは希少価値が出てモテるようになります。
 この時、まちがっても動物園の中に上位三割の男を入れてはいけません。ペットたちが嫉妬して反乱を起こすからです。人気も落ちます。
 モテない男には思いっきり媚びて、モテる男には冷たくする。わかりやすく言うと、こういうことです。
 私はアイドルをプロデュースした経験がありますが、そこでたいへん重要なことを学びました。アイドルである彼女のファンになってくれる男たちは、おそらく「残りの七割」に入る男たちなのです。
 つまり、アイドルとして売れていくには、モテない男たちにもやさしくしなければならないのです。生理的に受け付けない男が握手を求めてきても、にっこり笑って握手して、帰り際には手を振ってあげなければなりません。
 しかし、そうすると男は「○○ちゃんってあんなに美人なのにとってもやさしい」とみんなに宣伝してくれます。
 その言葉につられてどんどんファンが増えていき、最後には上位一パーセントの男が言い寄ってきて、その男が大きなスポンサーとなって出世していくのを身近で観察しました。
 まさに、彼女にとって下位七割の男たちは魅力アップのための道具だったのです。道具は多いほうがいいので、どんどんストックしていきます。第一章で述べた「ストック戦略」がこれです。

(引用元:恋愛科学が教える「恋の敗者復活」講座 [ 藤田徳人 ]p50-51)

モテない男たちは、アイドルの市場価値を上げるための道具であり、養分だということ。
競りの参加者が多ければ多いほどその商品の価格が吊り上がるように。
利用されてんだよ。

だがそんなことはわかってる。
過去に似たようなこともあった、AKB48選抜総選挙須藤凜々花が結婚発表をした事件とかな。

nami55.xyzわかったうえで、応援している、推しの手のひらの上で踊っているんだよ。

いやしかしそれでも、一縷の望みはあるんじゃないのか?
もしかして尽くし続ければ、アイドルと付き合える可能性も・・・。
そんなことも思いながら、推しのプロマイドを眺めながらオ〇ホールで自慰行為に耽り、仕事で稼いだ金を投資し続ける。

(引用元:アガペー [ 真鍋昌平 ]

しかし大抵は、無い。宝くじに当たるぐらいの天文学的に低い確率。
的外れな努力になることが多い。
アイドルは多くの人間を魅惑する。
それゆえに、周りのいい寄って来る男性の価値を見極める力も、相応に備えているだろう。

いや違う。そうじゃない。
別に付き合いたいとかではないんだよ。
純粋に彼女から元気を貰っている。応援したいんだよ。
推しの夢が真っ暗な俺の人生に光をてらす・・・ 

(引用元:アガペー [ 真鍋昌平 ]

このように考えるドルヲタもいるかもしれない。
このようなドルヲタは、岡田奈々のファンを辞めないかもしれない。

しかし前者のようなドルヲタ、あわよくば付き合いたい、もしくは、誰とも付き合わない貞操性を備えた存在であり続けていてほしいと願っているファンにとっても。
後者のような、付き合えないとわかっていて応援しているファン、恋愛していても応援を続けるファンにとっても。

容姿のいい俳優と付き合うということは、「事物の秩序」への堕落であり、少なからず神聖さを失うことを意味する。

「事物の秩序」というのは、ジョルジュ・バタイユの「宗教の理論」という本に出てくる用語だ。
バタイユのこの本では、人間が宗教を信仰するメンタリティを詳細に記述しているが、これは現代の推し活にも当てはまる話だ。



人間は事物に支配されている。
事物とは、容姿で差別される残酷なルッキズム的現実や、この資本主義社会において快楽との代替性を備えているマネー等を指す。

つまり人間はその抱く不安、怖れのせいで労働の諸成果に結びつけられているのであるけれども、まさにちょうどそのように縛りつけられている度合に応じて個人的なのである。しかしながら人間は、そう信じられることもありうるように、彼が恐怖を持つから一個の事物であるのではない。もし人間が個体(事物)でなかったとしたら、不安を持つことはないであろう。

彼の不安に種を与え続けるのは、本質的に言うと一つの個体であるということなのである。彼が不安を身につけるのは、事物の要請に応えるためである。つまり事物たちの世界が彼の持続を、彼の価値の、またその本性の根本的な条件として措定したのであるけれども、ちょうどまさにそのように位置づけられている程度に応じて彼は不安にかられるのである。

(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p67)

税金を国家に払う、いじめられる、フラれる、差別される・・・等々。
バタイユが言うように、人間は事物によって不安にかられている。

その不安を払拭するために、人間はライブパフォーマンスという祝祭空間へと足を運ぶ。

聖なるものはこのように生命の惜し気もない沸騰であるが、事物たちの秩序は持続するためにそれを拘束し、脈絡づけようとする。しかしそうした束縛しようとする行為こそがすぐまたそれを奔騰状態へと、すなわち激烈な暴力性へと変えるのである。間断なくそれは堤防を決壊しようと脅かす。純粋な栄光としてある消尽という運動、急激で、波及しやすい運動を、生産的活動に対立させようと脅かすのである。

まさしく聖なるものは、森を焼き尽くしながら破壊する炎に喩えられる。際限なく燃え拡がる火事がそうであるように、それは一個の事物の正反対であり、伝播していき、熱と光を放射し、燃え上がらせ、眼を眩ませる。そしてそのようにめらめらと燃え上がり、眼を眩ませたものが突如として、今度はまた燃え上がらせ、目眩まかすのである。

供犠はちょうど太陽のように、つまりわれわれの眼にはその炸裂する輝きをじっと見つめることができないほどの光熱を惜し気もなく放射しながら、そのためにゆっくり死んでいく太陽のように燃え立たせる。ただし供犠はけっして孤立してあるのではなく、諸個人の世界の内で、そういう個体としての個体を一般的に否定するように誘うのである。


(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p68-69)

事物たちの秩序で暮らす個体としての自分、責任を押し付けられる労働の日々、うんざりとする日常。

聖なる存在、アイドルは、その個体として生かされる人間の現実を否定して焼き尽くしてくれる炎であり、太陽の光のようにキラキラと眩い閃光によって暗い人生を照らしてくれる希望だ。

(引用元:アガペー [ 真鍋昌平 ]

その熱狂は時に、感染し、伝播する。
不安が入り込む隙を与えないほどの、人間性を失い獣に近付くことで、失われた内奥性を取り戻す。

神的世界は感染しやすい。そしてそれが感染し、波及することは危険なのである。原則的に言って、供犠の実行過程に引き込まれているものは、あたかも活動し始めた雷のような状態になる。その燃焼には原則として限界がないのである。

そういう発火状態に適合しているのは人間の生であって、動物性ではない。内在性に対立する抵抗こそが、その内在性に再び噴出するように命ずるのである。たとえば涙とともに胸を突き刺さんばかりに、あるいは不安の打ち明けようもない快感のうちにあれほど強力に再噴出を命ずるのである。

だがもし人間がなんの留保もなく自己を内在性に委ねてしまったとしてら、彼は人間性に背いてしまうことになろう。かりに彼が人間性を完成するとしても、それはただ人間性を喪うときにそうするというに過ぎないだろう。そして生命はついには、獣たちの目覚めを知らぬ内奥性へと回帰することになるだろう。

ここで示されているような問題、すなわち一個の事物であることなしには人間として存在することは不可能であり、また動物的な眠りに回帰することなしには事物の限界を逃れることが不可能であるという事態が常に提起し続ける問題は、祝祭という形によって制限つきの解決を得るのである。


(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p69-70)

誰もが、自分が一個の個体、事物であるという内在性に、無意識に抵抗しようとしている。
自己の内在性に委ねてしまうと、自分がちっぽけな存在だという現実に直面し、自尊心を失い、死に近付く。
内在性は人間性を取り戻せと噴出を求めるが、事物であるという現実から逃れることは、人間性を喪失し、獣へと回帰する行為でもある。

そのために祝祭がある。
人間性を保ちつつも、動物的な内奥性に回帰する儀式を求める。
自らの、事物の秩序に支配されているという内在性に抵抗するために宗教があり、推し活があり、ヲタ活がある。

藤本美貴のロマンティック浮かれモードで狂喜乱舞するオタク達がそうだ。

www.youtube.com昔、この動画(画面左下のヲタ芸の動画)のリンクを、会社の同僚の女性に送った気がする。
そしたら「キモい…」と言われたが、確かにこの動画から恐怖も覚えるかもしれない。踊っている本人達は、湧き上がる熱い内在性から、事物の秩序を逃れ人間性を取り戻そうとしているのだろうが、傍から見れば人間性を喪失して、まるで動物のように踊り狂ってるんだから。

Yogee New Wavesは「音楽は魔法だ」と言ったらしい。

www.buzzfeed.comそれは事実とも言える。
音楽が奏でる空間に没入することで、事物の秩序から受け続けているストレスから一時的忘却を行っているという点で、魔法と比喩されるような身体作用を被っているケースはある。
事物の秩序には、直線的時間の圧力があり、そこから逃走するために音楽を聴いている人間のメンタリティについても以前、話をした。

gyakutorajiro.comしかしそれは「一時的である」という点で、魔法ではないとも言える。

森康子「音楽を捨てよ、そして音楽へ」の唄に出てくる「音楽は魔法ではない」というメッセージにあるように、そのハレ(霽れ)の空間は儚く極めて不安定で時間の経過とともに失われ、すぐにケ(褻)の日常が姿を現す。

(引用元:アガペー [ 真鍋昌平 ]

ヲタ活でなくなっていく金、困窮していく生活という、本当の現実から逃れられない。
これが現実の「事物の秩序」だ。

その「事物の秩序」は、隠されていた。自分自身、見ようとしなかった、無視していた。
文春砲によってスキャンダルが露わになる前は。
「事物の秩序」ではない「内奥性」が、岡田奈々にはあると信じていたし、その信仰によって事物の秩序から逃れることが出来ていた。

ライブを観たことがないからわからないが、事物の秩序を破壊する、圧倒的ライブパフォーマンスを岡田奈々は行っていたのかもしれない。
可愛いのに恋愛禁止で男と付き合っていないという、事物の秩序を破壊する、貞淑性があった。
異性愛という支配的価値観が支配する現実に抗い、事物の秩序を破壊する、百合的世界感を敬愛している魅惑的な存在でもあった。

www.oricon.co.jpその岡田奈々が備えていた内奥性に、お金や時間、自分が備えているあらゆる事物を、供犠していた。

供犠とは将来を目ざして行われる生産のアンチ・テーゼであって、瞬間そのものにしか関心を持たぬ消尽である。この意味で供犠は贈与(ドン)であり、放棄(アバンドン)なのであるけれども、そのように贈与されたものは、それを受け取った人にとっては保存の対象であることはありえない。

捧物が贈与されるとすると、その捧物はまさしく迅速に消尽の世界へと通過するのである。「神に犠牲を供える」という行為の意味することはそれであり、その聖なる本質はだから火に喩えられる。犠牲を供えるとは、ちょうど燃え盛っている大竈へ石炭をくべるように与えることである。しかし大竈は通常ある一つの否定しがたい有用性を持っており、石炭はそれに服従させられる。これに対し供犠においては、捧物はどんな有用性をも免れているのである。

(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p63-64)

バタイユが「保存の対象であることはあり得ない」と言うように、贈与されたもの、例えば金銭を捧げることで手に入れる投票券付きのCDの投票券は、供犠として捧げるが、それは保存されることなく「総選挙」等の儀式で消尽される。

信者たちは、事物の秩序に支配されている金銭よりも、内奥性を重視する。
金銭は石炭として、秋元康岡田奈々、所属するAKB48やその姉妹グループという大竈に投げ込まれ続ける。
石炭には有用性がないが、大竈には有用性がある。

実際、AKB48の選抜メンバーともなれば、その辺の企業の社長よりも多くの収入を得ているのではないか。
下記の情報の信憑性は判断が難しいが。
タワマンに住んでいたメンバーもいた。

thetv.jp

visual-matome.comaikru.com大竈から取り出される圧倒的マネーが、聖なるものたちへと行き渡る。
だがそれでも構わない。
石炭をくべつづける存在でもあったとしても。
この宗教的儀式によって、自らの内奥性を獲得することができるんだと。


自分の黒歴史。いじめられた、好きな人にフラれた、グループにはぶられた・・・等々。
もしくは、現実に打ちひしがれた経験。
容姿で差別された、年収や所得で差別された、会社でパワハラを受けた、人格を否定されれた・・・等々。

そのような辛い経験を、神格化された対象への供犠、対象が行う祝祭と、それに関わる数多の消尽によって、事物の秩序を破壊する。

アイドルへの供犠、ライブパフォーマンスという祝祭空間への没入は、夫からモラハラを受けて自尊心を打ち砕かれた主婦が、新興宗教に金品を供犠し、自らの自尊心や自分が生存する世界の価値(内奥性)を取り戻そうとするメンタリティに近い。

gyakutorajiro.com岡田奈々は「事物の秩序」から外れた内奥性、神秘的魅力を備えていると。
それゆえに、自分を苦しめる「事物の秩序」を破壊し、解放に導いてくれる存在だと信じていたし、信じていたからこそ供犠を続けていた。


しかし内奥性は失われた。
岡田奈々も、オタク達や、普通の女性、普通の男性と同じ、事物(個体)だった。
俳優とのスキャンダルにより、事物のように見なさざるを得ない現実が現れた。

死がそこにあったときには、誰もそこにそれがあると知らなかった。
死は無視されており、それが現実的な事物たちの利にかなうことであった。
死は他のものたちと同じように一つの現実的事物だったのである。
しかし突如として死は、現実社会が嘘をついていたことを示す。するとそのとき深く考慮に入れられるのは、事物が喪失されたということではなく、また有用なメンバーが失われたということでもない。
現実社会の失ったものは一人のメンバーではなく、その真理なのである。内奥の生命はもうすでに私にまで十分到達する力を失っており、それを私は基本的には一個の事物のようにみなしていたのであるが、その内奥の生を十分なまで私の感受性へと戻してくれるのは、それが不在となることによるのである。

死は生をその最も充溢した状態において啓示し、現実秩序を沈み込ませる。それ以降は、この現実秩序が、もはや存在しないものの持続の要請であることは、ほとんど重要性を持たなくなる。諸関係に基づいて立てられている一つの存在体(アンテイテ)は、一個の基本要素が自らの要請に背いて消え去るときに、欠如する部分が生じて病み苦しむというのではない。そういう存在対(アンテイテ)は、すなわち現実秩序は、一度に全体として消え失せてしまったのである。もはやその現実秩序が問題となることはなく、そして死が涙のうちに運んでくるものは、内奥次元[l'odre intime]の、何の有用性も持たぬ消尽なのである。


(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p61-62)

死は何ら神聖なものでも、内奥性を秘めた契機でもない。現実的事物だった。

スキャンダルによって、岡田奈々というメンバーを失ったのではなく、事物(個体)である自分、供犠の対象であったメンバーによって事物から逃れ内奥性を獲得していた存在体であった自分は、消え失せた。
現実秩序を失ったんだ。

だから破壊する。
岡田奈々という対象は、内奥性に導いてくれる聖なるものではなくなった。
もしかすると、最初から聖なるものではなく、自分と同じく事物(個体)であったかもしれない。
事物の秩序から外の世界に連れ去ってくれる神ではなくなってしまったという現実が横たわる。
それを受け入れるには、その対象を不在とすることで、再度、内奥性を取り戻すしかない。
冒頭に引用したツイートにおける破壊、今まで集めたグッズを切り裂いて破壊して生まれたコラージュアートは、ドルヲタ活動とは別の、内奥性への回帰でもある。


「俺の人生を取り戻した」という呟きとともに行われる破壊は、アイドル達の擬似的な死の儀式によって、自らの内奥性を取り戻そうとする運動だ。
それゆえ、このツイートの画像からも、宗教的な祝祭空間が生まれていることが窺える。だからこそ多くの人から「いいね!」やリツイート等の注目が集まった。
一見すると何の有用性も持たないような破壊行為、消尽が、内奥性を手に入れる儀式となる。
その意味で、アイドルという事物の秩序から逃れ自己の内奥性を取り戻そうと内在性が噴出して悪戦苦闘する様子に、燃え盛る炎のようなエネルギーが伝わってくるという点で、芸術的と言える。

しかし誰しも「事物の秩序」から逃れることは出来ない。
「内奥性」のようなスピリチュアルな存在を信仰し、供犠し、祝祭空間へと身を投じ続けても、逃れられない。

現実から目を背けずに向き合っていくしかないんだよな。
このスキャンダルによってだろうか、けいすけさんという方は4時間、夜の街を徘徊したようだ。

Lucky Kilimanjaro「ひとりの夜を抜け」みたいな、こういう夜は誰もが1度は経験したことはあるだろう。

www.youtube.com夜の街も「事物の秩序」であるが、労働を行っている白日の昼や、過ごしていた祝祭空間には存在しない内奥性が、夜の闇にはある気がする。
それゆえに、徘徊したくなるんだよな。

そして見つけたみたいだね。

お母さんと子ども、イルミネーションが照らす公園の中で動物をあやしている仲睦まじい光景。

「事物の秩序」から逃れられないから、本当の幸せ、持続性のある幸せは「事物の秩序」の側にあるんだよな。
哀しいが、供犠と祝祭空間の中にはないんだよ。

もちろんバタイユが言うように、宗教や推し活が生み出す神的世界、その燃焼には限界はない。
燃焼し続けながら生を全うし、幸福感とともに最期を迎えるケースもあるかもしれない。

だが、人間性を喪うリスクにも晒される。

それは最近、安部元首相銃撃事件を起こした山上容疑者や、カルト宗教への献金によって家庭崩壊したニュース等を見聞きすれば、明らかだろうよ。


(この話の続きは以下)

gyakutorajiro.com