逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

企業間で事業売却・事業買収が起きた際は買収した方の株価が騰がる法則があるのではないか

法則、というと大げさかもしれないし。
単に1つの事例に過ぎないことを、一般化しているだけかもしれないけどな。

なんでタイトル記事のようなことを思いついたかというと。
自分も、仕事に対していつも悲観的なことばかり言ってるから、セミリタイヤとかFIREとか憧れるんだよ。

sub.shunminmin.workだから株とかに手、出しちまうか?なんて思ったりしてね。

とか思っても、自分には投資する金もねえわって感じで、結局は投資信託をちまちま買ってるだけなんだけど。


ふと、書類を整理していると、こんな冊子を見つけた。

サンルートクラブパートナーズホテル」だって。

なるほどね。
サンルートホテルと提携すれば集客力が上がりますよ、ってか。
フランチャイズとはちょっと違うみたいで、集客支援って感じかな。

サービス利用料はこんな感じ。

AGT営業って何?エージェント?
って思ったけど。
「旅行代理店」って意味らしい。判りにくいんだよ。

https://quizlet.com/250394852/%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%E7%94%A8%E8%AA%9E-flash-cards/

そんでオンラインは「OTA」だってさ。

www.travelvoice.jpまあそんなのはどうでもよくて。
本題というか、驚いたのは、このホテルサンルートの経営母体のことだ。

株主のところに「株式会社ジェイティービー」って書いてあった。

えっ?ホテルサンルートってJTBの傘下なの?


と、ちょっと驚いた。
JTBって旅行代理店のイメージだけど。
まさかホテル経営にも手を出してるなんてね。
もしかして不動産資産とか、いっぱい持ってる?
だったら、コロナ渦で調子悪くても、やっぱり土地持ちは強いし、また復活するんじゃないの?株価も上がり調子になってきたり?
なんて、素人ながらに思ったのよ。

不動産収入のある企業がいかに強いか、それは、失敗小僧の動画で知った。

www.youtube.com朝日新聞(大赤字)のリストラ(希望退職者募集)について

新聞が売れない令和の時代においても、不動産の力で、朝日新聞の社員は好待遇の恩恵を受け続けられる。

ということは、JTBは企業としてサンルート保有しているということは、ホテルの土地も保有してたり?なんて思ったりね。

それで調べたら、どうやらホテルサンルートの事業は、相鉄ホールディングスに株式を売却したようだ、それもかなり前、2014年に。

www.travelvision.jpJTBサンルートを相鉄HDに売却-「旅行事業に専念」で

しかもJTBってそもそも、上場してないらしく、株式購入とかも出来ないみたい。

www.meiko-trading.co.jpなんだぁ、じゃあ相鉄は?
と思って調べたら、相鉄は上場してたのよ。

そんで、今回の本題に戻る。
相鉄のここ数年の株価の動きを見ると。

2014年の10月ぐらいから2015年にかけて、急に株価が上がってた。
1900円から3000円近くに。

まあ単なる結果論だけどね。
もしかすると、やっぱり事業買収できる企業は、好意的に捉えられて、買い注文もいっぱい入るのかなぁ、なんてね。

「No music No life」とは何か。それはルサンチマンでもある。

夏が終わり、今日から9月だね。
今年の夏は、フジロックサマーソニックといった夏フェスを楽しんだ人も多いだろう。
しかしフジロックは、ターゲットが若者ではなく少し上の世代にフォーカスしているという話もある。

b.hatena.ne.jpZ世代が消費者としてショボすぎて切り捨てられ始めてるんだよな。全てが団塊ジュニアからロスジェネに向けて作られ始めてる。トップガンウルトラマンなんてその典型だよ。このCMダセェwってイジる前に「捨てられた世代」になる自覚がないとヤバイ。

だってよ。
ふーん、そうなんだ。

なんか気持ち悪いな。
ただマーケティングのターゲットにされているということ、ただの消費活動、そんな低レベルの行為でZ世代にマウント取るオッサン、俺は個人的にはなりたくないね。

気持ち悪いのはオッサンだけじゃない。

このCMをダサいといった若者、そう思った若者も、気持ち悪い。
気持ち悪いし、ダサいんだ。

ただ夏フェス行く消費活動でマウント取るオッサンだけでなく、熱狂に興じるオッサンを揶揄する行動力の無い若者も、カッコ悪いんだぞ。

なぜ若者がカッコ悪いか、それは、最近の若者がよく言う「エモい」「チルい」に、勝負の土俵に上がらず現実から逃避しているという点で情けない奴隷道徳が含まれているからだ。

今日はこのCMを「ダサい」と思った若者たちに伝えたい。
ちょっと待てよと。
今から真実を告げる。
若者が聴いてる音楽の中にも、現実逃避しているという点で「ダサい」かもしれないルサンチマン(奴隷道徳)が含まれていることを、証明する。

そのルサンチマンとは、「時間から逃走したい」という奴隷道徳
ありとあらゆる音楽の中に、このルサンチマンが潜んでいる。
「No music No Life」という、音楽を神聖化する言葉を聞いたことがあるが、それは資本主義に疲弊した人間が生み出した空想的構築物だ。

しかしなぜその空想が必要なのか、求めるのか。

それは人間が資本主義社会の中で、「お金を稼ぐ」というラットレース、直線的時間の流れに、強制参加させられているからだ。

ふぅうぅ…疲れたぁ~~~~
結局、終電帰りだよ……ふぅ。
でも明日は土曜日だ…会社が休みだ…ふぅ…

(引用元:闇金ウシジマくん(10)[ 真鍋昌平 ]

その話は、別の記事でも散々、してきた。

gyakutorajiro.com

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gyakutorajiro.comそして以前、ドゥルーズの時間論の話をした。

その時、上記記事にあるように、人間が直線的時間の圧力に疲弊し、永遠回帰というルサンチマンを生み出したという話も少しした。

gyakutorajiro.com今日はその具体例も挙げる。
最近の若者、もちろん、若者だけじゃないが。
人間がいかに永遠回帰というルサンチマンを生み出し、そこに逃避しているか。
その事実は、現代に生み出されている様々な物質や文化的生産物が証明している。

その物質が、音楽であり、夏フェスであり、「No music No life」というスローガンだ。

人間が直線的時間に従属しているがゆえに、生まれた。
だからこそ求めた。
直線的な時間軸を転倒させようとする。
実際に音楽を聴けばわかる。
人間が抑圧されているがゆえに、欲する。

資本主義がもたらす直線的時間のイデオロギーを、ニーチェが言うように「価値転倒」したいんだ。
そして、音楽というルサンチマンが具現化した音の塊を、自らの器官に接続し、同一化して喜びを享受する。

直線的時間から逃避し、円環の時間軸の中に逃避して享楽する末人(ラストマン)の正体、それがお前なんだよ。

あくまで一部だが、「直線的時間から逃走する」音楽、そのルサンチマンは、大別すると5つに分けられる。

・時間を永遠回帰させるルサンチマン
・時間を希薄化させるルサンチマン
・時間を停止・滞留させるルサンチマン
・時間を逆行させるルサンチマン
・時間概念が異なる空間に没入するルサンチマン

それぞれ、その特徴がよく出ている音楽を紹介しよう。

時間を永遠回帰させるルサンチマン

youtu.beOhashi Trio - La La La Love Song

久保田 利伸 with ナオミ キャンベルのオリジナルもいいが、大橋トリオのカバーも素敵だな。
「回れ回れメリーゴーランド」と、直線的時間を円環時間に変えて、二人の世界が永遠に続くように望み、現実の時間から逃走する。

youtu.beGeG / Merry Go Round feat.BASI,唾奇,VIGORMAN,WILYWNKA 

これもラ・ラ・ラ・ラブソング同様、君と渦を巻いて、メリーゴーランドような「チルな場所へ」向かいたいと、唄っている。

チルな場所は、直線的な資本主義の時間軸、売上や成長を要求する時間、差異や変化を要求する時間とは違う。
円環の時間が流れる世界だ。

youtu.beSIRUP - LOOP

これも同じだね。「あっという間に過ぎる時間を 戻って繰り返したい」「同じような日々を過ごしたい」。コインランドリーのドラム式洗濯機のように、円環のループの中にいたい。
「君の話をゆっくり聞きたいから」、直線的時間が賞賛するようなスピードは要らない。

youtu.beRollin' Rollin' /七尾旅人 × やけのはら 
「KEEP COMIN' BACK」(戻ってきてくれ)というように、時間がループすることを望む。

youtu.beケツメイシ また君に会える
夏が来ると「君」「女神」に出会えるという世界。
「少し大人になって」という直線的時間による影響はあるものの、劣化(デグレ―ション)を認めず、同じような女神が何度もやって来る理想の世界を唄ってる。

youtu.be Vaundy 踊り子
「回り出したあの子と僕の未来が」というのは、永遠回帰の欲望だ。
直線的時間においては、既に別れている。
「止まりどっかでまたやり直せたら」というのも、またループすること、反復することを望んでいる。

PVに出てくる回転ブランコは、人間の永遠回帰の欲望の実現に貢献する仕掛けとして利用されている。
また、ループする時間世界を求める欲望の象徴でもある。

時間を希薄化させるルサンチマン

youtu.be星野源 – Family Song

youtu.be福山雅治 - 家族になろうよ

youtu.be一青窈 - ハナミズキ

youtu.beBOO feat MURO - SMILE IN YOUR FACE

これらの曲は全て、「幸せな時間が永遠につづいてほしい」という願いが唄われている点で永遠回帰ルサンチマンでもあるが、もっと特徴的な点がある。それは「本来、直線的時間の流れで生じ得るトラブルが希薄化されている」という事実だ。
差異や変化のダイナミズムを排除する。

家族をテーマにした曲の場合、妻や夫の不倫などの夫婦仲の脅威、子どもの反抗期や非行、学費が払えない、リストラによって住宅ローンが払えなくなる危機、老後の蓄えが足りないなど、諸々あらゆる懸念事項が、全て排除ないし、希薄化されている。

時間の経過とともに起こり得るトラブルが、「ただ幸せが一日でも多く側にありますように」(family song)、「100年経っても好きでいてね」、「君と好きな人が 百年続きますように」ハナミズキ)、「どんなことも越えてゆける 家族になろうよ家族になろうよ)、「10年でも100年でも君を愛してる」(SMILE IN YOUR FACE)と、不幸な出来事があらかじめ排除された世界が奏でられている。

かつて大ヒットした花花の「あーよかったね」も、この時間の希薄化を行っている曲だろうな。

youtu.be何がよかったのかわからない。
「あなたといること」「二人でいること」という情報しか汲み取れない。

最も謎めいていて、最もスピリチュアルで抽象的なこの曲が、ものすごく売れた時代があった。

それは人間による、残酷な直線的時間やそれに伴うトラブルを希薄化したいという無意識的な欲望、時間の経過とともに起こり得る様々なトラブルから逃避したいという願望によって生まれたルサンチマンに他ならない。

時間を停止・滞留させるルサンチマン

youtu.be椎名林檎 - 青春の瞬き

「時よ止めれ 何ひとつ変わってはならないのさ」と言うように、一瞬の瞬きを神聖化し、直線的時間に抗う。

youtu.beTube - Season in the sun
ストップ・ザ・シーズン・イン・ザ・サン
夏を美化するのはチューブの専売特許であるように、特定の季節で時間の流れを停滞させ、秋や冬が来ないように、この素晴らしい夏が続くようにという願いが込められている。

youtu.beJambo Lacquer "マスヨウニ" 
いつもと変わらない毎日を いつもと変わらない愛にしよう」という、些細な日常を肯定する。変化がなくても、たとえ発展性のない日常が続いても。

youtu.beきっとそれでいい*大橋トリオ
これも、流れる時間のままに過ごし、「誰かと比べたって しかたないし」「僕は僕のままで行こう」等、現状肯定を促す。
時間とともに成長を要求する現代社会とは対照的に、時間が経過してもその怠惰を否定することなく、漂流することも肯定する。

以前、紹介した「ルーザーに奴隷道徳を供給する性質」も備えている。

gyakutorajiro.comこの曲は田口トモロヲ主演のドラマ「植物男子ベランダー」でも流れてた。植物に興じる時間は、直線的時間の日常で被った嫌な出来事を、一時的に忘却させてくれるのかもね。

youtu.betofubeats / トーフビーツ -「朝が来るまで終わる事のないダンスを」
派手で躍動的なクラブの映像から、静寂した夜の都会の映像へ推移している。
真夜中から朝までの映像を描いている。
時間の一つのセリー(区切られた時間)を神聖化し、その時間にダンスによって意識を埋没させ、日常のストレスの顕在化から逃れる。
夜や真夜中を神聖化し、その時間帯に漂流するのは、多くの人にとって昼は、労働やそれに伴うプレッシャーで抑圧されているからだ。
昼=白日とは狂気であり、苦悶の連続だからな。

www.asahipress.com

youtu.be韻シスト/ HOT COFFEE feat.鎮座dopeness&チプルソ(STUDIO韻シスト
これも1つのティータイム、コーヒータイムの時間、区切られた時間を神聖化することで、日常のストレスを抑圧する。

 

youtu.beDJ HASEBE / ROOM VACATION feat. 唾奇 & おかもとえみ
歌詞に「チックタック チックタック 時計の針を止めて」という箇所があるように、「チックタック」という直線的時間は、「バイトもやめた めんどくせえ」というように、労働を強制する資本主義社会の時間の流れの象徴。
それを止めてほしいという男の願いと、そんなダメ男に寄り添っている女の、アンニュイで怠惰な時間が描かれている。
直線的時間が襲う数々の責任から逃れるため、時間が遅延・滞留してほしいという願望が潜んでいる。

時間を逆行させるルサンチマン

youtu.beSTUTS - Changes feat. JJJ
「二度と戻らない今日刻み込む」1分40秒過ぎ~辺りで、映像の解像度が下がり、名古屋の大須の風景になる。
このように、映像がデグレ―ション(退化)するような演出によって、直線的に進行する時間と逆行し、郷愁と追憶の世界に意識を向かわせる。

youtu.be真心ブラザーズ 『ENDLESS SUMMER NUDE』

エンドレスではない通常の「サマーヌード」の方が顕著なんだが。
解像度を敢えて下げることで、古いフィルムで撮影したよう質感を映像に出す。
それによって、スピード感と高解像度に溢れた現代の時間軸から逃れ、その空間とは違うパラレルワールドに浸っているような錯覚を抱かせる。

youtu.bemol-74 - エイプリル
ほぼ全編にわたって、彼女との思い出を解像度を下げて描いている。
「あの日をなぞれば 何となくまた戻れそうになった」と、過去の記憶を美化し、その時間を別世界として愛でたいからだろうか、高解像度の現代の時間から逃走する。
3分40分過ぎ辺りでは、伏見稲荷大社の赤鳥居を逆行して歩いている。

 

youtu.be畠山美由紀 / 海が欲しいのに
3分10秒過ぎ辺りに、急に、古いフィルム撮影のような演出が起きている。動きがスローモーションとなり、現在とは違う古い時間を彷彿とさせる。

youtu.beSTUTS - 夜を使いはたして feat. PUNPEE 
フィルムみたいな朝もやが デジタル化された記憶を浄化していく。
映像のセピア化は、時代からの逆行だ。
「フィルムみたいな朝もや」のような質感によって、デジタル化された記憶、早さを求められる現代の時間軸に抗い、浄化し、過去に意識を馳せる。
また太極拳のじじいがむくり起きる」ように、ゆったりとした時間の渇望、先に紹介した時間を停止・滞留させたいルサンチマンも含まれている。

ライブバージョンのアレンジは、小鳥のさえずりなども含まれ、都会的な直線的時間からの逃走を促すプリミティブな雰囲気が演出されている。

youtu.beSTUTS - 夜を使いはたして feat. PUNPEEFUJI ROCK 21)
 

時間概念が異なる空間に向かうルサンチマン

youtu.beセントレイ
サカナクションの曲だが、長谷川白紙のカバーもよい。
歌詞のテーマが「モラトリアム」という点で、時間に抗っている。
「午前0時の狭間で」「夜間飛行 疲れの 僕は 宇宙」というように、ある時間を契機にして異世界である宇宙に意識が向かってる。
この話は前にもしたな。

gyakutorajiro.comノイズの多い現実の社会、現実の大地から逃走して「僕と君が繋がる世界」という、シンプルな世界を求める。
人間の欲望が渦巻いていない、宇宙のようにシンプルで美しい世界に向かいたい。

www.nicovideo.jp宇宙ハワイ feat.ハナレグミ
セントレイ同様、このようなスペイシーな楽曲はほぼ全て、人間が過ごす社会や地球の時間概念と違う世界を描くことで、リスナーは脱日常感を味わえる。

youtu.be福耳 / 星のかけらを探しに行こう Again

 

youtu.beyanokami — 気球にのって
宇宙まで行かなくても、成層圏とかでもだ。

youtu.beYOASOBI 夜にかける 

この曲は「タナトスの誘惑」という小説に影響を受けているらしい。
タナトスが生じる原因になったのはまさに、資本主義社会からの重圧に他ならない。

実際に「チックタック」という直線的時間が出てくる。
「騒がしい日々」「変わらない日々」「閉じ込めた日々」という社会的プレッシャー、苦しい直線的時間を過ごす日常を示すフレーズが飛び交う。
それゆえ、直線的時間が流れる世界から逃れ、二人だけの閉ざされた時間の世界、究極的にはタナトスの先にある世界に向かいたいと考えている。


こんなところか。
今回紹介したのは一部だ。

一部にも関わらず、こんなにも直線的時間から逃れたいルサンチマンが潜んでいたんだよ。
音楽を聴く意義とは?
そのテーマに言及している記事を最近読んだ。

leoleonni.hatenablog.comポップ音楽を聴くことで、聴き手に何が起きるかを言語化してみるならば、価値観の転倒が起きる、身近な誰か・見知らぬ誰かに想像力が届くようになる、アイデンティティの形成を助ける(あるいは迷子にさせる)、社会に対する見方を変える、たとえばこういう効果があるのではないか。
つまり、多くの人はポップ音楽を聴くことで、差別や表現や人間関係、社会について考えを巡らせるのではないだろうか。逆にいえば、ポップ音楽を聴いた結果、社会への無関心や差別を表明する人がいるのだとすれば、その人は音楽を聴いていない、大事な何かを聴き逃している、ということになる。

この方が述べているように、能動的な意義や目的で聴くケース、能動的でなくても社会問題等を考えるような効果もあるかもしれない。

だが受動的かつ無意識的に音楽が消費される場合、それは上記に述べた数々のルサンチマンの生産と摂取、それによって現実逃避の効能を求める性質も大きい。
もちろん、自らに活力を与えるために音楽を聴く、という場合もあるかもしれないが。

直線的時間の日常に抑圧されて生じるストレスを、音楽に含まれるルサンチマンによって自己肯定に導くため、音楽を消費する。
それゆえ人間は無意識的に音楽を消費し、その点で「No music No life」というのも、あながち嘘ではないかもしれない。
精神安定剤、自尊心の亢進剤としての音楽の消費。

それぞれの音楽が奏でる世界、描く世界に同一化し、癒しを得ている。
その行為自体を否定するわけではない。
だがその曲のことを「チルい」という時、「エモい」という時、時間から逃走しているのも事実だ。

「チルい」ってのは、資本主義社会の日常生活、直線的時間の世界から求められている価値を、転倒する行為だ。
音楽のジャケットに描かれている右肩上がりの文字も、ルサンチマンだ。

gyakutorajiro.comあらゆる音楽に、上記のような、直線的時間の反動形成で生まれた、時間を変質させたり、特定の時間を美化するルサンチマン(奴隷道徳)が散乱している。

すべての「文化(culture)」はある意味で反動形成である。つまり、人間に自然や動物的恒常性との臍帯(さいたい、へその緒)を断ち切らせた不均衡・外傷的核・根源的対立を制限し、水路をつけ、育て(cultivate)ようという試みである。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 はじめに)

フジロックのCMに戻ってみると。
なぜ、渋谷のスクランブル交差点の中心で踊るオッサンは、スーツ姿からラフな格好になるのか?
それは、必要だったからだ。
その文化によって、自分が被支配者であるということ、会社の仕事や責任、資本主義社会から抑圧されている苦渋の日々を抑圧するため、忘却するために。

直線的時間の抑圧の反動形成で、音楽におけるこのようなルサンチマン的な時間が、大量発生している。
それを信仰し、消費し、同一化することは、本当にカッコいいことなのか?
ニーチェが言う末人(ラストマン)ではないだろうか?

もちろん、先ほども述べたが、音楽を否定しているわけではない。
上記に紹介した曲は、俺が好きな曲ばかりだ。

しかし直線的時間を価値転倒しようとしても、それは不可能だし、現実の生活が改善されるわけではない。

消費する側は特にそうだろう。
逃げてるだけじゃねえのか。

直線的時間を恐れるなよ。
現実に目を背けず、現実の時間軸で、生きてみせろよ!!
音楽の世界に没入し、健康に気を払いながら、苦痛と危険を避け続ける末人(ラストマン)でいいのか!?

なんてね、老害のオッサンみたいだけどな。
だけど言わせてくれ。

「チルい」とか言ってるお前も、フジロックのCMをダサいと揶揄したお前も、そうじゃねえのか。

誰かが作った、奴隷道徳が具現化した音楽を聴き、その世界に没入し、従属し続けている末人(ラストマン)になっていないか!?

「チルい」と言ったその瞬間、「エモい」と思ったその瞬間、その感情を抱いた、その理由は、何だ?
気付いてないかもしれないから、俺が教えてやる。
「時間から逃れたい」という願望が、心の奥底にうごめいているんだ。

そしてその願望を満たしてくれる、叶えてくれるルサンチマン(奴隷道徳)を、無意識的に摂取し、信仰しているからに他ならない。

胸に手を当てて考えてみるんだな。

自分が直線的時間に向き合っているかどうかを、エモくてチルな世界に逃げ続けているか否かを、ダサいのかそうでないのかを。

宗教2世を描いた映画「星の子」における父性隠喩とラカン的精神分析

本業で新しい仕事が増えたので、最近忙しい。
まあ食べていくために仕事が増えるのは有難いんだけど、趣味のラカン研究も疎かになりブログ更新の時間確保も難しくなってしまったけど、せめて月1ぐらいは何かを残しておくか。

最近、「星の子」という映画を観た。
宗教2世、信者2世の境遇を描いた映画だ。
あらすじはこんな感じ。



父(永瀬正敏)と母(原田知世)から惜しみない愛情を注がれて育ってきた、中学3年生のちひろ芦田愛菜)。両親は病弱だった幼少期の彼女の体を海路(高良健吾)と昇子(黒木華)が幹部を務める怪しげな宗教が治してくれたと信じて、深く信仰するようになっていた。ある日、ちひろは新任の教師・南(岡田将生)に心を奪われてしまう。思いを募らせる中、夜の公園で奇妙な儀式をする両親を南に目撃された上に、その心をさらに揺さぶる事件が起きる。

www.cinematoday.jp

以下、ネタバレあり。

この映画に出ていた宗教2世の芦田愛菜と姉のまーちゃん(蒔田彩珠)の家庭は、先月話した山上容疑者の家庭とは、少し異なっている。

gyakutorajiro.comそれは「父・母ともに、宗教に傾倒してしまっている」という点。
片方だけではない。

その場合、〈父の名〉の権威はどうなるのか、エディプス・コンプレックスはどうなるのかという話だが。

まず「父がいない場合」について、ジャック・ラカンはこのように述べている。

最初は、あらゆるドラマを産み出すのは、父の存在感の何らかの過剰、あるいは父の過剰であるとつねに信じられていました。それは、恐怖を与える父のイメージが外傷の一つの要素だと考えられていた頃でした。

神経症の場合は、父が優しすぎた場合の方がずっと深刻であることが、すぐに気づかれました。

人はゆっくりとしたしくじりから学ぶことを重ねて、我々はいまや反対側の端におり、父性欠如について議論しています。弱い父、従順な父、屈服させられた父、妻に去勢された父…(中略)…がに股の父、何でもござれというわけです。

それでもやはり、このような状況から明らかにされるものに気づくよう努めて、我々が前進するのを可能にしてくれる最小限の公式を見つける必要があるでしょう。


(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p244)

父親がいない場合でも、「子と母と父」というエディプスの三角形は形成される。

初めに、環境的要素として、父が具体的にそこにいるのかいないのかという問題があります。こうした研究の展開されるべき水準に、つまり現実(レアリテ)という水準に立つとするなら、我々は、父がそこにいない場合でさえもそこにいることが、まったく可能なことであり、考え得ることであり、現実にあったことであり、経験によって触れ得ることであると言うことができます。

我々は既にこのことから、父の役割に関する環境科学的見地からの操作には、いくらか慎重にならなければならないでしょう。父親がそこにおらず、子供が母親と二人だけにされた場合でさえも、まったく正常=規範的(ノルモー)なエディプス・コンプレックス ―― 一方では規範化するもの(ノルマリザン)たる限りで規範的(ノルモー)であり、また正常から逸脱されるものである(デノルマリーズ)限りで、つまり例えば、それが神経症にさせるという効果を持つということによっても正常(ノルモー)であるという、二つの意味で正常=規範的(ノルモー)なエディプス・コンプレックスが ―― 他の場合と正確に同質の仕方で打ち立てられます。


(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p245)

そして父が不在でも「子が母の超自我を乗り越えて、父を自我理想としてエディプス・コンプレックスを克服する」という自我形成もあり得る。

なぜなら、父とは「隠喩」だからだ。
生物学的に血のつながりのある父でなくても機能するケースがある。
それについては後述する。

ラカン理論では、正常な精神状態を神経症としているらしい。
まあ人は誰しも、神経症的なところはあるといえばある。
潔癖だったり、没頭する趣味などがあったり、変なこだわりがあったりね。

kagurakanon.sakura.ne.jpこのような観点から、ラカン精神分析においては、人の精神構造を具体的症状の有無にかかわらず、神経症圏、精神病圏、倒錯圏のいずれかに分類する。ラカン的な意味での「いわゆる一般人」というのは「症状が顕現していない神経症者」ということになる(現代ラカン派では異論もある)。

つまり、ラカンの理解からいうと、エディプスコンプレックス=〈父の名〉の有無は精神病圏と神経症圏を分かつ重要なメルクマールとして機能するのであり、エディプスコンプレックスとはむしろ「引き起こされなければならないもの」とさえいえるのである。

しかしこの映画のように、母と父が同じ価値観を共有していた場合はどうなるのだろうか。
ラカンは父性欠如についての話の中で、以下のように述べている。

父の欠如の問題は、再考に値します。しかし、非常に流動的な世界に入って行きますので、どういう点で探求が誤りを犯しているかを理解させてくれるような、一つの区別をここで行う必要があります。

この探求が誤りを犯すのは、それが見出すもののせいではなく、それが探しているもののせいです。私は、この探求には方向性の誤りがあると思います――問題はあるけれど混じり合うことのない二つのもの、つまり規範的なもの(ノルマティフ)としての父と、正常なもの(ノルマル)としての父が混同されているのです。

もちろん父は、自分自身が正常でない場合には、非常に規範を逸脱させるものであり得るわけですが、それは父の――神経症的であれ、精神的であれ――構造の水準で、問題を投げ出してしまうということです。つまり父が正常であるということと、家族のなかでの彼の位置が正常であるということは、別々の問題なのです。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p246)

つまり「規範的なものとしての父」と「正常なものとしての父」というものがあるとのことだ。
そしてエディプス・コンプレックスの克服を行う父は「規範的なものとしての父」であり、神経症的で、子どもと母親の接近を禁じ、父への同一化を促す。

逆に「正常なものとしての父」は、母と子どもを最大限に尊重する優しさを持つ一方で、子どもに規範を押しつけることなく、精神病的なリスクを抱えている。
そのリスクとは、先日も話をした母親の欲望の暴走、母の超自我による支配だ。
「正常なものとしての父」の場合は、母親を抑えつけることができないかもしれない。

もちろん、逆もあり得る。
父のみが宗教に傾倒し、それを母親と娘に強要するといったケースの場合、父の超自我による支配だ。
女児にとって、父親のファルスを超える対象に遭遇しなければ、支配からの脱却は難しいかもしれない。

以下の宗教2世の方の体験談(3-1~3-4)においても、家族とは別の彼(理解のある彼くんってやつ?)の存在によって離脱できたという話がある。

つまり、父であろうが母であろうが、自我理想を形成するにはエディプス・コンプレックスの克服が望ましいが、母と父が同じ価値観を共有し、同じ宗教に傾倒していた場合。母もしくは父の超自我の内面化によって、宗教を信仰する自我理想が形成されてしまう可能性が高い。

父とは象徴的なものだ。

そこで、当然ながら皆さんはこうおっしゃるでしょう。――「父とは、象徴的な父です。あなたは既にそうおっしゃったではありませんか」――確かに、それはもう十分に申し上げましたので、今日はくり返しません。今日は、象徴的な父という概念にもう少し正確さを与えることを申し上げます。それはこうです――父とは一つの隠喩なのです。

 

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p255)

ラカンは、父とは現実の父以外にも置き換えられるシニフィアンだと述べる。

では、隠喩とは何でしょうか。すぐにそれを申し上げて、この表に書くことにしましょう。そうすれば、表の厄介な帰結を修正することができるでしょう。既に説明したことがありますが、隠喩とは、別のシニフィアンの場所にやって来ている一つのシニフィアンのことです。ある人たちはこれを聞いて面食らうに違いありませんが、私は、それこそがエディプス・コンプレックスにおける父であると申し上げます。

正確に言うと――父とは、別のシニフィアンの代わりに置き換えられた一つのシニフィアンです。ここに、父がエディプス・コンプレックスのなかに介入してくる、その原動力、本質的な、独特の原動力があります。父性欠如は、この水準に求めるのでなければ、他のどこにも見つからないでしょう。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p255)

宗教に傾倒する母の超自我の場所に、父がやってくる。

エディプス・コンプレックスにおける父の役割とは、象徴化のうちに導入された最初のシニフィアンつまり母性的シニフィアンの代わりに置き換えられた一つのシニフィアンである、ということです。


皆さんに隠喩の定式として一度ご説明したことのある定式に従えば、父は、母の場所に[=母の代わりに]やって来ます。
SがS'の場所にやって来るということですが、このS'とは母であり、この母は、xであるような何か、つまり母との関係におけるシニフィエと、既に結びつけられています。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p255)

父がやってくれば、母は消えるだろうか。
ラカンは「消えてしまうこともある」と言う。

それは行ったり来たりする母です。母が行ったり来たりすると言うことができるのは、私が、既に象徴的なもののなかにとらえられた小さな存在であって、象徴化することを学んだからこそです。

言い換えれば、私が母を感じようとなかろうと、世界は彼女の到来とともに変化しますし、消えてしまうこともあります。


問題はこうです――シニフィエとはどんなものなのか。母は何を望んでいるのか。彼女の望んでいるものが私であればいいのですが、彼女の望んでいるのは私だけではないというのは明らかです。彼女に働きかける何か別のものがあります。彼女に働きかけるもの、それがxであり、シニフィエです。そして、母が行ったり来たりすることのシニフィエ、それがファルスです。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p255-256)

彼女が望んでいる物、母親の欲望は、子どもだけではなく、宗教団体への献金もあり得る。それがファルスとして機能し、家庭を支配することもある。

しかし隠喩的な父(父性隠喩)が機能した場合、例えば上図におけるSとして、S'の母を押さえつける対象が存在すれば、母親の欲望であるx(宗教)を消去できることもあり得る。

子どもは、S(1/s')という、母親の欲望はs'は分母として残留することはあるが、父性的なS(Subject)の力によって抑制される。


映画においては、母と父は同一の価値観を持っていたため、S'は母と父の両方であり、Sは叔父(大友康平)や岡田将生だ。
芦田愛菜は、母と父と同じように、宗教を信仰し、教義を守り、宇宙のエネルギーが注入されている水を飲んでいた。

しかし姉は、母と父とは別の審級、例えば学校における同級生や、大友康平が演じる親戚の叔父さん等の〈他者〉と出会うことで、価値観や自我の変容を迫られる。

他者のシニフィアンの影響を受けて、〈他者〉との大きく逸脱した価値観を両親を異常視する自我が芽生え、遂には家出してしまう。
上記の公式がそのまま成り立った。

妹における芦田愛菜も同じような道を辿りそうだった。
しかし辿らなかった。

映画が進むにつれ、姉と同様に両親の異常性に気付き始める。
最も大きいのは、愛する対象だ。
数学の教師、岡田将生が演じる教師の南の魅惑的なルックスに惚れ込み、授業中に似顔絵を描き続ける。

つまり欲望のグラフ第3図における「汝、何を欲するか?」において、対象aの位置に、南がくる。
欲望のグラフ第3図については、以前書いたこの記事がわかりやすいか。

gyakutorajiro.com第3図は要求と欲望の裂け目であり、自我が危険な状態である。

世間は宗教に白い目で見る。

南は、自動車で芦田愛菜を送迎したが、「待て!あそこに変なのがいる」と、宇宙エネルギーの水で湿らせたハンカチを頭に乗せている両親を、変質者のまなざしで見る。

その「宗教に傾倒するやつは受け入れられない」という要求に遭遇し、芦田愛菜の南への欲望は、その達成の困難を深く認識し、夜の町を涙を流しながら疾走する。

第2図において、両親が宗教でも平穏な日常を過ごせていた。
しかし両親の超自我を超える欲望の対象、対象aの出現によって、第3図への突入を免れることはできなかった。

どうなったか。

それはラストシーン、親子3人で星を観るシーンにあるように「現状の受容」だ。
岡田将生には、自動車での送迎の後も、教室で罵倒された。

withnews.jp徹底的に両親を否定された。
また、その前には叔父さんの家庭から「高校はうちから通わないか」という提案を受けて、両親の超自我の支配から、芦田愛菜を解放してあげようという提案も行った。

しかしそれでも、芦田愛菜はその提案を拒む。
姉のように両親を見捨てず、両親のそばにいることを伝える。
欲望のグラフ第4図、象徴的同一化を達成する。

確かに、世間からは白い目で見られるし、差別される。
かといって両親は優しいし、私も両親を愛する気持ちを捨てることはできない。

それゆえ第4図における"$◇a" [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]の幻想を作る。
その幻想は「宗教には疑問はあるけど、両親を見捨てることはできない」というものだ。

もし、大学生や大人になれば、この幻想は変容し「両親から宗教を取り上げるのは無理なので、別居して距離置きながら自分は過ごそう」というものに変容して、象徴的同一化に至るかもしれない。

両親の意志を尊重するなら、その方が幸せかもしれない。


しかし山上容疑者は違った。
母親が信仰している、(宗教)から引き離すためだったのかは知らないが、行動を起こした。
それは許されざることではある。
母親を救うのであれば、別の方法があったのではないだろうか。

できるなら、この「「親の宗教」に20年囚われた女性が語る壮絶過去 」に出てくる女性のように、母親の価値観を否定してでも、母親と戦ってほしかったな。

toyokeizai.net「うちの子が赤ちゃんのとき、母親が無意識に『儀式』をしようとしたんです。子どもの健康にいいと思ったんでしょうけれど、私が『それはちょっと嫌だから、やめてほしい』とはっきり言ったら、受け入れてくれて。それも大きかったと思います」

カウンセリングに通っていた頃、道子さんは母親とさんざん電話で「バトル」をしたそうですが、母親は少しずつ道子さんの話に耳を傾けてくれるようになっていました。おそらくそれで、母親への信頼が戻ってきたのかもしれません。