逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

オタ活での現実逃避が出来なくなった30代の精神分析

弱者女性論についての話、20ブクマ超えてくれた。

gyakutorajiro.comコメントもいくつかいただいて、それに回答する形でまた記事にするかな。

id:minominofx66 さん まずは「本当の意味でのブスな女性が活躍する物語」を漫画なりアニメなりで作って流行らせるしかないと思う。 2022/06/23 

っていうコメントがあったから、この記事の後も、喪女の実存っぽいものを描いたコンテンツを探してみたんだよ。
でもやっぱり、女性向けコンテンツは、男性に愛される造形をしている主人公が多いよね。

「青に、ふれる」も、可愛い女性としての造形を残してる。

www.oricon.co.jpしかし「いつにも増してブスな気がする」は、男性に愛される造形で描いていない。
これこそ山田花子の漫画のように、徹底的に現実を切り取り、弱者女性の実存のロールモデルを提供してくるのではないだろうか?

ddnavi.com女性の理想や憧れ、同一化対象にはなるのは厳しいか。共感はできるかもだけど。id:amaikahlua さんには、「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」(ワタモテ)という漫画を教えてもらった。

2巻まで読んだ。めちゃくちゃ面白い!
女性の性欲をかなり赤裸々に描いてる。

リア充女子高生に憧れてるのに、2巻の「喪16:モテないし挽回する」で、小学生に混じって遊戯王みたいなカードゲームでデュエルしてるとことかよかった。
デッキケースをいとこに「変な入れ物」とか言われてw

でも笑えるだけではなくて、哀愁もあって。
喪女の葛藤、辛み、リビドー(性的衝動)が達成できずに欲求不満を抱く感じとか、すごくいい。

(引用元:私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!1巻 [ 谷川ニコ ]



(引用元:私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!2巻 [ 谷川ニコ ]

最強伝説黒沢」の初期みたいな、ノワール的な雰囲気だ。

(引用元:最強伝説黒沢 1 [ 福本伸行 ]

「結局・・・入ってねえのかな・・・数に・・・
くそっ―・・・!
なんか・・・みじめだひどく・・・一人がみじめなのではなく・・・
この人恋しさがみじめだ(ハァ・・・ハァ・・・ハァ・・・)」

最強伝説黒沢の1巻の、この、職場仲間の誰からも飲み会に誘われずに一人で帰宅するシーン。満たされない欲求不満が怒りとなり、どうしようもない将来への悲観と諦念も入り混じり、その感情の昂りとともに血液が逆流して「ハァハァハァ」と動悸・息切れを起こして涙腺から涙が滴る中年男性のエレジー、リアリズムの極致だ。

ただこの漫画は、巻を重ねていくごとに、初期にあった40代の独身弱者男性の哀愁みたいなのを描く文学性みたいなのは減っていって、派手な出来事が起きたり漫画的になっていくんだけどね。


「ワタモテ」も、もしかすると、巻を重なるごとに、そうなっていくのかな。
もしそうなら、真の喪女としての実存を描いたコンテンツには成り得ない気がする。

弱者女性が結局、クイーンビーに接近して強者女性化していくってことは、それを消費する弱者女性にとっての願望充足、リアリティが乏しい空想を信仰していることになる。ルサンチマンから生まれた夢物語に自分を投影して同一化し、一過性の喜びに浸っていることになる。もちろんそれは、悪い事ではないんだけど。

海外でも人気だったみたいだ。

nlab.itmedia.co.jpそれが気になるところだ。つまり巻が進めば、クラス内でも溶け込んでいくのかな。
海外人気があるということは、陰キャのナード(Nerd)が、カーストを上がっていく物語の構造が含まれている可能性がある。

アメリカの高校社会のスクールカーストは、下記のようなピラミッド構造で構成されています。


(画像引用元:Queen | 留学くらべーる

Nerd(ナード)は、3軍のGeekギーク)・Goth(ゴス)・Brain(ブレイン)の総称らしい。

だからよくあるような、喪女であるターゲットとかギークが、サイドキックスやクイーンビー等のカースト上位の同性に接近したり仲良くなったり、ジョックとか取り巻きのプリーザーとかと仲良くなったりして、喪女がリア充化していく物語。

君に届け」だとか「できそこないの姫君たち」みたいな。
非モテ男性の場合は「いちご100%」だとか「はじめてのギャル」みたいな、ナードがクイーンビーを手に入れる物語。
少し違うが「社畜と少女の1800日」みたいな、美少女が来訪して非リアがリア充になる物語。

そうなると結局、さっきも言ったが、それを読む読者は少なからずルサンチマンを抱いていることになる。自らの日常の欠如を満たすために、空想的構築物によってその穴埋めをしている。

そうじゃねえだろ。

そもそも「クイーンビーやジョックが仲良くしてくれる」という前提が、幻想であり、夢物語よ。
山田花子の漫画ならそんな虚構は描かれない。
学校では、カーストは固定化され、常に教室の隅で机に突っ伏している厳しい現実が続く場合が多々ある。

その辛い現実を抑圧するために、ルサンチマンが具現化したコンテンツに逃げてしまう。

ルサンチマンによって、放棄するのではなくて。

家なき子」で、クイーンビーの榎本加奈子に立ち向かったターゲットの安達祐実、「人間・失格〜たとえばぼくが死んだら」において、ターゲットにされた堂本剛を凄惨ないじめで自死に追いやったジョックやプリーザーの生徒たち全員に復讐する赤井英和こそが、力への意志であり、矜持ある人間としての実存ではないだろうか。

もちろんドラマの赤井英和の行為は、リアルにやったらダメだけど。


三島由紀夫は、大江健三郎の「個人的な体験」という小説を、「これではプロデューサーにハッピー・エンドで終わらねばならぬと言いふくめられた監督のようだ」と痛烈に批判したらしい。

amaikahlua.hatenablog.com

大江健三郎の「個人的な体験」の父親は、家族によって夢を諦めたのであれば。

それは「家族がいるんだから、父親としての自覚を持たないと」といった、巷にあふれる父親のロールモデルに同一化し、子どもや子育てを、夢を諦めることを正当化するルサンチマン(奴隷道徳)として利用している。

「個人的な体験」は、FUNKY MONKEY BABYSの「ヒーロー」的な、支配的で望ましくありふれた父親のロールモデルに同一化し、自分が本来、希求していた実存への力への意志を失い、放棄したんだ。

まあ大江健三郎のこの本はまだ読んでないから、結論を出すのは早計だけど。

別に決して「父親になることはルサンチマンの信仰」と言っているわけではない。
子育てや父親になることを理由にして、それで本来の目標を諦めた自分を正当化するのが、ルサンチマンの実践だという話。
まあ別にいいんだけどね。このサイトでは、ルサンチマンを決してネガティブなものとは捉えてないし。

だけど、幻想の信仰が、ルサンチマンの実践が、機能不全に陥る時が訪れる。
それが、30代だ。

こんな漫画を見かけた。

【続編あり】生涯オタクのつもりが… 漫画『36歳で突然漫画やアニメにはまれなくなった話』が刺さりすぎると話題に 

togetter.com

一秒さん(ichibyo3)って人が書いた漫画だ。

twitter.comこの漫画の中に、オタ活女子に対し、リアルな現実を通告する残酷なシーンがある。
先に結婚して2児の母になった妹は、こう告げるんだ。

ほとんどの漫画やアニメは10代・・・せいぜい20代が主人公でしょ 年をとれば色々あるし・・・共感出来なくなって当然じゃん?

山田花子の漫画に、こんなシーンがある

(引用元:からっぽの世界 [ 山田花子 ]

存在があやうくなるとタレント等に同化し自我(アイデンティティ)を守る。

まさにオタ活女子やサブカル女子、オタクやサブカル男子がやっていることではないだろうか?

自分の場合も、漫画や映画や音楽や小説等のコンテンツを消費してるだけで、ただの消費者であるにも関わらず、文化人気取りの勘違いナルシスト野郎になっていたり、コンテンツの世界観に同一化して自分のネガティブな感情をルサンチマンによって抑圧していた。

ルーザーに足を踏み入れているにも関わらず、奴隷道徳の信仰によって、ルーザーであることを隠蔽していたんだ。
それに気付いたのは30代を過ぎてからだった。
からっぽの世界だった。
自分が信仰してしたものを失い、自我が崩壊していくときの絶望感。

敬愛するアイドル声優の成海瑠奈の正体を知った時、追いかける対象を喪失した男性も、意識が混濁し、自我が崩壊して分裂していくような感覚を味わったかもしれない。

note.comオタ活にハマれなくなった女性も同じではないだろうか。
自分が愛していた、信仰していたコンテンツに、年齢を重ねるとともに、同一化できなくなっていく。

ストーリーのパターンや展開に、無意識的に類似性を見出してゲシュタルト化してしまうとともに「もっとすごいコンテンツを!」を、際限なく欲望の水準を上げてしまう。
しかし遂に、市場の供給物で、自らの欲望を充足させることができなくなる時が訪れた。

精神分析のアプローチに入ろう。

10代、20代の頃は、ジャック・ラカン精神分析における欲望のグラフ第2図のように、オタ活コンテンツに同一化できていた。

(画像引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]

例えば「イケメンの彼氏が欲しい」というi(a)、理想の自分、目標とする同一化対象、理想自我を求める想像的同一化がうまくいかない場合でも。

漫画やオタ活コンテツのSignifiant(シニフィアン)によって満足し、「まあ生涯、現役でオタ活を楽しむぞ!」というs(A)の意味作用を手に入れ、I(A)の象徴的同一化がうまくいっていた。

しかし30代半ば。なぜか感動できない。どうしてだろう。
妹の一言もリフレインしているのではないだろうか。

もし・・・もうハマれないならそんな人生・・・無じゃん

でも大丈夫だった。友達のキヨちゃんが救ってくれた。

キヨちゃんによれば、仕事などの疲れによる「リソース不足」、主人公との乖離の拡大によって「共感出来なくなる」、どこかで見たことがあるようで「単純に飽きる」が理由らしい。

しかしキヨちゃんがなんと。

ごめん次あるんや ちょっと ドレス見にな

オタ友達のキヨちゃんが・・・結婚してしまう・・・。

ここで主人公が「ドックン」「ドックン」と、心臓の鼓動が早まり血液が全身を駆け巡り体温が上昇した時、ラカンの欲望のグラフ第3図「汝、何を欲するか?」という、要求が自我に及ぶ契機が生じている。

第3図では、妹とキヨちゃん、2人の既婚者というシニフィアンの影響を受け、欲望のグラフ第2図の同一化のようには収斂せず、自らが求める対象(対象a)が、「生涯現役でオタ活を楽しむ」というものから、「オタ活以外の何か」に変貌する。

シニフィアンが意味を持ち始める。

ロビンソン・クルーソーが島を歩いているときに発見するフライデーの足跡は、シニフィアンではありません。これに対して、ロビンソンが何らかの理由でこの足跡を消してしまうとすると、そこにはっきりシニフィアンの次元が入り込んできます。人がそれを消し、それを消すという一つの意味を持つときから、痕跡を残したものは、明らかにシニフィエとして構成されます。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p140)

10代、20代、一緒にオタ活を楽しんでいたときは、誰かが結婚しようが気にしていなかった。しかし30代。
2人の結婚という、精神に侵入したシニフィアンの痕跡は、10代や20代の時に侵入されたシニフィアンの痕跡とは違う。潜伏期間が終わり、その痕跡は活性化し、重大な疾患をもたらす。

「オタ活以外の何か」という変貌した対象aは、すぐには手に入れることができないがゆえ、主人公は"$◇a" [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]の疎外状態に追いやられれる。
対象aを求めて続けても、◇(疎外)され、斜線を引かれた主体$、理想とする自分の自我の状態、自己実現ができず、安定した自己同一性が保てない状態に陥る。

ブランコで一人、辛い現実をかみしめる。
自ら求めいた欲望の対象が、変わってしまった。
自分が愛していたはず対象aを、「無意味だった」と、否定してしまう。
鬱状態へと近づく。

第3図の欲望のグラフは、悲劇的な結末を迎える。それについては「ホスト遊びにハマる女性の精神構造をラカン的精神分析で解説」の記事でも説明した。死の欲動に接近する危険性があるからだ。第4図にいけたらまだいい。

そしてこの感覚、この女性だけでもないかもしれない。

30代後半の独身男性、俺もそうだ。
だから今、多くの文化の背後にルサンチマンが見えてしまって、コンテンツを愛せなくなりつつある。植木等山下達郎玉置浩二・・・音楽も、ほとんど全てだ。全てにルサンチマンがある。

結局、人間は理性ある存在であるかもしれないけど、動物的存在でもあるんだよな。

リビドーの対象を、人間ではなく物質に向けたとしても、やっぱり「遺伝子のコピーを増やしなさい」という、理性ではコントロールできない本能的で生物学的次元の要求がある。

もちろん人間には、ジーン(子孫)を残したいという本能だけでなく、ミームを残したいという欲望もあるという説もある。

www.gpc-gifu.or.jp 実は前出のドーキンスは、ヒトの行動には子孫を残すという目的からは説明が困難なものもあると認めている。例えばホモセクシャルのヒト、独身主義のヒトは子供を残さないので、こうした行動は次世代に伝えられることはないのだろうか?ヒトは生来持っている能力よりも生後に習得する能力の方が圧倒的に多い。染色体上の遺伝子は子孫に伝わらなくても、発明発見をする、本を書く、絵や音楽などの芸術作品を残す、などによって、個人の創造物を文化として子孫に伝達することは可能である。ドーキンスは、ヒトに独特の文化の伝達単位として、ジーン(遺伝子)に対して、ミームという概念を提唱している。ミームは遺伝子とよく似ている。同じようにヒトからヒトへ伝えられることによって自己複製をし、多少の突然変異を起こすこともあり、あるものは選択を経て滅び、あるものは長く生き残る。つまり他の生物と違ってヒトという「生存機械」には、ジーンだけではなくてミームも乗っているのである。ヒトにとって自分の考えを世間に広めたり、作品をつくったりすることは、子供を育てるのと似た喜びをもたらす。自分の子供には自分の遺伝子は半分だけ伝わる。数百年後の世界において、自分の遺伝子セットが果たしてどのくらい存在しているのかは定かではない。もしあったとしても、多くのヒトの遺伝子と混じり合い、断片的に存在しているにすぎない。一方ミームの場合は、作品や書物として、後世に自分の存在をそのまま残すことができる。マスメディアを媒体とすれば、遺伝子を残すよりもはるかに多くのヒトに影響を及ぼすこともできる。遺伝子よりもミームの価値を重んじるヒトがいても不思議はないかもしれない。

だけどやっぱり、人間のリビドー(性的衝動)は、人間によってしか満たすことはできないかもしれない。

アンデルセンだって、素晴らしい童話の数々、船橋アンデルセン公園など、たくさんのミームを次世代に残した。
しかしそれはアンデルセンが、女性にモテず、生涯独身者として、自分のリビドーを受け止めてくれる人間が不在だったいうのもあるだろう。

mujina.hatenablog.com自分のジーンを残せないがゆえの、悲しき反動形成によって生まれたミームだ。

でもアンデルセンはましだ。
ミームを残せた。

ジーンもミームも残せない、弱者男性や弱者女性は、どうすればいいのか?

ミームしかないのかもしれない。

先ほどの問いの回答とは矛盾しているが、「ミームを残そうとする力への意志」まで捨ててしまうと、本当に「無」になってしまうのではいか。
ただ生きているだけの人間。そこに実存はない。

(引用元:「最強伝説 黒沢 3 [ 福本伸行 ]」)

人間は、動物と違う・・・!
決定的に違う・・・!
生きてりゃいい・・・生きてりゃ十分なんて・・・
誰が思うかよ・・・!

理想があるんだよ・・・・・・!
みな・・・!
みんなそれぞれ理想の男像・・・・・
人間像ってのがあって・・・
そういうものを・・・

目指すから人間だっ・・・!

もちろんアンデルセンのような、ミームは無理だろうが。
何か生きた痕跡ってのを、残しておきたいよね。

金曜日が嬉しくて月曜日が憂鬱な理由をドゥルーズとガタリの脱領土化・再領土化・領土化の概念で解説

昨日は金曜日だったから、電車に乗った時、みんなの表情筋が少し緩んでいるような気がしたね。

やっぱり金曜日は美しい。仕事のプレッシャーから、一時的かもしれないが開放される歓喜に町が満ち溢れている。
柳楽優弥が金麦のビールを飲んでいるのも、金曜日じゃないのか。


金麦も、"金"っていう言葉入っているように、金曜日のシニフィアンから生まれるポジティブなシニフィエの力を利用しているのかもな。
犯罪発生件数も、金曜日は少ないんじゃないの。

ではなぜ金曜日は素晴らしいか。

そこで参考になるのは、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの著作「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」だ。この二人の著作は、資本主義の正体に緻密に迫ってる。

そしてこれらの本には「脱領土化」「再領土化」「領土化」という言葉が頻繁に出てくる。
とりわけ最も出てくる言葉は「脱領土化」だ。
脱領土化を把握することで、再領土化と領土化も浮き彫りになる。

これらの概念は、欲望と欲動と欲求の違いとともに、資本主義だけでなく人間の無意識を探る上でも、ドゥルーズガタリが生み出した非常に重要な概念だ。

というわけで、これらの概念に迫っていこう。

千のプラトー」に、このような一節がある。

チャレンジャー教授、あのコナン・ドイルでおなじみの、地球を機械で責めて唸り声をあげさせたチャレンジャー先生が、例によって猿顔負けの気まぐれさで地質学や生物学の概説をあれこれミックスして、講演を行った。教授の説明によれば、この大地――脱領土化された世界、大氷河、一巨大分子としての地球――は、器官なき身体そのものである。

この器官なき身体は、まだ形をなしていない不安定な物質や、あらゆる方向の流れに縦横に貫かれ、自由状態の強度や放浪する特異性、狂ったような移行状態の粒子がそこに飛び交っている。だが、さしあたっていま問題なのはそのことではない。というのも、このとき同時に地球の上に、ある点ではありがたくもあるが他の多くの点では遺憾ともいえる、きわめて重要かつ不可避な一つの現象が起きている。すなわち地層化という現象である。

地層はまさに「層」であり、「帯」であって、その本質は、物質に形を与え、共鳴と冗長性にもとづく安定したシステムのうちに強度を閉じ込め、特異性を固定して、地球というこの身体の上に大小の分子を構成し、それらの分子をさらにモル状の集合体へと組み入れていくところにある。地層とは捕獲であり、いわば「ブラック・ホール」であって、圏内を通過するいっさいのものを引き止めようとする閉塞の現象なのだ(1)。

地層は、この地球の上でコード化と領土化によって作用する。コードと領土性を両輪に進行する。地層は神の裁きであり地層化全般は、まさに神の審判の体制そのものなのである(だが大地あるいは、この器官なき身体は、どこまでも裁きを逃れて逃走し、地層化を脱して、脱コード化し、脱領土化しつづける)。


(1)Roland Omnes, L'univers et ses metamorphoses,Herman, p.164.「臨海半径以下で崩潰した星は、ブラック・ホール(吸蔵天体)と呼ばれるものになる。この表現が意味しているのは、そのような物体の方へ送り出されるものはもはや何一つそこから再び出てくることはできないということである。それゆえそれは完璧に黒色である。いかなる光も放射せず反射しないからだ。」

(引用元:千のプラトー 資本主義と分裂症 [ ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ ] BC一〇 〇〇〇年――道徳の地質学(地球はおのれを何と心得るか))

チャレンジャー教授は、アーサー・コナン・ドイルの小説に出てくる人らしいね。

www.webmysteries.jp器官なき身体については、「痴漢行為者や未遂者の意識は「社会的機械」による器官の組織化と「器官なき身体」の闘いの狭間で悶絶する」という記事の方が詳しく説明している。

gyakutorajiro.com器官なき身体は、分かりやすくいえば「器官の組織化が行われる際に生じるそれに抵抗するパワー」みたいなもんだ。


また、上記で引用したように、領土化というのは、無秩序な状態から地層のようなある安定した分子構造へと有機化する運動のようだ。
しかしこの領土化に対し、これに抵抗する脱領土化があるようだ。


では、脱領土化とは何か。
このような一節がある。

ルロワ=グーランの分析から出発して、われわれは、どのようにして内容が手-道具という対に結びつき、表現が顔面-言語、顔-言語という対に結びついてるかを理解することができる(23)。

手は、ここでは単なる器官と見なされてはならず、一個のコード化作用(指によるコード(デジタルコード))、活動的な構造化、活動的な形成(手による形式、あるいは手による形式的特徴)と見なされねばならない。内容の一般形式としての手は、道具においてみずからを拡張するが、道具はそれ自体活動中の形式であり、形式化された質料としての実質をともなう。

そして最後に、生産物は形式化された資料、または実質であり、今度はそれが道具として役立つことになる。手による形式的特徴が、地層にとって構成の統一性になるとすれば、道具や生産物の形式と実質の方は、傍層と上位層として組織化され、この傍層と上位層はといえば、それ自体、真の地層として機能し、人間集団におけるもろもろの非連続、断絶、交通や伝達、遊牧性と定住性、多様な閾と相対的な脱領土化速度を示すのである。

なぜなら、内容の形式的特徴または一般的形式としての手によって、われわれはすでに脱領土化のある大きな閾に到達し、それを開放することになり、比較されるさまざまな脱領土化と再領土化の機動的な作用そのものを、それ自体で可能にする加速器が作動し始めるからである――まさに、有機的な基層における「発達の遅れ」の現象こそが、こうした加速を可能にするのだ。

手はただ単に脱領土化された前肢ではない。自由に使える手は、物をつかみかつ移動するための猿の手に比べて脱領土化されているのである。他の諸器官の相乗的な脱領土化を考慮に入れること(例えば、足)。また、もろもろの環境の相関的脱領土化をも考慮に入れること――草原(ステップ)は森林よりも脱領土化された結合環境であり、身体と技術に脱領土化の選択的圧力をかけてくる(手が自由な形態として現れ、火が技術的に作り出せる質料として現われうるのは、森林においてではなく、草原においてである)。
そして最後に、もろもろの補完的な再領土化を考慮に入れること(手を補償して、草原の上に実現される再領土化としての足)。こんんなふうにしてさまざまな有機的、生態的、技術的地図を作ること、それを存立平面の上に広げること。

(23)Andre Leroi-Gourhan,Le geste et la parole,technique et langage,Albin Michel,p.161.

(引用元:千のプラトー 資本主義と分裂症 [ ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ ] BC一〇 〇〇〇年――道徳の地質学(地球はおのれを何と心得るか))

そうだよな。人間が作る手によって、人間は料理をするときは包丁を使うし、プログラミングをするときはキーボードを使う。
生産物である料理やシステムは、社会を覆う地層として機能してるだろうし。

発達の遅れ、というのも、まあ確かにそうか。

猿、オランウータン、チンパンジーの手の方が、筋力がある。
人間の脳は筋肉の退化と引き換えに進化したって話もあるように。

natgeo.nikkeibp.co.jp吉野家に行けば、自分が手を使わなくても金を払えば店員さんが牛丼を出してくる。脱領土化によって加速器が作動しているとも言えるな。

相関的脱領土化、確かに文明において火器が発展していくとともに、森林は草原化していき、加速器の作動による牛丼の自動提供にも見受けられるように、人間の手も自由になっていってるかもね。

omizu-water.hatenablog.comやがて硝石そのものや硫黄が燃焼剤として使われるようになり,10世紀以降,五代十国の分裂から宋王朝(940-1279)による再統一の過程で火器が発達していきます.この頃開発された火器には火薬の推進力で飛ばす「火箭」,火薬を中に入れた「火毬」などがあります.

何となく脱領土化がつかめてきただろうか。
ドゥルーズガタリのこの箇所は、この「Trois problèmes. L Espèce, l Instinct, l Homme」という本に影響を受けたらしい。

www.abebooks.comフランス語全くわからないから知らないけど、「千のプラトー」の原注によると、

「自らの森を離れ、発達が抑制され、小児的になって、類人猿は自由に使える手と柔軟な咽頭を獲得したにちがいなかった」


「森は猿を生み、洞窟と草原(ステップ)が人間を生んだのである」

って書かれてる箇所があるんだって。進化生物学の本かな。

最後に、再領土化だ。

・・・他のあるものは、もろもろの飛び地をなしているが、その復古主義はまさに現代のファシズムを養いうるとともに、革命的なエネルギーも引きだしうる(小数民族、バスク地方の問題、アイルランドカトリック教徒、インディアン居留地)。

またあるものは、脱領土化運動の動向そのものの中で、あたかも自発的に形成されるかのようである(街路の領土性、団地の領土性、「徒党」。)
また別の領土性は、たとえ、国家に反逆し、国家に深刻な問題をつきつけることはあるとしても、国家によって組織され優遇される(地方分権主義、ナショナリズム)。

ファシズム国家は、おそらく、資本主義における経済的政治的再領土化の最も幻想的な企てであった。ところが、社会主義国家もまた、それ自身の小数者やもろもろの領土性をもち、そこれらは国家に対抗してみずからを再編成する場合もあれば、逆に国家によって作り出され組織される場合もある(ロシアのナショナリズムや党という領土性。つまり、プロレタリア階級は、人工的な新しい領土性を基盤としてはじめて、自分を階級として構成することができた。これと併行して、ブルジョワ階級は、ときには最も古代的な形態において自分を再領土化する)。いわゆる〈権力の人格化〉は、いわば、機械による脱領土化を裏打ちするひとつの領土性なのである。

現代国家の機能が、脱コード化し脱領土化した流れを調整することであるということが真実なら、再領土化を行うことによって、脱コード化した流れが社会の公理系のあらゆる末端から逃走しないようにすることである。

資本主義国家がそこに存在して、資本の流れを地上にとどめないとすれば、資本の流れはやすやすと月まで移送されてゆくことになるであろう。ときにはそんな印象までもつことさえある。例えば、融資の流れの脱領土化がある一方、購買力と支払い手段とによる再領土化が行われる(これは中央銀行の役割である)。あるいは中心から周辺に進む脱領土化の運動は、周辺の再領土化をともなう。これは、ときには社会主義あるいは国家的資本主義といった現代的形態において認められることである。極限においては、脱領土化と再領土化を区別することは不可能である。二つは相互に入り組んでおり、あるいは同じひとつのプロセスのいわば裏表のようなものなのである。

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』 第三章 未開人、野蛮人、文明人(承前) 第一〇節 資本主義の表象

団地の領土性、確かに国家の領土性とは別にあるだろうな。回覧板とか団地特有のルールとか。佐野史郎の限界団地、観たいけど廃盤になってそうだ。

融資の流れの脱領土化は、金利の引き下げだな。
金の流れを活発にする。
競争が激しくなり、物価が上昇する。

www.boj.or.jpそれに伴い購買力が下がるので、金利を上げる(再領土化する)。
しかし辛坊治郎が言うように、金利を上げると国家の借金返済の金利負担が増える。

news.yahoo.co.jpマンションの実質価格が上がって、マンションの購入は冷え込むだろう。
衣食住において、より大きな資本の流れ、資本の最大化を期待できる業界、すなわち銀行や不動産会社を優先するのであれば、金利を上げられない。

同時に中心から周辺、脱領土化の流れがある。

www.jcp.or.jp資本主義国家は、不動産業界や銀行においては脱領土化(金利引き下げ)によって融資の流れを加速させるが、その業界に存在しない人間や共産党が言う庶民においては、再領土化(物価上昇)を行い、庶民達の脱領土化(再分配)は二の次にする。

銀行や不動産業界を脱領土化し、金を使わない末端の庶民に再領土化を行い、資本の流れを最大化する公理系を稼働させるのが資本主義社会だ。

ここて概念の定義がある程度クリアになったので、まとめに入ろう。


【領土化】:地層へと組織化していく力、人間に特定の価値観を浸透させる力

【脱領土化】:領土化によって有機化され安定していた状態を変性する力、あるイデオロギーや価値基準によって身体を組織化する行為、および、逆にその組織化から逃走する力

【再領土化】:脱領土化による逃走を防ぐ力


ここである事実が浮かび上がる。
それは、全ての人間は脱領土化と再領土化を繰り返しているということだ。

サラリーマンは、1週間の仕事が終わる金曜日の夜から土日に脱領土化し、日曜日のサザエさん症候群を経て、月曜日のブルーマンデー症候群とともに再領土化が起きる。

起きない人間もいる。
見城徹藤田晋のように「月曜日が楽しみ」というような、脱領土化されている状態を保ち続け、意識にも上がらない人もいる。
社員が脱領土化してしまっては困るからだろうか、月曜日を神聖化する再領土化の力もある。

shozando2.hatenadiary.org「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」見城徹藤田晋著より。

こう語るのは見城氏だが、しかも日曜日は大嫌いだという。朝起きて、日曜だとがっかりするともいう。さらに、「今日は会社に行けないのだ」と思うと悲しくなってしまうそうだ。
実に意外な考え方の人だとも思える。普通なら日曜あるいは休日なら仕事から解放されると思うものだ。ところが、氏は仕事をすることこそが苦痛からの解放だと感じていた。
こういう考えは氏自身も特殊だとわかっているようだが、成功するためには、日曜日を楽しみにしているようではダメだと思っていた。
藤田氏も、仕事の始まる月曜日が憂うつになったことは一度もないという。別に日曜日が嫌いというわけでもないようだが、365日仕事に夢中になっているという。
仕事が何よりの趣味だと言えるのは強いと感じる。自身もこんなに幸せなことはないと思っているようだ。仕事と趣味の境目がないというのもすごいことだとも思える。

そりゃ自分がトップだからな、会社という領土における頂点の人間は、他人を領土化できるし、脱領土化しようとする人間を、再領土化することもできる。

このAmazonプライムのCM「いちばんの特典」を観てほしい。

若葉竜也、いい俳優だよな。
映画「AWAKE」では理知的な将棋の棋士を、「愛がなんだ」では女性に虐げられる弱弱しい若者を演じていた。

余談はさておき、このCMでは大きく分けて、2つのシークエンスがある。

短い昼食休憩で食べる牛丼、取引先企業のロビーでの「申し訳ございませんでした」という謝罪、Suicaでの残高不足。
資本主義の領土ではこのように、直線的な時間の流れにおいて、資本を最大化するための公理系が働いている。時間はイデオロギーとして機能している。

gyakutorajiro.com会社で叱られ、売上を求められ、速さを求められる資本主義的イデオロギーによる領土化を被る若葉達也。

そしてもう1つのシークエンスが、アマゾンで7199円の買い物、おそらくトレッキング用品だろうか。

コンクリートジャングルから、森林に向かった。

先述したように、ドゥルーズガタリ草原(ステップ)は森林よりも脱領土化されていると言った。その考えであれば、ステップよりもコンクリートジャングルはより、脱領土化されているといえよう。

しかしその脱領土化された空間(会社)から、森林に戻るのは、再領土化ではないか?

そうは言えない。視点によって変わる。
猿や動物達にとっては、森林こそが、住んでいた領土だった。
人間によって文字通り空間が脱領土化され、森林が草原になるとともに生息領域を奪われ、個体数が減少していった種もいるだろう。

抗戦した動物もいるかもしれない。三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)のように、脱領土化を進める人間達を逆に蹂躙し、人間達の住む場所を脱領土化するヒグマのように。

先に述べた見城徹藤田晋のような経営者と、若葉達也等の部下・社員の立場で考えてみよう。
経営者は、入社した新入社員をまず、脱領土化する。
「働くとは何か」「あなたのこの会社での存在意義」を、叩きこむ。

anond.hatelabo.jp猿や動物たちが人間に脱領土化されたように、新入社員は経営者に脱領土化される。それは地層化する力であり、神(給料によって欲求や欲望を満たしてくれる存在)の裁きだ。

神の裁きによって何が起きるか?
それが「器官なき身体」の発生だ。

われわれはしだいに、器官なき身体は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。器官なき身体は器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。

アルトーは確かに器官に抗して闘う。

しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要とはしない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。

器官なき身体は、器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない「真の器官」と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。神の裁き、神の裁きの体系、神学的体系はまさに有機体、あるいは有機体と呼ばれる器官の組織を作り出す〈者〉の仕事なのだ。なぜなら、〈彼〉にとって、器官なき身体は耐え難いものであり、〈彼〉は、器官なき身体を追いかけ、これに先行し、有機体を先行させるため、器官なき身体の息の根をとめてしまうからだ。有機体自身がすでに神の審判であり、医者たちはこれを利用し、これから権力を盗むのだ。

有機は身体でも器官なき身体でもない。それは器官なき身体の上にある一つの地層、つまり蓄積、凝固、沈澱などの現象にすぎない。この現象は、形式、機能、支配的な階層化された組織、組織化された超越性などを器官なき身体に強制し、そこから有益な作用を取り出すのだ。

地層は絆であり、ペンチである。「私を縛りたければそうするがいい。」われわれはたえまなく地層化される。しかしこの〈われわれ〉とはいったい誰だろうか。それは〈私〉ではない。主体は有機体と同じく地層に属し、地層に依存するからだ。今ならこう言うことができる。〈われわれ〉とは器官なき身体である。有機体、凝固、褶曲、転倒は、器官なき身体の上に、つまりこの氷河のような現実の上に形成されるのだ。

神の裁きが重たくのしかかり、そしてその裁きが下されるのはこの器官なき身体の上、裁きを受けるのは器官なき身体である。器官なき身体の内側でこそ、器官(オルガヌ)は有機体(オルガニスム)と呼ばれる構成関係に入るのだ。器官なき身体は叫ぶ。おれは有機体を強いられらた。不当にも俺は折り畳まれてしまった。おれの体は盗まれた。神の裁きは、器官なき身体をその内在性からはぎとり、これに有機体、意味作用、主体をでっちあげる。まさに器官なき身体が地層化されるのだ。だから器官なき身体は二つの極の間で振動する。器官なき身体を折り曲げ、屈服させてしまう地層化的表面と、器官なき身体を展開し、実験に向けて開く存立平面とのあいだで振動するわけだ。そして器官なき身体が一つの極限であり、われわれがいつまでもこれに接近し続けるとすれば、それは、一つの地層の後にはいつも他の地層があり、一つの地層は他の地層の中にはめこまれているからだ。神の裁きを成り立たせるには、有機体だけではなく、他にも多くの地層が必要だからだ。器官なき身体を解放し、すべての地層を横断し解体する存立平面と、器官なき身体を閉じこめ、折り畳んでしまう地層化的な表面との間には、たえず烈しい闘いがある。

(引用元:千のプラトー 資本主義と分裂症 [ ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ ] 一九四七年十一月二十八日――いかにして器官なき身体を獲得するか)

器官なき身体を閉じ込める有機化、神の裁きに、労働者である若葉達也は抗う。

その抵抗こそが、森の中へのトレッキングだ。
神の裁きによる地層化、それによって生まれたイデオロギー空間から、逃走する。コンクリートジャングルを森林へと、脱領土化しようとする。

しかし有機化の力は強大だ。会社だけでなく、「メシ食ってけるのかよ?」「家族はどうすんだ?」「住宅ローンは?」等、多くの地層によって、器官なき身体を屈服させようとする。


(引用元:闇金ウシジマくん(11)[ 真鍋昌平 ]

「ギギギ・・・会社……行きたくねェーなァ…」

再領土化される月曜日。
ドアの前で立ち尽くして歩き出せないサラリーマン。1日の業務や出会う人からの圧力等を想像し、気分が落ち込み、足が前に出なくなる朝。

闇金ウシジマくんのサラリーマンくん(小堀)が玄関から外に出れないのは、会社という社会的機械に、自らの身体という器官機械が接続され有機化されるのを拒んでいるからだ。器官なき身体が立ち現れ、抵抗しようとする。会社という有機体によって盗まれた小堀の身体。

無理して出社し、再領土化された身体で仕事を行おうにも、仕事でミスが多ければ叱責や罵詈雑言を受け、ADHDアスペルガー症候群といった発達障害のレッテルを貼られる場合もあるだろう。

また、再領土化の恐怖による萎縮によりに鬱、適応障害などの機能不全や、それ以上の最悪のケースもあり得る。

こんな風に、領土化されている会社という地層に足を運び、休日に森林浴でリフレッシュした身体は脱領土化されるが、週が明ければ会社によって再領土化される。

これが、金曜日が嬉しくて、月曜日が憂鬱な理由だ。
脱領土化する金曜日、再領土化される月曜日。

現代社会を生きる人間は、恐ろしいほどに脱領土化と再領土化を繰り返している。
それゆえ、この分裂症的負荷に耐えることが難しい人間も出てくる。

ドゥルーズガタリが言うように、人間は領土化された資本主義という全体主義の地層に突入させられている。
資本主義が「全体主義」ってのは、違うのでは?
資本主義は、多様性にあふれていて民主主義で自由主義だと。
ネオリベラリズム新自由主義な格差拡大の残酷さはあるけれど、それは自由の代償だと。

まあ確かに、北朝鮮やロシアや中国ほどの強力な領土化が行われている全体主義国家よりはマシかもしれないが。

日本だって全体主義がないとは言えない。
それはこのサイトの他の記事でも再三語っている「こうあるべき姿」を強制する領土化の力だ。
ひきこもりを社会問題化して非難するのも、働かない者を労働に向かわせて国家の発展に寄与してもらうようにするための、ある意味で全体主義だろうよ。

ポーランド出身のパヴェウ・ヤシュチュク(Pawel Jaszczuk)は「High Fashion」によって、ドイツ出身のマイケル・ウォルフ(Michael Wolf)は「東京コンプレッション」によって、再領土化された人間の姿を暴き出す。

www.vice.comwww.mirainoshitenclassic.comwww.flotsambooks.com俺たちが奴隷であると気付かされた。

企業のホームページ、キラキラ働いている採用ページや会社案内とは裏腹に、領土化された人間達の姿を暴いてみせた。

でも、誰かから承認されたり尊敬されるためには、再領土化を受忍しなければならない。この日本も、たまに脱領土化できる自由はあるにせよ。

amazonのCMの若葉達也みたいに、森に行きたくなってきたな、ほんと。
森林浴は体にいいらしい。

mento-re.com森の精霊たちによって、器官なき身体を取り戻す。

ホスト遊びにハマる女性の精神構造をラカン的精神分析で解説

いつの時代も、ホスト遊びで身を滅ぼす女性は存在する。

friday.kodansha.co.jp痛ましい事件だ。こんなに子どもを苦しめるなら生んではいけないだろうな。
この事件が発生する原因以前に、どうして女性はホスト通いしまうのだろうか。
今回はホスト遊びにはまりやすい人が多い風俗嬢の視点で、その精神の動きを追ってみよう。

(引用元:闇金ウシジマくん(22)[ 真鍋昌平 ]

まず、風俗嬢は何を考えているのか、調べてみた。

www.mikunikki.comを読むと、客の行動において嫌悪感を覚える特徴などが詳述されている。
しかし動物的で生理的な次元によると、以下のような客が嫌のようだ。

www.youtube.com風俗嬢が嫌がる客TOP3
3位:陰キャ
陰キャまじで喋らない。おっぱいへの執着やばい 喋りかけても「あっ…はい」「あっ…えっと」とかお前小林製薬かよってぐらい「あっ」て言う 多分こいつらがおじさんになったら「キモおじ」に進化していくからコイキング的雑魚キャラ。

2位:陽キャ
足元から頭の先までカラフルでお前らミッ●ーのテクニカルパレードから状態の若い陽キャが無理 うぃーい的な感覚で俺イケてるっしょ!おっぱい!みたいなノリがマジで無理。だいたいジーンズがダメージ受けてるやつばっかりで戦場に帰れ

1位:キモおじ
こいつらは自分でキモい事を理解しているから余裕でキモい事をしてくる全風俗嬢の敵である存在 鼻舐めてきたり脇舐めてきたりとりあえずキモい 逆にキモがられている事に興奮しそうな感じもする 「キモい」という看板を背負った悲しいモンスター

なるほど、つまり風俗嬢は、日常的にキモおじと接する機会が多いということだ。

colabo-official.net私たちは買われた展、なんというパワーワードだ。
colaboという団体がやっているらしい。

代表の仁藤夢乃という人は聞いたことがある。
youtubeでも発信しているようだ。

www.youtube.comキモいおじさんシリーズ、まあそうだよね。
こんな風に、風俗で働かざるを得ない女性は、キモいおじさんとの遭遇を回避できない。

この状況を、ジャック・ラカンの欲望のグラフ第2図(※)で表すと、こうなる。
(※このグラフについては「欲望と欲動と欲求の違いについてラカンおよびフロイトの精神分析と闇金ウシジマくんの実例で解説」の記事にて説明)


(画像引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]漫画ルポ 中年童貞 [ 桜壱バーゲン ]

上記のように、日常生活にキモおじのシニフィアンがあふれていることになる。

どうしてもお金を得る必要があるがゆえに、陰キャ陽キャ・キモおじ等、他の目的のために嫌な客を相手することも受忍し、仕事を続けることができるだろう。
しかしここから、第2図のような象徴的同一化に至ることができなかった場合、欲望のグラフ第3図に突入する。

風俗で働く、お金が第一目的だ。
合理的に考えれば、稼いだお金をホスト遊びに使ってしまったら、風俗で働く目的がなくなる。
だからほとんどの風俗嬢は、学費だとか子どもの育児の為とか、やむを得ない理由で風俗で働き、欲望のグラフ第2図のような推移をする。

しかし、そうならないケースが第3図に記載されている「汝、何を欲するか?」だ。
あまりにも強大な支配的シニフィアン、キモおじの過剰流入によって、どうしてもそれを打ち消したくなる欲望が生じる。
「汝、何を欲するか?」いう、他者からの要求、自らの自我の意識が命じる内なる要求への答えは「イケメン」「王子様」と、キモおじとは真逆の特徴を兼ね備えた対象を欲望する。

それを図示すると、こうなる。

 

(画像引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]漫画ルポ 中年童貞 [ 桜壱バーゲン ]夜王 1 [ 倉科遼 ]

キモおじに性奉仕するメイドではなく、ルッキズム的魅惑を備えた王子様、ホストによって、体も心も癒してもらわなければ、安定化した自我を保つのが困難になってしまう。
第3図において、欲望(d)は、a(対象a)に向かっている。
ここから女性は、「享楽」の循環運動に突入する。

享楽については、以前引用したジジェクのテクストでも説明されているように、到達するのが困難な対象を求め続ける欲動の運動であり、「苦痛の中の快感」だ。
ジャック・ラカン「すべての欲動は潜在的死の欲動である」と述べたように、これを追及し続けることは、極めて危険な行為で、死の欲動に接近する。

これは現実の実例もたくさんあるので、後述する。

しかし、節度あるホスト遊びができる女性もある。
この「節度あるホスト遊びができる女性」は、享楽の循環運動から抜け出し、ラカンの欲望のグラフ第4図の左下のI(A)に至る。

(画像引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]

この第4図の左上の欲望の出発点(△)に「享楽」があるのはなぜか?

それは第2図の段階で、キモおじのシニフィアンの影響を受けた風俗嬢が、「汝、何を欲するか?」という欲望のグラフ第3図へと突入し、対象a(キモおじ等の客によって傷ついた自尊心を癒せる存在)を求め続ける疎外の状態、$◇a [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]の袋小路の突入を経験していたからだ。

それゆえ、第4図の欲望の左上(象徴界の影響を受けた欲望)の出発点が「享楽」になっている。

そして、ラカン「叫び」と呼ぶ右側の"$◇D"[S barré poinçon grand(エス・パレ・ポワンソン・グランデ)]の交叉について、ジジェクはこう語る。

明らかにすべき最終の点は、どうして享楽とシニフィアンの右側の交点に欲動の公式があるのか、ということである。すでに述べたように、シニフィアンは身体を分断し、身体から享楽を排出させてしまうが、この「排出」(ジャック=アラン・ミレール)はけっして完全には達成されない。
象徴的な〈他者〉の砂漠の周辺には、つねになんらかの残滓が、享楽のオアシスが、いわゆる「性感帯」が、いまだに享楽が浸透している断片が、散財している。
そして、フロイトのいう欲動はそれらの残滓の間を循環し、脈動しているのだ。

それらの性感帯がD(象徴的要求)で表されるのは、それらには「自然な」「生物学的な」ところはまったくないからである。身体のどの部分が「享楽の排出」の後に生き残るかは、生理学によってではなく、身体がシニフィアンによっていかに分断されるかによって決定される(それを確証しているのが、首とか鼻など、「正常な」場合には享楽が排出されている身体部分がふたたびエロス化されるという、ヒステリーの症候である)

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 汝何を欲するか)

以上をふまえて、図示する。

 


(画像引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]漫画ルポ 中年童貞 [ 桜壱バーゲン ]夜王 1 [ 倉科遼 ]

ここでいうシニフィアンとは、キモおじ、および、風俗の客を相手にして得る対価の金銭のことだ。
そしてジジェクがいう「いまだに享楽が浸透している断片」というのは、愛するホストと過ごした恍惚とした時間と、その影響を受けた自我のことを指す。

キモおじ(金)や一過性の娯楽等によって、ホスト遊びによる対象aを求め続ける享楽は、去勢によって排出されるはずだ。
合理的に金を求めるために風俗で働いている女性の場合は。

しかし、排出されない場合がある。
それがジジェクがいう、享楽がシニフィアンの去勢を経ても残った、残滓だ。

ラカン精神分析における「去勢」については、蚊居肢散人さんという、ラカンのテクストをたくさんネットに紹介している人の記事を引用しておく。

kaie14.blogspot.com享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…
問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)

ジャック=アラン・ミレールによると「享楽の去勢」とは「享楽の控除」ということらしい。

つまり自分を癒すホストという対象aを求める享楽は、キモおじ(金)のシニフィアンによる去勢や、時間制限のある一過性のホスト遊びシニフィアンによる去勢など、「享楽の控除」「享楽の引き算」の影響を受ける。

たとえ、享楽の侵入を受けた人間(第4図の段階)も、「ちゃんと子どもを育てないと」「ちゃんと学費を稼がないと」「ホスト遊びは月1回までにしよう」という$◇a(幻想、別の目的)によって、享楽の目的である「自分を全肯定してくれるホスト、理想の対象a」を諦めて、I(A)の象徴的同一化に何とか到ることもできる。

しかし、I(A)に至ることができない場合、悲劇的な結末が待ち受けている。

それが享楽を求め続ける欲動の運動、"$◇D"[S barré poinçon grand(エス・パレ・ポワンソン・グランデ)]での固着、永遠の循環運動であり、死の欲動への接近だ。

第4図のS(Ⱥ)ジジェクが言う「享楽(ジュイツサンス)に侵入されたときに象徴秩序に生じる矛盾(インコンシステンシー)」から、空想を内面化してs(A)に向かわず、"$◇D"に向かう「横断」を行うと、非常に危険だ。

おそらくわれわれはあえて危険をおかし、"$◇D"を遡及的に、すなわちラカンのその後の理論的発展を踏まえて、サントムの公式として読むべきなのかもしれない。サントムとは、享楽が直接的に浸透した意味形成、すなわち享楽とシニフィアンの不可能な接続である。

こうした読みは、欲望のグラフの上部の四角形を、下部の四角形との対比において解読する鍵をあたえてくれる。ここにあるのは、想像的同一化(想像的自我とその構成的イメージ、その理想自我との関係)ではなく、空想($◇a)に支えられた欲望(d)である。

空想の機能は、〈他者〉の開口部を埋め、その矛盾を隠蔽することである。たとえば、なんらかの性的シナリオの魅惑的な現前が、性的関係の不可能性を隠す遮蔽幕として機能する、というふうに。空想は、〈他者〉、すなわち象徴秩序が、ある外傷的不可能性、象徴化されない何か、すなわち享楽の現実界(リアル)をめぐって構造化されているのだという事実を隠蔽する。
空想を通じて享楽は飼い慣らされ、「ジェントリファイ」される。

では、われわれが空想を「横断」した後、欲望はどうなるか。

セミネールⅪの最後の数ページであたえられているラカンの答えは、欲動、究極的には死の欲動である。「空想の彼方」には、切望も、同質の崇高な現象もない。「空想の彼方」には、欲動、サントムのまわりをめぐるその脈動しかないのだ。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 汝何を欲するか)

ホスト遊びだけではない。
アルコール中毒もその可能性があるだろう。身体機能への被害の可能性への不安($◇a)が機能せず、アルコールを通じた享楽(生理的快楽だけでなく、現実の苦難の忘却など)を優先する。

また、なんらかの性的シナリオの魅惑的な現前、愛する妻との一夫一妻的な悦び、が機能しないケース。妻以外の女性、タイガーウッズやアンジャッシュ渡部のようなSEX依存症もそうだ。
$◇a(空想=妻や家族の存在、罪悪感)が機能せず、多くの人間から共感されず糾弾される可能性があるにも関わらず象徴秩序を突破し、外傷的不可能性(終わらない欲動)を備えた享楽へ向かった事例だ。

1円ではなく4円パチンコ、5円スロットではなく20円スロット、ガーシー(東谷義和)のようなハイレートの賭け事に進むギャンブル中毒。

これらも全て死の欲動への接近だ。

この前、紹介したスワローバンクにおける市原悦子から金田賢一への愛、ドラマ「ストーカー」における渡部篤郎から高岡早紀への愛、ドラマ「GOLD」におけるエド・はるみから反町隆史への愛、歌舞伎町ホストに対する事件や大阪天満のカラオケパブで起きた事件など。

愛の対象(対象a)を求め続ける循環運動の辛さから逃れるため、対象aそれ自体を破壊する「死の欲動」に突き進む。
「誰かに盗られるぐらいなら 強く抱いて君を壊したい」(中西保志・最後の雨)、「愛してその人を得ることは最上である。愛してその人を失うことは、その次によい。」(William Makepeace Thackeray ウィリアム・メークピース・サッカレー)の実現を試みてしまう。

もちろん他者を排除するのではなく、自死という形で死の欲動が顕在化してしまい、対象aを求める苦痛から逃走しようとする場合もある。

逆に、奇跡的にもホストへの一途な愛が実り、対象aのホストを手に入れ、"$◇D"から抜け出せる場合もあるかもしれないが。

もしそれが叶わない場合、象徴界における裁きよりも、対象aを手に入れる苦しみが上回り、象徴界において犯罪者や囚人となって服役することさえ厭わない。

隠蔽による象徴界の復帰もある。
映画「冷たい熱帯魚」におけるでんでん、およびそのモデルとなった愛犬家の事件のように、「ボディを透明にする」という隠蔽工作によって、際限なく続くマネーへの欲望(対象a)である"$◇D"を一時的に満たして抜け出し、文字通り他者が欠如したS(Ⱥ)の状態から、$◇a(幻想)の隠蔽工作による警察捜査の攪乱により、s(A)として象徴界のネットワークに復帰して象徴的同一化を果たし、熱帯魚屋を続けるケースもある。

このように多くの病は、ラカンの欲望のグラフ第4図において、享楽に侵入されて矛盾状態に陥っているS(Ⱥ)の主体が、空想"$◇D"の信仰・内面化によって象徴的同一化に至るI(A)でなく、"$◇D"の欲動の循環運動へ向かうベクトルに存在している。

だから、このブログで紹介しているような、ルーザーに奴隷道徳を供給するルサンチマンストレスを共有化して安心するルサンチマン寅さんに自分を投影して同一化して弱い人間でも素晴らしい人生が過ごせるという暗示的効果を得られるルサンチマン、という$◇aが必要になる。

天童荒太が物語が必要だと言ったのは事実であり、その物語とはラカンジジェクがいう$◇a(幻想、空想的構築物)であり、当サイトで紹介しているルサンチマンおよびそれが具現化した産物だ。

ルサンチマンはそれゆえ、決してネガティブなものではない。
$◇aを信仰することで、一時的な安定した自我や平常心、象徴界における自分の社会的な立場を獲得できるんだから。

正月にスペースシャワーtvで流れてて、偶然観た。
カッコいいアレンジの曲だ。PVに出てる男性も全員、若くてイケメンだ。

もし、"$◇D"に向かってこのPVに出てくるレベルのイケメンホストを、現実に手に入れようとする対象aを求め続けるのではなく。

映像や推し活等の$◇aで満足し、日々を過ごすことができていれば。
金銭を媒介とするホスト以外で別の、死の欲動の接近から遠ざけてくれる、寄り添ってくれるシニフィアン(他者)がいれば。

ホスト遊びによって、破産したり子どもを失ったり重大事件になってしまうような、悲劇的な結末にはならなかったかもしれないね。

(以下、その他の女性の心理学・精神分析シリーズ)

gyakutorajiro.com

gyakutorajiro.com

gyakutorajiro.com

gyakutorajiro.com