弱者女性論についての話、20ブクマ超えてくれた。
gyakutorajiro.comコメントもいくつかいただいて、それに回答する形でまた記事にするかな。
id:minominofx66 さん まずは「本当の意味でのブスな女性が活躍する物語」を漫画なりアニメなりで作って流行らせるしかないと思う。 2022/06/23
っていうコメントがあったから、この記事の後も、喪女の実存っぽいものを描いたコンテンツを探してみたんだよ。
でもやっぱり、女性向けコンテンツは、男性に愛される造形をしている主人公が多いよね。
「青に、ふれる」も、可愛い女性としての造形を残してる。
www.oricon.co.jpしかし「いつにも増してブスな気がする」は、男性に愛される造形で描いていない。
これこそ山田花子の漫画のように、徹底的に現実を切り取り、弱者女性の実存のロールモデルを提供してくるのではないだろうか?
ddnavi.com女性の理想や憧れ、同一化対象にはなるのは厳しいか。共感はできるかもだけど。id:amaikahlua さんには、「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」(ワタモテ)という漫画を教えてもらった。
2巻まで読んだ。めちゃくちゃ面白い!
女性の性欲をかなり赤裸々に描いてる。
リア充女子高生に憧れてるのに、2巻の「喪16:モテないし挽回する」で、小学生に混じって遊戯王みたいなカードゲームでデュエルしてるとことかよかった。
デッキケースをいとこに「変な入れ物」とか言われてw
でも笑えるだけではなくて、哀愁もあって。
喪女の葛藤、辛み、リビドー(性的衝動)が達成できずに欲求不満を抱く感じとか、すごくいい。
(引用元:最強伝説黒沢 1 [ 福本伸行 ])
「結局・・・入ってねえのかな・・・数に・・・
くそっ―・・・!
なんか・・・みじめだひどく・・・一人がみじめなのではなく・・・
この人恋しさがみじめだ(ハァ・・・ハァ・・・ハァ・・・)」
最強伝説黒沢の1巻の、この、職場仲間の誰からも飲み会に誘われずに一人で帰宅するシーン。満たされない欲求不満が怒りとなり、どうしようもない将来への悲観と諦念も入り混じり、その感情の昂りとともに血液が逆流して「ハァハァハァ」と動悸・息切れを起こして涙腺から涙が滴る中年男性のエレジー、リアリズムの極致だ。
ただこの漫画は、巻を重ねていくごとに、初期にあった40代の独身弱者男性の哀愁みたいなのを描く文学性みたいなのは減っていって、派手な出来事が起きたり漫画的になっていくんだけどね。
「ワタモテ」も、もしかすると、巻を重なるごとに、そうなっていくのかな。
もしそうなら、真の喪女としての実存を描いたコンテンツには成り得ない気がする。
弱者女性が結局、クイーンビーに接近して強者女性化していくってことは、それを消費する弱者女性にとっての願望充足、リアリティが乏しい空想を信仰していることになる。ルサンチマンから生まれた夢物語に自分を投影して同一化し、一過性の喜びに浸っていることになる。もちろんそれは、悪い事ではないんだけど。
海外でも人気だったみたいだ。
nlab.itmedia.co.jpそれが気になるところだ。つまり巻が進めば、クラス内でも溶け込んでいくのかな。
海外人気があるということは、陰キャのナード(Nerd)が、カーストを上がっていく物語の構造が含まれている可能性がある。
アメリカの高校社会のスクールカーストは、下記のようなピラミッド構造で構成されています。
(画像引用元:Queen | 留学くらべーる)
Nerd(ナード)は、3軍のGeek(ギーク)・Goth(ゴス)・Brain(ブレイン)の総称らしい。
だからよくあるような、喪女であるターゲットとかギークが、サイドキックスやクイーンビー等のカースト上位の同性に接近したり仲良くなったり、ジョックとか取り巻きのプリーザーとかと仲良くなったりして、喪女がリア充化していく物語。
「君に届け」だとか「できそこないの姫君たち」みたいな。
非モテ男性の場合は「いちご100%」だとか「はじめてのギャル」みたいな、ナードがクイーンビーを手に入れる物語。
少し違うが「社畜と少女の1800日」みたいな、美少女が来訪して非リアがリア充になる物語。
そうなると結局、さっきも言ったが、それを読む読者は少なからずルサンチマンを抱いていることになる。自らの日常の欠如を満たすために、空想的構築物によってその穴埋めをしている。
そうじゃねえだろ。
そもそも「クイーンビーやジョックが仲良くしてくれる」という前提が、幻想であり、夢物語よ。
山田花子の漫画ならそんな虚構は描かれない。
学校では、カーストは固定化され、常に教室の隅で机に突っ伏している厳しい現実が続く場合が多々ある。
ぼっちでもいい。イジメられていてもいい。それでも毎日学校に来てる時点であなたの勝ち。休み時間に人間失格って本を読んでいただけで「あいつ自殺するんじゃね?w」って噂を立てられ職員室まで呼び出されても、学校に通い続けた私からのアドバイスでした。。。#学校だる #月曜日の憂鬱 pic.twitter.com/KyKgPEGyj9
— 樺さん。 (@22_crychris) June 8, 2020
その辛い現実を抑圧するために、ルサンチマンが具現化したコンテンツに逃げてしまう。
ルサンチマンによって、放棄するのではなくて。
「家なき子」で、クイーンビーの榎本加奈子に立ち向かったターゲットの安達祐実、「人間・失格〜たとえばぼくが死んだら」において、ターゲットにされた堂本剛を凄惨ないじめで自死に追いやったジョックやプリーザーの生徒たち全員に復讐する赤井英和こそが、力への意志であり、矜持ある人間としての実存ではないだろうか。
もちろんドラマの赤井英和の行為は、リアルにやったらダメだけど。
三島由紀夫は、大江健三郎の「個人的な体験」という小説を、「これではプロデューサーにハッピー・エンドで終わらねばならぬと言いふくめられた監督のようだ」と痛烈に批判したらしい。
大江健三郎の「個人的な体験」の父親は、家族によって夢を諦めたのであれば。
それは「家族がいるんだから、父親としての自覚を持たないと」といった、巷にあふれる父親のロールモデルに同一化し、子どもや子育てを、夢を諦めることを正当化するルサンチマン(奴隷道徳)として利用している。
「個人的な体験」は、FUNKY MONKEY BABYSの「ヒーロー」的な、支配的で望ましくありふれた父親のロールモデルに同一化し、自分が本来、希求していた実存への力への意志を失い、放棄したんだ。
まあ大江健三郎のこの本はまだ読んでないから、結論を出すのは早計だけど。
別に決して「父親になることはルサンチマンの信仰」と言っているわけではない。
子育てや父親になることを理由にして、それで本来の目標を諦めた自分を正当化するのが、ルサンチマンの実践だという話。
まあ別にいいんだけどね。このサイトでは、ルサンチマンを決してネガティブなものとは捉えてないし。
だけど、幻想の信仰が、ルサンチマンの実践が、機能不全に陥る時が訪れる。
それが、30代だ。
こんな漫画を見かけた。
【続編あり】生涯オタクのつもりが… 漫画『36歳で突然漫画やアニメにはまれなくなった話』が刺さりすぎると話題に
一秒さん(ichibyo3)って人が書いた漫画だ。
twitter.comこの漫画の中に、オタ活女子に対し、リアルな現実を通告する残酷なシーンがある。
先に結婚して2児の母になった妹は、こう告げるんだ。
ほとんどの漫画やアニメは10代・・・せいぜい20代が主人公でしょ 年をとれば色々あるし・・・共感出来なくなって当然じゃん?
山田花子の漫画に、こんなシーンがある
(引用元:からっぽの世界 [ 山田花子 ])
存在があやうくなるとタレント等に同化し自我(アイデンティティ)を守る。
まさにオタ活女子やサブカル女子、オタクやサブカル男子がやっていることではないだろうか?
自分の場合も、漫画や映画や音楽や小説等のコンテンツを消費してるだけで、ただの消費者であるにも関わらず、文化人気取りの勘違いナルシスト野郎になっていたり、コンテンツの世界観に同一化して自分のネガティブな感情をルサンチマンによって抑圧していた。
ルーザーに足を踏み入れているにも関わらず、奴隷道徳の信仰によって、ルーザーであることを隠蔽していたんだ。
それに気付いたのは30代を過ぎてからだった。
からっぽの世界だった。
自分が信仰してしたものを失い、自我が崩壊していくときの絶望感。
敬愛するアイドル声優の成海瑠奈の正体を知った時、追いかける対象を喪失した男性も、意識が混濁し、自我が崩壊して分裂していくような感覚を味わったかもしれない。
note.comオタ活にハマれなくなった女性も同じではないだろうか。
自分が愛していた、信仰していたコンテンツに、年齢を重ねるとともに、同一化できなくなっていく。
ストーリーのパターンや展開に、無意識的に類似性を見出してゲシュタルト化してしまうとともに「もっとすごいコンテンツを!」を、際限なく欲望の水準を上げてしまう。
しかし遂に、市場の供給物で、自らの欲望を充足させることができなくなる時が訪れた。
精神分析のアプローチに入ろう。
10代、20代の頃は、ジャック・ラカンの精神分析における欲望のグラフ第2図のように、オタ活コンテンツに同一化できていた。
(画像引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ])
例えば「イケメンの彼氏が欲しい」というi(a)、理想の自分、目標とする同一化対象、理想自我を求める想像的同一化がうまくいかない場合でも。
漫画やオタ活コンテツのSignifiant(シニフィアン)によって満足し、「まあ生涯、現役でオタ活を楽しむぞ!」というs(A)の意味作用を手に入れ、I(A)の象徴的同一化がうまくいっていた。
しかし30代半ば。なぜか感動できない。どうしてだろう。
妹の一言もリフレインしているのではないだろうか。
(3/8) pic.twitter.com/j8aSG0l6Q8
— 一秒 (@ichibyo3) January 13, 2021
もし・・・もうハマれないならそんな人生・・・無じゃん
でも大丈夫だった。友達のキヨちゃんが救ってくれた。
キヨちゃんによれば、仕事などの疲れによる「リソース不足」、主人公との乖離の拡大によって「共感出来なくなる」、どこかで見たことがあるようで「単純に飽きる」が理由らしい。
しかしキヨちゃんがなんと。
ごめん次あるんや ちょっと ドレス見にな
オタ友達のキヨちゃんが・・・結婚してしまう・・・。
ここで主人公が「ドックン」「ドックン」と、心臓の鼓動が早まり血液が全身を駆け巡り体温が上昇した時、ラカンの欲望のグラフ第3図「汝、何を欲するか?」という、要求が自我に及ぶ契機が生じている。
第3図では、妹とキヨちゃん、2人の既婚者というシニフィアンの影響を受け、欲望のグラフ第2図の同一化のようには収斂せず、自らが求める対象(対象a)が、「生涯現役でオタ活を楽しむ」というものから、「オタ活以外の何か」に変貌する。
シニフィアンが意味を持ち始める。
ロビンソン・クルーソーが島を歩いているときに発見するフライデーの足跡は、シニフィアンではありません。これに対して、ロビンソンが何らかの理由でこの足跡を消してしまうとすると、そこにはっきりシニフィアンの次元が入り込んできます。人がそれを消し、それを消すという一つの意味を持つときから、痕跡を残したものは、明らかにシニフィエとして構成されます。
(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p140)
10代、20代、一緒にオタ活を楽しんでいたときは、誰かが結婚しようが気にしていなかった。しかし30代。
2人の結婚という、精神に侵入したシニフィアンの痕跡は、10代や20代の時に侵入されたシニフィアンの痕跡とは違う。潜伏期間が終わり、その痕跡は活性化し、重大な疾患をもたらす。
「オタ活以外の何か」という変貌した対象aは、すぐには手に入れることができないがゆえ、主人公は"$◇a" [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]の疎外状態に追いやられれる。
対象aを求めて続けても、◇(疎外)され、斜線を引かれた主体$、理想とする自分の自我の状態、自己実現ができず、安定した自己同一性が保てない状態に陥る。
(5/8) pic.twitter.com/iUMraB2KML
— 一秒 (@ichibyo3) January 13, 2021
ブランコで一人、辛い現実をかみしめる。
自ら求めいた欲望の対象が、変わってしまった。
自分が愛していたはず対象aを、「無意味だった」と、否定してしまう。
鬱状態へと近づく。
第3図の欲望のグラフは、悲劇的な結末を迎える。それについては「ホスト遊びにハマる女性の精神構造をラカン的精神分析で解説」の記事でも説明した。死の欲動に接近する危険性があるからだ。第4図にいけたらまだいい。
そしてこの感覚、この女性だけでもないかもしれない。
30代後半の独身男性、俺もそうだ。
だから今、多くの文化の背後にルサンチマンが見えてしまって、コンテンツを愛せなくなりつつある。植木等、山下達郎、玉置浩二・・・音楽も、ほとんど全てだ。全てにルサンチマンがある。
結局、人間は理性ある存在であるかもしれないけど、動物的存在でもあるんだよな。
リビドーの対象を、人間ではなく物質に向けたとしても、やっぱり「遺伝子のコピーを増やしなさい」という、理性ではコントロールできない本能的で生物学的次元の要求がある。
もちろん人間には、ジーン(子孫)を残したいという本能だけでなく、ミームを残したいという欲望もあるという説もある。
www.gpc-gifu.or.jp 実は前出のドーキンスは、ヒトの行動には子孫を残すという目的からは説明が困難なものもあると認めている。例えばホモセクシャルのヒト、独身主義のヒトは子供を残さないので、こうした行動は次世代に伝えられることはないのだろうか?ヒトは生来持っている能力よりも生後に習得する能力の方が圧倒的に多い。染色体上の遺伝子は子孫に伝わらなくても、発明発見をする、本を書く、絵や音楽などの芸術作品を残す、などによって、個人の創造物を文化として子孫に伝達することは可能である。ドーキンスは、ヒトに独特の文化の伝達単位として、ジーン(遺伝子)に対して、「ミーム」という概念を提唱している。ミームは遺伝子とよく似ている。同じようにヒトからヒトへ伝えられることによって自己複製をし、多少の突然変異を起こすこともあり、あるものは選択を経て滅び、あるものは長く生き残る。つまり他の生物と違ってヒトという「生存機械」には、ジーンだけではなくてミームも乗っているのである。ヒトにとって自分の考えを世間に広めたり、作品をつくったりすることは、子供を育てるのと似た喜びをもたらす。自分の子供には自分の遺伝子は半分だけ伝わる。数百年後の世界において、自分の遺伝子セットが果たしてどのくらい存在しているのかは定かではない。もしあったとしても、多くのヒトの遺伝子と混じり合い、断片的に存在しているにすぎない。一方ミームの場合は、作品や書物として、後世に自分の存在をそのまま残すことができる。マスメディアを媒体とすれば、遺伝子を残すよりもはるかに多くのヒトに影響を及ぼすこともできる。遺伝子よりもミームの価値を重んじるヒトがいても不思議はないかもしれない。
だけどやっぱり、人間のリビドー(性的衝動)は、人間によってしか満たすことはできないかもしれない。
アンデルセンだって、素晴らしい童話の数々、船橋のアンデルセン公園など、たくさんのミームを次世代に残した。
しかしそれはアンデルセンが、女性にモテず、生涯独身者として、自分のリビドーを受け止めてくれる人間が不在だったいうのもあるだろう。
mujina.hatenablog.com自分のジーンを残せないがゆえの、悲しき反動形成によって生まれたミームだ。
でもアンデルセンはましだ。
ミームを残せた。
ジーンもミームも残せない、弱者男性や弱者女性は、どうすればいいのか?
ミームしかないのかもしれない。
先ほどの問いの回答とは矛盾しているが、「ミームを残そうとする力への意志」まで捨ててしまうと、本当に「無」になってしまうのではいか。
ただ生きているだけの人間。そこに実存はない。
人間は、動物と違う・・・!
決定的に違う・・・!
生きてりゃいい・・・生きてりゃ十分なんて・・・
誰が思うかよ・・・!
理想があるんだよ・・・・・・!
みな・・・!
みんなそれぞれ理想の男像・・・・・
人間像ってのがあって・・・
そういうものを・・・
目指すから人間だっ・・・!